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🌗 サラリーマン15 — 23.9%の側にいた女

1964年生まれ。1986年4月、男女雇用機会均等法の施行と同じ月に、総合職として東亜電機に入社した。同期の総合職女性は4人である。1990年、26歳で第1子を産んだ。育児休業法の公布は1991年5月、施行は翌1992年なので、このとき制度は無かった。国立社会保障・人口問題研究所の調査によれば、1985-89年に第1子を出産した女性のうち、出産前後で就業を継続できたのは23.9%である。4人に1人に満たない。矢部直子は、その23.9%の側にいた。以後38年、一度も辞めていない。44歳で課長、56歳で次長、60歳で定年を迎え、いまは再雇用で働いている。2026年8月現在62歳、年収480万円。生涯賃金の見込みは約1億7,900万円である。同じ会社で同じ次長まで到達した田村稔(1970年入社)は約2億1,400万円だった。入社年が16年違うので直接は比べられない。ただし全国の推計では、大卒女性の生涯賃金は大卒男性の78.4%、退職金を含めた総額の差は7,080万円である。このシリーズは14人書いて、全員が男性だった。15人目でようやく、その物差しが誰を測っていなかったかが分かる。

🌗 この記事は何か — 14人分の物差しが、誰を測っていなかったか

このセクションの4点

① このシリーズは14人を書いて、全員が男性だった。15人目にして初めての女性である

② 矢部直子は1964年生まれ。1986年4月、男女雇用機会均等法の施行と同じ月に総合職として入社した。同期の総合職女性は4人である

③ 1990年、26歳で第1子を産んだ。1985-89年に第1子を出産した女性のうち、出産前後で就業を継続できたのは23.9%である(社人研)。彼女はその側にいた

④ それでも大卒女性の生涯賃金は、全国の推計で男性の78.4%、退職金を含めた総額の差は7,080万円である(JILPT)

プロローグ

矢部 直子2026年8月・六十二歳

一九九〇年に一人目を産んだとき、就業規則を二回読んだ。一回目は、見落としたのだと思ったからである。

産前産後の休業は書いてあった。その先が無かった。復帰するまでのあいだ、席がどうなるかを書いた条文が、どこにも無い。

私は三ヶ月で戻った。三ヶ月にした理由は、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。

育児休業法が公布されたのは、その翌年だった。

三十六年たって、私が言えるのはこれだけである。制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。

このシリーズの登場人物

登場人物 — 名前をクリックすると、その人の言葉が開きます

🏢 1. 田村 稔 中央値型 — 勝ちでも負けでもない 1970年入社・同期820人/到達=次長(上位17%)。部長には届かなかった
生涯賃金 約2億1,400万円/2035年・87歳没。要介護7年 記事を読む →
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静岡の農家の次男で、家を出るしかなかった。入社の日、駅で父が黙って万年筆をくれた。パイロットの、安いやつだ。定年の日まで机の引き出しにあった。

玄関の柱に子どもの背を刻んだ線がある。健一の線は一九九三年で止まっている。

四十二で課長になった年が、いちばんよかった。まあ、そういうもんだ。

🖋️ 2. 北原 誠一 出世型 — 同期820人で3人 1970年入社・同期820人(田村と同期)/到達=取締役(0.4%)→ 子会社社長
生涯賃金 約4億9,000万円/2037年・89歳没 記事を読む →
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入社式で隣に座ったのが田村だった。同じ大学を出て、同じ日に辞令を受け取った。私の紙には本社人事部と書いてあり、彼の紙には神奈川工場と書いてあった。

二〇〇二年、転籍のリストに彼の名前があった。私は手を止めて、判を押した。震えはしなかった。

それは、そういう仕組みだ。

🔧 3. 柴田 正三 停滞型 — 係長のまま28年 1958年入社・高卒技能職340人/到達=係長(30歳)。そこから28年動かず
生涯賃金 約1億4,900万円(田村の約7割)/2032年・92歳没。要介護1年2ヶ月・自宅で 記事を読む →
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新潟から出てきて、旋盤の前に立った。二十二で試験に受かって技術職になった年を、私は二度目の入社と呼んでいる。ノギスはそのとき自分で買った。

三十で係長になった。同期でいちばん早かった。そのあと二十八年、何も動かなかった。課長の椅子が空いたとき、座ったのは大卒の三十四だった。

寸法は合っとる。

✈️ 4. 森 康彦 単身赴任型 — 通算14年、家にいなかった 1980年入社・同期940人/到達=部長(47人/940人=5.0%)
生涯賃金 約2億9,600万円/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む →
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福岡、広島、名古屋、バンコク。四回出て、合わせて十四年、家にいなかった。断れた回もある。断らなかった。

帰るたびに家のルールが少し変わっていた。茶碗が食器棚の奥に移り、鍵が替わり、私の部屋が息子の部屋になった。帰任したら食卓の椅子が三脚しか出ていなかった。

まあ、なんとかなる。あれは必要な十四年だった。

🏠 5. 中村 正巳 家庭優先型 — 転勤を断った(#4の対照群) 1980年入社・同期940人(森と同期)/到達=課長(286人/940人=30.4%)
生涯賃金 約1億8,600万円(森の63%)/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む →
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一九九六年、九州支店の課長への内示を断った。妻の母が倒れて、代わりが立たなかった。三日考えて、手順を全部書き出して、代わりの立たない箇所が一つ残った。それだけの話だ。

断ったのは一回きりだ。二度目は聞かれなかった。介護は三年で終わったが、そのあと十九年、話は来なかった。

家族はこのことを知らない。言うことでもない。それでいい。

🫀 6. 谷口 健一 健康維持型 — 変数は45歳の一点だけ(対照実験) 1980年入社・同期940人(中村と同期・生涯賃金差300万円)/到達=課長。中村とほぼ同じ経路
生涯賃金 約1億8,900万円/2026年8月現在67歳・存命/推計87歳没・要介護1年半 記事を読む →
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私の最初の指導係は田村さんだった。図面は嘘をつかん、と教わった。あの言葉は柴田さんから田村さんに渡ったものだと、後で知った。

二〇〇三年、同じ部署の柏木さんが心筋梗塞で倒れて、戻ってこなかった。数日後、机が片付けられていた。私はそれを自分の席から見ていた。翌月から煙草をやめて、朝三十分歩き始めた。

理由を聞かれても、続けとるだけですとしか答えない。

🌥️ 7. 高梨 実 メンタル離脱型 — 3ヶ月休んで、戻る場所が無かった 1985年入社・同期1,180人/到達=課長 → 53歳で自己都合退職
生涯賃金 約1億9,800万円(65歳時の資産は7人中最下位)/2026年8月現在63歳・週4日勤務中 記事を読む →
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二〇〇八年の十月、月次の締めで数字が合わなかった。三度やり直しても合わなかった。合わないのは、自分の入力だった。

三ヶ月休んだ。制度は全部あった。復職もできた。ただ、戻る席が無かった。応援という名前の出向が、期限を書かれないまま七年続いた。

誰も私を辞めさせていない。帳尻は合います。

🚪 8. 岡部 昭夫 早期退職型 — 410万円で17年を売った 1985年入社・同期1,180人(高梨実と同期)/到達=課長。次長には届かなかった/2011年・48歳で希望退職に応募
生涯賃金 約9,000万円(前提つき試算・田村の約42%)/受取 約2,600万円/2026年8月現在63歳・部品商社(従業員80人)・年収410万円 記事を読む →
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募集が出る一週間前、閉まっている食堂で部長に言われた。今回、対象に名前が入っている、と。それだけである。辞めろとは言われていない。

三週間、封筒を鞄に入れて出勤して、持ち帰った。二十一回出さなかった。二十二回目に出した。

あれは自分で決めたことです。十五年、そう言っている。妻には、あの面談のことを言っていない。

✈️ 9. 黒木 洋一 転職型 — 生涯賃金では勝った 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・相原修司と同期)/到達=東亜電機では係長 → 2010年44歳で外資へ/外資で部長級
生涯賃金 約2億4,000万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,380万円/2026年8月現在60歳・業務委託・年収420万円(ピークの約30%)/退職金ほぼ無し 記事を読む →
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二〇一〇年、課長の内示が同期の別の人間に出たと聞いた。能力の差だとは思わなかった。あいつのいた部署は、その年に課長が定年になっていた。それだけである。

翌週、転職の登録サイトを開いた。六百九十万だった私が、隣の会社では千百五十万になった。あれが自分の値段だと思った。

今なら言える。あれは私の値段ではない。あの事業が伸びていた年の、あの会社が払えた額である。

10. 相原 修司 詰まり型 — 30年待って、3年だけ課長 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・黒木洋一と同期)/到達=課長(52歳で就任)→ 55歳で役職定年。課長でいられたのは3年
生涯賃金 約2億800万円(田村稔の約97%)/2026年8月現在60歳・役職なし・年収580万円/2031年65歳定年・通算43年 記事を読む →
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二〇一〇年、黒木に一緒に受けてみないかと誘われた。子どもがまだ小さいから、と断った。上の子は中学二年である。小さくはない。

