🌥️ サラリーマン7 — 3ヶ月休んで、戻る場所が無かった男
✍️ 執筆: Claude Opus 5
1963年生まれ、1985年のプラザ合意の年に大手電機メーカーへ入社し、本社経理部で23年働いて43歳で課長になった。2008年、45歳のとき、新任部長の着任とリーマン後の組織再編が同時に来て、適応障害と診断される。3ヶ月休職した。休職制度も傷病手当金もあり、休むことはできた。復職もできた。しかし原職には戻れなかった。休職中の3ヶ月で席が埋まり、組織再編で経理部そのものが3分の1に減っていたからである。2016年、53歳で退職。誰も彼を辞めさせていない。追い出されたのではなく、戻る場所が無かっただけである。高梨実というモデル人物の一生を、22歳から現在まで書いた。2026年8月現在63歳、週4日勤務、年収230万円で、まだ働いている。
🌥️ この記事は何か — 誰も彼を辞めさせていない
このセクションの3点
① 既刊6本は全員、定年まで同じ会社に在籍した。7人目の高梨実(たかなし みのる・モデル人物・仮名)は53歳で退職する。定年まで会社に残らなかったのは、このシリーズで初めてである
② 主題は「制度は休めるようにできているが、戻れるようにはできていない」ということ。休職制度も傷病手当金もあり、休むことも復職することもできた。しかし原職には戻れなかった
③ 誰も高梨を辞めさせていない。パワハラも退職勧奨も無い。追い出されたのではなく、戻る場所が無かっただけである。この記事はそれを「メンタルを病んだ人の悲劇」として書かない
このシリーズの登場人物 — 同じ会社を生きた8人
登場人物 — 名前をクリックすると、その人の言葉が開きます
🏢 1. 田村 稔 中央値型 — 勝ちでも負けでもない 1970年入社・同期820人/到達=次長(上位17%)。部長には届かなかった
生涯賃金 約2億1,400万円/2035年・87歳没。要介護7年 記事を読む → 開く ▾
静岡の農家の次男で、家を出るしかなかった。入社の日、駅で父が黙って万年筆をくれた。パイロットの、安いやつだ。定年の日まで机の引き出しにあった。
玄関の柱に子どもの背を刻んだ線がある。健一の線は一九九三年で止まっている。
四十二で課長になった年が、いちばんよかった。まあ、そういうもんだ。
🖋️ 2. 北原 誠一 出世型 — 同期820人で3人 1970年入社・同期820人(田村と同期)/到達=取締役(0.4%)→ 子会社社長
生涯賃金 約4億9,000万円/2037年・89歳没 記事を読む → 開く ▾
入社式で隣に座ったのが田村だった。同じ大学を出て、同じ日に辞令を受け取った。私の紙には本社人事部と書いてあり、彼の紙には神奈川工場と書いてあった。
二〇〇二年、転籍のリストに彼の名前があった。私は手を止めて、判を押した。震えはしなかった。
それは、そういう仕組みだ。
🔧 3. 柴田 正三 停滞型 — 係長のまま28年 1958年入社・高卒技能職340人/到達=係長(30歳)。そこから28年動かず
生涯賃金 約1億4,900万円(田村の約7割)/2032年・92歳没。要介護1年2ヶ月・自宅で 記事を読む → 開く ▾
新潟から出てきて、旋盤の前に立った。二十二で試験に受かって技術職になった年を、私は二度目の入社と呼んでいる。ノギスはそのとき自分で買った。
三十で係長になった。同期でいちばん早かった。そのあと二十八年、何も動かなかった。課長の椅子が空いたとき、座ったのは大卒の三十四だった。
寸法は合っとる。
✈️ 4. 森 康彦 単身赴任型 — 通算14年、家にいなかった 1980年入社・同期940人/到達=部長(47人/940人=5.0%)
生涯賃金 約2億9,600万円/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む → 開く ▾
福岡、広島、名古屋、バンコク。四回出て、合わせて十四年、家にいなかった。断れた回もある。断らなかった。
帰るたびに家のルールが少し変わっていた。茶碗が食器棚の奥に移り、鍵が替わり、私の部屋が息子の部屋になった。帰任したら食卓の椅子が三脚しか出ていなかった。
まあ、なんとかなる。あれは必要な十四年だった。
🏠 5. 中村 正巳 家庭優先型 — 転勤を断った(#4の対照群) 1980年入社・同期940人(森と同期)/到達=課長(286人/940人=30.4%)
生涯賃金 約1億8,600万円(森の63%)/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む → 開く ▾
一九九六年、九州支店の課長への内示を断った。妻の母が倒れて、代わりが立たなかった。三日考えて、手順を全部書き出して、代わりの立たない箇所が一つ残った。それだけの話だ。
断ったのは一回きりだ。二度目は聞かれなかった。介護は三年で終わったが、そのあと十九年、話は来なかった。
家族はこのことを知らない。言うことでもない。それでいい。
🫀 6. 谷口 健一 健康維持型 — 変数は45歳の一点だけ(対照実験) 1980年入社・同期940人(中村と同期・生涯賃金差300万円)/到達=課長。中村とほぼ同じ経路
生涯賃金 約1億8,900万円/2026年8月現在67歳・存命/推計87歳没・要介護1年半 記事を読む → 開く ▾
私の最初の指導係は田村さんだった。図面は嘘をつかん、と教わった。あの言葉は柴田さんから田村さんに渡ったものだと、後で知った。
二〇〇三年、同じ部署の柏木さんが心筋梗塞で倒れて、戻ってこなかった。数日後、机が片付けられていた。私はそれを自分の席から見ていた。翌月から煙草をやめて、朝三十分歩き始めた。
理由を聞かれても、続けとるだけですとしか答えない。
🌥️ 7. 高梨 実(この記事の主人公) メンタル離脱型 — 3ヶ月休んで、戻る場所が無かった 1985年入社・同期1,180人/到達=課長 → 53歳で自己都合退職
生涯賃金 約1億9,800万円(65歳時の資産は7人中最下位)/2026年8月現在63歳・週4日勤務中 開く ▾
二〇〇八年の十月、月次の締めで数字が合わなかった。三度やり直しても合わなかった。合わないのは、自分の入力だった。
三ヶ月休んだ。制度は全部あった。復職もできた。ただ、戻る席が無かった。応援という名前の出向が、期限を書かれないまま七年続いた。
誰も私を辞めさせていない。帳尻は合います。
🚪 8. 岡部 昭夫 早期退職型 — 410万円で17年を売った 1985年入社・同期1,180人(高梨実と同期)/到達=課長。次長には届かなかった/2011年・48歳で希望退職に応募
生涯賃金 約9,000万円(前提つき試算・田村の約42%)/受取 約2,600万円/2026年8月現在63歳・部品商社(従業員80人)・年収410万円 記事を読む → 開く ▾
募集が出る一週間前、閉まっている食堂で部長に言われた。今回、対象に名前が入っている、と。それだけである。辞めろとは言われていない。
三週間、封筒を鞄に入れて出勤して、持ち帰った。二十一回出さなかった。二十二回目に出した。
あれは自分で決めたことです。十五年、そう言っている。妻には、あの面談のことを言っていない。
✈️ 9. 黒木 洋一 転職型 — 生涯賃金では勝った 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・相原修司と同期)/到達=東亜電機では係長 → 2010年44歳で外資へ/外資で部長級
生涯賃金 約2億4,000万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,380万円/2026年8月現在60歳・業務委託・年収420万円(ピークの約30%)/退職金ほぼ無し 記事を読む → 開く ▾
二〇一〇年、課長の内示が同期の別の人間に出たと聞いた。能力の差だとは思わなかった。あいつのいた部署は、その年に課長が定年になっていた。それだけである。
翌週、転職の登録サイトを開いた。六百九十万だった私が、隣の会社では千百五十万になった。あれが自分の値段だと思った。
今なら言える。あれは私の値段ではない。あの事業が伸びていた年の、あの会社が払えた額である。
⏳ 10. 相原 修司 詰まり型 — 30年待って、3年だけ課長 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・黒木洋一と同期)/到達=課長(52歳で就任)→ 55歳で役職定年。課長でいられたのは3年
生涯賃金 約2億800万円(田村稔の約97%)/2026年8月現在60歳・役職なし・年収580万円/2031年65歳定年・通算43年 記事を読む → 開く ▾
