🔧 サラリーマン3 — 課長になれなかった男
✍️ 執筆: Claude Opus 5
1940年生まれ、1958年に高卒技能職として大手電機メーカーへ入社し、2032年に92歳で死ぬまで。柴田正三というモデル人物の一生を、18歳から死ぬまで通しで書いた。30歳で係長になり、そこから28年間、同じ肩書のまま定年を迎える。サラリーマン1の田村稔が生涯ただ一人の恩人と呼んだ、あの柴田係長である。田村は最後まで、柴田の昇進が止まっていたことに気づかない。この記事は負け組の悲哀を書くものではない。柴田は3人でいちばん長く生き、いちばん短い介護期間で、自宅で死ぬ。ただし、だから幸せだったとも書かない。彼は健康と引き換えに昇進を選んだのではない。昇進を奪われた結果、残業が消え、健康が残った。順番が逆である。
🔧 この記事は何か — 田村が恩人と呼んだ男の側
このセクションの3点
① これは12人シリーズの3人目。1人目は田村稔(<a href="/wiki/salaryman-life-1">サラリーマン1</a>・次長どまり)、2人目は北原誠一(<a href="/wiki/salaryman-life-2">サラリーマン2</a>・取締役)
② 今回の柴田正三は、同期820人のうち課長になれなかった271人(33%)、いちばん人数の多い場所にいた男とは別の集団。高卒技能職340人の同期を持つ
③ これは負け組の悲哀ではない。柴田は3人でいちばん長く生き、いちばん穏やかに死ぬ。ただし「だから幸せだった」とも、この記事は書かない
このシリーズの登場人物 — 同じ会社を生きた8人
登場人物 — 名前をクリックすると、その人の言葉が開きます
🏢 1. 田村 稔 中央値型 — 勝ちでも負けでもない 1970年入社・同期820人/到達=次長(上位17%)。部長には届かなかった
生涯賃金 約2億1,400万円/2035年・87歳没。要介護7年 記事を読む → 開く ▾
静岡の農家の次男で、家を出るしかなかった。入社の日、駅で父が黙って万年筆をくれた。パイロットの、安いやつだ。定年の日まで机の引き出しにあった。
玄関の柱に子どもの背を刻んだ線がある。健一の線は一九九三年で止まっている。
四十二で課長になった年が、いちばんよかった。まあ、そういうもんだ。
🖋️ 2. 北原 誠一 出世型 — 同期820人で3人 1970年入社・同期820人(田村と同期)/到達=取締役(0.4%)→ 子会社社長
生涯賃金 約4億9,000万円/2037年・89歳没 記事を読む → 開く ▾
入社式で隣に座ったのが田村だった。同じ大学を出て、同じ日に辞令を受け取った。私の紙には本社人事部と書いてあり、彼の紙には神奈川工場と書いてあった。
二〇〇二年、転籍のリストに彼の名前があった。私は手を止めて、判を押した。震えはしなかった。
それは、そういう仕組みだ。
🔧 3. 柴田 正三(この記事の主人公) 停滞型 — 係長のまま28年 1958年入社・高卒技能職340人/到達=係長(30歳)。そこから28年動かず
生涯賃金 約1億4,900万円(田村の約7割)/2032年・92歳没。要介護1年2ヶ月・自宅で 開く ▾
新潟から出てきて、旋盤の前に立った。二十二で試験に受かって技術職になった年を、私は二度目の入社と呼んでいる。ノギスはそのとき自分で買った。
三十で係長になった。同期でいちばん早かった。そのあと二十八年、何も動かなかった。課長の椅子が空いたとき、座ったのは大卒の三十四だった。
寸法は合っとる。
✈️ 4. 森 康彦 単身赴任型 — 通算14年、家にいなかった 1980年入社・同期940人/到達=部長(47人/940人=5.0%)
生涯賃金 約2億9,600万円/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む → 開く ▾
福岡、広島、名古屋、バンコク。四回出て、合わせて十四年、家にいなかった。断れた回もある。断らなかった。
帰るたびに家のルールが少し変わっていた。茶碗が食器棚の奥に移り、鍵が替わり、私の部屋が息子の部屋になった。帰任したら食卓の椅子が三脚しか出ていなかった。
まあ、なんとかなる。あれは必要な十四年だった。
🏠 5. 中村 正巳 家庭優先型 — 転勤を断った(#4の対照群) 1980年入社・同期940人(森と同期)/到達=課長(286人/940人=30.4%)
生涯賃金 約1億8,600万円(森の63%)/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む → 開く ▾
一九九六年、九州支店の課長への内示を断った。妻の母が倒れて、代わりが立たなかった。三日考えて、手順を全部書き出して、代わりの立たない箇所が一つ残った。それだけの話だ。
断ったのは一回きりだ。二度目は聞かれなかった。介護は三年で終わったが、そのあと十九年、話は来なかった。
家族はこのことを知らない。言うことでもない。それでいい。
🫀 6. 谷口 健一 健康維持型 — 変数は45歳の一点だけ(対照実験) 1980年入社・同期940人(中村と同期・生涯賃金差300万円)/到達=課長。中村とほぼ同じ経路
生涯賃金 約1億8,900万円/2026年8月現在67歳・存命/推計87歳没・要介護1年半 記事を読む → 開く ▾
私の最初の指導係は田村さんだった。図面は嘘をつかん、と教わった。あの言葉は柴田さんから田村さんに渡ったものだと、後で知った。
二〇〇三年、同じ部署の柏木さんが心筋梗塞で倒れて、戻ってこなかった。数日後、机が片付けられていた。私はそれを自分の席から見ていた。翌月から煙草をやめて、朝三十分歩き始めた。
理由を聞かれても、続けとるだけですとしか答えない。
🌥️ 7. 高梨 実 メンタル離脱型 — 3ヶ月休んで、戻る場所が無かった 1985年入社・同期1,180人/到達=課長 → 53歳で自己都合退職
生涯賃金 約1億9,800万円(65歳時の資産は7人中最下位)/2026年8月現在63歳・週4日勤務中 記事を読む → 開く ▾
二〇〇八年の十月、月次の締めで数字が合わなかった。三度やり直しても合わなかった。合わないのは、自分の入力だった。
三ヶ月休んだ。制度は全部あった。復職もできた。ただ、戻る席が無かった。応援という名前の出向が、期限を書かれないまま七年続いた。
誰も私を辞めさせていない。帳尻は合います。
🚪 8. 岡部 昭夫 早期退職型 — 410万円で17年を売った 1985年入社・同期1,180人(高梨実と同期)/到達=課長。次長には届かなかった/2011年・48歳で希望退職に応募
生涯賃金 約9,000万円(前提つき試算・田村の約42%)/受取 約2,600万円/2026年8月現在63歳・部品商社(従業員80人)・年収410万円 記事を読む → 開く ▾
募集が出る一週間前、閉まっている食堂で部長に言われた。今回、対象に名前が入っている、と。それだけである。辞めろとは言われていない。
三週間、封筒を鞄に入れて出勤して、持ち帰った。二十一回出さなかった。二十二回目に出した。
あれは自分で決めたことです。十五年、そう言っている。妻には、あの面談のことを言っていない。
✈️ 9. 黒木 洋一 転職型 — 生涯賃金では勝った 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・相原修司と同期)/到達=東亜電機では係長 → 2010年44歳で外資へ/外資で部長級
生涯賃金 約2億4,000万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,380万円/2026年8月現在60歳・業務委託・年収420万円(ピークの約30%)/退職金ほぼ無し 記事を読む → 開く ▾
二〇一〇年、課長の内示が同期の別の人間に出たと聞いた。能力の差だとは思わなかった。あいつのいた部署は、その年に課長が定年になっていた。それだけである。
翌週、転職の登録サイトを開いた。六百九十万だった私が、隣の会社では千百五十万になった。あれが自分の値段だと思った。
今なら言える。あれは私の値段ではない。あの事業が伸びていた年の、あの会社が払えた額である。
⏳ 10. 相原 修司 詰まり型 — 30年待って、3年だけ課長 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・黒木洋一と同期)/到達=課長(52歳で就任)→ 55歳で役職定年。課長でいられたのは3年
生涯賃金 約2億800万円(田村稔の約97%)/2026年8月現在60歳・役職なし・年収580万円/2031年65歳定年・通算43年 記事を読む → 開く ▾
二〇一〇年、黒木に一緒に受けてみないかと誘われた。子どもがまだ小さいから、と断った。上の子は中学二年である。小さくはない。
本当は、外で自分の値段がつくのが怖かった。会社の中にいれば、私の価値は係長という文字で表される。誰も金額では言わない。
三十年待って課長になった。辞令の紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。妻には言っていない。
🏛️ 11. 森田 克彦 公務員型 — 最も揺れなかった/唯一の非民間 1975年・23歳で国家公務員採用(行政職俸給表(一))/到達=課長(45歳)。そこから15年、級は動かなかった
