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⏳ サラリーマン10 — 30年待って、3年だけ課長だった男

1966年生まれ、1988年に東亜電機へ入社。同期1,240人はこのシリーズ最多の代である。同じ入社式に、サラリーマン13の宮田徹と、サラリーマン9の黒木洋一がいた。相原修司が課長になったのは2018年、52歳のときである。入社から30年かかった。田村稔は42歳で、藤井亮太も42歳で課長になっている。相原は10年遅い。理由は本人の能力ではなく、上に人数の多い代が詰まっていたことである。そして役職定年は55歳だった。2021年、彼は課長を降りた。課長でいられたのは3年である。同じ年、同期の宮田徹が55歳で在職中に死んだ。相原は葬儀に出ている。2026年8月現在60歳、役職なし、年収580万円。2031年に65歳で定年を迎える見込みで、通算43年になる。この記事は「順番が来れば報われる」という前提を、代の人数で解体する。

この記事は何か — 待った30年と、いた3年

このセクションの4点

① 相原修司は1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多の代)。課長になったのは2018年、52歳のとき。入社から30年かかっている

② 役職定年は55歳だった。2021年に課長を降りている。課長でいられたのは3年である

③ 生涯賃金の見込みは約2億800万円で、43年勤めた田村稔の約2億1,400万円の約97%。金額で見れば、このシリーズで最も平均に近い人物である

④ 同じ入社式に、サラリーマン13の宮田徹とサラリーマン9の黒木洋一がいた。3人のうち定年に着く見込みがあるのは、相原だけである

プロローグ

相原 修司2026年8月・六十歳

三十年待って課長になり、三年で降りた。足し算をすれば、そういう三十三年である。

辞令をもらった日、私は嬉しくなかった。役職定年が五十五だと、その時点で知っていたからだ。三十年待って受け取った紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。

そのことを妻に言っていない。あの晩、妻は赤飯を炊いた。妻はこの日を、私が報われた日として覚えている。八年たった今も、言っていない。

それから、もう一つ言っていないことがある。二〇一〇年に、黒木に誘われて断った。子どもがまだ小さいから、と言った。上の子は中学二年だった。

このシリーズの登場人物

登場人物 — 名前をクリックすると、その人の言葉が開きます

🏢 1. 田村 稔 中央値型 — 勝ちでも負けでもない 1970年入社・同期820人/到達=次長(上位17%)。部長には届かなかった
生涯賃金 約2億1,400万円/2035年・87歳没。要介護7年 記事を読む →
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静岡の農家の次男で、家を出るしかなかった。入社の日、駅で父が黙って万年筆をくれた。パイロットの、安いやつだ。定年の日まで机の引き出しにあった。

玄関の柱に子どもの背を刻んだ線がある。健一の線は一九九三年で止まっている。

四十二で課長になった年が、いちばんよかった。まあ、そういうもんだ。

🖋️ 2. 北原 誠一 出世型 — 同期820人で3人 1970年入社・同期820人(田村と同期)/到達=取締役(0.4%)→ 子会社社長
生涯賃金 約4億9,000万円/2037年・89歳没 記事を読む →
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入社式で隣に座ったのが田村だった。同じ大学を出て、同じ日に辞令を受け取った。私の紙には本社人事部と書いてあり、彼の紙には神奈川工場と書いてあった。

二〇〇二年、転籍のリストに彼の名前があった。私は手を止めて、判を押した。震えはしなかった。

それは、そういう仕組みだ。

🔧 3. 柴田 正三 停滞型 — 係長のまま28年 1958年入社・高卒技能職340人/到達=係長(30歳)。そこから28年動かず
生涯賃金 約1億4,900万円(田村の約7割)/2032年・92歳没。要介護1年2ヶ月・自宅で 記事を読む →
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新潟から出てきて、旋盤の前に立った。二十二で試験に受かって技術職になった年を、私は二度目の入社と呼んでいる。ノギスはそのとき自分で買った。

三十で係長になった。同期でいちばん早かった。そのあと二十八年、何も動かなかった。課長の椅子が空いたとき、座ったのは大卒の三十四だった。

寸法は合っとる。

✈️ 4. 森 康彦 単身赴任型 — 通算14年、家にいなかった 1980年入社・同期940人/到達=部長(47人/940人=5.0%)
生涯賃金 約2億9,600万円/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む →
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福岡、広島、名古屋、バンコク。四回出て、合わせて十四年、家にいなかった。断れた回もある。断らなかった。

帰るたびに家のルールが少し変わっていた。茶碗が食器棚の奥に移り、鍵が替わり、私の部屋が息子の部屋になった。帰任したら食卓の椅子が三脚しか出ていなかった。

まあ、なんとかなる。あれは必要な十四年だった。

🏠 5. 中村 正巳 家庭優先型 — 転勤を断った(#4の対照群) 1980年入社・同期940人(森と同期)/到達=課長(286人/940人=30.4%)
生涯賃金 約1億8,600万円(森の63%)/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む →
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一九九六年、九州支店の課長への内示を断った。妻の母が倒れて、代わりが立たなかった。三日考えて、手順を全部書き出して、代わりの立たない箇所が一つ残った。それだけの話だ。

断ったのは一回きりだ。二度目は聞かれなかった。介護は三年で終わったが、そのあと十九年、話は来なかった。

家族はこのことを知らない。言うことでもない。それでいい。

🫀 6. 谷口 健一 健康維持型 — 変数は45歳の一点だけ(対照実験) 1980年入社・同期940人(中村と同期・生涯賃金差300万円)/到達=課長。中村とほぼ同じ経路
生涯賃金 約1億8,900万円/2026年8月現在67歳・存命/推計87歳没・要介護1年半 記事を読む →
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私の最初の指導係は田村さんだった。図面は嘘をつかん、と教わった。あの言葉は柴田さんから田村さんに渡ったものだと、後で知った。

二〇〇三年、同じ部署の柏木さんが心筋梗塞で倒れて、戻ってこなかった。数日後、机が片付けられていた。私はそれを自分の席から見ていた。翌月から煙草をやめて、朝三十分歩き始めた。

理由を聞かれても、続けとるだけですとしか答えない。

🌥️ 7. 高梨 実 メンタル離脱型 — 3ヶ月休んで、戻る場所が無かった 1985年入社・同期1,180人/到達=課長 → 53歳で自己都合退職
生涯賃金 約1億9,800万円(65歳時の資産は7人中最下位)/2026年8月現在63歳・週4日勤務中 記事を読む →
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二〇〇八年の十月、月次の締めで数字が合わなかった。三度やり直しても合わなかった。合わないのは、自分の入力だった。

三ヶ月休んだ。制度は全部あった。復職もできた。ただ、戻る席が無かった。応援という名前の出向が、期限を書かれないまま七年続いた。

誰も私を辞めさせていない。帳尻は合います。

🚪 8. 岡部 昭夫 早期退職型 — 410万円で17年を売った 1985年入社・同期1,180人(高梨実と同期)/到達=課長。次長には届かなかった/2011年・48歳で希望退職に応募
生涯賃金 約9,000万円(前提つき試算・田村の約42%)/受取 約2,600万円/2026年8月現在63歳・部品商社(従業員80人)・年収410万円 記事を読む →
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募集が出る一週間前、閉まっている食堂で部長に言われた。今回、対象に名前が入っている、と。それだけである。辞めろとは言われていない。

三週間、封筒を鞄に入れて出勤して、持ち帰った。二十一回出さなかった。二十二回目に出した。

あれは自分で決めたことです。十五年、そう言っている。妻には、あの面談のことを言っていない。

✈️ 9. 黒木 洋一 転職型 — 生涯賃金では勝った 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・相原修司と同期)/到達=東亜電機では係長 → 2010年44歳で外資へ/外資で部長級
生涯賃金 約2億4,000万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,380万円/2026年8月現在60歳・業務委託・年収420万円(ピークの約30%)/退職金ほぼ無し 記事を読む →
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二〇一〇年、課長の内示が同期の別の人間に出たと聞いた。能力の差だとは思わなかった。あいつのいた部署は、その年に課長が定年になっていた。それだけである。

翌週、転職の登録サイトを開いた。六百九十万だった私が、隣の会社では千百五十万になった。あれが自分の値段だと思った。

今なら言える。あれは私の値段ではない。あの事業が伸びていた年の、あの会社が払えた額である。

10. 相原 修司(この記事の主人公) 詰まり型 — 30年待って、3年だけ課長 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・黒木洋一と同期)/到達=課長(52歳で就任)→ 55歳で役職定年。課長でいられたのは3年
生涯賃金 約2億800万円(田村稔の約97%)/2026年8月現在60歳・役職なし・年収580万円/2031年65歳定年・通算43年
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二〇一〇年、黒木に一緒に受けてみないかと誘われた。子どもがまだ小さいから、と断った。上の子は中学二年である。小さくはない。