二〇一〇年、黒木に一緒に受けてみないかと誘われた。子どもがまだ小さいから、と断った。上の子は中学二年である。小さくはない。
本当は、外で自分の値段がつくのが怖かった。会社の中にいれば、私の価値は係長という文字で表される。誰も金額では言わない。
三十年待って課長になった。辞令の紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。妻には言っていない。
🏛️ 11. 森田 克彦 公務員型 — 最も揺れなかった/唯一の非民間 1975年・23歳で国家公務員採用(行政職俸給表(一))/到達=課長(45歳)。そこから15年、級は動かなかった
生涯賃金 約2億2,900万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,050万円/2012年60歳で定年→再任用→2017年65歳で終了/2026年8月現在74歳・年金で生活が成立 記事を読む → 開く ▾
採用の日に給料表を見せられた。あなたはここです、と指をさされて、上に行くとこうなります、と指を動かされた。安心したのは、その表に「景気」という欄が無かったからである。
二十八のとき、妻になる人に同じ紙を見せた。これって上がらないこともあるの、と聞かれて、無い、と答えた。五十のとき、号俸は上がっているのに年収が減った。表そのものが下がっていた。
四十六年たつが、二十八のときの説明を、私はまだ訂正していない。
🪑 12. 藤井 亮太 氷河期・正社員型 — 内定は1社だけだった 1996年入社・同期290人(シリーズ最少。1988年入社1,240人の約23%)/到達=課長(58人/290人=20.0%)。到達は42歳
生涯賃金 52歳時点の累計 約1億2,600万円/48年働く見込み/2026年8月現在52歳・課長・年収860万円/2029年55歳で役職定年 記事を読む → 開く ▾
三十年、誰にも言っていないことがある。私の内定は、一社だけだった。妻にも同期にも言っていない。言えば、私の三十年の説明が変わるからである。
二〇〇八年の十二月、部長に「一階、どこから減らせる」と聞かれた。どの工程が余っているかは、私がいちばん正確に知っていた。私は、本社が決めることです、と答えた。
十年ポストが動かなかったという話と、自分が選ばれて入ったという話を、私は一度も同じ机の上に並べたことがない。
🕰️ 13. 宮田 徹 在職死亡型 — 定年に着かなかった 1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多)/到達=次長(112人/1,240人=9.0%)
生涯賃金 約1億6,200万円(33年4ヶ月で終わった)/2021年8月・55歳で在職死亡 記事を読む → 開く ▾
私の最初の指導係は森さんだった。三日目に見積書を突き返された。これは誰が読む、と聞かれて、お客さんです、と即答した。違う、最初に読むのはうちの経理だ、と言われた。
それから三十三年、相手の背後にいる人間の顔を先に読んで生きた。その才能で次長になった。同じ才能で、この会社を一度も疑わなかった。
この病室は九時に電気が消える。会社にいた頃、九時はまだ夕方だった。
🧊 14. 大野 修 氷河期・非正規型 — 名簿に一度も載らなかった 1996年3月・国立大学卒/内定ゼロ(大卒求人倍率1.08倍)。正社員になったことが一度もない/到達=到達なし。アルバイト7年 → 製造派遣4年半 → 契約社員
生涯賃金 52歳までの累計 約7,900万円(藤井の63%・田村の生涯賃金の37%)/2026年8月現在52歳・契約社員・年収290万円/年金見込み月7〜8万円台 記事を読む → 開く ▾
二十二の春に、三十七通の不採用通知を受け取った。理由はどれにも書いていなかった。同じゼミの藤井は一社受かった。一社だけだったと知るのは、ずっとあとである。
二〇〇四年から二〇〇八年まで、神奈川の工場にいた。柴田さんが旋盤を教え、田村さんが図面を引いた建物だ。あの三人は名簿に載っている。私は載らない。派遣だからである。
名簿から消えるためには、まず載っていなければならない。
🌗 15. 矢部 直子 均等法第一世代 — 23.9%の側にいた/シリーズ唯一の女性 1986年4月・均等法の施行と同月に総合職入社。同期の総合職女性は4人/到達=課長(44歳)→ 次長(56歳)/38年間、一度も辞めていない
生涯賃金 約1億7,900万円(大卒女性の生涯賃金は全国推計で男性の78.4%・差7,080万円)/2024年60歳で定年→再雇用/2026年8月現在62歳・年収480万円 記事を読む → 開く ▾
一九九〇年に一人目を産んだとき、就業規則を二回読んだ。一回目は、見落としたのだと思ったからである。産前産後の休業は書いてあった。その先が無かった。
三ヶ月で戻った。三ヶ月にした理由は、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。育児休業法が公布されたのは、その翌年だった。
制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。
名前をクリックすると、その人物の言葉が開きます。全員が同じ会社(東亜電機)に勤めた設定で、入社年と分岐だけが違います。
これまでの6本、サラリーマン1の田村稔、サラリーマン2の北原誠一、サラリーマン3の柴田正三、サラリーマン4の森康彦、サラリーマン5の中村正巳、サラリーマン6の谷口健一は、役職も年収も家族構成もそれぞれ違うが、1つだけ共通している。全員、定年まで同じ会社に在籍した。会社を離れる理由が本人の側から出てくることは一度も無かった。
7人目の高梨実は違う。45歳で上司の交代と組織再編が同時に来て、適応障害と診断される。3ヶ月休職し、休職制度も傷病手当金も使い、期限どおりに復職した。しかし戻ったのは元の部署ではなかった。関連会社の管理部門へ「応援」という名目で出向し、そのまま7年が過ぎる。48歳で課長職を外れ、53歳で自己都合退職した。会社都合ではない。本人が申し出た退職である。
ここで明確にしておく。この記事は「メンタルを病んだ人の悲劇」として書かない。適応障害は本人の性格や弱さの問題ではなく、原因となる出来事がはっきりしている状態を指す診断名である。この記事が書くのは、高梨個人の弱さではなく、制度の形である。日本の大企業には休職に入るための入口の制度は整っている。しかし、休職から戻った後にどう働き続けるかという出口の設計は、2008年当時この会社には無かった。休める仕組みと、戻れる仕組みは、別のものである。
前提知識7語
| 用語 | 意味 | なぜこの記事で重要か |
|---|---|---|
| 適応障害 | 仕事や環境の変化など、原因となる出来事がはっきりしている状況で心身の症状が出る状態を指す診断名。本人の性格や弱さの問題ではない | 高梨は2008年10月、上司交代と組織再編が同時に来た直後にこの診断を受ける |
| 私傷病休職 | 仕事が原因ではない病気やけがについて、会社の就業規則に基づいて休むことを認める社内の制度 | 高梨はこの制度を使って3ヶ月休職した。労災ではなく私傷病として扱われている |
| 傷病手当金 | 健康保険から支給される給付金。働けない期間、標準報酬日額の3分の2が支払われる。当時は支給開始から最長1年6ヶ月まで受給できた | 高梨の休職中の生活は、この給付金によって支えられていた |
| 産業医 | 会社が委嘱し、従業員の健康管理や復職の可否を判断する医師。診断や治療をする主治医とは役割が違う | 高梨の復職の判定は、産業医面談を問題なく通っている |
| 原職復帰 | 休職前にいた部署・職務に復帰させることを原則とする、多くの企業の就業規則上の考え方 | 高梨の会社の就業規則にもこの原則は明記されていた。しかし実際には適用されなかった |
| リワークプログラム | 休職者が復職前に、生活リズムや業務遂行力を段階的に整えるための支援プログラム | 2008年当時、高梨の会社にはこの制度そのものが存在しなかった |
| 専任職 | 管理職の役職を外れ、部下を持たずに専門業務を担う社内の身分区分。年収が下がることが多い | 高梨は2011年、48歳でこの身分に転換し、年収が3割下がった |
→ 次のSection 2では、この記事の答えとなる数字――65歳時点の金融資産1,420万円と、生涯賃金1億9,800万円を先に出す。