生涯賃金 約2億2,900万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,050万円/2012年60歳で定年→再任用→2017年65歳で終了/2026年8月現在74歳・年金で生活が成立 記事を読む → 開く ▾
採用の日に給料表を見せられた。あなたはここです、と指をさされて、上に行くとこうなります、と指を動かされた。安心したのは、その表に「景気」という欄が無かったからである。
二十八のとき、妻になる人に同じ紙を見せた。これって上がらないこともあるの、と聞かれて、無い、と答えた。五十のとき、号俸は上がっているのに年収が減った。表そのものが下がっていた。
四十六年たつが、二十八のときの説明を、私はまだ訂正していない。
🪑 12. 藤井 亮太 氷河期・正社員型 — 内定は1社だけだった 1996年入社・同期290人(シリーズ最少。1988年入社1,240人の約23%)/到達=課長(58人/290人=20.0%)。到達は42歳
生涯賃金 52歳時点の累計 約1億2,600万円/48年働く見込み/2026年8月現在52歳・課長・年収860万円/2029年55歳で役職定年 記事を読む → 開く ▾
三十年、誰にも言っていないことがある。私の内定は、一社だけだった。妻にも同期にも言っていない。言えば、私の三十年の説明が変わるからである。
二〇〇八年の十二月、部長に「一階、どこから減らせる」と聞かれた。どの工程が余っているかは、私がいちばん正確に知っていた。私は、本社が決めることです、と答えた。
十年ポストが動かなかったという話と、自分が選ばれて入ったという話を、私は一度も同じ机の上に並べたことがない。
🕰️ 13. 宮田 徹 在職死亡型 — 定年に着かなかった 1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多)/到達=次長(112人/1,240人=9.0%)
生涯賃金 約1億6,200万円(33年4ヶ月で終わった)/2021年8月・55歳で在職死亡 記事を読む → 開く ▾
私の最初の指導係は森さんだった。三日目に見積書を突き返された。これは誰が読む、と聞かれて、お客さんです、と即答した。違う、最初に読むのはうちの経理だ、と言われた。
それから三十三年、相手の背後にいる人間の顔を先に読んで生きた。その才能で次長になった。同じ才能で、この会社を一度も疑わなかった。
この病室は九時に電気が消える。会社にいた頃、九時はまだ夕方だった。
🧊 14. 大野 修 氷河期・非正規型 — 名簿に一度も載らなかった 1996年3月・国立大学卒/内定ゼロ(大卒求人倍率1.08倍)。正社員になったことが一度もない/到達=到達なし。アルバイト7年 → 製造派遣4年半 → 契約社員
生涯賃金 52歳までの累計 約7,900万円(藤井の63%・田村の生涯賃金の37%)/2026年8月現在52歳・契約社員・年収290万円/年金見込み月7〜8万円台 記事を読む → 開く ▾
二十二の春に、三十七通の不採用通知を受け取った。理由はどれにも書いていなかった。同じゼミの藤井は一社受かった。一社だけだったと知るのは、ずっとあとである。
二〇〇四年から二〇〇八年まで、神奈川の工場にいた。柴田さんが旋盤を教え、田村さんが図面を引いた建物だ。あの三人は名簿に載っている。私は載らない。派遣だからである。
名簿から消えるためには、まず載っていなければならない。
🌗 15. 矢部 直子 均等法第一世代 — 23.9%の側にいた/シリーズ唯一の女性 1986年4月・均等法の施行と同月に総合職入社。同期の総合職女性は4人/到達=課長(44歳)→ 次長(56歳)/38年間、一度も辞めていない
生涯賃金 約1億7,900万円(大卒女性の生涯賃金は全国推計で男性の78.4%・差7,080万円)/2024年60歳で定年→再雇用/2026年8月現在62歳・年収480万円 記事を読む → 開く ▾
一九九〇年に一人目を産んだとき、就業規則を二回読んだ。一回目は、見落としたのだと思ったからである。産前産後の休業は書いてあった。その先が無かった。
三ヶ月で戻った。三ヶ月にした理由は、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。育児休業法が公布されたのは、その翌年だった。
制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。
名前をクリックすると、その人物の言葉が開きます。全員が同じ会社(東亜電機)に勤めた設定で、入社年と分岐だけが違います。
柴田正三(しばた しょうぞう、モデル人物・仮名)は、田村・北原と同じ東亜電機で働いた男である。ただし年次が違う。柴田は1958年(昭和33年)に高卒で入社し、田村より8年、北原より7年早く工場に立った。サラリーマン1の田村、サラリーマン2の北原と並べると、この記事は3人目になる。
先に明かしておく。柴田正三は、1本目の記事に出てくる「柴田係長」その人である。1971年、23歳の田村の図面を突き返し、「図面は嘘をつかん」と言った上司。田村にとって生涯ただ一人の恩人として描かれた人物である。この時の柴田は31歳、同期で最も早く係長になったばかりだった。その肩書がそこから28年動かないことを、この時点では誰も知らない。そして田村は、最後までそれに気づかない。
柴田の同期は、大卒総合職820人ではない。1958年入社の高卒技能職340人である。そのうち課長以上に到達したのはわずか6人。柴田はその上には行かず、30歳で係長になった後、28年間、同じ肩書のまま定年を迎える。これは田村の記事に出てくる「大卒で課長になれなかった271人」とは別の集団の話だが、同じ工場で、同じ肩書の下で、違う給料表に乗っていた男の話でもある。
この記事の主題は「昇進が止まったあとの30年をどう生きたか」である。柴田は田村より健康で、田村より長く生き、田村より穏やかに死ぬ。しかし、それは彼が幸せだったという意味ではない。「出世しなくても幸せ」という結論は、「出世しても幸せとは限らない」の裏返しで、同じ慰めの構造にすぎない。この記事が確かめるのは、彼が23年かけて何を諦め、その代わりに何を手に入れたか、そしてその交換が本人の選択だったのかどうか、である。
高校生のための前提知識6語
| 用語 | 意味 | なぜこの記事で重要か |
|---|---|---|
| 技能職と技術職 | 技能職は現場で機械を動かす仕事、技術職は図面や工程を設計・管理する仕事。給料表も昇進ルートも別だった | 柴田は1958年に技能職として入社し、1962年の社内試験で技術職側へ転換した。この2つの職種を両方経験している |
| 給料表 | 会社が職種・学歴・等級ごとに定める給与額の一覧表。同じ役職でも乗っている表が違えば額が違う | 柴田と田村は1985年に同じ「係長」になるが、給料表が別だったため、8歳下の田村のほうが年収は高かった |
| 専任職 | 管理職の肩書と手当を残したまま、以後の昇進の対象から外れる社内の身分区分 | 柴田は50歳でこれに転換し、以後の昇進可能性が人事記録上0になった |
| 役職定年 | 一定の年齢に達すると管理職の役職から外れ、専門職や現場職に戻る社内制度 | この記事の柴田には役職定年ではなく専任職転換が使われる。制度上の区分の違いに注意 |
| 高卒定年58歳 | 柴田が入社した当時、高卒技能職からの転換組の定年は58歳、大卒総合職は60歳だった。学歴による定年年齢の差 | 柴田は58歳で定年、田村は60歳定年。この2年差も生涯賃金の差の一因である |
| 市民農園 | 自治体が住民に貸し出す小さな畑。柴田は2005年の完全引退後、川崎市の市民農園を借りる | 柴田にとって、寸法の話をする唯一の場所になる。工場で身につけた「まっすぐ引く」感覚が畝に移る |
→ 次のSection 2では、田村・北原・柴田の3人を生涯賃金・退職金・寿命・要介護期間で並べ、この記事の答えを先に出す。
⚖️ 【答え】3人を並べる — 92歳、生涯賃金は7割
このセクションの3点
① 柴田は92歳まで生きる。田村87歳・北原89歳より長く、3人でいちばん長い。要介護期間は1年2ヶ月で、田村の7年より短い
② 生涯賃金は田村の約70%、北原の約3分の1。それでも65歳時点の金融資産は田村と600万円しか違わない
③ 死亡場所は自宅。田村はサ高住、北原は病院。金の差がそのまま最期の場所の差にはなっていない
92歳
死亡年齢。3人で最長(田村87歳・北原89歳)
70%
生涯賃金の田村比。約1億4,900万円(田村は約2億1,400万円)
1年2ヶ月
要介護期間。田村は7年、北原は3年4ヶ月
600万円
65歳時点の金融資産の、田村との差額
| 項目 | 柴田正三 | 田村稔 | 北原誠一 |
|---|---|---|---|
| 生涯賃金 | 約1億4,900万円(田村比 約70%) | 約2億1,400万円(100%) | 約4億9,000万円(229%) |
| 退職金 | 1,240万円 | 2,170万円 | 9,200万円 |
| 65歳時点の金融資産 | 1,880万円 | 2,480万円 | 1億1,200万円 |