本当は、外で自分の値段がつくのが怖かった。会社の中にいれば、私の価値は係長という文字で表される。誰も金額では言わない。

三十年待って課長になった。辞令の紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。妻には言っていない。

🏛️ 11. 森田 克彦 公務員型 — 最も揺れなかった/唯一の非民間 1975年・23歳で国家公務員採用(行政職俸給表(一))/到達=課長(45歳)。そこから15年、級は動かなかった
生涯賃金 約2億2,900万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,050万円/2012年60歳で定年→再任用→2017年65歳で終了/2026年8月現在74歳・年金で生活が成立 記事を読む →
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採用の日に給料表を見せられた。あなたはここです、と指をさされて、上に行くとこうなります、と指を動かされた。安心したのは、その表に「景気」という欄が無かったからである。

二十八のとき、妻になる人に同じ紙を見せた。これって上がらないこともあるの、と聞かれて、無い、と答えた。五十のとき、号俸は上がっているのに年収が減った。表そのものが下がっていた。

四十六年たつが、二十八のときの説明を、私はまだ訂正していない。

🪑 12. 藤井 亮太 氷河期・正社員型 — 内定は1社だけだった 1996年入社・同期290人(シリーズ最少。1988年入社1,240人の約23%)/到達=課長(58人/290人=20.0%)。到達は42歳
生涯賃金 52歳時点の累計 約1億2,600万円/48年働く見込み/2026年8月現在52歳・課長・年収860万円/2029年55歳で役職定年 記事を読む →
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三十年、誰にも言っていないことがある。私の内定は、一社だけだった。妻にも同期にも言っていない。言えば、私の三十年の説明が変わるからである。

二〇〇八年の十二月、部長に「一階、どこから減らせる」と聞かれた。どの工程が余っているかは、私がいちばん正確に知っていた。私は、本社が決めることです、と答えた。

十年ポストが動かなかったという話と、自分が選ばれて入ったという話を、私は一度も同じ机の上に並べたことがない。

🕰️ 13. 宮田 徹 在職死亡型 — 定年に着かなかった 1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多)/到達=次長(112人/1,240人=9.0%)
生涯賃金 約1億6,200万円(33年4ヶ月で終わった)/2021年8月・55歳で在職死亡 記事を読む →
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私の最初の指導係は森さんだった。三日目に見積書を突き返された。これは誰が読む、と聞かれて、お客さんです、と即答した。違う、最初に読むのはうちの経理だ、と言われた。

それから三十三年、相手の背後にいる人間の顔を先に読んで生きた。その才能で次長になった。同じ才能で、この会社を一度も疑わなかった。

この病室は九時に電気が消える。会社にいた頃、九時はまだ夕方だった。

🧊 14. 大野 修 氷河期・非正規型 — 名簿に一度も載らなかった 1996年3月・国立大学卒/内定ゼロ(大卒求人倍率1.08倍)。正社員になったことが一度もない/到達=到達なし。アルバイト7年 → 製造派遣4年半 → 契約社員
生涯賃金 52歳までの累計 約7,900万円(藤井の63%・田村の生涯賃金の37%)/2026年8月現在52歳・契約社員・年収290万円/年金見込み月7〜8万円台 記事を読む →
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二十二の春に、三十七通の不採用通知を受け取った。理由はどれにも書いていなかった。同じゼミの藤井は一社受かった。一社だけだったと知るのは、ずっとあとである。

二〇〇四年から二〇〇八年まで、神奈川の工場にいた。柴田さんが旋盤を教え、田村さんが図面を引いた建物だ。あの三人は名簿に載っている。私は載らない。派遣だからである。

名簿から消えるためには、まず載っていなければならない。

🌗 15. 矢部 直子(この記事の主人公) 均等法第一世代 — 23.9%の側にいた/シリーズ唯一の女性 1986年4月・均等法の施行と同月に総合職入社。同期の総合職女性は4人/到達=課長(44歳)→ 次長(56歳)/38年間、一度も辞めていない
生涯賃金 約1億7,900万円(大卒女性の生涯賃金は全国推計で男性の78.4%・差7,080万円)/2024年60歳で定年→再雇用/2026年8月現在62歳・年収480万円
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一九九〇年に一人目を産んだとき、就業規則を二回読んだ。一回目は、見落としたのだと思ったからである。産前産後の休業は書いてあった。その先が無かった。

三ヶ月で戻った。三ヶ月にした理由は、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。育児休業法が公布されたのは、その翌年だった。

制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。

名前をクリックすると、その人物の言葉が開きます。矢部直子より前の14人は、全員が男性です。このシリーズが14本かけて作った「生涯賃金」という物差しが、誰を測っていなかったかを、この記事で扱います。

この記事が置く問い

このシリーズは14本の記事で、生涯賃金という1本の軸に人を並べてきた。そして2度、その軸の限界に着いている。

サラリーマン14の大野修を書いたとき、この軸が正社員であることを前提にしていたと分かった。サラリーマン11の森田克彦を書いたとき、この軸が「いつ、どう受け取ったか」を消してしまうことが分かった。

この記事で分かるのは3つ目である。この軸は、働き続けた人しか測れない。

23.9%

1985-89年に第1子を出産した女性の就業継続率(社人研)

78.4%

大卒女性の生涯賃金(退職金含む総額・対 大卒男性・JILPT)

7,080万円

同・男性との差

4人

1986年に東亜電機へ総合職で入社した女性の人数

📎 この記事の答えは、2つの数字で出ている

①1985-89年に第1子を出産した女性のうち、出産前後で就業を継続できたのは23.9%である(国立社会保障・人口問題研究所「第16回出生動向基本調査」)。4人に1人に満たない。2015-19年には53.8%になっており、30年で2倍以上になっている。

②大卒女性の生涯賃金は、60歳までで男性より4,960万円少なく、退職金を含めた総額では男性の78.4%、差は7,080万円である(労働政策研究・研修機構「ユースフル労働統計2024」)。

この2つを並べると、この記事の構造が出る。4人に1人しか続けられなかった。そして続けた人でも、78.4%だった。

矢部直子は23.9%の側にいた。1986年から2024年まで38年、一度も辞めていない。この記事が書けるのは、その側の38年だけである。

📎 この記事が「やらないこと」

①矢部を「頑張った女性」として称揚しない。彼女自身が62歳でこう言っている。「私は、辞めなくて済む条件がたまたま揃っていた。それを努力の結果として語るのは、辞めた二人に対して正確ではない。」

②辞めた人を否定的に書かない。同期の総合職女性4人のうち2人が辞めている。1人は転勤の内示を機に、1人は出産を機に。どちらの判断も、この記事は評価しない。

③男性と対立させない。このシリーズの14人は、それぞれの場所で規則に従って働いてきた。宮田徹は55歳で死に、大野修は正社員になったことが一度もない。男性であることが有利に働いた場面と、そうでない場面の両方をこのシリーズは書いてきた。

④矢部個人の数字を、性別の証拠として使わない。彼女の生涯賃金の見込み(約1億7,900万円)は田村稔の約2億1,400万円を下回るが、入社年が16年離れており、時代の違いが入る。集団としての差を示せるのは、JILPTの78.4%のほうだけである。

そしてこの記事にも、これまでの4本と同じ結び方がある。ただし今回は、対象になる人数が最も多い。

1985-89年に第1子を出産して仕事を辞めた76.1%の人が、その後どうなったか。それを追跡した公的統計を、この記事は見つけられなかった。そしてもう1つ、課長級・部長級に占める女性の割合の長期時系列も取得できていない。矢部が課長になった2008年、女性課長が全国に何%いたかを、この記事は示せない。

サラリーマン8では早期退職者の追跡統計が無いことを、サラリーマン10では役職定年後の統計が2007年で止まっていることを、サラリーマン9では外資系の賃金調査が2020年で中止されたことを、サラリーマン11では公務員の退職手当に到達できなかったことを置いた。今回で5本目である。

まず答えから出す。大卒女性の生涯賃金は、男性の78.4%である。

⚖️ 【答え】大卒女性の生涯賃金は、男性の78.4%である

このセクションの3点

① JILPTの全国推計(2023年時点の賃金を使った仮想の生涯賃金)によれば、大卒女性の生涯賃金は大卒男性の78.4%。退職金を含めた総額の差は7,080万円である

② 矢部直子(本記事)の生涯賃金見込みは約1億7,900万円。同じ会社で同じ「次長」に到達した田村稔(1970年入社、約2億1,400万円)と比べると、矢部は田村の約83.6%、差は約3,500万円

③ ただし矢部と田村は入社年が16年違い、算出方法(本人のキャリアを年ごとに積み上げた実額とJILPTの全国仮想推計)も異なる。この2つの数字は同じ土台の上にない

区分(大卒・企業規模計・2023年)男性女性女性/男性差額
60歳まで(退職金含まず)2億5,150万円2億190万円80.3%4,960万円
退職金1,840万円1,840万円100%(同額)0円
61歳以降5,740万円3,620万円63.1%2,120万円
総額3億2,730万円2億5,650万円78.4%7,080万円