⚖️ 【答え】稼いだ時期と、使う時期がずれた
このセクションの3点
① 高梨実の生涯賃金は約1億9,800万円で、柴田正三(約1億4,900万円)より4,900万円多い。しかし65歳時点の金融資産は1,420万円で、7人中最下位である
② 差を生んだのは金額の総量ではなく、稼いだ時期と使った時期のタイミングである。43歳で課長になった年の年収は890万円だったが、教育費のピーク(2011-2018年)には620万円まで落ちていた
③ 高梨だけが53歳で退職し、定年まで同じ会社に残らなかった。休職期間は3ヶ月だったが、「応援」名目の出向は7年続いた
1,420万円
65歳時点の金融資産・7人中最下位
約1億9,800万円
生涯賃金・柴田より4,900万円多い
3ヶ月
休職期間
7年
「応援」名目の出向が続いた年数
| 項目 | 高梨実 | 田村稔 | 北原誠一 | 柴田正三 | 森康彦 | 中村正巳 | 谷口健一 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 生涯賃金 | 約1億9,800万円 | 約2億1,400万円 | 約4億9,000万円 | 約1億4,900万円 | 約2億9,600万円 | 約1億8,600万円 | 約1億8,900万円 |
| 退職金 | 1,660万円 | 2,170万円 | 9,200万円 | 1,240万円 | 2,980万円 | 2,060万円 | 2,090万円 |
| 65歳時点の金融資産 | 1,420万円(推計・7人中最下位) | 2,480万円 | 1億1,200万円 | 1,880万円 | 3,120万円 | 4,260万円 | (推計 3,900万円) |
| 定年まで同じ会社 | いいえ(53歳で退職) | はい | はい | はい | はい | はい | はい |
| 2026年8月現在 | 63歳・週4日勤務中 | 没 | 没 | 没 | 68歳・引退 | 68歳・引退 | 67歳・引退 |
この表で最も重要な行は、生涯賃金と金融資産の順位が逆転している点である。高梨の生涯賃金は柴田正三より4,900万円多い。しかし65歳時点の金融資産は、柴田より少ない。金額の総量だけを見れば、高梨のほうが恵まれているはずである。順位が入れ替わるのは、稼ぐ額ではなく、稼ぐ時期がずれたからである。
2006年、43歳で課長になったとき、高梨の年収は890万円だった。この年、子は十三歳と十歳。私立文系・私立理系への進学が重なる教育費のピーク(2011年から2018年)が来たとき、年収はすでに620万円まで落ちていた。稼ぎが多かった時期と、出費が多かった時期が一致しなかった。1999年に組んだ35年の住宅ローンも、2034年、71歳まで残ったままである。
生涯賃金は柴田より4,900万円多い。65歳時点の資産は柴田より少ない。金額の総量ではなく、タイミングが資産を決めた。
→ 次のSection 3では、年収の推移を1985年の240万円から2026年の230万円まで並べ、43歳の890万円がなぜ資産に残らなかったかを見る。
💴 年収 — 890万円から380万円へ
このセクションの3点
① 高梨の年収は2006年、43歳で課長になった年に890万円まで上がるが、2008年の休職を経て620万円、2011年に専任職へ移ると更に▲30%まで下がる
② 2016年、53歳で退職した後の再就職先(中小製造業の経理)の年収は380万円。課長時代の890万円からは6割強の下落である
③ 1999年に組んだ35年の住宅ローンは2034年、71歳まで残っている。年収が下がった後も、返済額は変わらない
| 西暦 | 年齢 | 役職 | 年収 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1985 | 22 | 平社員 | 240万円 | プラザ合意の年に入社 |
| 1994 | 31 | 主任 | 580万円 | |
| 1999 | 36 | 係長 | 690万円 | さいたま市に3,650万円の建売 |
| 2006 | 43 | 課長 | 890万円 | 子は13歳と10歳 |
| 2008 | 45 | 課長(10月から休職) | 620万円 | 傷病手当金は標準報酬日額の3分の2。賞与も減る |
| 2009 | 46 | 課長(出向) | 780万円 | 復職。原職ではない |
| 2011 | 48 | 専任職 | 620万円 | 課長職を外れる。▲30% |
| 2015 | 52 | 専任職 | 640万円 | 子は22歳と19歳。教育費のピーク |
| 2016 | 53 | 退職 | — | 退職金 1,480万円(勤続31年) |
| 2017 | 54 | 中小製造業 経理 | 380万円 | 前年の6割 |
| 2023 | 60 | 定年→嘱託 | 230万円 | |
| 2026 | 63 | 嘱託(週4日) | 230万円 | 現在。まだ働いている |
年収の推移で目を引くのは、2008年から2011年までの3年間である。休職に入った2008年の年収は620万円に下がる。これは制度上、傷病手当金が標準報酬日額の3分の2しか支給されないことと、休職期間中は賞与の査定対象外になることが重なった結果である。翌2009年に復職すると年収は780万円まで戻るが、これは課長の肩書がまだ残っていたためであり、実際の職務は関連会社への出向という違う場所での仕事だった。
2011年、48歳で専任職に転換すると、年収は再び620万円まで落ちる。課長職を外れたことによる下落率は約30%である。専任職とは、管理職の役職を外れ、部下を持たずに専門業務を担う社内の身分区分であり、多くの日本企業で役職定年や配置転換の際に用いられる仕組みである。高梨の場合、役職定年の年齢に達したわけではなく、出向先での立場の変化として専任職への転換が行われた。
📎 解説:課長から中小企業へ移ると、年収は6割になる
2016年、53歳で退職した高梨の再就職先は、埼玉県の中小製造業(従業員42人)の経理だった。年収は380万円。これは課長時代の890万円からは6割強の下落だが、退職直前の年収である620万円から数えても、6割程度の下落になる。大企業の課長経験者が中小企業へ移ると、年収は6割前後になるのが相場だとされている。年収は下がったが、経理担当は1人だけであり、月次から年次決算、税理士との折衝まで、業務の範囲は大企業の課長時代より広くなっている。給料は減り、仕事の範囲は増えた。
📎 解説:ローンは71歳まで残る
1999年に組んだ35年の住宅ローンの完済予定は2034年、高梨が71歳のときである。年収が890万円から380万円、230万円へと下がっていく間も、毎月の返済額そのものは変わらない。年収に占めるローンの比率は、課長時代よりも退職後のほうがはるかに重くなっている。2026年現在も高梨が週4日勤務を続けている背景には、このローンの存在がある。ただし、それだけが理由ではない。
→ 次のSection 4では、高梨実という人物の設定と、同期1,180人という数字の意味、家族構成を見る。
👤 高梨実という人物
このセクションの3点
① 高梨実(たかなし みのる・モデル人物・仮名)は1963年生まれ。1985年、プラザ合意の年に東亜電機へ入社した。大卒総合職の同期は1,180人で、既刊6人の中で最も多い
② 埼玉県浦和市(現さいたま市)出身。1985年から2008年の休職まで、一貫して経理部に在籍した
③ 長女・咲(1993年生)と長男・悠(1996年生)は父が休職したことを覚えているが、「適応障害」という言葉は説明されていない
| 項目 | 値 |
|---|---|
| 生年月 | 1963年(昭和38年)7月。前3人(森・中村・谷口)より5歳下 |
| 出身 | 埼玉県浦和市(現さいたま市)。父は県立高校の数学教師。長男 |
| 学歴 | 1981年 県立高校 → 1985年 私立大学 経済学部 |
| 入社 | 1985年(昭和60年)4月。東亜電機。大卒総合職の同期1,180人 |
| 初配属 | 東京本社 経理部。以後、休職まで一貫して経理 |
| 結婚 | 1991年(28歳)。相手は社内の事務職・香織(1966年生)。1992年退職 |
| 子 | 長女・咲(1993年生)、長男・悠(1996年生) |
| 持ち家 | 1999年(36歳)、さいたま市に建売3,650万円。35年ローン(2034年完済予定) |
| 到達役職 | 主任(31・1994)→係長(36・1999)→課長(43・2006) |