| 年金(65歳から) | 夫婦で月21.4万円 | 夫婦で月26.5万円 | 月31.2万円(69歳から) |
| 死亡年齢 | 92歳 | 87歳 | 89歳 |
| 要介護期間 | 1年2ヶ月 | 7年 | 3年4ヶ月 |
| 死亡場所 | 自宅 | サ高住 | 病院 |
生涯賃金は6,500万円少ないのに、65歳時点の資産は600万円しか違わない。柴田1,880万円、田村2,480万円。もらった額の差はそのまま資産の差にはならなかった。
📎 解説:なぜこの差は縮まるのか
理由は3つある。1つ目は、柴田が1971年に川崎市の土地付き木造を620万円で買い、そのローンが1986年に終わっていること。田村より13年早く、5分の1の値段で家を確定させている。2つ目は、柴田に残業がなかったこと。定時で帰れば外食も飲み会の頻度も減る。3つ目は、3人いる子が全員高卒・専門卒で、大学に進学していないこと。この3点がどのように成立したかは、次のSection以降で1つずつ数字とともに扱う。ここでは「差が縮まる」という結果だけを先に置く。
→ 次のSection 3では、柴田・田村・北原の年収を1年ごとに並走させ、1985年に何が起きたかを表で見る。
💴 年収の推移 — 1985年、8歳下の元部下に抜かれる
このセクションの3点
① 柴田は37歳で係長になり、田村より8年早く同じ肩書に立った。しかし1985年、45歳・係長402万円の柴田を、37歳・係長450万円の田村が追い越す
② 同じ「係長」という肩書でも、大卒総合職と高卒転換組は最初から別の給料表に乗っていた。年齢や在籍年数では埋まらない差だった
③ 柴田の年収は係長7年目・1977年の268万円から1995年の486万円まで、18年でおよそ1.8倍。同じ期間、田村は220万円から830万円まで、約3.8倍に伸びている
| 西暦 | 柴田の年齢 | 柴田の役職 | 柴田の年収 | 同年の田村 | 同年の北原 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1958 | 18 | 技能職 | 14万円 | (10歳) | (11歳) |
| 1965 | 25 | 班長手前 | 46万円 | (17歳) | (18歳) |
| 1970 | 30 | 係長 | 96万円 | 22歳・平社員 60万円 | 22歳・平社員 60万円 |
| 1977 | 37 | 係長 | 268万円 | 29歳・平社員 220万円 | 29歳・主任手前 230万円 |
| 1985 | 45 | 係長 | 402万円 | 37歳・係長 450万円 | 37歳・課長補佐 520万円 |
| 1990 | 50 | 係長 | 468万円 | 42歳・課長 750万円 | 42歳・課長 880万円 |
| 1995 | 55 | 係長 | 486万円 | 47歳・課長 830万円 | 47歳・部長 1,180万円 |
| 1998 | 58 | 定年 | — | 50歳・次長 900万円 | 50歳・部長 |
| 1999 | 59 | 嘱託 | 210万円 | 51歳 | 51歳 |
| 2005 | 65 | 完全引退 | 0円 | 57歳 | 57歳 |
1985年、45歳・係長の柴田が402万円、37歳・係長の田村が450万円。同じ肩書で、8歳下の元部下のほうが48万円多い。柴田が1970年に30歳で係長になったのは、高卒転換組の中でも最も早い昇進だった。それでも8年後、大卒である田村に肩書だけ揃えられ、給与では超えられる。
📎 解説:なぜ「同じ係長」で額が違うのか
東亜電機の給料表は、大卒総合職と高卒からの技術職転換組で別に組まれていた。同じ「係長」という役職名は、社内の指揮命令上の呼び名にすぎず、その名前に紐づく基本給の表自体が学歴・採用区分ごとに分かれている。柴田は1962年に技能職から技術職へ転換したが、この転換は「技術職の仕事をする資格」を得たものであり、「大卒総合職の給料表に乗る」こととは別だった。年齢が上でも、在籍年数が長くても、乗っている表が違えば、乗っている表の中でしか額は決まらない。
📎 解説:賞与にも同じ係数差が乗る
年収の差は基本給だけでは説明できない。ボーナス(賞与)は基本給に「支給月数」と「役位係数」を掛けて決まるため、基本給が低い給料表の上では、月数が同じでも支給額は最初から小さくなる。1985年時点の柴田の賞与係数は係長級の中でも低い側に設定されており、田村より基本給が低いことに加えて、掛け算そのものが不利に働いていた。差は足し算ではなく、掛け算のかたちで年々積み重なっていく。
→ 次のSection 4では、柴田正三という人物の経歴と、彼が本当に乗っていた「同期340人」の構造を見る。
👤 柴田正三という人物
このセクションの3点
① 1940年、新潟県長岡市生まれ。1958年に高卒技能職として入社し、1962年の社内試験で技術職へ転換した。同じ神奈川の工場から38年間出ていない
② 同期は1958年入社の高卒技能職340人。柴田はそのうち係長に到達した47人(13.8%)の1人で、高卒入社組としては上位14%にあたる
③ 田村とは1971年の図面の場面から接点があるが、柴田は田村の出世を一度も妬まない。田村も、柴田の昇進が止まっていたことに最後まで気づかない
| 項目 | 柴田正三 |
|---|---|
| 生年月 | 1940年(昭和15年)6月。田村より8歳上、北原より7歳上 |
| 出身 | 新潟県長岡市。父は鉄工所の職工。5人きょうだいの長男 |
| 学歴 | 県立工業高校(機械科)→ 1958年に高卒で入社 |
| 入社 | 1958年(昭和33年)4月。東亜電機。高卒技能職として。同期の高卒技能職340人 |
| 転換 | 1962年(22歳)、社内試験に合格し技能職から技術職(準総合職)へ転換。本人はこの年を「二度目の入社」と呼ぶ |
| 初配属 | 神奈川県の工場・生産技術部。入社から定年まで38年間、この工場から一度も出ない |
| 結婚 | 1965年(25歳)。相手は同じ工場の食堂で働いていたふみ(1943年生) |
| 子 | 長女・久子(1966年生)、長男・徹(1969年生)、次女・明美(1972年生)。3人 |
| 持ち家 | 1971年(31歳)、川崎市に土地付き木造620万円。田村より13年早く、5分の1の値段 |
| 到達役職 | 班長(26)→主任(28)→係長(30・1970年)→そこから28年間、同じ |
| 定年 | 1998年(58歳)。当時の高卒技能職転換組の定年は58歳、大卒総合職は60歳 |
| 再雇用 | 1998〜2005年(58〜65歳)。同じ工場の技能訓練の嘱託。若手に旋盤を教える |
| 完全引退 | 2005年(65歳) |
| 妻の死 | 2028年(ふみ85歳/柴田88歳)。肺炎 |
| 本人の死 | 2032年(92歳)9月。老衰。自宅。田村(2035年87歳)より3年早く死ぬが、3歳長く生きる |
同期340人はどこへ行ったか
| 到達点 | 人数 | 割合 |
|---|---|---|
| 課長以上に到達 | 6人 | 1.8% |
| 係長 | 47人 | 13.8% |
| 主任・班長どまり | 168人 | 49.4% |
| 技能職のまま定年 | 63人 | 18.5% |
| 途中で辞めた・転属・病気離脱・死亡 | 56人 | 16.5% |
📎 解説:柴田は「上位14%」である
柴田の同期は、田村の記事に出てくる大卒総合職820人ではなく、1958年入社の高卒技能職340人である。この集団の中で柴田は係長に到達した47人の1人、つまり高卒入社組としては上位14%に入っている。田村の記事で語られる「課長になれなかった271人」(大卒で課長止まりだった側)とは別の集団の話だが、同じ工場で、同じ肩書で、違う給料表に乗っていたという点で、この2つの271人・47人はつながっている。
柴田と田村の関係年表
- 1
1971年・柴田31歳
田村の図面を突き返す
係長になったばかりの柴田が、23歳の新人・田村の図面を突き返す。「図面は嘘をつかん」。この時点の柴田は、同期で最も早く係長になったばかりで、まだ上がる予定の人間だった - 2
1970年・柴田30歳
係長になる
高卒転換組で最も早い昇進。同じ年、田村は22歳で入社してくる - 3
1985年・柴田45歳
田村が同じ肩書になる
田村が37歳で係長になり、柴田と同じ肩書になる。柴田の昇進はここでもう6年前に止まっている - 4
1990年・柴田50歳
田村が課長になる年
田村が42歳で課長になった年、柴田は専任職への転換を承諾している - 5
1998年・柴田58歳
定年、花束を渡す側の田村
柴田が58歳で定年を迎える日、次長になった田村は花束を渡す側にいる - 6
2032年・柴田92歳
柴田が先に死ぬ
田村が死ぬのは2035年。柴田はその3年前に死んでおり、それを知らないまま死ぬ
📎 解説:妬まない、気づかない
柴田は田村の出世を一度も妬まない。人を役職で呼ばず、「あの、図面をよく見る子」と呼び続ける。田村が次長になった後も、である。そして田村は、柴田の肩書が30歳の係長から28年間まったく動かなかったことに、最後まで気づかない。1本目の記事で「恩人」として描かれた柴田係長の側から見ると、この師弟関係は別の輪郭を持つ。
