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✈️ サラリーマン9 — 生涯賃金では勝った男

1966年生まれ、1988年に東亜電機へ入社。同期1,240人はこのシリーズ最多の代である。同じ入社式に、サラリーマン13の宮田徹と、サラリーマン10の相原修司がいた。3人とも同い年で、3人とも同じ会社に入った。黒木洋一は2010年、42歳で外資系メーカーの日本法人へ移る。年収は690万円から1,150万円になり、2015年には1,380万円に達した。生涯賃金の見込みは約2億4,000万円で、43年勤め上げた田村稔の約2億1,400万円を上回る。転職は成功した、と数字は言う。ただし2020年、54歳のときに事業撤退で職を失った。8ヶ月かけて別の外資に入り直し、2025年、59歳のときに買収で再び職を失った。2026年8月現在60歳、業務委託、年収420万円。ピーク時の3割である。そして退職金も企業年金も、ほとんど無い。この記事は、生涯賃金という物差しが何を測っていないかを扱う。

✈️ この記事は何か — 生涯賃金という物差しが測っていないもの

このセクションの4点

① 黒木洋一は1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多の代)。2010年、44歳で外資系メーカーの日本法人へ移った

② 年収は690万円から1,150万円になり、2015年に1,380万円のピークに達した。生涯賃金の見込みは約2億4,000万円で、43年勤めた田村稔の約2億1,400万円を上回る

③ それでも2020年に54歳で失職し、2025年に59歳で再び失職した。2026年8月現在60歳、業務委託、年収420万円。ピーク時の約30%である

④ このシリーズはここまで生涯賃金で人を並べてきた。この記事は、その物差しが「いつ、どう受け取ったか」を消してしまうことを扱う

プロローグ

黒木 洋一2026年8月・六十歳

四十九のとき、年収は千三百八十万あった。いまは四百二十万である。

それでも、四十四で会社を出てから今日までに受け取った額を全部足すと、あのまま残っていた場合より多い。計算はしてある。何度もしてある。

多いのに、退職金が無い。企業年金も無い。厚生年金の記録は三つの会社に分かれていて、いまは加入していない。いま契約が切れても、失業給付は出ない。業務委託だからである。

総額では勝っている。勝っているのに、老後の話になると、私だけ紙が薄い。

この十六年の説明を、私はまだつけられていない。

このシリーズの登場人物

登場人物 — 名前をクリックすると、その人の言葉が開きます

🏢 1. 田村 稔 中央値型 — 勝ちでも負けでもない 1970年入社・同期820人/到達=次長(上位17%)。部長には届かなかった
生涯賃金 約2億1,400万円/2035年・87歳没。要介護7年 記事を読む →
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静岡の農家の次男で、家を出るしかなかった。入社の日、駅で父が黙って万年筆をくれた。パイロットの、安いやつだ。定年の日まで机の引き出しにあった。

玄関の柱に子どもの背を刻んだ線がある。健一の線は一九九三年で止まっている。

四十二で課長になった年が、いちばんよかった。まあ、そういうもんだ。

🖋️ 2. 北原 誠一 出世型 — 同期820人で3人 1970年入社・同期820人(田村と同期)/到達=取締役(0.4%)→ 子会社社長
生涯賃金 約4億9,000万円/2037年・89歳没 記事を読む →
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入社式で隣に座ったのが田村だった。同じ大学を出て、同じ日に辞令を受け取った。私の紙には本社人事部と書いてあり、彼の紙には神奈川工場と書いてあった。

二〇〇二年、転籍のリストに彼の名前があった。私は手を止めて、判を押した。震えはしなかった。

それは、そういう仕組みだ。

🔧 3. 柴田 正三 停滞型 — 係長のまま28年 1958年入社・高卒技能職340人/到達=係長(30歳)。そこから28年動かず
生涯賃金 約1億4,900万円(田村の約7割)/2032年・92歳没。要介護1年2ヶ月・自宅で 記事を読む →
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新潟から出てきて、旋盤の前に立った。二十二で試験に受かって技術職になった年を、私は二度目の入社と呼んでいる。ノギスはそのとき自分で買った。

三十で係長になった。同期でいちばん早かった。そのあと二十八年、何も動かなかった。課長の椅子が空いたとき、座ったのは大卒の三十四だった。

寸法は合っとる。

✈️ 4. 森 康彦 単身赴任型 — 通算14年、家にいなかった 1980年入社・同期940人/到達=部長(47人/940人=5.0%)
生涯賃金 約2億9,600万円/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む →
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福岡、広島、名古屋、バンコク。四回出て、合わせて十四年、家にいなかった。断れた回もある。断らなかった。