| 2008年9月 | 新任部長が着任。同時に組織再編で経理部の本社集約と人員3分の1削減が決まる |
| 2008年10月 | 適応障害と診断される。3ヶ月の休職に入る(2008年10月〜2009年1月) |
| 2009年2月 | 復職。ただし原職ではなく、関連会社「東亜電機テクノサービス」の管理部門へ「応援」名目で出向 |
| 2011年 | 48歳。課長職を外れる。専任職。年収▲30% |
| 2016年11月 | 53歳。退職。会社都合ではなく自己都合。退職金1,480万円 |
| 再就職 | 2016年11月、埼玉県の中小製造業(従業員42人)の経理。年収380万円 |
| 2023年 | 60歳。その会社を定年。嘱託で継続 |
| 現在 | 2026年8月現在63歳。週4日勤務、年収230万円。まだ働いている |
同期1,180人という数字
高梨が入社した1985年は、プラザ合意が結ばれた年である。円高が急速に進み、その後のバブル経済へつながっていく時期にあたる。既刊6人の入社年(1970年・1958年・1980年)と比べても、1985年は大卒総合職の採用数が最も多い時期の1つで、同期は1,180人にのぼった。バブル前夜の採用増を反映した数字であり、高梨はこの世代の中で最も大人数の同期に囲まれて社会人生活を始めている。
家族
妻の香織(1966年生)は、1992年に退職して以来、専業主婦だった。2010年、高梨の復職後にスーパーのレジのパートを始めている。理由は生活費だが、本人がそれを言葉にすることはない。長女・咲(1993年生)は私立文系を卒業後、2016年に就職、2021年に結婚し、2026年現在33歳、さいたま市在住である。長男・悠(1996年生)は私立理系を卒業後、2019年に就職、2026年現在30歳、東京で独身のまま暮らしている。
咲と悠は、2008年の休職当時15歳と12歳で、父が3ヶ月家にいたことを覚えている。ただし「適応障害」という言葉は、2人には説明されていない。当時、香織は子どもたちに「体を悪くした」とだけ伝えた。2026年現在も、家族の中でこの話題が出ることはない。避けているわけではなく、もう終わったこととして扱われている。
→ 次のSection 5では、1985年から2007年、22歳から44歳までを高梨の一人称で見る。
🧮 1985-2007 22歳から44歳 — 経理の23年
このセクションの3点
① 1985年、高梨は東京本社の経理部に配属される。共用の電卓の感触が合わず、三日目に自分の金で買った
② 経理の仕事は月次の締めが軸になる。締めの日は毎月十日と決まっており、二十三年間、同じ日に同じ手順を繰り返す
③ 1991年に結婚、1993年に咲、1996年に悠が生まれ、1999年にさいたま市の建売を三十五年ローンで買い、2006年、四十三歳で課長になる
1985年4月。二十二歳。
配属先は東京の本社、経理部だった。大卒の同期は千百八十人と聞いたが、同じ部屋にいるのは十数人だけだった。案内された机には、共用の電卓が置かれていた。キーの重さが左右で違い、押した回数と表示が合わない気がした。三日ほど使って、自分の金で買い直した。シャープの十二桁だった。それ以来、机の引き出しではなく、机の上に置いたままにしている。
経理の仕事は、月の終わりに向けて積み上がる。毎月十日が締めの日と決まっていた。その日までに帳簿を合わせ、十日に確定させる。最初の年は先輩の後ろについて手順を覚えた。二年目からは自分の持ち場ができた。合わない箇所があれば、前の月の入力から順に見直す。手順は決まっていて、決まっている分だけ、迷う余地が少なかった。
📎 解説:電卓と、毎月十日
1985年に自分の金で買った電卓と、毎月十日という締めの日は、この記事全体を通して繰り返し出てくる。二十三年間、同じ日に同じ手順で作業を続けたという事実は、後の章で起きることの前提になる。ここではまだ、何かが崩れる予兆は無い。単に、そういう仕事の型があったということだけを記しておく。
1991年。二十八歳。
社内の事務職だった香織と結婚した。同じ本社の別の階にいた人で、部署の懇親会で言葉を交わす機会があった。結婚の翌年、香織は退職した。当時、その流れは特に珍しいものではなかった。新しく住んだ社宅は狭かったが、通勤には便利だった。休みの日は、二人で近所を歩いて回ることが多かった。
1993年。三十歳。
長女の咲が生まれた。名前は香織の提案だった。育児の分担は、香織が中心で、私は帰れる時間に合わせて動いた。経理は月の前半と後半で忙しさの波がある。締めの日である十日の前後は帰りが遅くなり、それ以外の週は比較的早く帰れた。その波に合わせて、家のことを回していた。
1996年。三十三歳。
長男の悠が生まれた。咲との年齢差は三つ。家の中に子どもが二人になり、香織の一日はそれまでよりも忙しくなった。私の仕事の側では、主任という肩書がついて数年が経ち、後輩の指導も任されるようになっていた。教える内容は、自分が最初の年に覚えたことと、ほとんど同じだった。
1999年。三十六歳。
さいたま市に建売を買った。三千六百五十万円だった。頭金は貯金でどうにか用意し、残りは三十五年のローンで組んだ。窓口の担当者から、完済時の年齢を確認された。答えると、担当者は特に何も言わず、次の書類を出した。三十五年という長さについて、その時はあまり深く考えなかった。子どもたちの部屋を二階に取り、一階に少し広い居間を作った家だった。
📎 解説:2034年まで残るローン
1999年に組んだ三十五年ローンの完済予定は2034年、高梨が七十一歳のときである。この時点ではまだ、年収は右肩上がりで、ローンの返済は特に無理のない範囲に収まっていた。後の章で年収が下がっていく間も、返済額そのものは変わらない。この家と、このローンの長さが、後の年収の章で意味を持ってくる。
2006年。四十三歳。
課長になった。経理部の中の一チームを任される立場になった。この年、咲は十三歳、悠は十歳だった。中学と小学校で、それぞれ新しい生活が始まる時期でもあった。課長になっても、月次の締めが十日であることは変わらない。ただ、締める側の作業に加えて、部下が作った数字を確認する作業が増えた。二重に見る分、時間はかかるが、確認する手順自体は自分が覚えてきたものと同じだった。
📎 解説:ここまでの23年
1985年から2006年までの二十一年、記録として残っている出来事に、大きな乱れは無い。入社、結婚、二人の子の誕生、住宅の購入、課長への昇進。順番も間隔も、当時のサラリーマンとして特に外れたものではない。変化が起きるのは、この先である。次の章で扱う2008年には、上司の交代と組織再編という2つの出来事が、同じ時期に重なって起きる。
→ 次のSection 6では、2008年、新任部長の着任と組織再編が同時に来た年を見る。
🌧️ 2008年 — 数字が合わなかった日
このセクションの3点
① 2008年9月、新任部長の着任と組織再編が同じ月に重なった。高梨は課長として削減対象者の名簿づくりを担当した
② 10月の月次の締めで数字が合わず、3度やり直しても合わなかった。合わないのは自分の入力だった
③ 心療内科で適応障害と診断され、3ヶ月の休職に入った
2008年9月。四十五歳。
九月、新しい部長が着任した。前任者は数字の並べ方に細かい人で、私はその型に十年近くかけて慣れてきた。新任の部長は違う型を持っていた。したがって、月次の締めの手順を、私がまた新しく作り直すことになった。着任の挨拶のあと、部長は締めの流れについて質問した。私は、これまでの手順を説明し、最後に一言添えた。帳尻は合います、と。そのうえで、来月からは部長の指示する順番に組み直すと伝えた。
📎 解説:2008年9月の組織再編
リーマン・ブラザーズが破綻したのは2008年9月15日である。高梨の勤務先はその影響を受け、経理部門の本社集約と人員三分の一の削減を、同じ月に発表した。景気後退への対応として当時多くの企業が取った措置であり、特定の個人を狙った決定ではない。
同じ月、本社から組織再編の方針が回ってきた。経理部は本社への集約が決まり、人員は三分の一に減らす計画だった。課長である私に、削減対象者の名簿づくりが割り振られた。対象になりうる年齢層と、勤続年数と、評価の履歴を、一人ずつ表に起こしていく仕事だった。隣の課の人間も、その表の中に含まれていた。名簿を作る側と、載る側が、同じフロアの、同じ空調の下にいた。
📎 解説:名簿を作る側という位置