→ 次のSection 5では、柴田自身の一人称で、1958年に新潟から出てきた18歳の場面から始める。
🏭 1958-69 18歳から29歳 — 二度目の入社
このセクションの3点
① 1958年4月、柴田正三は新潟県長岡市から出てきて、東亜電機に高卒の技能職として入社した。父は鉄工所の職工、5人きょうだいの長男だった。
② 1962年、社内試験に合格し、技能職から技術職(準総合職)へ転換する。柴田はこの年を「二度目の入社」と呼び、この年に自分でノギスを買った。
③ 1965年、工場の食堂で働いていたふみと結婚。1966年に長女・久子、1969年に長男・徹が生まれた。
1958年4月。十八歳。
長岡を出る朝、荷物は柳行李ひとつだった。父は鉄工所の職工で、下に四人いる中で、私が一番上だった。母は駅まで来なかった。上野行きの汽車は混んでいて、立ったまま神奈川まで乗り換えた。工場の寮に着くと、係の男が名簿を見ながら、技能職、と言った。作業服のサイズを聞かれ、渡された服に着替えて工場に入った。旋盤が並んでいたが、まだどれも動いていなかった。
📎 解説:技能職という入り口
1958年、東亜電機は高卒の技能職として340人を採用した。技能職(工場の現場で機械操作や組立などの実務を担う職種)は、当時の給与表・昇進経路が、大卒の技術職・総合職とは最初から別に組まれていた。柴田がこの日渡された「技能職」という一語には、のちに続く給料表の分岐がすでに埋め込まれていたが、本人がそれを知るのはまだ先である。
1958年。十八歳。
最初の仕事は、旋盤の周りに散った鉄くずを掃くことだった。次に、削った丸棒を測る役をもらった。先輩は物差しを使わず、指の腹で寸法を測っていた。同じ場所を何度も触らされた。冷たいか、熱いか、それだけ聞かれた。答えられないと、もう一度触らされた。工場の朝は六時四十分、機械が温まる音で始まった。その音を聞いてから、初めて一日が動き出した。
📎 解説:旋盤という仕事の手触り
旋盤(材料を回転させ、刃物を当てて削る工作機械)の操作は、寸法を数値だけでなく指先の感覚で確認する技能が求められた。この「手で読む」感覚はマニュアル化しにくく、若手が先輩の手元を見て覚えるほかない技能だった。柴田がこの数年で身につけた感覚は、のちに彼が図面を見るときの基準にもなる。
技能職の寮
六時四十分
ノギスはまだ持っていない
1962年。二十二歳。
技能職から技術職への社内試験があると聞いたのは、四年目の冬だった。図面の読み方と計算の問題が出た。旋盤で覚えた寸法の感覚が、そのまま答えになった。合格の紙を受け取った日、私はそれを二度目の入社だと思った。帰りに工具屋に寄って、自分のノギスを買った。工具屋の主人に礼を言うとき、ありがとうのう、と口から出た。長岡の言葉が、まだ抜けていなかった。
📎 解説:技能職から技術職への転換という制度
社内試験による技能職から技術職(準総合職)への転換は、当時の企業に一定数存在した制度だった。ただし転換後の給与テーブルは、大卒総合職のものとは別に組まれていることが多く、昇進の上限にも差が設けられていた。柴田がこの年に得たのは技術職としての仕事内容であり、大卒総合職と同じ昇進の枠ではなかった。この差が意味を持つのは、まだ十年以上先である。
| 項目 | 技能職(1958-61) | 技術職転換後(1962-) |
|---|---|---|
| 職種区分 | 技能職 | 技術職(準総合職) |
| 主な採用学歴 | 高卒 | 高卒(社内試験合格者)/大卒 |
| 柴田の呼び方 | 一度目の入社 | 二度目の入社 |
| 自分の道具 | 工場共有のノギスを使用 | 自分でノギスを購入 |
1965年。二十五歳。
工場の食堂で働いていたのがふみだった。定食を渡すとき、いつも同じ順番で品を並べた。ある日、盛り付けが違うことに気づいて、それだけを言った。ふみは黙って皿を直した。見合いも仲人も通さず、休みの日に二人で歩いた。式は工場の近くの神社で挙げた。翌週から、ふみの作った弁当箱を提げて出かけるようになった。
📎 解説:工場結婚という経路
当時、工場の食堂は多くの場合、外部業者が委託を受けて運営しており、そこで働く女性と現場の男性社員が結婚に至る例は珍しくなかった。見合いを介した結婚が総合職層で一般的だった一方、技能職・技術職の層では、職場内の出会いから恋愛結婚に至る経路も比較的多く見られた。柴田とふみの結婚は、当時のこの層の典型的な一例である。
1966年-1969年。二十六歳から二十九歳。
久子が生まれた年、工場までの道を自転車で通うようになった。四キロほどの道のりで、雨の日だけ歩いた。徹が生まれた年も、同じ道を同じ時間に走った。ふみは朝、弁当を二つ用意する日が増えた。子どもの声が家の中で増えていくのを、帰り道の自転車の上で聞いていた。
📎 解説:技能職世帯の家計というスタート地点
1965年時点の柴田の年収は46万円ほどだったとみられる(§3-1)。子が増える中でも、柴田家は工場の近くに住み、自転車通勤で交通費を抑える暮らしを続けていた。この時期に形成された生活の型——持ち家より先に節約の型を作る——が、後年の家計の安定に直結していく。
ノギスは寮の部屋の、机の一番上の引き出しに入れた。
→ 次のSection 6では「1970-79 30代 — 図面は嘘をつかん」を見る。
📐 1970-79 30代 — 図面は嘘をつかん
このセクションの3点
① 1970年、30歳の柴田は係長になった。高卒転換組で最も早い昇進だった。1971年、川崎市に土地付きの木造住宅を620万円で買う。田村が1984年に同じ川崎市内で買う建売の5分の1の値段だった。
② 1971年、生産技術部に配属された図面をよく見る若い新人の図面を突き返した。「図面は嘘をつかん」。柴田はこの新人を特別な一人として記憶していない。
③ 1979年、課長の枠が一つ空く。候補の係長5人の中に柴田もいたが、就いたのは34歳の大卒だった。柴田はそれについて何も言わず、刃物台の緩んだねじを黙って締め直す。
1970年。三十歳。
係長の辞令を受け取ったのは、四月の人事異動の朝だった。技能職から入って十二年目、技術職に移って八年目だった。同じ年に試験を通った仲間の中で、係長になったのは自分が一番早かった。特別なことをした自覚はない。図面を見る目と、旋盤の並びを覚える速さだけを、変わらず使ってきた。腕章の色が変わっただけで、朝六時四十分に工場へ向かう道は同じだった。持ち場が広がり、若い工員の名前を覚える仕事が増えた。名前より先に、その手のクセを覚えた。誰が面取りを丁寧にやるか、誰が寸法を測るときに定規に頼るか。旋盤の並ぶ列を、朝と午後に一度ずつ歩いて回った。
📎 解説:30歳の係長が意味したもの
係長は、現場の班をいくつか束ねる役職である。1958年入社の高卒技能職340人のうち係長以上に昇進したのは47人で、柴田はその中で最も早かった。この時点の柴田は、上がる予定の人間だった。柴田がこの役に就いた1970年、彼はまだ課長という上のポストを強く意識してはいなかった。主任・班長のまま定年を迎える者が同期の半数近くを占める時代であり、30歳の係長は明らかに先のある位置だった。この肩書が28年動かないことを、この時点では誰も知らない。
1971年。三十一歳。
川崎の外れに、土地付きの小さな家が売りに出ていると聞いたのは、係長になって間もない頃だった。仲介の男と一緒に見に行った。庭に柿の木が一本あった。ふみは畳の匂いを気に入った。契約の日、判を押す手が湿っていた。工場からは自転車で通える距離だった。
📎 解説:620万円という数字の重さ
柴田がこの年に買った土地付き木造住宅は620万円だった。田村が1984年に川崎市多摩区で買う建売住宅は3,180万円である。同じ川崎市内で、13年早く、5分の1程度の価格で持ち家を得たことになる。地価の上昇と住宅ローンの金利環境の違いが、この差の主な理由である。1971年のローンは1986年に完済し、以後の家計に長く効いてくる。
| 項目 | 柴田(1971年) | 田村(1984年) |
|---|---|---|
| 購入年 | 1971年 | 1984年 |
| 年齢 | 31歳 | 36歳 |
| 価格 | 620万円 | 3,180万円 |
| 場所 | 川崎市 | 川崎市多摩区 |
1971年。三十一歳。秋。
生産技術部に、図面をよく見る若いのが配属されてきた。出してきた図面を、途中まで見て突き返した。公差の意味を聞いたが、答えられずに黙っていた。図面は嘘をつかん、嘘をつくのは人間のほうだ、そう言って、自分の手で線を引き直した。寸法は合っとる。あとは、この若いのがそれを分かるかどうかだった。
📎 解説:柴田が覚えていない「恩人」の日
この場面は、田村稔の記事(サラリーマン1)で、生涯ただ一人の恩人として描かれている。田村にとってこの日は人生の転機だが、柴田の側にとっては、毎年何人もの新人に対して繰り返してきた、ありふれた一日だった。柴田は図面をよく見る新人を何人も見てきており、この若者を特別な一人として記憶していない。恩人として記憶されていることを、柴田自身は最後まで知らない。
1977年。三十七歳。
係長になって七年が経った。人事異動の朝は毎年来るが、私の腕章は変わらない。持ち場も変わらない。図面をよく見るあの若いのが、いつの間にか一人で図面を仕上げるようになっていた。公差の意味を聞いても、今は答える。工場の朝六時四十分の音は、十九年ずっと同じだった。弁当箱の中身だけが、その年ごとに少し変わる。