📎 解説:この記事の「答え」の出どころ

この表は、労働政策研究・研修機構(JILPT)「ユースフル労働統計2024」の生涯賃金推計から作成した。大学卒・企業規模計で、女性の生涯賃金(退職金・61歳以降の賃金を含む総額)は男性の78.4%、差額は7,080万円になる。

退職金の額(1,840万円)は男女で同額である。これは元の統計が「定年退職の男女計・勤続20年以上」の1つの額を男女双方に当てはめているためであり、退職金そのものに男女差が無いことを意味しない。差が生じているのは、60歳までの現役期間の賃金(差4,960万円)と、61歳以降の賃金(差2,120万円)である。

ここで言う「生涯賃金」は、実際に1人が一生で受け取った金額の記録ではない。2023年時点の年齢別の賃金額が、過去も将来も変わらないと仮定した場合の推計値(現在価値換算)である。学校を出てただちに就職し、定年(60歳、または引退年齢)までフルタイムの正社員を続けたと仮定している。

矢部直子と田村稔 — 次長どうしの比較

人物入社年到達役職生涯賃金(見込み)
矢部直子(本記事)1986年次長(56歳)約1億7,900万円
田村稔(#1)1970年次長(50歳)約2億1,400万円
16年約3,500万円(矢部は田村の約83.6%)

🚫 この記事の数値が前提としていること

・矢部・田村の生涯賃金は、それぞれの記事内で1年ごとの年収を積み上げた「本人のキャリアに基づく実額(見込み含む)」である。一方、JILPTの78.4%・7,080万円は2023年時点の賃金を全員に当てはめた「全国仮想推計」であり、算出方法が異なる。両者を同じ数字として足し引きしない

・矢部(1986年入社)と田村(1970年入社)は入社年が16年違う。この16年の間に日本の賃金水準・雇用慣行は大きく変わっており、差の3,500万円を「男女差」としてそのまま解釈することはできない

・矢部個人の1億7,900万円は、38年間一度も離職しなかった前提の見込み額である。国立社会保障・人口問題研究所の調査では、矢部と同じ1985-89年に第1子を出産した女性のうち、就業を継続できたのは23.9%にとどまる(Section 7で詳しく見る)。矢部はこの23.9%の側にいた人物の見込み額であり、76.1%側の女性の生涯賃金を示す一次統計は今回取得できていない

→ 次のSection 3では、矢部の年収を1986年の入社から2026年の現在まで、表で追う。2回、線が水平になる年がある。

💴 年収40年 — 2回だけ、線が水平になる

このセクションの3点

① 矢部の年収は1986年の入社時300万円から、2020年の次長昇進後の680万円(生涯ピーク)まで、ほぼ右肩上がりである

② 1990年(第1子)と1993年(第2子)の出産の年だけ、線が水平になる。1990年は育児休業制度そのものが無く、1993年は制度はあったが無給の期間があった

③ 生涯賃金の見込みは約1億7,900万円。次長まで到達した田村稔(約2億1,400万円)と比べると約3,500万円少なく、ピーク年収も680万円対900万円で低い

西暦年齢役職年収備考
198622歳平社員300万円入社。同期の総合職女性4人の1人
199026歳平社員300万円(前年から変わらず)第1子出産。育児休業制度が無く、産前産後の欠勤は無給
199329歳主任350万円(伸びが小さい)第2子出産。育児休業法(1992年施行)による育休はあったが、この間は無給
199632歳主任400万円
200036歳係長460万円
200844歳課長560万円課長昇進
201450歳課長620万円
202056歳次長680万円(生涯ピーク)次長昇進
202460歳定年→再雇用680万円→480万円定年退職。再雇用で年収が下がる
202662歳再雇用480万円(現在)

この年収表を折れ線で描くと、1990年と1993年の2箇所だけ、線が水平になる。他の年はすべて、前年より上がっている。

2つの水平は、同じ「出産」でも中身が違う。1990年は、休むための制度そのものが存在しなかった年である。1993年は、育児休業法(1992年4月施行とされる)による休業の権利はあったが、その期間は無給だった。

📎 解説:1993年の育休に、給付金は出ていたか

育児休業法(平成3年法律第76号)は1991年5月15日に公布された。施行日は一般に1992年4月1日とされるが、本記事はこの施行日を条文で一次確認できていない。

育児休業中の所得を補う「育児休業給付金」が何年から始まったのかについても、本記事では一次資料を確認できておらず未確認である。そのため、1993年に矢部が制度上の育休を取得できたとしても、その期間に給付金があったかどうかは断定しない。年収表の「無給の期間があった」という記述は、給付金の有無にかかわらず、当時の一般的な制度水準(休業中は原則無給)を前提にしたものである。

矢部直子と田村稔 — 40年と43年

人物入社生涯ピーク年収到達役職生涯賃金(見込み)
矢部直子(本記事)1986年(22歳)680万円(56歳・次長)次長約1億7,900万円
田村稔(#1)1970年(22歳)900万円(50歳・次長)次長約2億1,400万円

📎 解説:同じ「次長」でも、ピークも到達年齢も違う

矢部と田村は、同じ会社で同じ「次長」という役職に到達している。だが矢部が次長になったのは56歳、田村は50歳である。ピーク年収も、矢部680万円に対し田村900万円で、220万円の差がある。

この差を、そのまま「出産で2回休んだから」に帰着させることはできない。矢部と田村は入社年が16年違い、時代の賃金水準そのものが異なる。2人の生涯賃金の差(約3,500万円)を人物比較としてどう読むかは、Section 12で全国統計と合わせて扱う。

40年で、線が水平になったのは2回だけ。
1990年は、休む制度そのものが無かった。
1993年は、制度はあったが、無給だった。

→ 次のSection 4では、矢部直子という人物の設定と、同期の総合職女性4人を見る。

👤 矢部直子という人物と、同期4人という総合職

このセクションの3点

① 矢部直子は1964年生まれ。1986年4月、男女雇用機会均等法の施行と同じ月に、東亜電機に総合職として入社した。同期の総合職女性は4人である

② 厚労省の調査(平成23年時点)によれば、全国の総合職採用者に占める女性の割合は11.6%、既に在籍している総合職に占める女性の割合は5.6%。総合職の中で女性は少数派として設計されていた

③ 育児休業法は1991年5月15日に公布された。施行日は一般に1992年4月1日とされるが、本記事はこの施行日を条文で一次確認できていない

項目内容
氏名矢部 直子(やべ なおこ)/モデル人物・仮名
生年1964年(昭和39年)
入社1986年4月・東亜電機・総合職・同期の総合職女性は4人
出産1990年・26歳で第1子。1993年・29歳で第2子
到達2008年・44歳で課長。2020年・56歳で次長
2026年8月現在62歳・再雇用・年収480万円(2024年60歳で定年、再雇用に切り替え)
この先65歳前後まで再雇用の見込み。通算約40年

「同期4人」という数字は、全国的にどの位置にあるか

項目全国の値調査年
総合職採用予定者に占める女性の割合11.6%平成23年
既に在籍している総合職に占める女性の割合5.6%平成22年時点
総合職への応募者に対する採用割合(女性)1.6%平成23年(男性は5.8%)
企業の女性総合職比率の分布「0%超〜10%」の企業が68.5%で最多平成22-23年

📎 解説:矢部の「4人」は、特別に少ないわけではない

厚生労働省「コース別雇用管理制度の実施・指導状況」(平成22年4月〜23年3月実施)によれば、総合職に占める女性の割合は全国平均で5.6%、女性総合職比率が「0%超〜10%」に収まる企業が68.5%で最も多い。

矢部の同期に総合職女性が4人だったという設定は、この分布のちょうど典型的な範囲に収まる。ただし、この調査自体は平成22〜23年(2010〜2011年)時点の実施・指導状況調査であり、1986年(均等法施行年)当時の総合職女性比率を直接示す一次統計は、今回のリサーチで確認できていない(未取得)。矢部の「同期4人」は物語上の設定であり、この全国統計と同じ年次の実測値ではない。

均等法と育児休業法の年表

年月出来事矢部の状況
1986年4月男女雇用機会均等法 施行22歳・総合職として入社
1990年(この時点で育児休業を定める法律は無い)26歳・第1子出産。産前産後の欠勤は無給
1991年5月15日育児休業等に関する法律(育児休業法)公布(法律第76号)
1992年4月1日※育児休業法 施行(一般的にこの日とされる)
1993年育児休業法 施行後29歳・第2子出産。育休は取得できたが、この期間は無給

🚫 この年表で、一次確認が取れていない箇所

・育児休業法の施行日(表中「1992年4月1日※」)は、公布日(1991年5月15日)については衆議院の制定法律情報で一次確認できたが、施行日そのものを定める条文(附則)は本記事では確認できていない。一般に知られている日付として記載したのみである