本当は、外で自分の値段がつくのが怖かった。会社の中にいれば、私の価値は係長という文字で表される。誰も金額では言わない。

三十年待って課長になった。辞令の紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。妻には言っていない。

🏛️ 11. 森田 克彦 公務員型 — 最も揺れなかった/唯一の非民間 1975年・23歳で国家公務員採用(行政職俸給表(一))/到達=課長(45歳)。そこから15年、級は動かなかった
生涯賃金 約2億2,900万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,050万円/2012年60歳で定年→再任用→2017年65歳で終了/2026年8月現在74歳・年金で生活が成立 記事を読む →
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採用の日に給料表を見せられた。あなたはここです、と指をさされて、上に行くとこうなります、と指を動かされた。安心したのは、その表に「景気」という欄が無かったからである。

二十八のとき、妻になる人に同じ紙を見せた。これって上がらないこともあるの、と聞かれて、無い、と答えた。五十のとき、号俸は上がっているのに年収が減った。表そのものが下がっていた。

四十六年たつが、二十八のときの説明を、私はまだ訂正していない。

🪑 12. 藤井 亮太 氷河期・正社員型 — 内定は1社だけだった 1996年入社・同期290人(シリーズ最少。1988年入社1,240人の約23%)/到達=課長(58人/290人=20.0%)。到達は42歳
生涯賃金 52歳時点の累計 約1億2,600万円/48年働く見込み/2026年8月現在52歳・課長・年収860万円/2029年55歳で役職定年 記事を読む →
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三十年、誰にも言っていないことがある。私の内定は、一社だけだった。妻にも同期にも言っていない。言えば、私の三十年の説明が変わるからである。

二〇〇八年の十二月、部長に「一階、どこから減らせる」と聞かれた。どの工程が余っているかは、私がいちばん正確に知っていた。私は、本社が決めることです、と答えた。

十年ポストが動かなかったという話と、自分が選ばれて入ったという話を、私は一度も同じ机の上に並べたことがない。

🕰️ 13. 宮田 徹 在職死亡型 — 定年に着かなかった 1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多)/到達=次長(112人/1,240人=9.0%)
生涯賃金 約1億6,200万円(33年4ヶ月で終わった)/2021年8月・55歳で在職死亡 記事を読む →
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私の最初の指導係は森さんだった。三日目に見積書を突き返された。これは誰が読む、と聞かれて、お客さんです、と即答した。違う、最初に読むのはうちの経理だ、と言われた。

それから三十三年、相手の背後にいる人間の顔を先に読んで生きた。その才能で次長になった。同じ才能で、この会社を一度も疑わなかった。

この病室は九時に電気が消える。会社にいた頃、九時はまだ夕方だった。

🧊 14. 大野 修 氷河期・非正規型 — 名簿に一度も載らなかった 1996年3月・国立大学卒/内定ゼロ(大卒求人倍率1.08倍)。正社員になったことが一度もない/到達=到達なし。アルバイト7年 → 製造派遣4年半 → 契約社員
生涯賃金 52歳までの累計 約7,900万円(藤井の63%・田村の生涯賃金の37%)/2026年8月現在52歳・契約社員・年収290万円/年金見込み月7〜8万円台 記事を読む →
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二十二の春に、三十七通の不採用通知を受け取った。理由はどれにも書いていなかった。同じゼミの藤井は一社受かった。一社だけだったと知るのは、ずっとあとである。

二〇〇四年から二〇〇八年まで、神奈川の工場にいた。柴田さんが旋盤を教え、田村さんが図面を引いた建物だ。あの三人は名簿に載っている。私は載らない。派遣だからである。

名簿から消えるためには、まず載っていなければならない。

🌗 15. 矢部 直子 均等法第一世代 — 23.9%の側にいた/シリーズ唯一の女性 1986年4月・均等法の施行と同月に総合職入社。同期の総合職女性は4人/到達=課長(44歳)→ 次長(56歳)/38年間、一度も辞めていない
生涯賃金 約1億7,900万円(大卒女性の生涯賃金は全国推計で男性の78.4%・差7,080万円)/2024年60歳で定年→再雇用/2026年8月現在62歳・年収480万円 記事を読む →
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一九九〇年に一人目を産んだとき、就業規則を二回読んだ。一回目は、見落としたのだと思ったからである。産前産後の休業は書いてあった。その先が無かった。

三ヶ月で戻った。三ヶ月にした理由は、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。育児休業法が公布されたのは、その翌年だった。

制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。

名前をクリックすると、その人物の言葉が開きます。相原修司は13. 宮田徹9. 黒木洋一と同期です(1988年入社・同期1,240人・シリーズ最多の代)。3人は同じ入社式に出ています。

この記事が置く問い

このシリーズはここまで、生涯賃金という物差しで人を並べてきた。北原誠一が約4億9,000万円で最も多く、大野修が52歳時点で約7,900万円と最も少ない。

相原修司は、その物差しの上でほとんど動かない。生涯賃金の見込みは約2億800万円で、43年勤め上げた田村稔の約2億1,400万円の約97%。金額だけを見れば、この記事には書くことが無い。

それでも1点だけ、他の誰とも違う数字がある。課長でいられた3年である。

30年

入社から課長になるまで

3年

課長でいられた年数

1,240人

同期の人数(シリーズ最多)

約2億800万円

生涯賃金の見込み(田村稔の約97%)

📎 この記事が扱うのは、金額に出ない部分である

相原の30年と3年という比は、彼の能力では説明できない。説明するのは2つの構造である。

①同期1,240人と、詰まった上の代。役職の椅子の数は同期の人数に連動しない。1988年入社の1,240人は、8年上の1,180人・18年上の940人が抜けるのを待つことになる。田村稔藤井亮太はどちらも42歳で課長になっており、相原は10年遅い。

②役職定年は、就いた年齢にかかわらず同じ年齢で外す。遅く昇進した人ほど在任期間が短くなる。待った分だけ長くいられる仕組みにはなっていない。

ただし1点、この記事は最初に断っておく。役職定年制度を導入している企業は、令和5年時点で16.7%である(人事院・令和5年民間企業の勤務条件制度等調査)。しかも平成19年の23.8%から減っている。相原が経験したのは、全国では少数派の側で起きたことである。第11章でこの数字を詳しく扱う。

📎 この記事が「やらないこと」

①相原を敗者として書かない。生涯賃金は田村稔とほぼ同じで、2031年に定年に着く見込みがある。同期3人のうち、定年に着くのは彼だけである。

②会社を悪者にしない。役職定年は就業規則に明記され、人事の説明会でも周知されていた。相原は最初から知っていた。

③黒木の選択を正解として書かない。2010年に出て行った黒木洋一の生涯賃金は約2億4,000万円で相原を上回るが、2026年の年収は420万円で相原の580万円より低い。2010年の時点で、どちらが正しかったかを判定できる材料は無かった。

④「順番を待った」ことを愚かだとしない。この記事が指摘するのは、待っていた対象が評価ではなく空席だったこと、そしてその2つが本人の側から区別しにくいことだけである。

まず答えから出す。課長になるのに30年、課長でいられたのは3年である。

⚖️ 【答え】課長になるのに30年、課長でいられたのは3年

このセクションの3点

① 相原修司は1988年入社から30年後の2018年、52歳で課長になった。役職定年が55歳と決まっていたため、課長でいられたのは3年だけだった

② 課長就任時の年収は790万円、ピークは2020年の810万円。2021年の役職定年で620万円に下がり(-190万円、約23.5%減)、2026年現在は580万円である

③ 相原の生涯賃金見込みは約2億800万円で、田村稔(約2億1,400万円)とほぼ同水準。だが「課長でいられた3年」という一点だけが、他の同期・他の記事の人物と大きく異なる

項目相原の場合備考
課長になるまでの年数30年(1988年入社→2018年)田村稔・藤井亮太は約20〜22年で課長になっている
課長でいられた年数3年(2018〜2021年)役職定年55歳が、就任年齢に関わらず同じ年で外すため
役職定年による減額810万円→620万円(-190万円、約23.5%減)厚労省統計(2007年)の「下がる企業の78.2%」が収まる範囲の上限に近い
生涯賃金見込み約2億800万円田村稔 約2億1,400万円の約97%にあたる

📎 解説:生涯賃金はほぼ同水準でも、中身の形は違う

生涯賃金だけを見れば、相原は田村稔の約97%まで届いている。「順番が来れば報われる」という前提は、この数字だけを見れば裏切られていないように見える。

だが相原が課長として過ごしたのは3年間だけである。30年待って手に入れた役職に、3年しか在任できない仕組みだった。この「待った時間」と「いた時間」の比、そして役職定年という制度がどれだけ一般的なものなのかは、Section 11で公的統計を使って詳しく見る。

🚫 この記事の数値が前提としていること

・「役職定年で年収がどれだけ下がるか」の全国データは、今回のリサーチで確認できたのが平成19年(2007年)の人事院調査のみである。相原が実際に役職定年を迎えた2021年とは14年のズレがある