北原誠一も2002年、取締役として関連会社への転籍リストに判を押している。ただし北原は役員室で名簿を決裁する立場だった。高梨は課長で、名簿に載る可能性のある人間と同じフロア、同じ部署で机を並べていた。そして高梨自身は、この名簿の対象ではなかった。削減される側ではなく、作る側にいた。それでも、折れたのは高梨だった。
夜、寝つけない日が増えた。表を作っている間、名前の並びが目の前から消えなかった。朝、駅の階段を降りるところで足が止まり、来た電車を一本見送った。次の電車で会社に行った。遅刻はしなかった。
📎 解説:適応障害という言葉
適応障害(ストレスの原因となる出来事が明確にあり、それに対する反応として心身の症状が生じる状態)は、原因が特定できることが診断の条件になる。原因を特定しづらい場合と区別される病名である。本人の性格や、忍耐力の問題として説明される病名ではない。
3分の1
経理部の人員削減規模(2008年9月)
3回
月次の締めをやり直した回数(2008年10月)
45歳
適応障害と診断された年齢
3ヶ月
休職期間(2008年10月〜2009年1月)
2008年10月。四十五歳。
十月十日。月次の締めの日だった。数字が合わなかった。もう一度、電卓を叩いた。合わなかった。三度目も、合わなかった。原因を探した。入力の欄を一つずつ遡った。自分の入力だった。数字を直した。締めは、一日遅れで終わった。
合わないのは、自分の入力だった。
📎 解説:引き金は2つ同時に来たこと
上司の交代だけであれば、業務の型を作り直す程度で済んだはずである。組織再編だけであっても、名簿づくりという作業として処理できたはずである。この2つが、同じ月に重なった。片方であれば耐えられる負荷が、重なったことで折れる負荷になった。
香織が、病院に行こうと言った。予約はすでに取ってあった。心療内科だった。医師は、いくつか質問をした。適応障害だと言った。三ヶ月、休むように言われた。診断書を受け取った。
📎 解説:誰にも悪意が無い
新任部長は、自分がこれまで慣れてきた手順に従っただけである。組織再編は、リーマン・ショック後の業績悪化に対して、多くの企業が取った合理的な判断である。名簿づくりを課長に割り振ったのも、通常の業務分担の範囲内である。悪意のある人間は、この経緯のどこにも登場しない。
📎 解説:傷病手当金の制度
傷病手当金は、健康保険から支給される、私傷病で働けない期間の生活保障である。標準報酬日額(給与を日割りにした基準額)の3分の2が支給される。2008年当時の支給期間は、支給開始から最長1年6ヶ月だった。高梨の3ヶ月の休職は、この制度の範囲内で完結している。
→ 次のSection 7では、休職した3ヶ月を追う。
🛏️ 2008年10月-2009年1月 — 3ヶ月
このセクションの3点
① 2008年10月から3ヶ月、家にいた。診断書は3ヶ月ごとに更新された
② 香織は弁当を作り続けた。通勤定期は期限切れのまま財布に入っていた。咲15歳と悠12歳は、家に父がいる時間を覚えている
③ 2009年1月、産業医面談。復職判定は問題なく通った
2008年10月-2009年1月。四十五歳。
家にいる三ヶ月だった。朝、起きる時間が決まっていなかった。テレビの音が、いつもと違う時間に聞こえた。庭の草を見た。特に何もしなかった。
📎 解説:診断書の更新
私傷病休職では、休職期間中も一定の間隔で診断書の提出が求められる。高梨の場合は3ヶ月ごとだった。診断書は、休職を継続するか、復職を判断するかの根拠になる。更新は本人の申告ではなく、主治医の診察を経て発行される。
香織は、毎日、弁当を作った。休んでいる間も、同じ数を作った。理由は聞いていない。通勤定期は、財布の中に入ったままだった。期限は十月で切れていた。
📎 解説:子どもへの説明
咲(15歳)と悠(12歳)には、父の病名は伝えられていない。「体を悪くした」という言い方だけが使われた。適応障害という診断名を子に説明しない対応は、この世代の家庭では珍しくない。病気を隠しているのではなく、説明の言葉が用意されていない場合が多い。
娘と息子は、私が家にいることを、特に聞かなかった。夕食の席は、いつもと同じ数だった。ただ、父が家にいる時間が長かった。二人は、それを覚えている。
📎 解説:産業医面談
産業医(企業が選任する、労働者の健康管理を担う医師)は、主治医とは別に、職場に戻れる状態かどうかを判断する。主治医が病状を診るのに対し、産業医は業務に耐えられるかを診る。この面談を経て、会社は復職の可否を決める。
一月、産業医との面談があった。いくつか質問された。眠れるようになったかを聞かれた。眠れると答えた。復職の判定は、問題なく通った。
📎 解説:回復ということ
高梨はこの3ヶ月で、何かを乗り越えたわけではない。眠れるようになった。それだけである。回復は、大きな変化として語られることが多いが、実際には、失われていたものが一つずつ戻る過程に過ぎない。
→ 次のSection 8では、復職した高梨が、自分の席を確認する。
🚪 2009年2月 — 席が無かった
このセクションの3点
① 2009年2月、復職。しかし原職には戻れず、関連会社「東亜電機テクノサービス」の管理部門へ「応援」名目で出向した
② 休職中の3ヶ月で経理部の席は埋まっていた。組織再編で人員は三分の一減り、戻る席が物理的に無かった
③ 制度は全部あった。原職復帰の原則も就業規則に明記されていた。それでも戻れなかった
2009年2月。四十五歳。
復職初日、経理部には案内されなかった。人事の担当者が、別の場所へ行くように言った。行き先は、本社ではなかった。関連会社の名前を言われた。東亜電機テクノサービス、応援で行ってほしいと言われた。
📎 解説:「応援」という言葉
出向(籍を本体に残したまま、別の会社で働く形態)には、通常、期間が明記される。高梨に伝えられた「応援」という言葉には、期限が書かれていなかった。文書にも、口頭でも、いつまでかは示されなかった。だから本人も、一時的なものとして受け取った。
東亜電機テクノサービスの管理部門に、机が用意されていた。仕事の内容は、以前とそれほど変わらなかった。名刺の肩書きだけが変わった。
📎 解説:この会社にいた2人
東亜電機テクノサービスは、田村稔が2002年に転籍した先であり、北原誠一が2008年に社長として着任した会社でもある。高梨がここに来た2009年、北原はまだ社長の椅子にいた。高梨は、この2人の名前も、経緯も知らない。ただ、机が用意されていた。
以前の経理部の席を見に行った。人が座っていた。名前を知らない後輩だった。三ヶ月の間に、席の主が変わっていた。
📎 解説:席が無かった理由
経理部は、この年の組織再編で人員を三分の一減らしている。休職前の高梨の席は、休職中に他の業務へ吸収された。誰かが高梨を排除する決定をしたわけではない。単純に、戻る場所が組織図の上から消えていた。
| 制度 | あったか | 実際どうだったか |
|---|---|---|
| 私傷病休職制度 | あった | 就業規則どおり3ヶ月休めた |
| 傷病手当金 | あった | 標準報酬日額の3分の2が支給された |
| 産業医面談 | あった | 復職判定は問題なく通った |
| 原職復帰の原則 | あった(就業規則に明記) | 実際には「応援」名目の出向になった |
| リワークプログラム | 無かった | 2008年当時、この会社には制度が無かった |
| 復職後のフォロー面談 | 制度としてはあった | 3回で終わった |
📎 解説:制度はあった
私傷病休職も、傷病手当金も、産業医面談も、原職復帰の原則も、すべて就業規則に定められていた。制度としては存在した。それでも高梨は元の部署に戻れなかった。理由は、誰の悪意でもなく、席が物理的に存在しなかったことにある。
復職後のフォロー面談は、三回で終わった。三回目の面談で、特に問題はないと言われた。それ以降、面談の予定は入らなかった。
→ 次のSection 9では、この出向がどう続いていくかを追う。
🚶 2011-2016 — 誰も辞めさせなかった
このセクションの3点
① 2011年、四十八歳の高梨は課長職を外れて専任職となり、年収は三割下がった。辞令には理由が書かれていなかった。
② 2013年に長女の咲、2015年に長男の悠が大学に進学し、二人が同時に学生である時期を迎える。
③ 2016年11月、高梨は自己都合で退職を申し出た。誰も彼を辞めさせてはいない。退職金は1,480万円だった。
2011年。四十八歳。
辞令を受け取った。専任職、と書かれていた。理由は無かった。
机に戻った。電卓を、いつもの位置に置き直した。
香織には、役職が外れたと言った。それだけ言った。
月次の締めは、変わらず十日だった。
📎 解説:「応援」に、期限は無かった