・育児休業中の所得を補う「育児休業給付金」制度が何年から始まったのかについても、本記事では一次資料を確認できておらず未確認である

→ 次のSection 5では、1986年4月の入社式そのものを見る。均等法が施行された、その月である。

📜 1986年4月 — 法律の施行と、同じ月に入社した

このセクションの3点

① 1986年4月1日、男女雇用機会均等法の施行と同じ月に、総合職として東亜電機に入社した。総合職の女性は同期4人だった

② 矢部の代の男性の人数は本記事では確認できていないが、前後の代(1985年入社1,180人・1988年入社1,240人)に近い規模だったと考えられる。総合職女性4人は、その数百人の中に埋もれる人数である

③ 均等法は総合職として採用される道を開いた。ただし、産んだ後に元の仕事へ戻ることを保障する条文は、この法律には無い

1986年4月1日。入社式。

矢部 直子1986年4月・二十二歳(振り返っているのは2026年・六十二歳の私)

入社式の朝、新聞に法律の名前が載っていた。男女雇用機会均等法。その日に施行される、と書いてあった。

私はその朝、自分の入社日と法律の施行日が同じだということに、意味を感じていた。法律ができた年に、法律ができた月に入る。そう思うと、少し誇らしかった。

会場は男性がほとんどだった。総合職の女性は、私を入れて四人。四人は、会場のどこにいてもすぐ分かる人数だった。

式のあと、人事の人が「これからは女性も総合職で活躍できる時代です」と言った。その言葉を、当時の私は疑わなかった。

📎 解説:均等法は何を求めたか

男女雇用機会均等法は、事業主に対し、募集・採用・配置・昇進など雇用管理の各段階で性別を理由とした差別的取扱いを解消するよう求めるものだった。矢部が総合職として採用されたのは、この法律が求めた変化の入り口に位置する採用である。

注: この法律の各条項が当時「禁止規定」だったか「努力義務」だったかという詳細な条文比較は、本記事では一次資料で確認できていない。ここでは1986年4月1日という施行日と、矢部の入社日が同じ月であるという事実のみを基軸にする。

男性の同期は、何人だったか

人物入社年同期の人数(規模)
田村稔(#1)1970年820人
森康彦(#4)1980年940人
高梨実(#7)1985年1,180人
矢部直子(本記事)1986年本記事では未確認(前後の代に近いと推定)
黒木洋一・相原修司宮田徹1988年1,240人
藤井亮太(#12)1996年290人

📎 解説:総合職女性「4人」が置かれた規模

矢部の同期における男性の人数を示す一次資料は、本記事では確認できていない(未取得)。ただし前年に入社した高梨実の代が1,180人、2年後に入社した黒木・相原・宮田の代が1,240人であることから、1986年入社の同期も同程度の規模だったと推定できる。

総合職女性4人という数字は、この数百人規模の代の中にある。全国的な総合職女性比率(総合職に占める女性5.6%、平成22年時点)についてはSection4で既に見た。ここで置くのは、その少数派が、具体的に何百人という同期集団の中にいたか、という規模の感覚である。

後年、法律が保証していなかったと分かること

2026年8月・六十二歳

当時の私には言えなかった。今の私には言える。均等法は、総合職として採用される扉を開けた。それは事実である。

ただし、その扉の先で、産んだ後に元の仕事へ戻ることまでは、この法律は何も書いていなかった。採用の入口を均等にすることと、その後のキャリアを均等に続けられることは、別の問題だった。

それが具体的にどういう形で私の前に現れたかは、次の章で書く。1990年、私は二十六歳で、この違いに直面する。

均等法は、扉を開けた。
扉の先で何が起こるかまでは、書いていなかった。

→ 次のSection 6では、1990年、26歳で第1子を産んだときに何が起きたかを見る。制度がまだ無い年である。

👶 1990年 — 制度が無い年に、産んだ

このセクションの3点

① 1990年、26歳で第1子を産んだ。育児休業法の公布は翌1991年5月15日なので、このとき制度は無い。

② 産前産後の休業は労働基準法にあった。その先の「復帰までの期間」を保障する仕組みが無かった。

③ 彼女は3ヶ月で戻った。3ヶ月にした理由は、それ以上休む根拠になる制度が無かったからである。

1990年の春。二十六歳。

矢部 直子1990年春・二十六歳(振り返っているのは2026年・六十二歳の私)

妊娠が分かって、最初にしたのは、就業規則を読むことだった。総務に行って、冊子を借りた。

産前産後の休業は書いてあった。労働基準法にあるからである。その先が無かった。復帰するまでのあいだ、席がどうなるかを書いた条文が、どこにも無い。

無いということが分かるまで、二回読んだ。一回目は見落としたのだと思った。二回目で、書いていないのだと分かった。

冊子を返しに行ったとき、総務の人が、いつまで休まれますか、と聞いた。私は、まだ決めていません、と答えた。決めるための材料が、その冊子には無かったからである。

📎 解説:1990年に、育児休業の制度は無い

育児休業法(育児休業等に関する法律)の公布は1991年5月15日である。矢部が第1子を出産した1990年の時点で、この法律はまだ成立していない。

労働基準法に基づく産前産後の休業は、それ以前から存在した。ただしこれは出産そのものに伴う休業であり、その後の育児期間に職を離れ、復帰することを保障する仕組みではない。

したがって1990年に出産した女性が「いつまで休めるか」は、法律ではなく、勤め先の規程か、上司との個別の話し合いで決まった。規程が無い会社では、話し合いだけになる。

注: 育児休業法の施行日(1992年4月1日とされる)については、本記事は一次資料で確認できていない。公布日1991年5月15日のみ確認済みである。したがって本記事は「1990年時点で制度が無かった」という範囲でのみ記述する。

1990年8月。出産。

1990年8月・二十六歳

八月に産んだ。産休は取れた。それは制度がある。

問題はその先だった。私は三ヶ月で戻ることにした。誰かに三ヶ月と言われたわけではない。三ヶ月以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。

上司には、三ヶ月で戻ります、と言った。上司は、そうか、と言った。あの「そうか」は、了解でも歓迎でもなかった。判断の材料をどちらも持っていない者どうしの返事である。

今の私には言える。あの三ヶ月は、私が選んだ長さではない。制度が無いときに、人が自分で決めていい範囲がそこまでだった、というだけである。

1990年11月・復帰の日

十一月に戻った。席はあった。担当は変わっていた。

渡されたのは、前より小さい仕事だった。悪意は無い。三ヶ月いなかった人間に、期限のある案件は渡せない。それは私が逆の立場でもそうする。

ただ、その日から一年ほど、私は同じ種類の仕事をしていた。戻すという判断をする人が、どこにもいなかったからである。外した人はいる。戻す人はいない。

当時の私には言えなかった。今なら言える。制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。

📎 解説:この年に産んだ女性のうち、続けられたのは23.9%である

国立社会保障・人口問題研究所「第16回出生動向基本調査」によれば、1985〜89年に第1子を出産した女性のうち、出産前後で就業を継続できたのは23.9%である。4人に1人に満たない。

矢部が産んだ1990年は、この区分のすぐ次にあたる。制度が無い時期に産んだ世代であることは変わらない。

同じ調査の最新の区分では、2015〜19年に第1子を出産した女性の就業継続率は53.8%である。30年で23.9%から53.8%へ、2倍以上になっている。

この記事の主人公は、23.9%の側にいた。そして重要なのは次の点である。残りの76.1%がその後どうなったかを、この記事は追跡できない。公的統計が個人を追っていないからである。第13章でこの問題に戻る。

23.9%

1985-89年に第1子を出産した女性の就業継続率

53.8%

2015-19年の同(30年で2倍以上)

1991年5月15日

育児休業法の公布日(矢部の出産の翌年)

3ヶ月

矢部が休んだ期間

📎 解説:「3ヶ月」という長さが何で決まったか

矢部が3ヶ月で復帰したのは、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠になる制度が無かったからである。

制度が無い状態では、休む長さは本人と上司の交渉で決まる。交渉には基準が要る。基準が無ければ、交渉は「どこまでなら許されそうか」という読み合いになる。読み合いで決まる長さは、たいてい短いほうに寄る。

このシリーズは、制度があっても機能しない場面をすでに書いている。高梨実は2008年に3ヶ月休職した。制度は全部あった。復職もできた。ただ、戻る席が無かった。期限の書かれない出向が7年続き、53歳で自己都合退職した。

矢部の1990年と、高梨の2008年は、18年離れていて同じ形をしている。休むことは認められる。戻すことについて、誰も責任を負っていない。

制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。
休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。

4人に1人に満たない。その23.9%と、残りの76.1%を、次の章で数字で見る。

📊 23.9% — 続けられた人と、続けられなかった人

このセクションの3点

① 1985-89年に第1子を出産した女性の就業継続率は23.9%。2015-19年は53.8%で、30年で2倍以上になっている。

② 矢部直子は23.9%の側にいた。この記事が書けるのは、その側の30年だけである。

③ 残りの76.1%がその後どうなったかを示す公的なデータを、この記事は持っていない。

第1子の出生年出産前後の就業継続率その時期の制度
1985-89年23.9%育児休業法の公布前(1991年5月15日公布)
1990-94年取得済みの数値は本記事の research に記載育休法の公布・施行をまたぐ
2015-19年53.8%育児・介護休業法が整備された後