・「役職定年制度がある企業は少数派(16.7%)」という事実は、相原の会社が特殊だったことを意味しない。単に、日本の会社の大半にはこの制度自体が無いということである

→ 次のSection 3では、相原の年収を1988年の入社から2031年の定年見込みまで、表で追う。

💴 年収43年 — シリーズで最も平均に近い線

このセクションの3点

① 相原の年収は1988年入社時300万円から2020年のピーク810万円まで、ほぼなだらかに上昇している。2021年の役職定年で一段下がり、以後は580〜620万円で横ばいである

② 同じ1988年入社・同期1,240人の黒木洋一(サラリーマン9)と比べると、2010年までは完全に同じ額。2010年に黒木が外資へ転職し、相原は残ったところで線が分かれる

③ 43年間勤め上げる見込みの田村稔(生涯賃金 約2億1,400万円)と比べると、相原の見込み合計(約2億800万円)はその約97%にあたる。生涯賃金だけを見れば、シリーズの中で最も「平均的」な数字である

西暦年齢役職年収備考
198822歳平社員300万円同期1,240人(黒木・宮田と同じ入社式)
199832歳主任580万円黒木と同額
200539歳係長660万円黒木と同じ年に係長。ここまで同じ
201044歳係長680万円黒木が出て行った年。相原は残った
201852歳課長790万円課長までに30年
202054歳課長810万円(ピーク)
202155歳役職定年620万円課長でいられたのは3年
202660歳役職なし580万円(現在)
203165歳定年(見込み)通算43年

この年収表は1988年から2026年まで、すべて実績である。2031年の定年だけが就業規則に基づく見込みである。

グラフに描けば、1988年から2020年までは緩やかな上り坂であり、2021年で一段下がって、以後はほぼ平らになる。他の記事にあるような急な山も、急な崖も無い。この「なだらかさ」自体が、相原という人物の位置を示している。

相原・黒木・田村 — 3者比較

人物生涯賃金(見込み合計)備考
田村稔(#1・43年間勤務)約2億1,400万円1970年入社・同期820人
黒木洋一(#9・2010年に転職)約2億4,000万円1988年入社・同期1,240人。ピーク1,380万円→現在420万円
相原修司(本記事)約2億800万円1988年入社・同期1,240人。田村の約97%

📎 解説:同じ2010年に、2人は違う選択をした

相原と黒木洋一は同じ1988年入社・同期1,240人であり、2005年に同じ39歳で係長になっている。2010年、44歳の時点まで、2人の年収はほぼ同じだった。

2010年、黒木は外資系メーカーへ転職し、相原は残った。その後の16年間で、黒木の生涯賃金は相原より約3,200万円多くなる見込みである。だが黒木のピーク(1,380万円)と現在(420万円)の落差は、相原のピーク(810万円)と現在(580万円)の落差より大きい。

生涯賃金という1つの数字だけでは、この2人の43年をどちらが「良かった」とは言えない。この対比はSection 12で年表を左右に並べて詳しく見る。

→ 次のSection 4では、相原修司という人物の設定と、課長・部長という椅子の数を見る。

👤 相原修司という人物と、椅子の数という制約

このセクションの3点

① 相原修司は1966年生、1988年4月に東亜電機に同期1,240人の1人として入社した。2018年・52歳で課長、2021年・55歳で役職定年を迎えた

② 厚労省「令和5年賃金構造基本統計調査」によれば、課長級に現在就いている人の全国平均年齢は49.2歳(勤続20.9年)、部長級は52.8歳(勤続22.5年)。相原が課長になった52歳はこの平均より遅い

③ 同調査の労働者数データから算出すると、10人以上企業では100人あたり課長級は7.6人、部長級は4.0人しかいない。1,240人という代の人数を踏まえると、課長になれるのはその一部でしかない

項目内容
氏名相原 修司(あいはら しゅうじ)/モデル人物・仮名
生年1966年(昭和41年)※黒木洋一と同い年・同期
入社1988年4月・東亜電機・同期1,240人(#13 宮田徹#9 黒木洋一と同期)
到達2018年・52歳で課長。2021年・55歳で役職定年
2026年8月現在60歳・役職なし・年収580万円(課長ピーク810万円から下がっている)
この先2031年・65歳で定年(見込み)。通算43年

課長・部長は「現在何歳の人がやっているか」

役職全国平均年齢(男女計)平均勤続年数備考
部長級52.8歳22.5年
課長級49.2歳20.9年相原が課長になったのは52歳。全国平均より約3歳遅い
係長級45.4歳17.6年
非役職者41.2歳10.6年

📎 この数値の限界(必ず読んでほしい)

厚生労働省「令和5年賃金構造基本統計調査」第7表による、上記の年齢は「今その役職に就いている人」の平均年齢であり、「何歳でその役職に昇進したか」を示す数値ではない。相原が52歳で課長になったことが全国的に見て早いのか遅いのかを直接示す「初回昇進年齢の分布」という統計は、今回のリサーチでは確認できなかった(未取得)。

ここで言えるのは、現在課長級に就いている人たちの平均年齢が49.2歳であるということだけであり、相原の52歳という到達年齢は、この平均よりは高い側にある、という参考情報にとどまる。

100人あたり、椅子は何人分あるか

役職10人以上企業(100人あたり)1,000人以上企業(100人あたり)
部長級4.0人2.9人
課長級7.6人7.6人
係長級6.6人7.1人
非役職者79.8人80.7人

📎 この算出について

この「100人あたり」の人数は、厚生労働省「令和5年賃金構造基本統計調査」の役職別労働者数(役職第2表)から本記事が算出したものであり、厚労省が直接この形で公表している数値ではない。10人以上企業の全労働者2,394.0万人のうち、課長級は182.0万人(7.6%)、部長級は96.7万人(4.0%)である。

1,240人という相原の代の人数を思えば、単純計算でも課長という椅子はその中の一部にしか回らない。相原が30年待ったのは、この椅子の数が変わらないまま、同期の人数だけが多かった代だったからである。この構造は第5章で詳しく見る。

→ 次のSection 5では、1988年の入社式から2005年の係長までを追う。

🏢 1988-2005 — 同じ入社式にいた3人。黒木とは同じ年に係長になった

このセクションの3点

① 1988年4月の入社式に、相原修司・黒木洋一・宮田徹の3人がいた。同期1,240人はシリーズ最多の代である。

② 相原と黒木は、1998年に同じ年に主任、2005年に同じ年に係長になった。ここまで完全に同じである。

③ 宮田だけが先を歩いていた。彼は2005年時点で課長になっている。

1988年4月。入社式。二十二歳。

相原 修司1988年4月・二十二歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

会場は本社の大講堂だった。椅子が並んでいて、名簿順に座る。私の右が宮田で、左から三つ目が黒木だった。三十八年たっても、この並びを覚えている。

社長の話は覚えていない。覚えているのは、人数である。千二百四十人いた。前の年より多い、と誰かが言っていた。

あのとき私が思ったのは、これだけ採るということは会社が伸びているのだろう、ということである。実際、伸びていた。

当時の私には言えなかった。今の私には言える。千二百四十人採るということは、千二百四十人ぶんの椅子を用意したという意味ではない。入口の広さと、その先の椅子の数は、別に決まる。

入社年人物同期の人数その代の入口
1958年柴田正三高卒技能職340人技能職の大量採用
1970年田村稔北原誠一820人高度成長の終盤
1980年森康彦中村正巳谷口健一940人
1985年高梨実岡部昭夫1,180人
1988年相原修司(この記事)・黒木洋一宮田徹1,240人(シリーズ最多)バブル期の大量採用
1996年藤井亮太290人1,240人の約23%

📎 解説:1,240人という数字が、この3人の30年を決める

1988年入社の1,240人は、このシリーズで最も多い代である。8年後の1996年入社は290人で、入口の広さは約4.3倍の開きがある。

入口が広いことは、入る時点では有利に見える。そして入ったあと、不利に転じる。役職の椅子の数は同期の人数に連動しないため、同じ椅子を1,240人で取り合うことになるからである。

この代から、このシリーズはすでに1人書いている。宮田徹は次長まで到達した。1,240人中112人=9.0%である。そして2021年、55歳で在職中に死んだ。

残る2人がこの記事とサラリーマン9である。相原は残って52歳で課長になり、黒木は42歳で会社を出た。3人とも同じ入社式に出て、3人とも定年に着いていない。

1988年から1998年。二十二歳から三十二歳。

1988-98年

配属は営業管理だった。黒木は同じ部の別の課で、宮田は営業本体である。同じフロアにいたので、三人でよく昼を食べた。

宮田は営業が向いていた。話が早くて、相手の後ろにいる人間まで読む。あいつが先に行くのは、二十代のうちから分かっていた。

黒木と私は似ていた。書類を作って、数字を合わせて、上に説明する。仕事の型が同じである。だから同じ年に主任になった。一九九八年、三十二歳。年収は五百八十万だった。黒木も同じ額である。