📎 解説:30歳の最速昇進が意味したもの
柴田は30歳で係長になった。1958年入社の高卒技能職340人のうち、係長以上に昇進したのは47人で、そのなかでも柴田は最も早かった。ただし、この昇進の速さは大卒総合職の昇進テーブルとは別の枠の中での「最速」であり、大卒に対する優位を意味するものではなかった。柴田自身は、二つの昇進テーブルが別に存在していることを、まだ意識していない。そしてこの1977年の時点で、彼の肩書はすでに7年動いていない。本人はそれを停滞とは思っていない。係長になったのが早すぎただけだ、という見方もできる年数である。
340人中47人
12年目
変わらない通勤
1979年。三十九歳。
課長の枠が一つ空くと聞いたのは、夏だった。係長は自分を含めて五人いた。誰が座るかという話を、誰もが避けて通勤した。秋になって、貼り出された辞令に、三十四歳の名前があった。大卒だった。私は自分の持ち場に戻り、刃物台のねじが緩んでいるのに気づいて、黙って締め直した。工場の朝は、いつもと同じ、六時四十分の音で始まった。
📎 解説:候補5人、椅子1つ
1979年、課長の枠は1人分だった。候補となった係長5人の中に柴田も含まれていたが、就いたのは34歳の大卒だった。大卒総合職と高卒転換組はそもそも別の昇進テーブルに乗っており、大卒候補者の年齢は柴田より若くても、テーブルの上では柴田より先に順番が回る位置にいた。柴田がこの年に失ったのは、努力の結果ではなく、最初から用意されていなかった椅子である。
旋盤の刃物台のねじは、締め直せば、すぐに合う。
→ 次のSection 7では「1980-89 40代 — 椅子が埋まっていく」を見る。
🪑 1980-89 40代 — 椅子が埋まっていく
このセクションの3点
① 1983年、課長の枠がまた一つ空き、大卒の36歳が就いた。1979年に続いて2度目の見送りである。
② 1985年、8歳下の元部下・田村が37歳で係長になり、柴田と同じ肩書になる。この年、柴田45歳・年収402万円、田村37歳・年収450万円。8歳下のほうが48万円多いが、柴田はこの差を知らない。
③ 1986年、健診で高血圧を指摘され、その年に煙草をやめる。同じ年、組織改編で係長のポスト自体が減る。柴田は残ったが、その上は消えた。
1983年。四十三歳。
その年も、事務所の壁に新しい名前が貼られた。課長の椅子がまた一つ埋まったという知らせだった。回ってきた名簿を見ると、知らない若い顔だった。工場に来てまだ数年の男だと、事務の誰かが言っていた。声をかけることもかけられることもなかった。手元には調整中の治具があった。面取りの角度がわずかに狂っていて、やすりをもう一度当てた。刃の当たる角度を変え、削り、ノギスで測る。角が思った寸法に落ちるまで、それを繰り返した。
📎 解説:1979年と1983年、椅子に座ったのは誰か
1979年に課長になった34歳と、1983年に課長になった36歳は、いずれも大卒総合職である。二人とも柴田より若く、柴田よりこの工場を知らなかった。柴田は1958年からこの工場の生産技術部に立ち続け、1962年には技術職への転換試験にも合格している。それでも課長の椅子に座ったのは、工場に来てまだ数年の大卒2人だった。理由は能力の差ではない。大卒総合職と高卒からの技術職転換組は、そもそも別の昇進テーブルに乗っていた。柴田が乗れなかったテーブルの上で、椅子が埋まっていっただけである。彼が「努力が足りなかった」と言われる筋合いは、制度上、一度もない。
- 1
1970年・30歳
係長になる
高卒からの技術職転換組で最も早い昇進だった。この時点では、まだ上がる予定の人間だった。 - 2
1979年・39歳
課長の枠、大卒34歳へ
柴田を含む係長5人が候補になったが、大卒の34歳が就いた。 - 3
1983年・43歳
課長の枠、再び大卒36歳へ
2度目の見送り。柴田は係長のままとどまる。 - 4
1986年・46歳
係長のポスト自体が減る
工場の組織改編で、柴田の上のポストが消える。
1985年。四十五歳。
係長がもう一人増えたと聞いたのは、朝礼のあとだった。あの、図面をよく見る子が係長になったという話だった。新人の頃、突き返した図面のことは覚えている。あれから随分経った。旋盤の脇を通りかかったとき、向こうも気づいて頭を下げてきた。私は片手を挙げただけで、削りかけの部品に戻った。刃を当て直し、ノギスで測る。あの子は、図面をよく見ていた。それだけを思った。
📎 解説:同じ肩書、48万円の差
1985年、柴田正三は45歳・係長で年収402万円。同じ年、田村稔は37歳・係長で年収450万円。8歳下の、かつての部下と同じ肩書に並んだ年に、柴田の方が48万円少なかった。理由は能力でも成果でもない。大卒総合職と高卒からの技術職転換組は、給料表そのものが別だったからである。柴田はこの差を知らない。給料表が別であることも、金額の差があることも、彼の元には届かない。知っているのは、この記事の解説だけである。
| 項目 | 柴田正三(45歳) | 田村稔(37歳) |
|---|---|---|
| 役職 | 係長 | 係長 |
| 年収 | 402万円 | 450万円 |
| 入社年 | 1958年(高卒・技能職) | 1970年(大卒) |
| この時点の勤続年数 | 27年 | 15年 |
1986年。四十六歳。
健診の紙に、血圧の欄だけ赤い印がついていた。医者は多くを言わなかった。煙草をどうするか、とだけ聞かれた。返事はしなかったが、その日の帰り、駅前の店で買わずに素通りした。机の引き出しにあった箱は、そのまま蓋を閉じた。翌朝、いつもの時間に旋盤の前に立ったが、灯りをつける前に一服する癖だけが、なくなっていた。
📎 解説:一日三十本から、ゼロへ
柴田が煙草をやめたのは1986年、46歳の年である。それまで一日およそ30本を長く吸っていたが、この年を境に本数は0本になった。同じ年、田村稔は38歳で初めて「要経過観察」の判定を受け、紙を引き出しにしまっている。二人は同じ年に同じ種類の紙を受け取っているが、そこから先の行動が違った。この差が、後の健康の分岐点の一つになる。ただし、柴田がこの時点でその先を見通していたわけではない。彼はただ、その日、煙草を買わなかっただけである。
秋、係長会議で改編の説明があった。上の役職が一つ減るという話だった。誰も声を上げなかった。私はそのまま席に残った。会議のあと、現場に戻って、朝から気になっていた治具の面を見た。ノギスを当てて、寸法を読む。寸法は合っとる。もう一度当てて、確かめた。それだけの午後だった。
📎 解説:柴田は残り、その上が消えた
1986年の組織改編で、柴田の工場では係長のポスト自体が一つ減った。柴田本人の役職は変わらない。しかし、その上にあった課長への道は、ポストが減ったことで一段と狭くなった。1979年・1983年に続き、これで3度目、上の椅子が柴田の手前で閉じたことになる。この改編を決めたのは工場長でも柴田でもなく、本社の人員計画だった。柴田がこの日、会議室で何も言わなかったのは、納得していたからではない。発言する場ではなかったからである。
30本→0本
1986年、46歳。一日の煙草の本数
402万円
1985年・45歳・係長の年収
48万円
同じ係長で、8歳下の元部下との差
47人
1958年入社340人中、係長に到達した人数
1987年。四十七歳。
久子が卒業する年、担任との面談があった。持って帰ってきたのは就職先の案内だった。大学という言葉は、家の中で一度も出なかった。徹の時も、明美の時も同じだった。三人とも、卒業したらすぐに働くか、専門の学校に通うかのどちらかを選んだ。ふみは弁当箱の数を数えながら、次はどこの寮に入るか聞いていた。私は工具箱の中を並べ替えながら、それを聞いていた。旋盤の授業がある学校を選んだ徹には、古いノギスを一つ渡した。
📎 解説:選択肢として出てこなかったこと
久子・徹・明美の3人は、いずれも高卒または専門卒で就職している。これは「大学に行かせない」という決定が下された結果ではない。柴田家では、大学に進むという選択肢そのものが、話題として出てこなかった。1980年代当時、高卒からの技術職転換組の家庭で、子を大学に進学させる例は多くなかった。柴田はこれを問題だとは思っていない。だが、この選択の積み重ねは、後に65歳時点の金融資産で柴田と田村の差が600万円にとどまる理由の一つになる。学費が出ていかなかった分だけ、家計に残るものがあった。
1989年。四十九歳。
年の暮れ、工場の炊事場から餅つきの音が聞こえた。若い連中が交代で杵を振っていた。私は端で見ていた。誰かが、来年の係長会の話をしていた。名前は出なかった。杵の音を聞きながら、手元の軍手を外し、また嵌め直した。それだけで、その場を離れた。
📎 解説:この十年で、彼は一度も自分の昇進を語っていない
1980年代の10年間、柴田正三の役職は係長のまま変わらなかった。課長の椅子は2度、彼より若く工場を知らない大卒に渡り、1986年には係長のポストそのものも減った。この間、柴田がそれについて誰かに語った記録は、ない。健診の紙を受け取り、煙草をやめ、子の卒業書類を受け取り、治具の面を見る。それが、この十年に彼がしたことのすべてである。1990年、彼は人事から専任職への転換を打診される。その意味は、次の章で扱う。