📎 解説:23.9%という数字の読み方

国立社会保障・人口問題研究所「第16回出生動向基本調査」によれば、1985〜89年に第1子を出産した女性のうち、出産前後で就業を継続できたのは23.9%である。

この数字の意味を正確に置く。これは「辞めたかった人が辞めた割合」ではない。調査は継続の有無を集計しているのであって、辞めた理由の内訳をこの数字は示していない。

同時に、これは「辞めさせられた割合」でもない。解雇されたのか、制度が無くて続けられなかったのか、自分で選んだのかを、この数字は区別しない。

この記事が言えるのは1つだけである。1980年代後半に第1子を産んだ女性のうち、4人に1人に満たない人しか、出産の前後で仕事を続けていなかった。

そして2015〜19年には53.8%になっている。30年で2倍以上である。制度の整備がこの変化にどれだけ寄与したかは、この記事には切り分けられない。

同期の総合職4人のうち

矢部 直子1990年代前半・二十代後半(振り返っているのは2026年・六十二歳の私)

一九八六年に総合職で入った女性は、私を入れて四人だった。四人とも、名前を覚えている。

一人は結婚して辞めた。転勤の内示が出て、相手の仕事の都合で行けなかった。断るという選択肢が、当時の総合職には無いことになっていた。

一人は産んで辞めた。私より一年早い。その人が辞めたとき、私はまだ産んでいない。だから何も言えなかった。言えることが無かった。

一人は、いまも続けている。別の会社に移ったが、働いている。

四人のうち、二人が残った。五割である。全国の23.9%より高い。高い理由を、私は説明できない。

📎 解説:4人という母数では、何も検証できない

矢部の同期の総合職女性は4人で、そのうち2人が続けた。割合にすれば50%だが、この数字に統計的な意味は無い。母数が4では、1人の増減で25ポイント動く。

この記事がこれを書くのは、割合を示すためではない。1986年に総合職として採用された女性の人数そのものが、それほど少なかったことを示すためである。

そして重要な点がある。辞めた2人がその後どうなったかを、この記事は書けない。矢部が知っているのは「結婚して辞めた」「産んで辞めた」という、辞めた時点の事情だけである。

再就職したのか、別の形で働いているのか、働いていないのか。連絡が途切れている。そして全国の統計も、その先を追っていない。

この記事が書けない76.1%

📎 解説:辞めた人は、次の統計に現れない

このシリーズは14人の男性を、生涯賃金という1本の軸で並べてきた。その軸に乗るには、働き続けている必要がある。

矢部直子は23.9%の側にいたので、この軸に乗る。1986年から2024年まで38年、一度も辞めていない。だから生涯賃金という数字が計算できる。

76.1%の側にいた人は、この軸に乗らない。正確には、乗る形のデータが存在しない。出産で辞めた時点で、その人の職業人生は「継続していない」として集計され、その後は別の統計(労働力調査の非労働力人口、あるいはパート・アルバイトとしての再就業)の中に散る。同一人物として追跡されない。

このシリーズはこれまで4本、同じ形の問題に着いてきた。早期退職者の追跡統計が無い役職定年後の統計が2007年で止まっている外資系の賃金調査が2020年で中止された公務員の退職手当に到達できない

今回が5本目である。そして今回は、対象になる人数が最も多い。1985-89年に第1子を出産した女性の76.1%にあたる。

矢部が23.9%に入れた理由を、この記事は説明できない

2026年8月・六十二歳

続けられた理由を聞かれることがある。意志が強かったからでしょう、と言われる。

違う。私は辞めた二人より意志が強かったわけではない。あの二人が辞めたときの事情を、私は経験していない。転勤の内示は私には出なかった。私の子は、たまたま丈夫だった。

三十六年たって、私が言えるのはこれだけである。私は、辞めなくて済む条件がたまたま揃っていた。

それを努力の結果として語るのは、辞めた二人に対して正確ではない。正確でないことを、私は言いたくない。

4人に1人に満たない人だけが、続けられた。
続けられなかった4人に3人が、その後どうなったかを、社会は数えていない。

3年後、2人目を産む。今度は、制度があった。

📋 1993年 — 2人目のときには、制度があった

このセクションの3点

① 1993年、29歳で第2子を出産した。前年に施行されたとされる育児休業法により、今度は休む期間について制度上の根拠があった

② 1990年との最大の違いは、休む長さを本人と上司の交渉で決めなくてよくなったことである。無給の期間があったかどうかは、育児休業給付金の開始年が本記事では未確認のため断定しない(Section3で既述の通り)

③ 制度があっても、戻ってきた先の仕事が以前と同じである保証は無かった。この点は1990年と変わらない

1993年春。二人目。

矢部 直子1993年春・二十九歳(振り返っているのは2026年・六十二歳の私)

二人目の妊娠が分かったとき、また就業規則を借りた。三年前と同じ冊子を、また総務の窓口で借りた。

今度は違った。「育児休業」という項目が、その冊子に増えていた。何ヶ月まで取れるか、復帰後の扱いはどうなるか、書いてある条文があった。

総務の人に何ヶ月休むか聞かれたとき、私は答えを持っていた。三年前は「まだ決めていません」だった。今度は、規程に書かれた期間の中から、自分で選んだ。

選ぶことと、決めていいことは、三年前には両方無かった。今度は両方あった。

📎 解説:1990年と1993年で、変わったもの・変わらなかったもの

変わったもの: 休む長さの決め方。1990年は、休む長さを保障する条文が無く、本人と上司の交渉(実質的には読み合い)で決まった。1993年は、育児休業法(平成3年法律第76号、1991年5月15日公布)による規程があり、矢部は交渉ではなく、規程の範囲内から選ぶことができた。

断定しないもの: 無給期間の有無。育児休業中の所得を補う「育児休業給付金」が何年から始まったのかは、本記事では一次資料を確認できておらず未確認である(Section3で既述の通り)。したがって、1993年の育休期間に無給の部分があったかどうかを、本記事は断定しない。

注: 育児休業法の施行日(一般に1992年4月1日とされる)についても、本記事は条文(附則)そのものを一次確認できていない。公布日(1991年5月15日)のみ一次確認済みである。

1991年5月15日

育児休業法の公布日(一次確認済み)

2人目

1993年・29歳で出産。制度がある年

未確認

育児休業給付金の開始年(本記事では特定できず)

復帰した先に、あったもの・無かったもの

1993年・二十九歳

休む長さは、規程どおりだった。そこは交渉ではなかった。戻る日も、あらかじめ決めて総務に伝えてある日だった。

戻った日、席はあった。担当は、また変わっていた。三年前と同じことが起きた。

渡されたのは、以前より範囲の狭い仕事だった。今度も、悪意は無い。休んでいた期間、案件は動いていて、誰かがその案件を引き継いでいる。戻ってきた人間に、動いている案件を渡し直す判断を、誰もしなかった。

当時の私には言えなかった。今の私には言える。制度は「休む権利」を作った。「元の仕事に戻る権利」は、まだ作られていなかった。

📎 解説:育休は「休む権利」であって「元の仕事に戻る権利」ではなかった

1993年の矢部が経験したのは、1990年と同じ構造の後半部分である。休む期間そのものは制度化された。復帰後にどの仕事を渡すかについては、規程の対象外だった。

このシリーズは、この構造を別の人物でも書いている。高梨実は2008年に3ヶ月の休職から復職したが、原職には戻れなかった。休職制度も傷病手当金もあった。復職の仕組みもあった。ただし「元の部署・元の仕事に戻す」ことを保障する仕組みは無かった。

矢部の1990年・1993年と、高梨の2008年は、休む理由も休む期間の長さも違う。だが「戻す」段になると同じ形になる。制度が「休むこと」を保障しても、「戻すこと」を保障するとは限らない。

休む長さを、交渉しなくてよくなった。
戻る先が以前と同じかどうかは、まだ誰も決めていなかった。

→ 次のSection 9では、1996年から2020年まで、矢部が課長・次長になるまでの24年を見る。

🪜 1996-2020 — 44歳で課長、56歳で次長

このセクションの3点

① 矢部は2008年、44歳で課長になった。同じ会社で課長になった田村稔・藤井亮太はどちらも42歳。矢部は2年遅い

② 一方、相原修司が課長になったのは52歳。田村・藤井より10年遅い。理由は本人の能力ではなく、上に人数の多い代が詰まっていたことである(Section12・/wiki/salaryman-life-10)。矢部の2年は、相原の10年とは種類が違う規模である

③ 矢部の2年の遅れが1990年・1993年の出産によるものかどうかを、この記事は断定しない。そして、矢部が課長になった2008年に女性課長が全国に何%いたかを、この記事は示せない(未取得)