あの頃、差がつくとは思っていなかった。実際、そこから七年、差はつかなかった。

2005年。三十九歳。二人とも係長。

2005年・三十九歳

二〇〇五年に、黒木と同じ年に係長になった。辞令の日が同じで、夜に二人で飲んだ。次は課長だな、と言い合った。

そのとき私は三十九である。田村さんの代は四十二で課長になったと聞いていたので、自分もそのあたりだろうと思っていた。三年後か、四年後か。

実際には、十三年後だった。

今の私には言える。あの晩に私が計算に入れていなかったのは、自分より上の代の人数である。私の八年上は千百八十人、十八年上は九百四十人いる。その人たちが課長・次長・部長を順に通過し終えるまで、私の代の番は来ない。そして私の代は千二百四十人いる。番が来ても、その中で分ける。

西暦相原 修司(この記事)黒木 洋一(<a href="/wiki/salaryman-life-9">#9</a>)宮田 徹(<a href="/wiki/salaryman-life-13">#13</a>)
1988入社(同じ入社式・名簿順で宮田の隣)入社入社
1998主任・580万円主任・580万円(同じ)主任
2005係長・660万円係長・660万円(同じ年・同じ額)課長
2010係長・680万円外資へ転職。690万→1,150万円課長
2018課長・790万円(52歳)外資・部長級次長
2021役職定年(55歳)・620万円前年に失職→別の外資・980万円在職死亡(55歳)

📎 解説:2005年まで、相原と黒木の記録は完全に同じである

1988年の入社から2005年の係長まで、17年間、相原と黒木の役職と年収は一致している。主任昇進も係長昇進も同じ年で、金額も同じである。

この17年は、日本の年功的な処遇の特徴をそのまま示している。同じ年に入り、同じような仕事をしていれば、処遇はほぼ同じに動く。能力の差は、この期間には金額として現れにくい。

差がつくのは、最初に椅子が空いた瞬間である。2010年、黒木のいた部署では課長が動かず、同期の別の人間に内示が出た。黒木はその翌週に転職サイトを開いた。相原は残った。

17年同じだった2人が、2010年の一点から分かれ、2026年には年収420万円と580万円になる。そして生涯賃金では、出て行った黒木のほうが約3,200万円多くなる見込みである。この逆転が何を意味するかは、両方の記事の最終章で扱う。

1988年4月、名簿順に並んだ椅子。
相原の右が宮田で、左から三つ目が黒木だった。

2010年、黒木が相原を誘う。相原は断る。

🚪 2010年 — 「一緒に受けてみないか」と誘われて、断った

このセクションの3点

① 2010年6月、44歳。同期の黒木洋一に「一緒に受けてみないか」と誘われ、相原は断った。

② 断った理由として口にしたのは「子どもがまだ小さいから」だった。上の子は中学生である。

③ 黒木は外資へ移り、年収は690万円から1,150万円になった。相原は残り、8年後に課長になる。

2010年6月。四十四歳。

相原 修司2010年6月・四十四歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

黒木に飲みに誘われた。二人で会うのは久しぶりだった。同じ年に係長になって、そのころは部署が離れていた。

「一緒に受けてみないか」

「どこを」

「外資。おれのところに来てる話がある」

私は黙った。あの沈黙が何秒だったか、いまだに気になっている。短かったと思う。長く考えたようには見せなかったはずである。

それから、子どもがまだ小さいから、と言った。

同じ夜

上の子は、そのとき中学二年だった。小さくはない。黒木もそれを知っている。あいつは家の年賀状を見ている。

それでも黒木は、そうか、とだけ言って、それ以上聞かなかった。聞かれなくて助かったと思った。

本当の理由は、そのとき自分でも言葉にできていなかった。今なら言える。私は、外で自分の値段がつくのが怖かったのである。

会社の中にいれば、私の価値は係長という文字で表される。誰も金額では言わない。外に出て面接を受ければ、必ず数字が出る。その数字が黒木より低かったらどうするのか。二十二年、同じ会社で同じように働いてきた男が、外に出た途端に値段の差をつけられる。

私はそれを見たくなかった。だから、子どもの話にした。

📎 解説:この場面を、黒木洋一の側からも書いてある

同じ夜の場面は、サラリーマン9の黒木の側からも書いている。黒木の記述はこうである。「あれは断りの理由ではなかった。断るための言葉だった。あいつの子どもは、あのとき上が中学生である。小さくはない。私はそれを知っていて、聞き流した。」

2人とも、相手が嘘をついていることを分かっていた。そして分かったうえで、どちらも追及しなかった。追及すれば、自分の側の理由も説明することになるからである。

このシリーズは「断れた一回」を各人物に1つ置いている。今回はそれが2人で共有された1つの夜になっている。片方が出て、片方が残った。どちらもその夜のことを家族に話していない。

2010年9月。黒木が辞めた。

2010年9月・四十四歳

送別会に出た。黒木は挨拶で、新しいことをやりたくなった、と言った。内示の話は一言も出さなかった。あいつが動いた本当の理由を、その場の全員が薄々知っていて、誰も言わなかった。

帰りの電車で、同じ方向の後輩と一緒になった。黒木さん、いくらもらうんですかね、と聞かれた。私は、さあ、と答えた。知らなかったのは本当である。

あの晩、家に帰って、妻に、黒木が辞めた、とだけ言った。誘われたことは言っていない。十六年たった今も、言っていない。

📎 解説:黒木の年収は、その年に460万円上がった

黒木の転職後の提示額は1,150万円で、東亜電機での年収690万円から460万円上がっている。相原の同年の年収は680万円である。この時点で、2人の差は470万円になった。

相原がこの数字を知るのはずっと後で、しかも正確な額としてではない。「かなり上がったらしい」という伝聞である。

厚生労働省「令和6年雇用動向調査」表6では、男性の転職入職者で賃金が増加した人は45〜49歳で46.4%、減少が23.8%である。40代の転職は統計上、賃金が上がりやすい。黒木の結果は方向として多数派にあたる。

ただしこの記事は、相原の判断が間違いだったとは書かない。黒木はこのあと54歳と59歳の2回、職を失う。2026年時点の年収は420万円で、相原の580万円より低い。2010年の時点で、どちらの選択が正しかったかを判定できる材料は存在しなかった。

注: 上記の統計は令和6年(2024年)の調査値であり、2010年当時の値ではない。

2010年黒木 洋一(<a href="/wiki/salaryman-life-9">#9</a>)相原 修司(この記事)
年齢44歳44歳(同い年・同期)
それまでの役職係長係長(同じ年に昇進)
年収690万円 → 1,150万円680万円
その夜の選択誘った。出た断った。残った
口にした理由「新しいことをやりたくなった」「子どもがまだ小さいから」
言わなかった理由課長の内示が同期に出たこと外で値段がつくのが怖かったこと
家族に話したか話していない話していない

同じ夜、同じ席で、2人とも本当の理由を言わなかった。
片方が出て、片方が残った。

ここから8年、相原は係長のままである。上が動かない。

🪑 2010-2017 — 係長のまま8年。上が動かない

このセクションの3点

① 2005年に係長になってから2018年に課長になるまで、13年ある。そのうち黒木が辞めた2010年以降が8年。

② この8年、相原の年収は680万円から770万円まで、90万円しか動いていない。

③ 待っていたのは評価ではなく、上の代が定年に着くことである。

2011年から2014年。四十五歳から四十八歳。

相原 修司2011-2014年・四十五〜四十八歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

黒木が辞めて、部の中に空きができた。その空きは、私の下に入った。係長の下に人が増えただけで、上は動かない。

四十五を過ぎたころから、自分より若い課長が出てきた。うちの部ではなく、他の部である。その人たちは、私より人数の少ない代だった。

それを口に出したことはない。言えば、言い訳になる。年次が下の人間が先に上がったとき、代の人数の話をする中年は見苦しい。私はそう思っていたし、いまもそう思っている。

ただ、当時の私には言えなかったことが一つある。今なら言える。見苦しいから言わない、というのは、正しいから言わないのとは違う。私は正しいことを、見苦しいという理由で十三年言わなかった。

📎 解説:課長の椅子は、100人あたり何脚あるか

厚生労働省「令和5年賃金構造基本統計調査」の労働者数データから算出すると、労働者100人あたり部長級が4.0人、課長級が7.6人、非役職者が79.8人にあたる(10人以上規模の企業)。1,000人以上規模では部長級2.9人・課長級7.6人になる。(この100人あたりの人数は、公表値そのものではなく、本記事の調査担当が労働者数から算出したものである。)

この比率は、同期の人数とは無関係に決まる。1,240人の代であっても、290人の代であっても、組織全体の課長の数は変わらない。したがって同期が多い代ほど、1人あたりの椅子は少なくなる。