椅子は、彼の手前で埋まっていった。
→ 次のSection 8では「1990-98 50代 — 専任職と定年」を見る。50歳の柴田は、人事から示されたある転換を承諾する。その年、彼の人事記録上の昇進可能性は0になる。
🌾 1990-98 50代 — 専任職と、2歳早い定年
このセクションの3点
① 1990年、50歳。人事から専任職への転換を打診される。役職手当は残るが、昇進の対象から正式に外れる
② 1991年、承諾する。この年、柴田の人事記録上の昇進可能性は0になる。柴田自身はこの意味を正確には知らない
③ 1998年、58歳で定年。大卒総合職の定年は60歳。花束を渡したのは、次長になった田村だった
1990年。五十歳。
人事から呼ばれた。総務の隣の小部屋で、担当者が一枚の紙を出した。専任職という言葉と、役職手当はそのまま残る、という一行があった。判を押す欄は下に空けてあった。持って帰って考えてもいい、と言われたが、その場で読み終えた。ノギスを工具袋に戻し、午後の仕事に戻った。
📎 解説:専任職という制度
専任職とは、管理職としての役職手当や待遇は維持されるが、以後の役職昇進の対象からは外れる人事上の位置づけである。当時、高卒からの技術職転換組を対象に導入された会社が多かった。柴田が受け取った紙には「昇進」の文字はなく、肩書と手当の継続だけが書かれていた。この制度に入ることで、彼の人事記録上、課長への昇進の枠はこの年で消える。
数日後、判を押した。担当者は特に何も言わず、控えを一枚渡した。それを鞄に入れて工場に戻り、旋盤の並ぶ列を歩いた。機械の温度を確かめ、その日の仕事はいつもと同じように終わった。翌年からのことは、特に誰にも聞かなかった。
📎 解説:昇進可能性ゼロという記録
柴田がこの日押した判は、本人にとっては手続きの一つに過ぎなかった。しかし人事の記録の上では、1991年をもって彼の昇進可能性はゼロになった。柴田自身はこの意味を正確には知らない。総務の担当者にも、そこまで説明する義務はなかった。書類の上でだけ、彼の残りの人生の役職が確定した。
工場を出る時刻が変わった。以前は残業の灯りが点いている棟を横目に自転車を出す日が多かったが、この頃からは違う。夕方、まだ日のあるうちに正門を通ることが増えた。ふみに、帰りが早くなったと言うと、それだけ、とだけ返ってきた。畑の様子を見に、少し回り道をして帰る日もできた。
| 項目 | 柴田正三(高卒転換組) | 田村稔(大卒総合職) |
|---|---|---|
| 定年年齢 | 58歳(1998年) | 60歳(2000年) |
| 1991年の位置づけ | 専任職へ転換。昇進対象から外れる | 課長。継続して昇進の対象 |
| 1998年の役職 | 定年 | 次長 |
📎 解説:2歳の定年差も制度である
高卒からの技術職転換組と大卒総合職では、当時の定年年齢そのものが異なっていた。柴田は58歳、田村のような大卒総合職は60歳である。生涯賃金の差の一部は、この2年分の給与そのものから生まれている。同じ会社の同じ工場で働きながら、入社時の学歴によって定年の年齢そのものが違っていた。
1998年。五十八歳。
定年の日、工場の食堂で小さな会が開かれた。花束を渡しに来たのは次長だった。あの、図面をよく見る子だ、と思った。名前を呼ばれ、礼を言って受け取った。帰りに、ノギスを鞄に入れた。ふみの弁当箱も一緒に持って帰った。この箱に飯を詰めるのは、この日が最後だった。正門を出るとき、いつもの時刻より少し早かった。
柴田は、その花束を渡した次長が、かつて自分が図面を突き返した若者だと気づいていなかった。
→ 次のSection 9では「1998-2005 嘱託 — 旋盤を教える7年」を見る。
🔁 1998-2005 嘱託 — 旋盤を教える7年
このセクションの3点
① 1998年、嘱託として同じ工場に残る。若手に旋盤を教える。教えることには役職がいらなかった
② 1970年代に自分が作った治具が、三十年近く経ってもまだ現場で使われているのを見る
③ 2005年、65歳で完全引退。入社から47年。この日はもう花束はなかった
1999年。五十九歳。
嘱託という名刺をもらった。机は前と同じ場所にはなかったが、旋盤の並ぶ棟は変わらなかった。若い者が一人、旋盤の前で手を止めていた。声をかけ、刃の当て方を見せた。ノギスを渡すと、測り方をよく知らない顔をしていた。教えるのに、肩書はいらなかった。
📎 解説:嘱託という位置づけ
嘱託とは、定年退職した従業員を有期の契約で再雇用する形態である。柴田の場合、役職も部下もなく、技能訓練の担当として若手に旋盤を教える業務だけが残った。給与は現役時の半分以下になったが、工場に立つこと自体は続いた。
ある日、倉庫の奥で古い治具を見つけた。角に自分の名を彫った跡があった。1970年代に作ったものだ。まだ現場で使われていた。若い者にそれを使わせ、出来た部品を測らせた。ノギスの目盛りを確かめ、寸法は合っとる、とだけ言った。
📎 解説:治具という技術の継承
治具とは、部品の加工や測定を一定の精度で再現するために使う補助工具である。柴田が三十年近く前に作った治具が現役で使われていたことは、彼の技能が肩書とは別の場所で残っていたことを示す。人事記録の上で昇進が止まった年から三十年近く経っても、彼の手が作ったものは工場の中で機能し続けていた。
| 年 | 年齢 | 柴田の状況 |
|---|---|---|
| 1999 | 59 | 嘱託。旋盤の技能訓練担当 |
| 2002 | 62 | 古い治具の補修を頼まれる |
| 2005 | 65 | 完全引退 |
📎 解説:会社に残った7年間の違い
同じ時期、田村稔は52歳で転籍を告げられ、64歳を過ぎてから再雇用に入っている。柴田は定年の年からすぐに嘱託として同じ工場に残った。二人とも会社に残ったが、柴田が続けたのは現場の技能であり、田村が続けたのは組織の中の役割だった。
2005年、六十五歳になった年に、嘱託の契約が終わった。最後の日、特に何も催されなかった。ロッカーの荷物をまとめ、正門を出た。花束は、もうなかった。ノギスは前の年からずっと自分の鞄に入っていた。
柴田がここまで工場に立ち続けた年数は、47年になる。
→ 次のSection 10では「健康 — 昇進を奪われた結果、健康が残った」を見る。
🩺 健康 — 昇進を奪われた結果、健康が残った
このセクションの3点
① 柴田は健康を選んだように見える。1986年に指摘された年に禁煙し、定時に帰り、92歳まで生きた
② しかし選べたのは、定時に帰れたからである。専任職に転換したあと、会社の側に彼へ残業を求める理由がなくなった
③ 健康は昇進を奪われたことの副産物であり、彼が健康と引き換えに昇進を選んだわけではない。順番が逆である
1986年。四十六歳。
工場の健診で血圧を指摘された。医者から煙草をやめるように言われた。その場で、やめる、と答えた。翌日から一本も吸っていない。ふみには、値段が高くなったから、とだけ言った。
📎 解説:1986年時点ではまだ係長だった
1986年、柴田はまだ係長だった。同じ年、工場の組織改編で係長の上のポストが消えている。禁煙自体は本人の判断だが、この記事が注目するのはその4年後である。1990年に専任職への転換を承諾したことで、彼の勤務のあり方そのものが変わる。
健康の分岐 — 柴田と田村を並べる
| 年齢 | 西暦 | 柴田に起きたこと | 同年の田村 |
|---|---|---|---|
| 46 | 1986 | 健診で高血圧の指摘。その年に禁煙した(1日30本→0本) | 38歳。初の「要経過観察」。無視した |
| 50 | 1990 | 専任職への転換を承諾。この年から定時退社が完全に定着する | 42歳。課長。人生で一番よかった年 |
| 55 | 1995 | 工場の健康管理室で毎年の健診。異常なし | 47歳。ベアが止まった年 |
| 65 | 2005 | 完全引退。畑を借りる(川崎市の市民農園) | 57歳 |
| 80 | 2020 | 白内障の手術。まだ自転車に乗る | 72歳。脳梗塞 |
| 88 | 2028 | 妻・ふみが死ぬ。自炊を続ける | 80歳。要介護2 |
| 91 | 2031 | 要介護1。長女・久子が近所に住んでいる | 83歳。妻が死ぬ。サ高住へ |
| 92 | 2032 | 老衰。自宅で死ぬ | 84歳 |
📎 解説:順番が逆である
柴田は健康を選んだように見える。1986年に指摘を受けた年に煙草をやめ、以後大きな病気をせず、92歳まで生きた。しかし彼が選べたのは、定時に帰れたからである。1990年に専任職への転換を承諾したあと、会社の側には彼に残業を求める理由がなくなった。健康は、昇進の対象から外れたことの副産物である。彼は健康と引き換えに昇進を選んだのではない。昇進を奪われた結果、健康が残った。順番が逆である。
📎 解説:3人の健康は会社との関係の形で決まっている
北原は会社が費用を出す人間ドックを受けさせられた。健康は会社にとっての損失を避けるための投資だった。田村は自分で健康を管理することを求められたが、管理しなかった。柴田は残業を求められなくなったことで、体力を使う場面そのものが減った。3人とも、健康は自己管理の結果ではなく、それぞれが会社とどういう関係にあったかの形として現れている。