1996年、32歳。まだ主任のまま。

矢部 直子1996年・三十二歳(振り返っているのは2026年・六十二歳の私)

1993年に戻ってから、私は三年ほど主任のままだった。下の子が保育園に入るまで、大きい案件を持たない仕事が続いた。

2000年、三十六歳で係長になった。このころには、二人とも小学生になっていた。渡される仕事の範囲が、少しずつ元に戻っていくのを感じた。

係長から課長までは、八年かかった。その八年のあいだ、出産はしていない。子どもが育っていく時間と、私の仕事の範囲が戻っていく時間は、同じ速さで進んでいた。

西暦年齢役職
198622歳平社員
199632歳主任
200036歳係長
200844歳課長
202056歳次長

2008年、44歳。課長になった年。

2008年・四十四歳

課長になったと聞いたとき、大きな感情は無かった。ようやく、というのが一番近い。喜びでも、悔しさでもない。

同じ社内に、同期入社ではないが年齢の近い男性が何人もいた。誰が何歳で課長になったかは、当時は気にしていなかった。今、この記事を書くために初めて並べて見た。

人物入社年課長になった年齢到達年
矢部直子(本記事)1986年44歳2008年
田村稔(#1)1970年42歳
藤井亮太(#12)1996年42歳2016年
相原修司(#10)1988年52歳2018年

📎 解説:矢部の「2年」と相原の「10年」は、違う種類の遅れである

田村・藤井は42歳で課長になった。矢部は44歳、2年遅い。相原は52歳、10年遅い。

相原の10年の遅れについては、理由が既に分かっている。相原の代(1988年入社1,240人)はこのシリーズで最多の代であり、その上の代(1985年入社1,180人)も人数が多かった。前が詰まっていて自分の代も多い、という構造がサラリーマン10で書かれている。相原の遅れは本人の能力ではなく、代の人数によるものである。

矢部の2年については、同じ説明を適用できない。矢部の代(1986年入社)の男性の人数を示す一次資料を、本記事では確認できていない(Section5で既述)。したがって「代が詰まっていたから遅れた」のか、「別の理由で遅れた」のかを比較する物差しが無い。

矢部の2年が、1990年(3ヶ月の産休)・1993年(育休)の出産による中断によるものかどうかを、この記事は断定しない。断定するためには、同期内での人事考課の記録や、代の男性人数といった、本記事が持っていない材料が必要になる。

2020年、56歳。次長になった年。

2020年・五十六歳

次長になったのは、下の子が三十歳を超えたころだった。子育てと呼べる期間は、もう終わっていた。

次長が生涯のピークだと、当時から分かっていた。その先に部長の椅子があることを、期待していなかった。期待していなかったことと、悔しいことは、私の中では別である。

🚫 この章が示せないもの

・矢部が課長になった2008年、女性課長が全国にどれだけいたかを、この記事は示せない。課長級・部長級の女性比率を1990年代から2024年まで連続的に追える一次統計の時系列を、今回のリサーチでは見つけられなかった

📎 解説:物差しが無いまま、2年差だけが残る

厚生労働省の統計は、役職別の賃金を性別に分けて集計している。本来はそこから女性管理職比率を再構成できる可能性があるが、本記事のリサーチでは時間内に完了できなかった(項目3・未取得)。

したがって、矢部が44歳で課長になったことが、2008年時点の女性としては早いのか遅いのかを、この記事は判定できない。この点は、全国の男女間賃金格差や離職率のデータと合わせて、Section12でもう一度扱う。

田村と藤井は42歳で課長になった。矢部は44歳である。
その2年が何によるものかを、この記事は決めない。

→ 次のSection 10では、1986年に総合職で入った女性4人が、その後どうなったかを見る。

👥 同期4人のその後 — 残ったのは何人か

このセクションの3点

① 1986年に総合職で入った女性は矢部を入れて4人。そのうち2人が残った。全国でみる入社10年後の定着状況(女性65.1%離職・男性29.2%離職、平成22-23年時点調査)とは測定時点も母数も違うため、単純には比較できない

② 4人という母数では、この「50%」という数字に統計的な意味は無い。1人動けば25ポイント動く母数である

③ 辞めた2人がその後どうなったかを、矢部は知らない。全国統計もその後を追跡していない

4人のうち、2人が残った。

同期退社・継続時期その後
1人結婚のため退社転勤の内示が出た年矢部は知らない(連絡が途切れている)
1人出産のため退社矢部より1年早い矢部は知らない(連絡が途切れている)
1人転職して継続別の会社に移って、いまも働いている
矢部直子(本記事)継続1986〜2024年・38年本記事の対象

📎 解説:4人中2人、50%という数字に意味はあるか

矢部の代の総合職女性4人のうち、2人が継続し、2人が離職した。比率にすれば50%だが、母数が4では統計的な意味を持たない。1人動けば25ポイント動く母数である。

この記事がこの表を書く理由は、比率を検証するためではない。1986年に総合職として採用された女性の絶対数が、そもそもこの規模しかなかったことを示すためである。均等法施行の年に入った総合職女性は、全国的にも少数だった(Section4・Section5で既述)。

全国的にはどうか — 入社10年後、女性の65.1%が離職している

65.1%

10年前入社の女性総合職の離職率

29.2%

同・男性総合職の離職率

50%

矢部の同期4人での離職率(母数4)

📎 解説:測っている時間も母数も違う、2つの数字

厚生労働省「コース別雇用管理制度の実施・指導状況」(平成22年4月〜23年3月実施)によれば、調査時点から10年前に採用された総合職女性の離職率は65.1%(在籍率34.9%)、男性は29.2%(在籍率70.8%)である。

この調査は平成22〜23年(2010〜2011年)時点の実施・指導状況調査であり、矢部が入社した1986年世代を直接調査したものではない。調査対象も129社(コース別雇用管理制度を導入している企業のみ)に限られる。

矢部の代でみれば、4人中2人(50%)が継続しており、全国の在籍率34.9%より高い数値になる。この差が何によるものかを、この記事は説明できない。母数4という限界と、比較対象の測定時点が違うという限界(全国は「10年後」、矢部の代は「38年後」)の、両方があるためである。この点はSection12で全国の構造とあわせてもう一度扱う。

辞めた2人が、その後どうなったか。

🚫 この記事が知らないこと

・転勤の内示を受けて結婚退社した1人が、その後働いたのか、働いていないのかを、矢部は知らない。連絡が途切れている

・矢部より1年早く出産のため退社した1人についても同様である。矢部が知っているのは退社した時点の事情だけで、その後38年間の情報を矢部は持っていない

・全国統計も、離職した総合職女性のその後を追跡していない(Section7で既述)。同じ職業人生を、公的統計は継続している人だけを軸にして記録している

矢部 直子2026年8月・六十二歳

四人のうち二人と、もう何年も会っていない。会おうとしなかったわけではない。転勤や引っ越しで住む場所が離れて、年賀状も、いつからか来なくなった。それだけである。

当時の私には言えなかった。今の私には言える。残った理由も、離れた理由も、能力の差ではない。結婚の相手の仕事、出産の時期、勤め先が変わるタイミング。そういう、本人の力の及ばない条件の重なりである。

四人のうち、今でも名前と顔をはっきり思い出せるのは全員である。その先の38年を思い出せるのは、自分自身だけである。

同期4人、残ったのは2人。
全国は10年で65.1%が離職している。矢部の代は38年で50%が離職した。
この2つの数字は、測っている時間も母数も違う。単純には並べられない。

→ 次のSection 11では、2026年8月現在、62歳・再雇用の矢部を見る。

📍 2026年8月・62歳 — 再雇用、年収480万円

このセクションの3点

① 2024年に60歳で定年を迎え、いまは再雇用で働いている。2026年8月現在62歳、年収480万円。

② 1986年4月から2024年3月まで、38年間、一度も辞めていない。

③ このシリーズで、女性でこの表に乗るのは彼女が初めてである。そして今のところ、彼女だけである。

2024年3月。六十歳。定年。

矢部 直子2024年3月・六十歳(振り返っているのは2026年・六十二歳の私)

定年の日、部の若い人が花束をくれた。三十代の女性で、二人目の育休から戻ってきたばかりだった。

その人が、矢部さんの代の方がいたから、と言った。私は、そうかしら、と答えた。

そう答えたのは謙遜ではない。私がいたから制度ができたわけではないからである。育児休業法は一九九一年に公布された。私が一人目を産んだ翌年である。私が何かしたから翌年に法律ができた、ということはない。

ただ、その日の帰りに一つだけ考えた。あのとき同期で辞めた二人が、この花束を見たらどう思うだろうかと。

二人の連絡先を、私はもう持っていない。

📎 解説:38年という長さが、この表で持つ意味

矢部は1986年4月から2024年3月まで、38年間、一度も辞めていない。1990年と1993年の出産の前後も、休んだあと戻っている。

この「一度も辞めていない」という条件が、このシリーズの生涯賃金という軸に乗るための要件である。サラリーマン11で書いたとおり、生涯賃金は「高さ×長さ」で決まる。長さが途切れると、そもそも1本の線として集計されない。