そして椅子は「空く」ことでしか回ってこない。上の代が定年・異動・退職のいずれかで抜けるまで、下は待つ。相原の場合、8年上が1,180人、18年上が940人いる。

相原が2010年から2017年まで係長のままだったことは、この構造で説明がつく。本人の評価が低かったことを示す材料は、この記事には無い。

2015年から2017年。四十九歳から五十一歳。

2015-2017年・四十九〜五十一歳

五十が近づいて、私は数え方を変えた。あと何年で課長になれるか、ではなく、あと何人抜ければ空くか、で数えるようになった。

うちの部の課長は私より六つ上である。五十七だった。役職定年が五十五なので、計算が合わない。人事に聞いたら、部長は役職定年の対象だが、課長は運用でずれることがある、と言われた。

そのとき私が思ったのは、制度は書いてあるとおりに動くわけではない、ということである。

結局その課長は、五十八で異動した。異動した先で、また課長だった。椅子は空いたのではなく、移っただけである。それでも私のところには一つ回ってきた。

西暦年齢役職年収同時期の黒木洋一(<a href="/wiki/salaryman-life-9">#9</a>)
201044係長680万円外資へ転職。1,150万円
201246係長700万円外資2年目
201549係長740万円1,380万円(ピーク)
201751係長770万円外資
201852課長790万円外資

📎 解説:8年で90万円という動き方

2010年から2017年まで、相原の年収は680万円から770万円へ、8年で90万円(約13%)上がっている。年あたり約1.6%で、これは役職が動かない期間の定期昇給にあたる。

比較のために置く。藤井亮太は課長のまま2016年から2026年の10年で790万円から860万円(70万円・8.9%)。岡部昭夫は再就職先で2012年から2020年の8年で430万円から440万円(10万円・2.3%)。

年功で上がる仕組みの中にいれば、役職が動かなくても年1〜2%は上がる。相原の8年は、その意味では止まっていない。止まっていたのは役職だけである。

ただしこの8年に、同期の黒木は1,150万円から1,380万円になっている。2015年時点の差は640万円である。相原がその金額を正確に知ることは、この時点でも、いまも無い。

📎 解説:待っていた対象は、評価ではなかった

この8年間、相原が待っていたのは自分への評価が上がることではない。上の代の誰かが、その椅子からいなくなることである。

この違いは重要である。評価を待つのであれば、努力によって早められる可能性がある。椅子が空くのを待つのであれば、努力では早められない。そして本人の側からは、この2つが区別しにくい。

相原は13年間、区別しないまま働いた。そして52歳で課長になったとき、それを「順番が来た」と表現した。順番という言葉は、待てば必ず来るという含みを持つ。実際には、来ないまま定年を迎える人のほうが多い。

このシリーズには、来なかった人物がいる。柴田正三は30歳で係長になり、そこから28年動かないまま定年を迎えた。柴田も「順番」を待っていた。

あと何年で課長になれるか、ではなく、
あと何人抜ければ空くか。
相原は49歳で、数え方を変えた。

2018年、52歳。ようやく順番が来る。そして彼は、嬉しくなかった。

📄 2018年 — 52歳で課長になった。嬉しくなかった

このセクションの3点

① 2018年、52歳で課長になった。入社から30年。田村稔も藤井亮太も42歳で課長になっている。

② 辞令を受け取った日、相原は嬉しくなかった。役職定年が55歳だと、その時点で知っていたからである。

③ そのことを妻に言っていない。家では「課長になった」とだけ言った。

人物入社年同期の人数課長になった年齢課長でいられた年数
田村 稔1970年820人42歳次長へ昇進
中村 正巳1980年940人44歳定年まで
藤井 亮太1996年290人42歳2029年の役職定年まで13年の見込み
岡部 昭夫1985年1,180人45歳48歳で希望退職に応募
相原 修司(この記事)1988年1,240人52歳3年

📎 解説:10年の遅れは、能力ではなく人数で説明できる

相原が課長になったのは52歳で、田村稔藤井亮太より10年遅い。この10年を、この記事は能力の差では説明しない。

1988年入社の同期は1,240人で、このシリーズで最も多い代である。田村の1970年入社は820人、藤井の1996年入社は290人。役職の椅子の数は同期の人数に連動しないので、人数が多い代ほど1人あたりの椅子が少なくなる。

さらに相原の場合、上の代も多い。1985年入社が1,180人、1980年入社が940人。前が詰まっていて、自分の代も多い。この2つが重なると、椅子が空くのを待つ時間が長くなる。

藤井亮太は逆の構造にいた。同期290人と少ないが、上に1,240人の代が詰まっている。だから彼も42歳まで課長になれなかった。入口が絞られても、上が空かなければ結果は変わらない。

注: 同期人数と課長昇進年齢の関係は、この記事の人物設定における構造であり、実在の企業の統計として検証したものではない。全国的な課長の平均年齢については第4章と第11章で公的統計を扱う。

2018年3月。辞令の日。

相原 修司2018年3月・五十二歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

部長室で辞令を受け取った。四月一日付で課長を命ずる、と書いてある紙である。三十年待った紙だ。

受け取って、一礼して、部屋を出た。廊下を歩いているとき、私は自分がまったく嬉しくないことに気づいた。

理由ははっきりしている。役職定年が五十五だと、私はその時点で知っていた。就業規則に書いてある。人事の説明会でも聞いている。

つまり、三十年待って手に入れた紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。

2018年3月・同じ日の夜

家に帰って、妻に、課長になった、と言った。妻は、おめでとう、と言って、赤飯を炊いた。子どもはもう二人とも家を出ていたので、二人で食べた。

三年で降りることは言っていない。

言えば、この赤飯の意味が変わる。三十年待って課長になった夜ではなく、三年しかない役職に就いた夜になる。妻はこの日を、私が報われた日として覚えている。それでいいと思った。

八年たった今も、言っていない。いま言えば、八年黙っていたことも一緒に説明しなければならない。

📎 解説:この「言わなかった」は、シリーズで4人目である

このシリーズの人物は、決定的な事実を家族に言わない。

中村正巳は転勤を断った一回が20年後の年収差になったことを言っていない。高梨実は7年の出向に期限が書かれていなかったことを言っていない。岡部昭夫は希望退職の1週間前に「対象に名前が入っている」と言われたことを言っていない。藤井亮太は内定が1社だけだったことを言っていない。

4人に共通しているのは、言わないことで「その出来事の意味」を確定させずに済むという点である。相原の場合、言わないことで、この日は「報われた日」のまま保存される。

そしてこの保存には期限がある。2021年に役職定年を迎えれば、妻は年収が下がったことに気づく。相原はそのときも説明しなかった。説明しないまま、8年が過ぎている。

2018年4月から2020年まで。課長の3年間。

2018-2020年・五十二〜五十四歳

課長の仕事は、思っていたより面白かった。部下は九人で、そのうち二人は中途で入ってきた三十代だった。あの二人は、私がどれだけ待って課長になったかを知らない。知る必要も無い。

年収は七百九十万から八百十万になった。係長の最後の年が六百八十万だったので、百三十万上がったことになる。

二年目に、部の目標を自分で組んだ。三年目に、その数字が出た。私が三十年やってきたことは、これができるようになるための準備だったのだと思った。

そう思った翌年、五十五になった。

30年

入社から課長になるまで

3年

課長でいられた年数

+130万円

係長最後の年(680万円)から課長ピーク(810万円)まで

10年

田村稔・藤井亮太(42歳で課長)との差

📎 解説:30年と3年という比

相原が課長になるまでに30年かかり、課長でいられたのは3年である。比にして10対1。

比較のために並べる。藤井亮太は入社から20年で課長になり、2029年の役職定年まで13年課長でいる見込みである。比は約1.5対1。田村稔は22年で課長になり、その後さらに次長へ昇進している。

役職定年という制度は、就いた年齢にかかわらず同じ年齢で外す。したがって遅く就いた人ほど、在任期間が短くなる。昇進が遅れた人が、その分だけ長く役職にいられる仕組みにはなっていない。

この構造では、昇進の遅れは二重に効く。1回目は昇進が遅いこと自体で、2回目は在任期間が短くなることで。相原にとって、待った30年は取り返せない設計になっていた。

役職定年制度の全国的な導入状況・設定年齢・減額幅については、第11章で公的統計を扱う。

三十年待って受け取った紙には、
三年後に返す日付が最初から入っていた。

2021年、彼は課長を降りる。そして同じ年、同期の宮田徹が死ぬ。

🕯️ 2021年 — 役職定年と、宮田徹の葬儀

このセクションの3点

① 2021年4月、55歳で役職定年。課長を降りた。年収は810万円から620万円になった。

② その4ヶ月後、同期の宮田徹が在職中に死んだ。同じ1988年入社、同じ55歳である。

③ 相原は葬儀に出た。参列者の中に、外資へ移った黒木洋一はいなかった。訃報が届いていない。

2021年4月1日。五十五歳。

相原 修司2021年4月・五十五歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

四月一日に、辞令をもう一度もらった。三年前と同じ部長室で、同じように一礼して受け取った。今度の紙には、課長の職を解く、と書いてある。

席は変わらなかった。変わったのは、名刺と、会議の出席者一覧と、給与明細である。

後任は四十六の男だった。私が三十年待った椅子に、彼は二十四年で座った。能力の差だとは思っていない。あの代は人数が少ない。

引き継ぎは二週間で終わった。私が三年でやったことは、二週間で渡せる量だった。これを言葉にするのに、私は五年かかっている。

810万円

2020年・課長としての最後の年収

620万円

2021年・役職定年後の年収

−190万円

差(約23.5%減)