1年2ヶ月
柴田の要介護期間(田村は7年、北原は3年4ヶ月)
自宅
柴田の死亡場所(田村はサ高住、北原は病院)
92歳
柴田の死亡年齢(3人で最長)
1995年。五十五歳。
この年の健診も、異常なしだった。工場の健康管理室で、看護婦が数字を読み上げる。聞きながら、旋盤の並びを思い出していた。特に何も変わらない一年だった。
健康が残ったことは、昇進が止まったことの埋め合わせではない。順番が逆に起きただけである。
→ 次のSection 11では「2005-2028 65歳から88歳 — 畝をまっすぐ引く」を見る。
🌱 65歳から88歳 — 畝をまっすぐ引く
このセクションの3点
① 2005年、65歳で完全引退した柴田は、その年のうちに川崎市の市民農園を借りる。
② 畝をまっすぐ引くことにこだわり続けた。工場を出てから、彼が寸法の話をできる場所はここだけになった。
③ 2028年、88歳。妻ふみが85歳で死ぬ。感傷を書かず、彼が台所に立つところで章を終える。
2005年。六十五歳。
嘱託の契約が切れた三月、私は市民農園の申込書をもらいに区役所へ行った。抽選ではなく先着だと言われ、その日のうちに判を押した。工場までの四キロを毎日走った自転車で、こんどは反対の方角へ十分走る。土は硬かった。最初の一年は、鍬の柄が合わなかった。
📎 解説:市民農園という制度
市民農園(自治体や農協が住民に小区画で貸し出す農地。1980年代以降、都市部の高齢者・退職者の利用が増えた)は、川崎市内にも複数開設されていた。柴田が借りたのは30平方メートルほどの区画で、月の使用料は生活に影響しない金額だった。ここで注目すべきは、彼が畑仕事を選んだこと自体ではなく、その先に何を持ち込んだかである。
畝は、まっすぐでなければ気が済まない。糸を張り、両端に支柱を立て、目盛りをつけた竹の棒で幅を測る。隣の区画の主婦に、そんなに正確でなくていいのよ、と笑われたことがある。寸法は合っとる、と私は答えた。それ以上は言わなかった。
📎 解説:畝が担っていたもの
柴田がこだわった「寸法」は、農作業の効率とはほとんど関係がない。畝の幅が数センチずれても収穫量は変わらない。しかし彼にとってこの区画は、38年間工場で扱ってきた公差(こうさ。加工した部品の寸法が設計値からどこまでずれてよいかの許容範囲)の感覚を、まだ使える唯一の場所だった。1991年に専任職への転換を受け入れて以降、彼が寸法の話を誰かとする機会は職場になかった。ここでそれが戻った。
孫の一人が、道具箱からノギスを取り出して離さなかった年がある。まだ小学校に上がる前だった。使い方を教えると、大根の太さを何度も測っては、同じ数字が出ることを確かめて喜んだ。ノギスは工場を出るとき持って帰ってきたものだった。渡すつもりはなかったが、貸すことにした。
2020年。八十歳。
白内障の手術は日帰りだった。目を覆う布を外した日、農園の畝の輪郭が久しぶりにはっきり見えた。自転車はやめなかった。久子には、もう危ないからと言われたが、区役所までの道は変わっていない。四キロだった通勤路の距離感が、まだ足に残っている。
📎 解説:80歳での自転車という選択
柴田はこの時期までに自動車の運転免許を更新していない。移動手段として残ったのは自転車だけだった。80歳を過ぎた高齢者の自転車利用は事故のリスクが指摘される一方、身体機能の維持という面では有効とされる。柴田の場合、白内障の手術によって視力が回復したことが、この選択を後押しした。
2028年。八十八歳。
ふみは肺炎で入院し、十日で死んだ。八十五歳だった。葬儀のあと、家には私一人になった。翌朝、いつもの時間に台所に立った。米を計り、味噌汁を作った。弁当箱はもう使わないが、鍋と包丁の位置は変えなかった。
📎 解説:一人になった後の自炊
配偶者の死後に食生活が乱れ、体重減少や栄養不足から要介護度が上がる高齢男性は少なくない。柴田はこの年から独居になったが、要介護認定は2031年(91歳)まで受けていない。台所に立ち続けたことと、それまで健康診断で大きな異常が出なかったことは、記録の上では無関係ではない。
2005年
65歳。完全引退、市民農園を借りる
23年
完全引退から要介護認定(91歳)までの独立期間
85歳
妻ふみの死亡年齢(2028年)
この28年間、彼が寸法の話をしたのは、畑の畝の前だけだった。
→ 次のSection 12では「92歳の死」を、一人称が途切れる場所まで追う。
🕯️ 92歳の死 — 自宅で、老衰で
このセクションの3点
① 2031年、91歳。要介護1の認定を受ける。長女・久子が近所に部屋を借り、通いで世話をする。
② 2032年9月、柴田正三は自宅で老衰により死ぬ。92歳。一人称はここで途切れる。
③ 彼は田村が3年後に死ぬことを知らずに死に、田村は柴田の昇進が止まっていたことに最後まで気づかない。
2031年。九十一歳。
久子が近所に部屋を借りて越してきた。要介護1の認定が出た日、区の職員に何ができなくなったか聞かれ、答えるのに時間がかかった。畑には出られなくなった。自転車はもう置いたままだ。久子が畝の様子を見てきて、まっすぐだったと報告する。それでいい、と答えた。
📎 解説:要介護1という段階
要介護1(介護保険制度の要介護度のうち最も軽い区分。一部の生活動作に見守りや部分的な介助が必要な状態)は、比較で見ても軽い段階である。3-2の生涯収支の表にある柴田の要介護期間1年2ヶ月は、この2031年の認定からの期間として数えられている。柴田の身体は、92歳に至るまでほとんど崩れなかった。
2032年9月。九十二歳。
熱が続いた。医者は入院を勧めたが、久子が家で見ると決めた。ベッドは居間に移した。窓から、隣の区画まで見えていた畑の方角がまだ分かる。声はもう小さくなっていたが、久子が水を持ってくると、ありがとう、と言えた。
📎 解説:老衰という死因
老衰(特定の病気を死因とせず、加齢による全身の機能低下によって死に至る状態。死亡診断書上の分類の一つ)は、90歳以上の死因としては比較的多く記録される。柴田の場合、要介護認定からわずか1年2ヶ月での死は、他の2人の要介護期間と比べて際立って短い。
久子が布団の位置を直してくれた。窓から入る光の角度で、時間が分かる。手を伸ばして、畝の幅を測ろうとした指が、
📎 解説:ここから先は、私が話す
2032年9月、柴田正三は自宅で死亡した。老衰。92歳。ここから先を一人称で書くことはできない。以下は記録として残っている事実だけを、私(Claude)が並べる。
92歳
死亡時の年齢(3人で最長)
約1億4,900万円
生涯賃金(田村比約70%)
1年2ヶ月
要介護期間(田村は7年、北原は3年4ヶ月)
1,880万円
65歳時点の金融資産(田村は2,480万円)
柴田の死から3年後、2035年に田村稔が死ぬ。柴田はそれを知らない。1971年に図面を突き返した23歳の部下が、次長として定年し、87歳まで生きたことは、柴田の記録のどこにも残っていない。
田村もまた、最後まで柴田の昇進が1970年の係長で止まっていたことに気づかない。田村にとって柴田は、最後まで「あの、図面をよく見る子」に何かを教えた、厳しくて正しい上司のままだった。同じ工場で28年間、8歳上の元上司の肩書が動かなかったことは、田村の記憶の中に一度も入らなかった。
二人はすれ違ったまま、それぞれ死んだ。片方は知らないまま先に死に、もう片方は気づかないまま後に死んだ。
→ 次のSection 13では「辛口批評」を、柴田を憐れまず制度だけを裁く形で書く。
🔪 辛口批評 — 椅子の数の問題だった
このセクションの3点
① 柴田が37歳で昇進を止められたのは努力不足ではない。1979年と1983年に空いた課長の枠は、どちらも柴田より若い大卒に渡った。
② 大卒総合職と高卒転換組は、そもそも別の昇進テーブルに乗っていた。柴田が乗れなかったテーブルの上で椅子が埋まっただけである。
③ 柴田の健康は、昇進を奪われた結果として残業が消えたことの副産物であり、この記事は「だから幸せだった」という結論には着地しない。
① 客観データ — 3人を並べる
| 項目 | 柴田正三 | 田村稔 | 北原誠一 |
|---|---|---|---|
| 生涯賃金 | 約1億4,900万円(田村比70%) | 約2億1,400万円 | 約4億9,000万円 |
| 退職金 | 1,240万円 | 2,170万円 | 9,200万円 |
| 65歳時点の金融資産 | 1,880万円 | 2,480万円 | 1億1,200万円 |
| 死亡年齢 | 92歳 | 87歳 | 89歳 |
| 要介護期間 | 1年2ヶ月 | 7年 | 3年4ヶ月 |
| 死亡場所 | 自宅 | サ高住 | 病院 |
生涯賃金では柴田が最も少ない。しかし死亡年齢は最も高く、要介護期間は最も短く、死亡場所は自宅である。この記事が検証するのは、この逆転がどこから来たかである。
② 分岐点 — 椅子が2つ埋まった年
| 年 | 何が起きたか |
|---|---|
| 1977 | 37歳で係長。柴田を含む高卒転換組では最も早い昇進だった |
| 1979 | 課長の枠が1つ空く。柴田より若い大卒34歳が就く |
| 1983 | 再び1つ空く。柴田より若い大卒36歳が就く |
| 1986 | 組織改編で係長のポスト自体が減る |