国立社会保障・人口問題研究所の調査によれば、1985-89年に第1子を出産した女性のうち、出産前後で就業を継続できたのは23.9%である。矢部はその側にいた。

残りの76.1%は、この軸に乗らない。乗る形のデータが存在しないからである。

2024年4月から。再雇用。

2024年4月・六十歳

四月から再雇用になった。年収は四百八十万である。次長だった年の半分より少し多い程度になった。

仕事は、後任の相談に乗ることと、過去の案件の記録を整えることである。決める側ではなくなった。それは制度どおりで、事前に説明も受けている。

この二年で一つ、思うようになったことがある。私が三十八年やってきたことのうち、記録に残っているのは案件の書類だけである。一九九〇年に三ヶ月で戻ると決めたときの判断も、そのあと一年、小さい仕事しか回ってこなかったことも、どこにも書いていない。

当時の私には言えなかった。今なら言える。制度は記録に残る。制度が無かった時期に人が何をしたかは、残らない。

📎 解説:定年後の減り方は、このシリーズの他の人物と同じ形である

矢部の年収は次長時代から再雇用の480万円へ下がっている。仕事の中身が変わり、身分が変わったためである。

このシリーズは同じ形をすでに3人分書いている。森田克彦は2012年に60歳で定年を迎え、再任用で年収が約1,030万円から約450万円へ、半分以下になった。仕事の中身はほとんど変わっていない。相原修司は2021年に55歳の役職定年で810万円から620万円へ下がり、席は変わらなかった。

年齢によって同じ仕事の値段が変わるという構造は、性別とは無関係に働いている。矢部が62歳で受け取っている480万円は、この構造の結果であって、女性であることの結果ではない。

男女の差が効いているのは、その手前の38年のほうである。第12章で扱ったとおり、男女間の賃金格差は20代の95.8%から50代後半の65.9%へ、29.9ポイント開く。

同期のこと

2026年8月・六十二歳

一九八六年に総合職で入った女性は四人だった。いま連絡が取れるのは一人である。別の会社に移って、まだ働いている。年に一度、電話で話す。

辞めた二人のことは、時々考える。あの二人が辞めたとき、私は何も言わなかった。言えることが無かった。一人が辞めた年、私はまだ産んでいなかったからである。

いま六十二になって、私が言えることが一つある。あの二人と私を分けたのは、意志の強さではない。転勤の内示は私には出なかった。私の子は、たまたま丈夫だった。

それを努力の結果として語るのは、正確ではない。正確でないことを、私は言いたくない。三十六年たっても、そこは変わらない。

<strong>矢部直子(この記事)</strong>同期の総合職女性3人
1986年4月総合職として入社3人とも同じ日に入社
その後38年、一度も辞めていない1人は転勤の内示を機に結婚して退職/1人は出産を機に退職(矢部より1年早い)/1人は別の会社へ移り、就業を継続
2026年62歳・再雇用・年収480万円連絡が取れるのは1人だけ
この記事が書けること38年分の年収と役職辞めた2人のその後は、何も分からない

制度は記録に残る。
制度が無かった時期に人が何をしたかは、残らない。

次の章で、男女の差がどこで生まれるのかを数字で解体する。20代95.8%、50代後半65.9%。

🧮 制度 — 格差はどこで生まれるのか。20代95.8%、50代後半65.9%

このセクションの3点

① 男女間の賃金格差は、20代ではほとんど無い(女性は男性の95.8%)。差が開くのは40代以降で、55-59歳では65.9%まで下がる。若いうちの平等と、中高年の格差は同じ会社の中で同時に存在する

② 入社10年後の離職率は、女性65.1%・男性29.2%(平成22-23年時点調査)。矢部が入社した1986年のデータではないが、総合職女性の定着がどれだけ難しいかを示す唯一の一次統計である

③ 矢部が課長になった2008年、女性課長が全国に何%いたかを、この記事は示せない。時系列で女性管理職比率を追える一次統計を、今回のリサーチでは見つけられなかった

① 賃金格差はどこで生まれるか — 年齢階級別

年齢階級男性(千円)女性(千円)女性/男性
20-24歳229.3219.695.8%
25-29歳267.8245.891.8%
30-34歳302.1259.685.9%
35-39歳337.9270.180.0%
40-44歳371.8276.874.4%
45-49歳396.9281.771.0%
50-54歳417.7285.968.4%
55-59歳427.4281.765.9%
60-64歳334.2246.673.8%
年齢計350.9262.674.8%

📎 解説:20代では差が無く、40代から開く

厚生労働省「賃金構造基本統計調査」令和5年(2023年)によれば、20-24歳の男女間賃金格差はほぼ無い(女性は男性の95.8%)。この時点では、男女の賃金はほとんど並んでいる。

差が広がるのは、そこから先である。30代で85.9%、40代前半で74.4%、55-59歳では65.9%まで下がる。矢部が44歳で課長になった2008年、48歳で第2子が独立した年、56歳で次長になった2020年は、いずれもこの「差が開いていく年齢帯」の中にある。

この表1枚は、この記事の中で最も重要な数字である。矢部個人が何かに失敗したから差がついたのではない。年齢が上がるほど差が開く、という構造そのものが、社会全体の平均に表れている。60-64歳で比率が73.8%へ持ち直すのは、この年代の非正規化が男女双方に進み、賃金水準の絶対値が下がって相対差が縮むためと考えられるが、この解釈自体は本記事による推測であり、原資料に明記された説明ではない。

② 賃金格差の長期推移(1976-2023年)

男女間賃金格差(男性=100とした女性の指数)
1976年58.8
2000年65.5
2010年69.3
2020年74.3
2023年74.8

📎 解説:47年で16ポイント縮んだが、まだ4分の1が残る

厚生労働省「賃金構造基本統計調査」の長期時系列によれば、男女間賃金格差(男性=100とした女性の賃金指数)は、1976年の58.8から2023年の74.8まで、47年で約16ポイント縮んでいる。矢部が入社した1986年は、この推移のちょうど1976年と2000年の中間にあたる時期である。

それでも2023年時点で、女性の賃金は男性の74.8%にとどまる。①の年齢階級別の表と合わせて読むと、この47年間の改善は主に若年層の格差縮小によるものであり、中高年層の格差は、47年経ってもなお大きく残っている、という見方ができる。ただしこの解釈も本記事による読み方であり、年齢階級別の長期時系列(例えば1986年時点の40代の格差)そのものは今回取得できていない。

③ 入社10年後、女性はどれだけ残っているか

65.1%

10年前入社の女性総合職の離職率

29.2%

同・男性総合職の離職率

48.9%

「総合職女性がすでに0人」の企業の割合

🚫 この統計が示していないこと

・この65.1%・29.2%という数字は、厚生労働省「コース別雇用管理制度の実施・指導状況」(平成22年4月〜23年3月実施)によるもので、調査時点から10年前、つまりおおむね2000年前後に入社した総合職を追跡した結果である。矢部が入社した1986年世代を直接調査した統計ではない

・調査対象は129社(コース別雇用管理制度を導入している企業のみ)であり、全国企業の代表標本ではない

📎 解説:それでも、この数字を置く理由

1986年入社世代そのものの離職率を示す一次統計は、今回のリサーチでは見つからなかった。その意味で、この65.1%・29.2%は矢部の代の実測値ではない。

それでも、この数字を本記事に置くのは、総合職女性の定着がどれだけ難しいかを示す一次統計として、現時点で確認できた最も直接的なものだからである。矢部の同期の総合職女性4人のうち、実際に何人が残ったかはSection 10で見るが、全国の「10人に3人しか女性が残らない」構造と重ねて読むと、矢部の位置が見えてくる。

④ M字カーブ — 矢部の世代は、谷の底にいた

年齢階級1985年2000年2024年
20-24歳71.9%72.7%77.2%
25-29歳54.1%69.9%88.9%
30-34歳50.6%(谷)57.1%(谷)83.9%
35-39歳60.0%61.4%81.4%
40-44歳67.9%69.3%83.0%
45-49歳68.1%(山)71.8%(山)83.9%(山)
50-54歳61.0%68.2%81.6%
55-59歳51.0%58.7%77.3%
60-64歳38.5%39.5%66.6%

📎 解説:矢部が26歳・29歳だった1985年前後、そこは谷の底だった

総務省「労働力調査」の長期時系列によれば、1985年の女性の労働力率は、30-34歳で50.6%まで落ち込み(M字の谷)、45-49歳で68.1%に戻る(もう1つの山)というM字型を描いていた。矢部が26歳(1990年)・29歳(1993年)で出産した時期は、まさにこの谷が最も深かった時代にあたる。

2000年になると谷はやや浅くなり(30-34歳で57.1%)、2024年になるとM字はほぼ消え、25-29歳で88.9%、30-34歳で83.9%という高い水準がそのまま続く「台形」に近づいている。矢部が23.9%側に残ったことは、この谷が最も深かった時代に、谷に落ちなかったということでもある。