3年

課長でいられた期間

📎 解説:役職定年で下がるのは、役職手当だけではない

役職定年とは、一定の年齢に達した管理職を定年前に役職から外す仕組みである。相原の場合、55歳で課長を外れ、年収は810万円から620万円へ、190万円(約23.5%)下がった。

下がるのは役職手当だけではない。管理職としての給与テーブルから外れるため、基本給の等級そのものが切り替わる場合がある。さらに賞与は基本給に連動することが多いので、月額の差が年額ではそれ以上に効く。

比較のために置く。藤井亮太は2029年に55歳で役職定年を迎える見込みで、年収は860万円から620万円になる見込みである。2人とも、役職定年後の着地は620万円である。ただし藤井は42歳から13年課長でいる見込みで、相原は3年だった。

役職定年は、就いた年齢にかかわらず同じ年齢で外す。したがって遅く昇進した人ほど在任が短く、生涯で受け取る役職分の総額も小さくなる。相原が受け取った「課長であることの上乗せ」は、3年分である。

役職定年制度の全国的な導入状況・設定年齢・減額幅の統計は、第11章で扱う。

2021年8月。宮田徹の訃報。

2021年8月・五十五歳

八月に、宮田が死んだと聞いた。膵臓だったという。入院してからは早かったらしい。五十五である。私と同い年だ。

宮田とは入社式で並んで座った。名簿順で、私の次があいつだった。三十三年、そのことをずっと覚えていた。

あいつは次長まで行った。私より先を歩いていた。そして、私が課長を降りた四ヶ月後に死んだ。

葬儀に出た。会社の人間が大勢いた。私は末席にいて、焼香をして、帰った。あの日、私は自分が生きていることについて、何も感じていない。感じるべきだったのかもしれない。ただ、あの日の私は、宮田の奥さんの顔を見ないようにするので精一杯だった。

📎 解説:1988年入社の同期が、この年に2人とも動いた

2021年、相原修司は55歳で役職定年を迎え、宮田徹は55歳で在職中に死んだ。2人は同じ1988年入社・同期1,240人で、同い年である。

宮田は次長まで到達している(112人/1,240人=9.0%)。生涯賃金は約1億6,200万円で、33年4ヶ月で終わった。サラリーマン13に書いたとおり、彼は死んだあと、会議の参加者一覧から名前が消えている。

相原は、その年に役職から降りた。宮田は、その年に生きることをやめた。2人とも、55歳という同じ年齢で会社との関係が変わっている。片方は制度によって、片方は病気によって。

そしてもう1人の同期、黒木洋一は葬儀に来ていない。2010年に会社を出ているため、訃報が届いていない。黒木がこのことを知るのは、この2年後、人づてにである。

2021年の暮れ。

2021年12月・五十五歳

年末の給与明細を見て、妻が、去年より少ないね、と言った。私は、役職が変わったからだ、と答えた。それ以上は聞かれなかった。

三年前に課長になった夜、妻は赤飯を炊いた。あの夜に「三年で降りる」と言っておけば、この会話はもっと短く済んだ。

今の私には言える。私が黙っていたのは、妻のためではない。三十年待って課長になった、という話の形を、私自身が壊したくなかったのである。

宮田の葬儀から四ヶ月たっていた。あいつは五十五で死んで、私は五十五で役職を降りた。どちらが良かったかという比較には、意味が無い。それでもあの年の暮れ、私はその二つを何度も並べて考えた。

2021年相原 修司(この記事)宮田 徹(<a href="/wiki/salaryman-life-13">#13</a>)黒木 洋一(<a href="/wiki/salaryman-life-9">#9</a>)
年齢55歳55歳55歳(3人とも同期・同い年)
所属東亜電機東亜電機外資(2010年に転職)
到達課長(52歳〜)次長(9.0%)外資で部長級
この年に起きたこと4月に役職定年。810万→620万円8月に在職死亡前年に失職。8ヶ月の求職を経て別の外資へ
葬儀参列した訃報が届いていない

1988年の入社式に、この3人は同じ会場にいた。
2021年、3人とも55歳だった。

それから5年。2026年、相原は60歳で、役職なしで、まだ同じ会社にいる。

📍 2026年8月・60歳 — 役職なし、年収580万円

このセクションの3点

① 2026年8月現在60歳。役職なし、年収580万円。役職定年から5年が経っている。

② 席は課長だった頃と同じ。仕事は減ったが、無くなってはいない。2031年に65歳で定年、通算43年になる見込みである。

③ 同期3人のうち、定年に着く見込みがあるのは相原だけである。

2026年8月。六十歳。

相原 修司2026年8月・六十歳

朝は同じ時間に出る。席も同じである。五年前に課長を降りたとき、席は動かなかった。動かす理由が無かったからだと思う。

いまの仕事は、後任の課長の下で、担当のいくつかを持っている。会議には出るが、発言を求められる回数は減った。求められないというより、私が答えるべき問いが減った。

年収は五百八十万である。役職定年の年が六百二十万だったので、五年でさらに四十万下がっている。下がった理由は聞いていない。聞けば答えは返るのだろうが、聞いていない。

あと五年で六十五になる。定年である。入社から数えて四十三年になる。

西暦年齢役職年収この年に起きたこと
201852課長790万円30年待って課長になった
202054課長810万円(ピーク)
202155役職定年620万円4月に降格。8月に宮田徹が死亡
202660役職なし580万円(現在)
203165定年(見込み)通算43年

📎 解説:役職定年後の5年で、さらに40万円下がっている

2021年の役職定年で810万円から620万円へ190万円(約23.5%)下がり、その後の5年でさらに40万円下がって580万円になっている。合計すると、ピークから230万円、約28%の減少である。

役職定年の減額幅について、人事院の調査(平成19年)では、役職定年で給与が「下がる」企業が82.5%、下がる企業のうち78.2%が「75〜99%水準」=1〜25%減にとどまるとされている。相原の23.5%減は、このレンジの上限近くにあたる。

ただしこの調査は平成19年(2007年)のものである。2020年代の役職定年後の処遇を示す一次統計を、本記事は取得できていない。相原の2021年以降の減り方が、現在の標準的な水準と比べてどうなのかは判定できない。

注: 役職定年後の5年でさらに40万円下がった要因(賞与の減、等級の変更、その他)は本記事では未確定である。

後任の課長と。

2026年・六十歳

後任は五年前に四十六だったので、いま五十一である。あと四年で、あいつも役職定年になる。あいつが課長でいられるのは九年ということになる。私の三倍だ。

先月、その話になりかけた。あいつが、あと何年ですかね、と言った。自分のことを言ったのだと思う。私は、そうだな、とだけ答えた。

今の私には言える。あそこで、三年だったよ、と言えばよかった。言えば、あいつは自分の九年を数え始める。数えたほうがいい。私は五十二で辞令をもらうまで、その計算を一度もしていない。

言わなかった理由は、自分でも分かっている。三年だったと口に出すと、それが三年だったことになる。

📎 解説:「言わない」が、この記事で3度目である

相原は3つのことを言っていない。①2010年に黒木の誘いを断った本当の理由(外で値段がつくのが怖かった)。②2018年に課長になった日、嬉しくなかったこと。③2026年、後任に「課長でいられたのは3年だった」と言わなかったこと。

3つとも、言えば話の形が変わる。①を言えば、残ったのが選択ではなく回避になる。②を言えば、赤飯を炊いた夜の意味が変わる。③を言えば、3年だったことが確定する。

このシリーズには、同じ形の人物が並んでいる。中村正巳は転勤を断った一回を家族に言っていない。岡部昭夫は希望退職の1週間前の面談を言っていない。藤井亮太は内定が1社だけだったことを言っていない。

全員に共通するのは、言わないことで出来事の意味を確定させずに済むという点である。そして全員、その保存にはすでに期限が来ている。相原は2031年に定年を迎える。

同期のこと。

2026年8月

宮田が死んで五年になる。年に一度、命日の前後に線香をあげに行っている。奥さんは、まだあの家にいる。

黒木とは、二〇一〇年の送別会以来、会っていない。年賀状は来る。去年の年賀状には、独立しました、と書いてあった。業務委託になったということだろうと思っている。

宮田が死んだことを、黒木は知らないはずである。社外に訃報は回らない。知らせようかと思ったことは何度かある。知らせていない。

知らせなかった理由も、今なら言える。知らせれば、あいつと私で宮田の話をすることになる。宮田の話をすれば、必ず一九八八年の入社式の話になる。三人が同じ会場にいた日の話を、いまの三人でするのは、私にはきつい。