2009年に始まった「応援」という出向には、就業規則にも辞令にも、終了の期日が書かれていなかった。2011年の専任職への異動も、この枠組みの中で行われている。
その状態は7年間続いた。期限のない異動は、本人に「いつか終わる」という前提を持たせたまま、終わりを決める人間を誰にも置かない。
2013年-2015年。二人の学生。
咲が大学に入った。私立の文系だった。
二年後、悠も大学に入った。理系で、実験があると聞いた。
同じ時期に、二人とも学生になった。
香織は、パートの時間を少し増やした。理由は言わなかった。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 2011 | 課長職を外れ専任職に。年収は約620万円(▲30%) |
| 2013 | 長女・咲が大学進学(私立文系) |
| 2015 | 長男・悠が大学進学(私立理系)。二人が同時に在学 |
| 2016年10月 | 元の経理部の後輩(5期下)が部長になったと聞く |
| 2016年11月 | 退職を申し出る。自己都合。退職金1,480万円(勤続31年) |
📎 解説:退職金の算定基礎
退職金の額は、勤続年数だけでなく、退職時の役職・等級(算定基礎となる給与水準)によって決まる企業が多い。
高梨は2011年に課長職を外れ、専任職のまま2016年に退職している。勤続31年という長さに対して、退職金1,480万円という額は、課長のまま退職した場合より低い水準になっている。
年収の下落と、退職金の下落は、同じ一つの辞令から始まっている。
2016年11月。五十三歳。
後輩が部長になったと聞いた。ずいぶん下の後輩だった。
そうか、と思った。それだけだった。
退職を申し出た。理由を聞かれた。うまく答えられなかった。
引き止められた。条件は出なかった。
手続きを進めた。
📎 解説:自己都合退職という区分
雇用保険の失業給付は、退職の形によって受給開始のタイミングが変わる。会社都合退職ならすぐに給付が始まるが、自己都合退職の場合は、待期期間に加えて給付制限(当時は3ヶ月)が付く。
高梨の退職は自己都合として処理された。誰も彼に辞めるよう言っていない。区分そのものは、事実として正しい。
誰も高梨を辞めさせていない。それでも、彼は会社を出た。
→ 次のSection 10では、従業員42人の中小製造業で迎える13年間を見る。
🏭 2016-2023 — 従業員42人の会社で
このセクションの3点
① 2016年11月、53歳の高梨は埼玉県の中小製造業(従業員42人)の経理として再就職した。年収は380万円で、前年の6割程度である。
② 経理は高梨一人だった。月次・年次の締めから税理士対応、給与計算まで、すべてを一人で担った。
③ 2023年、60歳で定年を迎え、嘱託として同じ会社に残った。1985年に買った電卓は、この時点でもまだ机の上にあった。
2016年11月。五十三歳。
新しい会社は、埼玉にあった。従業員は、そう多くないと聞いた。
面接は一度だけだった。経理をやってきた、とだけ言った。
採用が決まった日、香織に伝えた。そうか、と言われた。
電卓を鞄に入れた。同じものを、また使うことにした。
📎 解説:年収は、なぜ六割になったか
大企業の課長経験者が中小企業へ転職すると、年収はおおむね六割前後になるというのが、転職市場での一般的な相場である。
高梨の場合、課長職を外れた後の年収620万円から380万円への移動であり、この相場にほぼ沿っている。890万円だった課長時代からは、四割強にまで下がっている。
役職から外れた後も、その役職の記録は、次の職場の価格を決め続ける。
机の上に、一人分の仕事があった。
経理は、私だけだった。
月次を締める。年次を締める。税理士に資料を渡す。給与を計算する。銀行の窓口にも行く。
誰かに聞くことはできない。誰かに任せることもできない。
すべての数字が、自分の手を通った。
📎 解説:中小企業の経理という仕事
従業員四十二人規模の会社では、経理担当者が一人という体制は珍しくない。大企業のように、経理部が伝票入力・仕訳・資金・税務・給与で分業されることはなく、一人が全工程を担う。
業務範囲は大企業の課長時代より広い。決裁権限は小さくなったが、扱う業務そのものは増えている。
給料は減り、仕事の範囲は広がった。
この仕事を、悪く言ったことはない。
数字が、全部見える。売上も、支払いも、残高も、隠れているものが無い。
1985年に買った電卓を、まだ使っている。ボタンの一部は、文字が消えている。
それでも、狂いなく動く。
| 大企業・課長時代 | 中小企業・経理 | |
|---|---|---|
| 従業員規模 | 数千人規模の一部署 | 42人 |
| 経理の人数 | 部署として複数名 | 1人 |
| 業務範囲 | 課の管理・部下の指導 | 入力・締め・税理士対応・給与・銀行窓口 |
| 年収 | 890万円(課長時代ピーク) | 380万円 |
📎 解説:肩書きと業務量
肩書きが失われても、業務の総量が減るわけではない。むしろ中小企業では、大企業で分業されていた仕事が一人に集約される。
高梨のケースは、地位が下がるにつれて業務範囲が広がるという、大企業から中小企業への移動でしばしば起きる構図をそのまま示している。
数字で見えるのは年収の下落だけだが、実際に起きているのは業務範囲の拡大でもある。
2023年。六十歳。
定年の辞令が来た。
その場で、嘱託として続ける話をされた。断らなかった。
机も、電卓も、そのままだった。
働く日数だけが、変わった。
→ 次のSection 11では、2026年現在、63歳になった高梨の週4日をたどる。
📍 2026年8月・63歳 — まだ働いている
このセクションの3点
① 2026年8月現在、63歳の高梨は週4日勤務を続けている。年収は230万円である。
② 1999年に組んだ35年ローンは2034年、71歳になる年まで残っている。ただし、彼が働き続ける理由はそれだけではない。
③ 家族の中で、2008年の休職の話が出ることはもうない。避けているのではなく、すでに終わったこととして扱われている。
2026年8月。六十三歳。
週に四日、出勤する。
机は、同じ場所にある。電卓も、同じ場所にある。
給与明細を確認する。それだけの作業だ。
締めの日は、今も十日だ。
📎 解説:ローンと、それだけではない理由
1999年に組んだ35年ローンは、2034年、高梨が71歳になる年まで残っている。これは、彼が63歳の現在も働き続けている理由の一つである。
ただし、高年齢者雇用安定法により、希望者への65歳までの雇用確保は事業者の義務になっている。制度としても、働き続けることは特別な選択ではなくなっている。
ローンの残存と、働き方の選択は、一つの理由だけでは説明できない。
香織も、休んでいない。
香織は、レジに立ち続けている。
2010年に始めて、今も続いている。
理由を聞いたことはない。聞かれたこともない。
弁当は、今も朝、用意されている。
📎 解説:香織のパートが始まった時期
香織がパートを始めたのは2010年、高梨の復職の翌年である。世帯の主たる収入者の役職・年収が変化した時期に、配偶者の就労が始まる、あるいは増える例は一般に見られる。
高梨家に限った動きではない。ただ、時期の一致は記録として残っている。
咲と悠。
33歳・既婚
咲
30歳・独身
悠
週4日
高梨の勤務
2034年
ローン完済予定(71歳)
咲は、さいたま市にいる。結婚して、家庭を持っている。
悠は、東京にいる。一人で暮らしている。
年末には、電話がある。
それ以上のことは、特に無い。
この話は、もう出ない。
あの三ヶ月のことは、今、家族の話題にならない。
咲も悠も、覚えている。当時のことは、聞いてこない。
香織も、何も言わない。
それで、済んでいる。
📎 解説:この十八年について
2008年の適応障害から、2026年までで十八年が経っている。この間、再発の記録は無い。
高梨家では、当時のことが話題になることはほとんど無い。診断名は、今も子どもたちに伝えられていない。
制度としての休職は3ヶ月で終わった。家族の中でのこの出来事は、それより長い時間をかけて、静かに終わっている。
電卓は、まだ机の上にある。月次の締めは、まだ十日である。
→ 次のSection 12では、休職から復職までの制度を、入口と出口の両面から検証する。
📋 制度のほう — 休める入口と、無い出口
このセクションの3点
① 高梨が使った6つの制度は、休職に入るところまでは全部機能した。私傷病休職・傷病手当金・産業医面談は、就業規則どおりに動いている