帰るたびに家のルールが少し変わっていた。茶碗が食器棚の奥に移り、鍵が替わり、私の部屋が息子の部屋になった。帰任したら食卓の椅子が三脚しか出ていなかった。

まあ、なんとかなる。あれは必要な十四年だった。

🏠 5. 中村 正巳 家庭優先型 — 転勤を断った(#4の対照群) 1980年入社・同期940人(森と同期)/到達=課長(286人/940人=30.4%)
生涯賃金 約1億8,600万円(森の63%)/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む →
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一九九六年、九州支店の課長への内示を断った。妻の母が倒れて、代わりが立たなかった。三日考えて、手順を全部書き出して、代わりの立たない箇所が一つ残った。それだけの話だ。

断ったのは一回きりだ。二度目は聞かれなかった。介護は三年で終わったが、そのあと十九年、話は来なかった。

家族はこのことを知らない。言うことでもない。それでいい。

🫀 6. 谷口 健一 健康維持型 — 変数は45歳の一点だけ(対照実験) 1980年入社・同期940人(中村と同期・生涯賃金差300万円)/到達=課長。中村とほぼ同じ経路
生涯賃金 約1億8,900万円/2026年8月現在67歳・存命/推計87歳没・要介護1年半 記事を読む →
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私の最初の指導係は田村さんだった。図面は嘘をつかん、と教わった。あの言葉は柴田さんから田村さんに渡ったものだと、後で知った。

二〇〇三年、同じ部署の柏木さんが心筋梗塞で倒れて、戻ってこなかった。数日後、机が片付けられていた。私はそれを自分の席から見ていた。翌月から煙草をやめて、朝三十分歩き始めた。

理由を聞かれても、続けとるだけですとしか答えない。

🌥️ 7. 高梨 実 メンタル離脱型 — 3ヶ月休んで、戻る場所が無かった 1985年入社・同期1,180人/到達=課長 → 53歳で自己都合退職
生涯賃金 約1億9,800万円(65歳時の資産は7人中最下位)/2026年8月現在63歳・週4日勤務中 記事を読む →
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二〇〇八年の十月、月次の締めで数字が合わなかった。三度やり直しても合わなかった。合わないのは、自分の入力だった。

三ヶ月休んだ。制度は全部あった。復職もできた。ただ、戻る席が無かった。応援という名前の出向が、期限を書かれないまま七年続いた。

誰も私を辞めさせていない。帳尻は合います。

🚪 8. 岡部 昭夫 早期退職型 — 410万円で17年を売った 1985年入社・同期1,180人(高梨実と同期)/到達=課長。次長には届かなかった/2011年・48歳で希望退職に応募
生涯賃金 約9,000万円(前提つき試算・田村の約42%)/受取 約2,600万円/2026年8月現在63歳・部品商社(従業員80人)・年収410万円 記事を読む →
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募集が出る一週間前、閉まっている食堂で部長に言われた。今回、対象に名前が入っている、と。それだけである。辞めろとは言われていない。

三週間、封筒を鞄に入れて出勤して、持ち帰った。二十一回出さなかった。二十二回目に出した。

あれは自分で決めたことです。十五年、そう言っている。妻には、あの面談のことを言っていない。

✈️ 9. 黒木 洋一(この記事の主人公) 転職型 — 生涯賃金では勝った 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・相原修司と同期)/到達=東亜電機では係長 → 2010年44歳で外資へ/外資で部長級
生涯賃金 約2億4,000万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,380万円/2026年8月現在60歳・業務委託・年収420万円(ピークの約30%)/退職金ほぼ無し
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二〇一〇年、課長の内示が同期の別の人間に出たと聞いた。能力の差だとは思わなかった。あいつのいた部署は、その年に課長が定年になっていた。それだけである。

翌週、転職の登録サイトを開いた。六百九十万だった私が、隣の会社では千百五十万になった。あれが自分の値段だと思った。

今なら言える。あれは私の値段ではない。あの事業が伸びていた年の、あの会社が払えた額である。

10. 相原 修司 詰まり型 — 30年待って、3年だけ課長 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・黒木洋一と同期)/到達=課長(52歳で就任)→ 55歳で役職定年。課長でいられたのは3年
生涯賃金 約2億800万円(田村稔の約97%)/2026年8月現在60歳・役職なし・年収580万円/2031年65歳定年・通算43年 記事を読む →
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二〇一〇年、黒木に一緒に受けてみないかと誘われた。子どもがまだ小さいから、と断った。上の子は中学二年である。小さくはない。

本当は、外で自分の値段がつくのが怖かった。会社の中にいれば、私の価値は係長という文字で表される。誰も金額では言わない。

三十年待って課長になった。辞令の紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。妻には言っていない。