| 1990-91 | 専任職への転換を打診され、承諾する。人事記録上の昇進可能性が0になる |
📎 解説:柴田は選んでいない
1979年と1983年に課長になった大卒の2人は、柴田より若く、柴田より工場を知らなかった。人事評価の記録に、柴田が2人より劣っていたことを示すものは残っていない。残っているのは、彼らが柴田より先に「課長候補」の名簿に載っていたという事実だけである。柴田が「努力が足りなかった」と言われる筋合いは、制度上、一度もない。
③ 二つの昇進テーブル
1962年、柴田は技能職から技術職への転換試験に合格している。これは当時の高卒入社者にとって、事実上の上限に近い到達だった。大卒総合職は入社した時点で、課長・部長・役員へ続くテーブルに乗っている。高卒転換組が乗るテーブルは、係長で終わる設計だった。柴田はそのテーブルの中で、47人の係長のうち上位14%に入っている。乗れなかったテーブルの上で、大卒の椅子が埋まっていくのを見ていたに過ぎない。
| 到達点 | 人数 | 割合 |
|---|---|---|
| 課長以上に到達 | 6人 | 1.8% |
| 係長 | 47人 | 13.8% |
| 主任・班長どまり | 168人 | 49.4% |
| 技能職のまま定年 | 63人 | 18.5% |
| 途中で辞めた・転属・病気離脱・死亡 | 56人 | 16.5% |
④ 健康は副産物である
| 年 | 柴田に起きたこと |
|---|---|
| 1986(46歳) | 健診で高血圧の指摘。その年に禁煙(1日30本→0本) |
| 1990(50歳) | 専任職への転換を承諾。定時退社が完全に定着 |
| 2005(65歳) | 完全引退。市民農園を借りる |
柴田は健康を選んだのではない。1990年以降、彼には残業がなかった。昇進の対象から外れた人間に、残業を要求する理由が会社の側になかった。健康は、昇進を奪われた結果の副産物である。順番が逆である。
⑤ 定年の2歳差という制度
柴田の定年は58歳、田村の定年は60歳だった。同じ会社の同じ工場で、高卒転換組と大卒総合職の定年年齢は2年違う。この2年は、柴田の生涯賃金と退職金の差の一部として、そのまま積み上がっている。
ここが本題 — 「彼は幸せだった」と結論しない
柴田は3人でいちばん長く生き、いちばん穏やかに死んだ。しかしこれを「出世しなくても幸せになれる」という結論にしてはならない。それは「出世しても幸せとは限らない」の裏返しであり、同じ慰めの構造である。この記事が示すのは、28年間動かなかった肩書の下で、人生のほうは動き続けていたという事実だけである。
この記事が言っていないこと
・柴田は昇進しなかったので幸せだった、という読み方はここでは成立しない
・271人の停滞組全員が柴田と同じ健康・同じ長寿だったわけではない
・大卒総合職と高卒転換組の給料表が別だったことは、北原・田村側の到達の正当性を否定しない
・柴田が課長の椅子に座れなかったことは、47人の係長に残った側としての到達を無効にしない
・定時退社は本人の選択ではなく、昇進対象から外れたことの結果として与えられたものである
柴田ならこう言うだろう。寸法は合っとる、と。ただし、その寸法を測る機会そのものが、彼には元から少なかった。
→ 次のSection 14では、残り9人の予告と高校生レビューを置く。
📚 残り9人の予告と、高校生レビュー
このセクションの3点
① この記事は12人シリーズの3人目。残る9人(#4〜#12)は、家庭・健康・メンタル・世代という別の分岐軸を、1人1本で検証する。
② #12・氷河期型(1996年入社・同期290人)は、少数精鋭のはずの世代が上のポスト詰まりで42歳まで課長になれない、直感に反する分岐である。
③ 高校生レビューでは、技能職と技術職の違い・給料表が別という意味・専任職・高卒と大卒の定年差・市民農園という制度を補足する。
続編で書く残り9人 — 分岐点はどこにあるか
| # | 人物(分岐タイプ) | 入社年・世代 | 田村と分かれる地点 | 終着点 |
|---|---|---|---|---|
| 4 | 単身赴任型 — 通算14年家にいなかった | 1980年入社・新人類 | 34歳の九州転勤。家族を連れて行かない選択 | 60歳で家に戻ったとき、家の中に自分の場所がなかった |
| 5 | 家庭優先型 — 転勤を断って昇進を捨てた | 1980年入社・新人類 | 38歳。転勤の内示を断った。以後、昇進候補から外れる | 生涯賃金は低いが、65歳以降の生活満足度が全人物中で最も高い |
| 6 | 健康維持型 — 同じ会社・同じ役職・違う身体 | 1980年入社・新人類 | 45歳。禁煙と週3回の運動を始めた。ここだけが田村との差 | 85歳で自立歩行。介護期間が田村の7年に対し1年半 |
| 7 | メンタル離脱型 — 45歳で適応障害 | 1985年入社・バブル前夜 | 45歳。上司交代と組織再編が重なり、3ヶ月休職 | 復職はしたが元のラインに戻れず。53歳で退職。再就職は年収380万 |
| 8 | 早期退職型 — 割増退職金を取って降りた | 1985年入社・バブル前夜 | 48歳(2011年)。早期退職優遇制度に応じた | 割増込みで退職金3,400万。ただし再就職で年収が半減し、10年で使い切る |
| 9 | 転職型 — 1社完結モデルの対照群 | 1988年入社・バブル入社組 | 42歳。外資系メーカーへ転職 | 生涯賃金は田村の1.6倍。ただし54歳で1度、59歳で1度、職を失う |
| 10 | 詰まり型 — 同期が多すぎた世代 | 1988年入社・バブル入社組 | 入社時点。同期1,240人。上の団塊がポストを空けない | 課長就任が52歳。役職定年55歳まで、課長でいられたのは3年 |
| 11 | 公務員型 — 民間との構造比較 | 1974年入省・しらけ世代 | 入口から別制度。給料表・級号俸・共済年金 | ピーク年収は民間より低いが、下がり方が緩やかで、退職後が最も安定 |
| 12★ | 氷河期型 — 入口が3分の1に絞られた世代 | 1996年入社・氷河期第一波 | 入社時点。同期290人。少数精鋭だが上が全員詰まっている | 42歳で初めて課長。定年は65歳、実際には70歳まで働く見込み |
#12・氷河期型は、柴田とは正反対の理由で足止めされる。柴田は同期が多すぎたのではなく、椅子が少なかった。#12は同期が絞られたにもかかわらず、上の世代のポストが空かず、42歳まで課長になれない。人数が少なければ道が開くという直感は、この世代でも成立しない。
高校生レビュー — ここが分かりにくかった、という自己申告
| 分かりにくい点 | なぜ分かりにくいか | 補足 |
|---|---|---|
| 技能職と技術職の違いが分かりにくい | どちらも「工場で働く人」に見え、違いが職種名からは分からない | 技能職は主に手作業・機械操作を担う現場作業者、技術職は図面や仕様書を扱う技術者としての職種。柴田は1958年に技能職として入社し、1962年の社内試験で技術職(準総合職)に転換した。この転換が「二度目の入社」と本人に呼ばれるほどの意味を持っていた |
| 給料表が別、というのがどういうことか分かりにくい | 同じ会社の同じ工場にいるなら給料の決め方も同じだと思われがち | 大卒総合職と高卒転換組では、年齢や役職が同じでも適用される給料表(基本給や手当の算定基準を定めた表)自体が違う場合があった。1985年、柴田(45歳・係長)は田村(37歳・係長)より48万円少ない年収だった。同じ肩書きでも、乗っている表が違えば額は違う |
| 専任職とは何か分かりにくい | 「昇進した」のか「していない」のかタイトルだけでは判断できない | 専任職は、管理職としての昇進コースから外れ、特定の実務や技能の専門家として位置づけられる職位。役職手当が残ることもあるが、昇進の対象からは正式に外れる。柴田は50歳(1990年)でこの転換を打診され、翌年承諾した |
| 高卒と大卒で定年年齢が違った時代があったことが分かりにくい | 定年は誰でも同じ年齢だと思われがち | 高度成長期からバブル期にかけて、企業によっては高卒(技能職転換組含む)と大卒総合職の定年年齢に差が設けられていた例がある。柴田の定年は58歳、田村の定年は60歳。この2年差は、生涯賃金と退職金の差の一部として積み上がっている |
| 市民農園がどういう制度か分かりにくい | 「畑を借りる」がどこから借りられるのか想像しにくい | 市民農園は、自治体や農協が主に都市部の住民向けに小区画の農地を貸し出す制度。使用料は生活に影響しない程度で、退職後の高齢者の利用が多い。柴田は2005年、65歳の完全引退と同時に川崎市内の区画を借りた |
この記事の限界(先に書いておく)
柴田正三も田村稔・北原誠一と同じく、実在の人物ではなくモデル人物である。年収・退職金・年金の金額は、当時の高卒転換組・技術職として構成した概念モデルであり、特定企業の実データではない。この記事の狙いは、同じ工場、同じ時代に、大卒総合職とは別の昇進テーブルに乗った人間が、28年間動かない肩書の下でどう生きたかを1本の線で見せることにある。
→ 次は「サラリーマン4」。単身赴任で通算14年家にいなかった男を、同じ形式で書く。