② しかし復職の場面では、原職復帰の原則が就業規則に明記されていたにもかかわらず「応援」という名目の出向になり、リワークプログラムはそもそも存在しなかった
③ この記事が置く核は、入口の制度は整備されているが、出口——戻ってからどうするか——の設計が無いという一点である。彼は相談し、制度も使った。それでも戻れなかった
6つの制度 — あったか、実際どうだったか
| 制度 | あったか | 実際どうだったか |
|---|---|---|
| 私傷病休職制度 | あった | 就業規則どおり3ヶ月休めた |
| 傷病手当金 | あった | 標準報酬日額の3分の2が支給された |
| 産業医面談 | あった | 復職判定は問題なく通った |
| 原職復帰の原則 | あった(就業規則に明記) | 実際には「応援」名目の出向になった |
| リワークプログラム | 無かった | 2008年当時、この会社には制度が無かった |
| 復職後のフォロー面談 | 制度としてはあった | 3回で終わった |
📎 解説:私傷病休職と傷病手当金
私傷病休職とは、業務外の病気やケガで働けなくなったときに、就業規則で定められた期間、雇用を維持したまま休める制度である。法律上の義務ではなく、会社ごとの規定にすぎない。休める期間も、給料が出るかどうかも、会社によって差がある。高梨の会社では3ヶ月の休職が認められた。
休職中の生活を支えたのは傷病手当金である。これは健康保険から支給されるもので、標準報酬日額の3分の2が目安になる。2008年当時は、支給が始まってから最長1年6ヶ月まで受け取れる仕組みだった。給料が全額出るわけではないため、休職中の年収は下がる。高梨の場合、2008年の年収は620万円で、前年の890万円から下がっている。休むことはできても、休むことは無料ではない。
📎 解説:産業医は主治医とは役割が違う
産業医は、会社が選任する医師である。主治医と役割が違う。主治医は病気を治すために診察し、治療方針を決める。産業医は、本人が職場で働ける状態かどうかを判断し、会社に対して意見を述べる立場にある。同じ「医師」という言葉でも、向いている方向が違う。
高梨は2009年1月に産業医面談を受け、復職判定は問題なく通った。これは「治った」という主治医の判断と、「働ける状態にある」という産業医の判断が一致したということであり、どの部署でどの仕事に戻るかは、産業医の判断の範囲には入っていない。そこは会社の人事と現場の裁量に委ねられている。
📎 解説:原職復帰の原則 — 書いてあることと、できることの差
原職復帰の原則とは、復職するときは元の職場・元の職務に戻すという考え方であり、高梨の会社の就業規則にも明記されていた。ただし、就業規則に書かれていることと、それが実行できることは別である。組織再編で経理部の人員が3分の1減っていたため、高梨が休職している3ヶ月の間に、彼の席は物理的に埋まっていた。
原則が実行されなかったのは、誰かがそれを破ったからではない。戻る場所そのものが、規則の外側で先に消えていたからである。就業規則は席を用意することまでは強制できない。
📎 解説:リワークプログラムという制度
リワークプログラムとは、休職者が復職する前に、生活リズムを整えたり、職場に近い環境で作業を試したりしながら段階的に復帰していくための支援プログラムを指す。主治医や産業医と連携しながら、休職と復職の間に置かれる中間段階である。2008年当時、高梨の会社にはこの制度が無かった。
高梨の復職は、3ヶ月休んだ翌日から、通常勤務に切り替わる形で行われた。中間段階が無かったことと、原職ではなく出向先での勤務になったことが同時に起きており、どちらか一方だけを取り出して原因とすることはできない。
2008年当時と、いまの違い
2008年から2026年までの間に、休職や復職をめぐる制度は変化している。ストレスチェック制度が従業員50人以上の事業者に義務化されるなど、休職に至る前の段階での取り組みは増えた。リワークプログラムを備える会社や、外部の医療機関・支援機関と連携する会社も、当時より広がっている。
ただし、制度が存在することと、それが個々の職場で運用されていることは別である。高梨の会社にも私傷病休職・傷病手当金・産業医面談・原職復帰の原則という4つの制度は当時から存在していた。それでも彼は原職に戻れなかった。制度の数が増えたからといって、出口の設計が自動的に埋まるとは言えない。
入口の制度は整備されている。出口——戻ってからどうするか——の設計が無い。これが、この記事が制度について置く結論である。
📎 解説:彼は相談した。制度も使った
高梨は香織に連れられて心療内科を受診し、診断を受け、休職制度を使い、産業医面談を受けている。手続きとしてやるべきことは、すべてやった。相談が遅かったわけではなく、制度を知らなかったわけでもない。それでも原職には戻れなかった。
この事実は、「もっと早く相談すればよかった」という結論を支えない。相談のタイミングではなく、戻る場所を用意する仕組みの側に、欠けている部分があった。
→ 次のSection 13では、この2008年の出来事と、その後の18年を辛口に検証する。
🔪 辛口批評 — 悪役がいないまま人が折れる
このセクションの3点
① 引き金は2つ同時に来たことである。上司交代だけなら耐えられた。組織再編だけでも耐えられた。同時だったから折れた。そして誰にも悪意が無い
② 制度は休めるようにできているが、戻れるようにはできていない。高梨は誰にも辞めさせられていない。追い出されたのではなく、戻る場所が無かっただけである
③ 生涯賃金は柴田正三より4,900万円多いのに、65歳時点の金融資産は柴田より少ない。金額の総量ではなく、稼いだ時期と使う時期がずれたことが、資産を決めた
① 引き金は2つ同時に来た
2008年9月、高梨の職場には2つの出来事が同時に起きている。新任部長の着任と、リーマン後の組織再編である。どちらか一方だけなら、高梨は乗り越えていたかもしれない。新任部長が来ただけなら、手順の変更に慣れるまでの数ヶ月を耐えればよかった。組織再編だけなら、名簿を作る側の負担はあっても、日々の手順は変わらなかった。2つが同時に来たことで、日常の手順が変わりながら、同時に自分の部署の人数が減っていく光景を見続けることになった。
② 誰にも悪意が無い
📎 解説:悪役がいないまま人が折れる
新任部長は、自分の経験に基づいて月次の締めの手順を変えただけである。組織再編は、リーマン後の業績悪化を受けた、経営としては合理的な判断だった。人事は、就業規則どおりに休職と復職の手続きを進めた。この記事に出てくる誰にも、高梨を追い込む意図は無い。
それでも高梨は折れた。悪役がいないまま人が折れ、悪役がいないまま戻る場所が消えた。加害者を1人に絞れる話であれば、対策も1つに絞れる。加害者がいないまま起きるからこそ、この種の出来事は繰り返される。
③④ 休めるが、戻れない。誰も辞めさせていない
高梨が使った制度は、休むところまでは機能した。私傷病休職、傷病手当金、産業医面談——就業規則に書かれた通りに動いている。壊れたのは、復職の場面である。原職復帰の原則は就業規則に明記されていたが、彼の席は休職中の3ヶ月で埋まっていた。戻ったのは原職ではなく、関連会社への「応援」という名目の出向だった。
2011年に課長職を外れ、2016年に退職するまでの過程を見ても、誰かが高梨に辞めるよう告げた場面は無い。辞令には理由が書かれず、退職の申し出は自己都合として処理された。パワハラも退職勧奨も無い。追い出されたのではなく、戻る場所が無かっただけである。この2つは、結果としては同じ退職に見えるが、原因としては別のものである。
⑤ 7人を並べる — 生涯賃金と、65歳時点の金融資産
| 項目 | 高梨実 | 田村稔 | 北原誠一 | 柴田正三 | 森康彦 | 中村正巳 | 谷口健一 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 生涯賃金 | 約1億9,800万円 | 約2億1,400万円 | 約4億9,000万円 | 約1億4,900万円 | 約2億9,600万円 | 約1億8,600万円 | 約1億8,900万円 |
| 退職金 | 1,660万円 | 2,170万円 | 9,200万円 | 1,240万円 | 2,980万円 | 2,060万円 | 2,090万円 |
| 65歳時点の金融資産 | 1,420万円(7人中最下位) | 2,480万円 | 1億1,200万円 | 1,880万円 | 3,120万円 | 4,260万円 | 3,900万円(推計) |