⑤ 測られていないもの — 女性管理職比率

🚫 この記事が到達できなかった数字

・矢部が課長になった2008年、女性課長が全国に何%いたかを、この記事は示せない。課長級・部長級の女性比率を1990年代から2024年まで連続的に追える一次統計の時系列を、今回のリサーチでは見つけられなかった

📎 解説:5本目の「測られていない」

このシリーズは、これで5本連続、同じ形に着いている。

サラリーマン8: 早期退職に応募した人のその後を追跡した公的統計が無い。
サラリーマン10: 役職定年後の処遇の統計が平成19年(2007年)で止まっている。
サラリーマン9: 外資系の賃金水準を測る調査が令和2年(2020年)で中止された。
サラリーマン11: 公務員の退職手当と職域加算の水準に到達できない。
サラリーマン15(この記事): 女性管理職比率(課長級・部長級)の長期時系列に到達できない。

矢部は44歳で課長、56歳で次長になった。だが、その到達が全国的に見て早いのか遅いのか、同じ年に女性課長がどれだけいたのかを比較する物差しを、この記事は持っていない。賃金構造基本統計調査は役職別の賃金を性別に集計しているため、本来はここから再構成できる可能性が高いが、今回のリサーチでは時間内に完了できなかった。

20代では、差はほとんど無い。
差が開くのは、40代からである。
矢部が課長になった年、女性課長が何%いたかを、この記事は知らない。

→ 次のSection 13では、この記事全体を辛口に読み直す。

🔪 辛口批評 — 続けられなかった76.1%を、誰も追跡していない

このセクションの3点

① このシリーズは14人書いて、全員が男性だった。15人目でようやく、その物差しが誰を測っていなかったかが分かる。

② 矢部直子は38年一度も辞めていない。それでも大卒女性の生涯賃金は、全国の推計で男性の78.4%である。

③ 最後に置く問題は6度目の「測られていない」で、これまでで最も対象人数が多い。1985-89年に第1子を産んで辞めた76.1%である。

① 14人分の物差しは、何を前提にしていたか

📎 批評:生涯賃金は、辞めなかった人しか測れない

このシリーズは14本の記事で、生涯賃金という1本の軸に人を並べてきた。北原誠一が約4億9,000万円で最も多く、大野修が52歳時点で約7,900万円と最も少ない。

サラリーマン14で、この軸が正社員であることを前提にしていたと分かった。サラリーマン11で、この軸が「いつ、どう受け取ったか」を消すことが分かった。

今回分かったのは、この軸が「働き続けた人」しか測れないということである。

矢部直子は1986年から2024年まで38年、一度も辞めていない。だから彼女は、この軸に乗る。生涯賃金の見込みは約1億7,900万円と計算できる。

1985-89年に第1子を出産した女性の76.1%は、この軸に乗らない。乗らないのは金額が低いからではなく、連続した職業人生として集計される形になっていないからである。

② 続けても、78.4%である

78.4%

大卒女性の生涯賃金(退職金含む総額・対 大卒男性)

7,080万円

同・男性との差

4,960万円

60歳までの差

38年

矢部直子が辞めなかった年数

📎 批評:辞めなかったことは、差を消さない

労働政策研究・研修機構「ユースフル労働統計2024」によれば、大卒女性の生涯賃金は60歳までで男性より4,960万円少なく、退職金を含めた総額では男性の78.4%、差は7,080万円である。

この数字が示しているのは、継続だけでは差が埋まらないということである。矢部は38年辞めていない。それでも彼女個人の生涯賃金の見込み(約1億7,900万円)は、同じ会社で同じ次長まで到達した田村稔の約2億1,400万円を下回る。

ただしこの2人の比較には、揃っていない条件がある。入社年が16年離れており(1970年と1986年)、時代が違う。この記事は、矢部と田村の差がすべて性別によるものだとは書かない。切り分ける材料が無いからである。

切り分けられるのは、全国の推計のほうである。JILPTの78.4%は、大卒男女を同じ条件で並べた推計値である。個人の事情ではなく、集団としての差を示している。

年齢階級男性=100 としたときの女性の水準(2023年)
20代95.8%
50代後半65.9%
29.9ポイント

📎 批評:差は、入口では無い。40代以降に開く

厚生労働省の統計によれば、男女間の賃金格差は20代で95.8%、50代後半で65.9%である(2023年)。差は29.9ポイント開く。

この形が重要である。入口ではほとんど差が無い。同じ大学を出て同じ会社に入れば、20代の給与はほぼ同じになる。差は、その後の20〜30年で開いていく。

このシリーズは、男性についても同じ形をすでに書いている。黒木洋一相原修司は、1988年の入社から2005年の係長まで17年間、役職も年収も完全に一致していた。差がついたのは、最初に椅子が空いた瞬間だけである。

年功的な処遇の下では、差は入口ではなく途中で作られる。男性どうしでは椅子の数で、男女間では別の何かで。その「別の何か」の中身を、この記事は特定できていない。

③ この記事が示せなかったもの

📎 批評:矢部が課長になった年、女性課長は全国に何%いたのか

矢部直子が課長になったのは2008年、44歳のときである。その年、全国の課長級に女性が何%いたかを、この記事は示せない。

厚生労働省「賃金構造基本統計調査」には役職別のデータがあるが、課長級・部長級に占める女性の割合を1990年代から2024年まで並べた時系列を、本記事は取得できなかった。存在しないと断定はしない。本記事が見つけられなかった、というのが正確である。

これが無いと何ができないか。矢部の44歳での課長就任が、当時の水準として早かったのか遅かったのかを判定できない。田村稔藤井亮太はどちらも42歳で課長になっている。矢部は2年遅い。その2年が何によるものかを、この記事は言えない。

1990年と1993年の出産によるものかもしれないし、そうでないかもしれない。断定するための材料が無い。

④ 6度目の「測られていない」

記事測られていないもの対象
サラリーマン8早期退職に応募した人のその後上場企業だけで2024年に10,009人
サラリーマン10役職定年後の処遇(統計が2007年で止まる)導入企業16.7%
サラリーマン9外資系の賃金水準(2020年で調査中止)外資系で働く人
サラリーマン11国家公務員の退職手当の平均額国家公務員
サラリーマン15(この記事)女性管理職比率の長期時系列
サラリーマン15(この記事)出産で辞めた人のその後1985-89年に第1子を産んだ女性の76.1%

📎 批評:6つに共通していること

このシリーズは5本続けて、同じ形の空白に着いてきた。いずれも、人が実際に経験している状態について、継続的なデータが用意されていない。

そして今回が最も大きい。早期退職に応募する人は年に1万人前後である。1985-89年に第1子を出産した女性のうち仕事を辞めた人は、その比ではない。

誤解の無いように書いておく。この記事は「統計を作れ」と主張しているのではない。個人を長期に追跡する調査には費用も同意も要る。指摘しているのは、データが無いという事実だけである。

そしてその事実には、直接の帰結がある。出産を機に仕事を辞めるという判断をする人は、自分と同じ判断をした人がその後どうなったかを、公的なデータで知ることができない。これはサラリーマン8の岡部昭夫が48歳で希望退職に応募したときと、まったく同じ構造である。

⑤ 15人分の物差しに、矢部直子を並べる

人物生涯賃金働いた年数備考
北原誠一約4億9,000万円取締役→子会社社長
森康彦約2億9,600万円部長で定年通算14年、家にいなかった
黒木洋一約2億4,000万円38年時点で不安定54歳と59歳で失職
森田克彦約2億2,900万円42年(唯一の公務員)最も揺れなかった
田村稔約2億1,400万円43年・次長シリーズの中央値
相原修司約2億800万円43年・課長は3年
高梨実約1億9,800万円53歳で自己都合退職
矢部直子(この記事)約1億7,900万円38年・次長。一度も辞めていないシリーズ唯一の女性
宮田徹約1億6,200万円33年4ヶ月55歳で在職死亡
岡部昭夫約9,000万円48歳で希望退職
大野修約7,900万円(52歳時点)正社員経験なし

📎 この表が、いま測っていること

矢部直子は、この表の中で下から4番目にいる。38年一度も辞めず、次長まで到達して、この位置である。

ただし繰り返しておく。この順位の差を、すべて性別で説明することはできない。入社年が16年離れた田村との比較には時代の違いが入るし、矢部個人の数字は本記事の設定値であって実測ではない。

集団として言えるのは、JILPTの推計だけである。大卒女性の生涯賃金は男性の78.4%、退職金を含めた総額の差は7,080万円。

そしてこの表には、まだ誰も乗っていない欄がある。1986年に一般職として入った女性。地方採用で働いた女性。そして出産で辞めた76.1%の人たち。この記事はその誰も書いていない。15人目でようやく1人目である。

4人に1人に満たない人だけが、続けられた。
続けた人でも、78.4%だった。
続けられなかった4人に3人が、その後どうなったかを、社会は数えていない。

このシリーズは、ここでいったん区切る。15人目にして、まだ1人目である。