2026年8月<a href="/wiki/salaryman-life-13">宮田徹</a><a href="/wiki/salaryman-life-9">黒木洋一</a><strong>相原修司</strong>
状態2021年に死亡(55歳)業務委託・年収420万円役職なし・年収580万円
会社東亜電機(在職のまま)無所属東亜電機(38年目)
この先未定2031年に定年(通算43年)
3人の関係相原が年1回線香をあげに行く宮田の死を知らない知らせていない

1988年4月、同じ会場に3人がいた。
2026年、1人は死に、1人は会社の外にいて、1人だけが同じ会社にいる。

次の章で、役職定年という制度そのものを数字で見る。相原が経験したのは、全国では少数派の側で起きたことである。

🧮 制度 — 役職定年とは何か。何歳で、いくら下がるのか

このセクションの3点

① 役職定年制度を導入している企業は、令和5年(2023年)の人事院調査で16.7%。相原が経験したのは、全国の16.7%の側で起きたことであり、「よくある話」ではない

② 導入している企業に限れば、課長級の役職定年年齢は「55歳」が40.3%で最多。相原の55歳という設定は、導入企業の中では典型的な年齢である

③ 平成19年(2007年)の人事院調査では、役職定年後に年収が「下がる」企業が82.5%で、下がる企業の78.2%は「1〜25%減」の範囲にとどまる。相原の23.5%減はこのレンジの上限に近い

役職定年制度は「普通のこと」ではない

📎 導入率16.7%。しかも減少傾向

人事院「令和5年民間企業の勤務条件制度等調査」によると、常勤従業員50人以上の企業のうち、「役職定年制がある」企業の割合は16.7%である。定年年齢が61歳以上の企業に限っても20.8%にとどまる。

この割合は過去より減っている。同じ人事院の平成19年(2007年)調査では導入割合は23.8%だった。中央労働委員会「賃金事情等総合調査」(従業員1,000人以上企業限定)でも、平成11年の56.0%から平成19年の45.7%へと減少している。

相原の会社には役職定年制度があった。ただしこれは、全国の少数派(16.7%)の側で起きたことであり、多数派ではない。「順番が来れば役職を外される」という前提そのものが、日本の会社の大半には存在しない制度の上に立っている。

導入企業の中では、55歳定年は典型

📎 役職定年年齢の分布(令和5年)

役職定年制度がある企業に限って、その設定年齢を見ると、課長級は「55歳」が40.3%で最多、次いで「60歳」が19.2%である。部長級も同様に「55歳」が33.5%で最多、「60歳」が19.6%と続く。

役職定年後の配置については、課長級で「同格のスタッフ職」とする企業が40.6%、「格下のスタッフ職」とする企業が36.0%である。

相原の55歳での役職定年は、「制度がある企業」の中では最も多いパターンに当たる。制度自体は少数派だが、その少数派の中では、相原は典型的な当事者である。

減額幅 — 相原の23.5%減はどの位置にあるか

項目数値出典・備考
「下がる」とする企業の割合82.5%人事院・平成19年調査(課長級・役職定年制がある企業)
下がる企業のうち「約75〜99%水準」(1〜25%減)78.2%最も多い減額幅の範囲
下がる企業のうち「約50〜74%水準」(26〜50%減)20.4%
下がる企業のうち「約50%未満」(50%超減)1.4%
55歳定年の企業に限った場合の「下がる」割合91.5%うち75〜99%水準が83.4%
相原の実際の減額幅810万円→620万円(-23.5%)「75〜99%水準」の範囲の上限に近い

📎 解説:「ありうる範囲だが、軽くはない」

相原の23.5%減は、全国データで最も多い「1〜25%減」の範囲には収まっている。ただし、その範囲の中でも重い方である。減額対象として企業が挙げる項目は「基本給」36.6%、「賞与(支給月数)」33.1%、「管理職手当」30.7%の順で、廃止する項目としては「管理職手当」が37.7%で最も多い。

相原の-190万円という下げ幅は、「ありうる範囲だが、軽くはない」という位置づけになる。同じ55歳役職定年の企業の中でも、より軽い下げ幅(例えば1桁%の減)で済む会社も一定数あるということである。

🚫 このデータの限界(必ず読んでほしい)

・「役職定年後の年収変化」の全国データとして今回確認できたのは、平成19年(2007年)の人事院調査のみである。相原が実際に役職定年を迎えた2021年との間には14年のズレがある

・令和5年(2023年)の人事院調査の概要資料には、役職定年後の年収変化に関する同種の項目が見当たらず、2020年代の実態を示す新しいデータは今回のリサーチでは確認できていない(未取得)

・母集団は「課長級に役職定年制がある企業」に限られる。役職定年制度そのものが無い企業(全国の83.3%)は、この減額データの対象に入っていない

この先 — 2031年、65歳定年まで

📎 通算43年、生涯賃金は田村稔の約97%

相原は2031年、65歳で定年を迎える見込みである。1988年の入社から数えると、通算43年この会社の雇用関係の中で過ごすことになる。

生涯賃金の見込みは約2億800万円で、43年間勤め上げた田村稔(約2億1,400万円)の約97%にあたる。数字だけを並べれば、相原はこのシリーズの中で最も「平均的」な結果に着地している。ただしその内側には、30年待って手に入れた役職が3年で終わったという事実がある。

役職定年という制度そのものが、全国の16.7%にしか存在しない。
相原が「順番」の中で経験したことは、そもそも多数派の経験ではなかった。

→ 次のSection 12では、宮田徹・黒木洋一・相原修司、1988年入社の3人の年表を並べる。

🔀 1988年入社の3人 — 残った、出た、死んだ

このセクションの3点

① 1988年4月の入社式に、相原修司・黒木洋一・宮田徹の3人がいた。同期1,240人はシリーズ最多の代である。

② 3人は2005年まで同じ会社にいた。宮田は先に課長になり、黒木は2010年に出て、相原は残った。

③ 2026年、宮田は死んでおり、黒木は無所属で、相原だけが同じ会社にいる。定年に着く見込みがあるのも相原だけである。

3人の38年を、年表で並べる

西暦年齢<strong>相原修司(この記事)</strong><a href="/wiki/salaryman-life-9">黒木洋一(#9)</a><a href="/wiki/salaryman-life-13">宮田徹(#13)</a>
198822入社(名簿順で宮田の隣)入社入社
199832主任・580万円主任・580万円(同額)主任
200539係長・660万円係長・660万円(同じ年・同額)課長
201044誘われて断った・680万円誘って出た・690万→1,150万円課長
201549係長・740万円1,380万円(ピーク)課長
201852課長・790万円外資・部長級次長
202054課長・810万円事業撤退で失職次長
202155役職定年・620万円別の外資・980万円8月に在職死亡
202559役職なし買収で再び失職
202660580万円・在職38年目業務委託・420万円

📎 解説:2005年まで、3人の差は「宮田が先に課長になった」だけだった

入社から17年、相原と黒木の役職と年収は完全に一致している。主任も係長も同じ年で、金額も同じである。宮田だけが先を歩いていた。

この17年が示しているのは、年功的な処遇の下では、能力の差が金額として現れにくいということである。差がつくのは、最初に椅子が空いた瞬間だけである。

そして椅子が空くかどうかは、本人の外側で決まる。2010年、黒木のいた部署の課長は52歳で動かなかった。相原の部署も動かなかった。同期の別の人間のいた部署では、その年に課長が定年になった。内示はそこに出た。

黒木はそれを見て、能力の差ではないと正確に理解した。理解したうえで、会社を出た。相原は同じことを見て、残った。

3つの数字で並べる

<strong>相原修司</strong><a href="/wiki/salaryman-life-9">黒木洋一</a><a href="/wiki/salaryman-life-13">宮田徹</a>
生涯賃金約2億800万円約2億4,000万円(最多)約1億6,200万円(最少)
ピーク年収810万円1,380万円
2026年の年収580万円420万円
働いた年数(見込み)43年(2031年まで)38年時点で不安定33年4ヶ月で終了
退職金ありほぼ無し死亡退職金
定年に着くか着く見込み着かなかった着かなかった

📎 解説:生涯賃金の順位は、努力の順ではない

生涯賃金で並べると、会社を出た黒木が最も多く(約2億4,000万円)、次長まで到達した宮田が最も少ない(約1億6,200万円)。

この順位を作っているのは3つの要素である。①働いた年数 ②その間の単価 ③いつ止まったか。宮田が最も少ないのは、33年4ヶ月で終わったからである。彼は3人の中で最も高い役職(次長・1,240人中112人=9.0%)に到達している。