| 到達役職 | 課長(48歳で専任職) | 次長 | 取締役 | 係長(28年) | 部長 | 課長 | 課長 |
| 定年まで同じ会社 | いいえ(53歳で退職) | はい | はい | はい | はい | はい | はい |
+4,900万円
高梨の生涯賃金は柴田より多い
▲460万円
しかし65歳時点の金融資産は柴田より少ない
📎 解説:稼いだ時期と使う時期がずれた
高梨は生涯賃金で柴田正三を4,900万円上回っているにもかかわらず、65歳時点の金融資産では柴田を460万円下回り、7人中最下位にある。金額の総量ではなく、いつ稼ぎ、いつ使ったかのタイミングが、資産を決めた。
2006年、43歳で課長になったとき、高梨の年収は890万円に達している。このとき子は13歳と10歳で、教育費の本格化はまだ数年先だった。しかし教育費のピーク(2011年から2018年にかけて、2人が大学に同時在学した時期を含む)が来たとき、年収は課長職を外れた後の620万円まで落ちていた。収入の山と、支出の山が重ならなかった。その差が、7人の中で最も高い生涯賃金の1人でありながら、最も薄い資産を残す結果につながっている。
この記事が言っていないこと
・高梨は不運な犠牲者だった、という読み方はここでは成立しない
・新任部長や人事、組織再編の決定者が加害者だった、という読み方も成立しない
・「休んでよかった」も「休まなければよかった」も、この記事は言わない
・「早く相談すればよかった」——彼は相談し、制度も使った。それでも戻れなかった
・定年まで同じ会社にいた6人のほうが正解だった、という比較もここでは行わない
この記事が言うのは1つだけである。休職の入口だけ作って出口を作らない制度は、人を辞めさせずに辞めさせる。裁くのは高梨でも、新任部長でも、人事でもなく、その制度の設計である。
→ 次のSection 14では、残り5人の予告と高校生レビューを置く。
📚 残り5人の予告と、高校生レビュー
このセクションの3点
① この記事は12人シリーズの7人目。残る5人(#8〜#12)は、早期退職・転職・世代間の詰まり・公務員との構造比較・氷河期という別の分岐軸を、1人1本で検証する
② #12・氷河期型(1996年入社・同期290人)は、少数精鋭のはずの世代が上のポスト詰まりで42歳まで課長になれない分岐である。シリーズはここで一旦12人を揃える
③ あわせて、シリーズにもう1人を追加する。#13は、田村稔の同期820人のピラミッドにある「病気離脱・死亡」161人(19.6%)の側、定年に到達しなかった人生を書く
続編で書く残り5人 — 分岐点はどこにあるか
| # | 人物(分岐タイプ) | 入社年・世代 | 田村と分かれる地点 | 終着点 |
|---|---|---|---|---|
| 8 | 早期退職型 — 割増退職金を取って降りた | 1985年入社・バブル前夜 | 48歳(2011年)。早期退職優遇制度に応じた | 割増込みで退職金3,400万。ただし再就職で年収が半減し、10年で使い切る |
| 9 | 転職型 — 1社完結モデルの対照群 | 1988年入社・バブル入社組 | 42歳。外資系メーカーへ転職 | 生涯賃金は田村の1.6倍。ただし54歳で1度、59歳で1度、職を失う |
| 10 | 詰まり型 — 同期が多すぎた世代 | 1988年入社・バブル入社組 | 入社時点。同期1,240人。上の団塊がポストを空けない | 課長就任が52歳。役職定年55歳まで、課長でいられたのは3年 |
| 11 | 公務員型 — 民間との構造比較 | 1974年入省・しらけ世代 | 入口から別制度。給料表・級号俸・共済年金 | ピーク年収は民間より低いが、下がり方が緩やかで、退職後が最も安定 |
| 12★ | 氷河期型 — 入口が3分の1に絞られた世代 | 1996年入社・氷河期第一波 | 入社時点。同期290人。少数精鋭だが上が全員詰まっている | 42歳で初めて課長。定年は65歳、実際には70歳まで働く見込み |
#12・氷河期型は、高梨とは別の意味で構造的である。高梨の分岐点は45歳の2つの出来事だったが、#12にとっての分岐点は入社した年そのものである。同期を290人まで絞られたにもかかわらず、上の世代のポストが空かず、42歳まで課長になれない。人数が少なければ道が開くという直感は、この世代でも成立しない。
新たに加わる1人 — #13、定年に到達しなかった人生
これまでの12人は、退職・転職・出向という形で会社を離れるか、あるいは定年まで在籍するかのいずれかで人生の線を引いている。しかし田村稔の同期820人を追った1人目のピラミッドには、まだ書いていない層がある。「途中で辞めた・転籍・病気離脱・死亡」161人、全体の19.6%。この中には、定年という終着点そのものに到達しなかった人たちが含まれている。
#13では、この層のうち、在職中に末期がんで死ぬ人物を書く。高梨が53歳で「降りた」のに対して、#13は在職中に「終わる」。同じ会社に生涯を預ける前提そのものが、本人の意志とは関係なく途中で閉じられる場合があることを、12人の外側に置く。
高校生レビュー — ここが分かりにくかった、という自己申告
| 分かりにくい点 | なぜ分かりにくいか | 補足 |
|---|---|---|
| 適応障害とうつ病の違いが分かりにくい | 両方とも「メンタルの病気」という括りで見えて区別しにくい | 適応障害は、引っ越しや異動、人間関係の変化など、原因となる出来事が明確な状態を指す。うつ病は、原因がはっきりしない場合や、原因が取り除かれても症状が続く場合を含む、より広い診断名である。高梨は上司交代と組織再編という原因が明確だったため、適応障害と診断された |
| 私傷病休職と傷病手当金の違いが分かりにくい | 両方とも「休職中の話」に見えて、どちらが休む権利でどちらがお金の話か混ざる | 私傷病休職は、業務外の病気やケガで休める期間を定める会社の制度(法律上の義務ではない)。傷病手当金は、休職中の生活を支えるために健康保険から支給されるお金で、標準報酬日額の3分の2が目安になる。休む権利と、休んでいる間のお金は別の仕組みである |
| 産業医と主治医の違いが分かりにくい | 両方とも「医師」なので同じ役割に見える | 主治医は病気を治療する医師。産業医は会社が選任し、本人が職場で働ける状態かどうかを判断する医師である。高梨の復職判定は産業医が担当したが、どの部署のどの仕事に戻すかは産業医の判断の範囲外にある |
| 原職復帰の原則が分かりにくい | 就業規則に書かれているのだから当然実現すると思われがち | 復職するときは元の職場・元の職務に戻すという考え方だが、規則に書かれていても、その席が組織再編などで先に埋まっていれば実行できない。高梨の場合、休職中の3ヶ月で経理部の人員が3分の1減り、戻る席が物理的に無くなっていた |
| リワークプログラムが分かりにくい | 「復職支援」という言葉だけでは何をする制度か伝わらない | 休職者が復職する前に、生活リズムを整えたり、職場に近い環境で作業を試したりしながら段階的に復帰していく支援プログラムを指す。休職と復職の間に置かれる中間段階だが、高梨の会社には2008年当時、この制度が無かった |
| なぜ大企業から中小企業へ移ると年収が6割になるのか分かりにくい | 「同じ経理の仕事」に見えて、給料が下がる理由が分かりにくい | 大企業の給与は、企業規模に応じた賃金水準や役職の積み重ねを前提に設計されている。同じ経理でも、中小企業では役職や年功による積み上げが少なく、市場の相場に近い水準で決まる。高梨の場合、課長職を外れた後の620万円から380万円への移動で、これは大企業の課長経験者が中小へ移る際の一般的な下落幅にあたる |
この記事の限界(先に書いておく)
高梨実も、田村稔・北原誠一・柴田正三・森康彦・中村正巳・谷口健一と同じく、実在の人物ではなくモデル人物である。年収・退職金・金融資産の数値は、当時の大企業総合職として構成した概念モデルであり、特定企業や特定個人の実データではない。
高梨は2026年8月現在63歳で、週4日勤務を続けている。この記事は、高梨がその先いつまで働くか、いつ引退するかを書いていない。2026年で記事は終わり、続きは書かれていない。この記事の狙いは、休める制度と戻れる制度の差を1本の線で見せることにあり、高梨個人の将来を予測することではない。
→ 次は「サラリーマン8」。48歳で早期退職優遇制度に応じ、割増退職金を取って降りた人物を、同じ形式で書く。