努力の順でも、能力の順でも、社内評価の順でもない。そして相原は、この3人の中では中間にいる。

ただし受け取り方の形は3人でまったく違う。相原は43年かけて平らに受け取り、黒木は10年で山を作ってから落ち、宮田は33年で途切れた。生涯賃金という数字は、この違いを消してしまう。

3人が、それぞれ言わなかったこと

言わなかったことなぜ言わなかったか
相原修司2010年に断った本当の理由/課長になった日に嬉しくなかったこと言えば、残ったことが選択ではなく回避になる
黒木洋一2010年に動いたのは、課長の内示が同期に出た翌週だったこと言えば、出たことが決断ではなく反応になる
宮田徹33年、相手の背後にいる人間の顔を読んで生きたこと言えば、その才能が処世術になる

📎 解説:3人とも、同じ夜のことを家族に話していない

2010年の飲みの席は、相原と黒木の2人だけの場面である。そして2人とも、その夜のことを配偶者に話していない。相原は誘われたことを、黒木は誘って断られたことを。

両方の記事に書いたとおり、2人とも相手が本当の理由を言っていないことに気づいていた。黒木は相原の子が中学生だと知っていた。相原は黒木が内示の翌週に動いたことを、後から人づてに知っている。

それでもどちらも追及しなかった。追及すれば、自分の側の理由も説明することになるからである。

この記事はここに評価を置かない。44歳の男が2人、それぞれ家庭を持って、それぞれの理由で言葉を選んだ。16年たって、片方は業務委託で420万円、片方は役職なしで580万円になっている。2010年の時点でこの結果を予測できる材料は、どちらの手元にも無かった。

1,240人

1988年入社の同期(シリーズ最多)

3人

このシリーズが書いたその代の人数

1人

そのうち定年に着く見込みがある人数

17年

相原と黒木の記録が完全に一致していた期間

1988年4月、名簿順に並んだ椅子。
相原の右が宮田で、左から三つ目が黒木だった。
38年たって、その列に残っているのは相原だけである。

最後に、この30年と3年という比が何で決まったのかを、数字で解体する。

🔪 辛口批評 — 「順番が来れば報われる」を、代の人数で解体する

このセクションの3点

① 相原修司の生涯賃金は約2億800万円で、43年勤めた田村稔の約2億1,400万円とほぼ同じ。数字の上では、彼は最も平均に近い。

② 異常なのは1点だけ、課長でいられた3年である。そしてそれは能力ではなく、代の人数と役職定年の組み合わせで決まった。

③ 最後に置く問題は別にある。役職定年の導入率は16.7%で減少傾向にあり、この制度が今後どうなるかを示す統計を、この記事は持っていない。

① 「順番」という言葉が隠していること

📎 批評:待っていた対象は、評価ではなく空席だった

相原は52歳で課長になったとき、それを「順番が来た」と表現した。順番という言葉は、待てば必ず来るという含みを持つ。

この言葉が隠しているのは、待っていた対象が自分への評価ではなく、上の代の誰かがその椅子からいなくなることだったという点である。評価を待つのであれば努力で早められる可能性がある。空席を待つのであれば、努力では早められない。

そして本人の側から、この2つは区別しにくい。相原は13年間、区別しないまま働いた。区別していれば、2010年に黒木の誘いを受けていたかもしれない。あるいは受けなくても、待つことの意味が変わっていた。

このシリーズには、順番が来なかった人物もいる。柴田正三は30歳で係長になり、そこから28年動かないまま定年を迎えた。柴田も「順番」を待っていた。来なかった。順番が来た相原と、来なかった柴田を分けたものが本人の能力だったかどうかは、この記事には判定できない。

② 昇進の遅れは、二重に効く

人物入社同期課長就任課長でいた年数構造
田村稔1970年820人42歳次長へ昇進上が空いていく時期
藤井亮太1996年290人42歳13年の見込み同期は少ないが上が詰まる
相原修司1988年1,240人52歳3年上も詰まり、同期も最多

📎 批評:役職定年は、遅く就いた人に長くいさせない

相原が課長になるまで30年、いられたのは3年。比にして10対1である。藤井亮太は入社20年で課長になり13年いる見込みなので、比は約1.5対1になる。

この差を作っているのは、役職定年が「就いた年齢にかかわらず同じ年齢で外す」設計になっていることである。遅く昇進した人ほど在任が短くなり、受け取る役職分の上乗せの総額も小さくなる。

つまり昇進の遅れは二重に効く。1回目は昇進が遅いこと自体で、2回目は在任期間が短くなることで。待った30年を取り返す仕組みは、この制度の中に用意されていない。

ただし公平のために書いておく。役職定年を導入している企業は令和5年時点で16.7%である(人事院・令和5年民間企業の勤務条件制度等調査)。相原が経験したのは、この16.7%の側で起きたことである。導入していない企業では、この二重の効き方は発生しない。

③ 相原は、このシリーズで最も平均に近い

約2億800万円

相原修司の生涯賃金の見込み

約2億1,400万円

田村稔(43年勤続)の生涯賃金

約97%

田村に対する比

3年

課長でいられた年数

📎 批評:金額では何も起きていない。起きたのは時間の中である

相原の生涯賃金の見込みは約2億800万円で、43年勤め上げた田村稔の約2億1,400万円の約97%にあたる。金額で見れば、このシリーズで最も中央値に近い人物である。

そして彼は2031年に65歳で定年を迎える見込みで、通算43年になる。この代の3人のうち、定年に着くのは彼だけである。同期の宮田徹は55歳で死に、黒木洋一は54歳と59歳の2回、職を失った。

この記事が扱ってきたのは、金額に出ない部分である。30年待ったこと。課長でいられたのが3年だったこと。辞令の日に嬉しくなかったこと。そのことを妻に8年言っていないこと。どれも生涯賃金には現れない。

このシリーズは13人分の記事で生涯賃金を並べてきた。大野修の記事で、その物差しが正社員であることを前提にしていたと分かった。今回分かったのは、その物差しが「時間のどこで受け取ったか」を消してしまうことである。相原の2億800万円は、田村の2億1,400万円とほぼ同じ額だが、同じ受け取り方ではない。

④ この記事が最後に置く問題

📎 批評:相原が経験したのは、縮小しつつある制度である

人事院「令和5年民間企業の勤務条件制度等調査」によれば、役職定年制を導入している企業は16.7%である。平成19年の同調査では23.8%だったので、減っている。中央労働委員会のデータでも、平成11年56.0%から平成19年45.7%へ低下が確認されている。

導入している企業では課長級の役職定年年齢は55歳が最多(40.3%)で、相原の設定はその中では典型的である。減額については「下がる」が82.5%、下がる企業の78.2%が「75〜99%水準」=1〜25%減にとどまる(平成19年人事院調査)。相原の810万円→620万円は約23.5%減で、このレンジの上限近くにあたる。

ここに問題がある。減額幅のデータは平成19年(2007年)の調査である。2020年代の減額幅を示す一次統計を、本記事は取得できていない。65歳定年・70歳就業が進んだ現在、役職定年後の処遇がどうなっているかを示す新しい数字が無い。

前作のサラリーマン8では、早期退職に応募した人のその後を追跡した公的統計が存在しないことを最後に置いた。今回も同じ形である。制度が人に何をしたかを、社会が継続して測っていない。

⑤ 1988年入社の3人

<a href="/wiki/salaryman-life-13">宮田徹</a><a href="/wiki/salaryman-life-9">黒木洋一</a><strong>相原修司(この記事)</strong>
選択残った42歳で出た残った
到達次長(9.0%)外資で部長級課長(52歳)
ピーク年収1,380万円810万円
2026年2021年に死亡(55歳)業務委託・420万円役職なし・580万円
生涯賃金約1億6,200万円約2億4,000万円約2億800万円
定年に着くか着かなかった着かなかった着く見込み(2031年)

📎 この表の読み方

生涯賃金で並べると、出て行った黒木が最も多く(約2億4,000万円)、残って次長になった宮田が最も少ない(約1億6,200万円)。宮田が少ないのは、33年4ヶ月で終わったからである。

この順位は、努力の順でも能力の順でもない。働いた年数と、その間の単価と、いつ止まったかで決まっている。

そして3人のうち、定年に着く見込みがあるのは相原だけである。このシリーズが「定年まで勤め上げる」を標準として書いてきた13本の中で、1988年入社の代からは2人が外れた。

1,240人という最多の代に入ったことが、3人にそれぞれ別の形で効いた。宮田は上がるために働き続け、黒木は上がらないと見て出て、相原は待った。同じ入社式に出た3人である。

三十年待って、三年。
待った対象は評価ではなく、空席だった。
それでも彼は、この代で唯一、定年に着く。

このシリーズは続く。残るのは公務員型、そしてこの表に一人もいない女性たちである。