🏛️ 11. 森田 克彦 公務員型 — 最も揺れなかった/唯一の非民間 1975年・23歳で国家公務員採用(行政職俸給表(一))/到達=課長(45歳)。そこから15年、級は動かなかった
生涯賃金 約2億2,900万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,050万円/2012年60歳で定年→再任用→2017年65歳で終了/2026年8月現在74歳・年金で生活が成立 記事を読む →
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採用の日に給料表を見せられた。あなたはここです、と指をさされて、上に行くとこうなります、と指を動かされた。安心したのは、その表に「景気」という欄が無かったからである。

二十八のとき、妻になる人に同じ紙を見せた。これって上がらないこともあるの、と聞かれて、無い、と答えた。五十のとき、号俸は上がっているのに年収が減った。表そのものが下がっていた。

四十六年たつが、二十八のときの説明を、私はまだ訂正していない。

🪑 12. 藤井 亮太 氷河期・正社員型 — 内定は1社だけだった 1996年入社・同期290人(シリーズ最少。1988年入社1,240人の約23%)/到達=課長(58人/290人=20.0%)。到達は42歳
生涯賃金 52歳時点の累計 約1億2,600万円/48年働く見込み/2026年8月現在52歳・課長・年収860万円/2029年55歳で役職定年 記事を読む →
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三十年、誰にも言っていないことがある。私の内定は、一社だけだった。妻にも同期にも言っていない。言えば、私の三十年の説明が変わるからである。

二〇〇八年の十二月、部長に「一階、どこから減らせる」と聞かれた。どの工程が余っているかは、私がいちばん正確に知っていた。私は、本社が決めることです、と答えた。

十年ポストが動かなかったという話と、自分が選ばれて入ったという話を、私は一度も同じ机の上に並べたことがない。

🕰️ 13. 宮田 徹 在職死亡型 — 定年に着かなかった 1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多)/到達=次長(112人/1,240人=9.0%)
生涯賃金 約1億6,200万円(33年4ヶ月で終わった)/2021年8月・55歳で在職死亡 記事を読む →
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私の最初の指導係は森さんだった。三日目に見積書を突き返された。これは誰が読む、と聞かれて、お客さんです、と即答した。違う、最初に読むのはうちの経理だ、と言われた。

それから三十三年、相手の背後にいる人間の顔を先に読んで生きた。その才能で次長になった。同じ才能で、この会社を一度も疑わなかった。

この病室は九時に電気が消える。会社にいた頃、九時はまだ夕方だった。

🧊 14. 大野 修 氷河期・非正規型 — 名簿に一度も載らなかった 1996年3月・国立大学卒/内定ゼロ(大卒求人倍率1.08倍)。正社員になったことが一度もない/到達=到達なし。アルバイト7年 → 製造派遣4年半 → 契約社員
生涯賃金 52歳までの累計 約7,900万円(藤井の63%・田村の生涯賃金の37%)/2026年8月現在52歳・契約社員・年収290万円/年金見込み月7〜8万円台 記事を読む →
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二十二の春に、三十七通の不採用通知を受け取った。理由はどれにも書いていなかった。同じゼミの藤井は一社受かった。一社だけだったと知るのは、ずっとあとである。

二〇〇四年から二〇〇八年まで、神奈川の工場にいた。柴田さんが旋盤を教え、田村さんが図面を引いた建物だ。あの三人は名簿に載っている。私は載らない。派遣だからである。

名簿から消えるためには、まず載っていなければならない。

🌗 15. 矢部 直子 均等法第一世代 — 23.9%の側にいた/シリーズ唯一の女性 1986年4月・均等法の施行と同月に総合職入社。同期の総合職女性は4人/到達=課長(44歳)→ 次長(56歳)/38年間、一度も辞めていない
生涯賃金 約1億7,900万円(大卒女性の生涯賃金は全国推計で男性の78.4%・差7,080万円)/2024年60歳で定年→再雇用/2026年8月現在62歳・年収480万円 記事を読む →
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一九九〇年に一人目を産んだとき、就業規則を二回読んだ。一回目は、見落としたのだと思ったからである。産前産後の休業は書いてあった。その先が無かった。

三ヶ月で戻った。三ヶ月にした理由は、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。育児休業法が公布されたのは、その翌年だった。

制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。

名前をクリックすると、その人物の言葉が開きます。黒木洋一は13. 宮田徹10. 相原修司と同期です(1988年入社・同期1,240人・シリーズ最多の代)。3人は同じ入社式に出ています。

この記事が置く問い

このシリーズは13本の記事で、生涯賃金という1本の軸に人を並べてきた。北原誠一が約4億9,000万円で最も多く、大野修が52歳時点で約7,900万円と最も少ない。

黒木洋一は、その軸の上位に来る。生涯賃金の見込みは約2億4,000万円で、43年勤め上げた田村稔の約2億1,400万円を上回る。同期で残った相原修司の約2億800万円も上回る。

そして2026年の年収は420万円で、その相原の580万円より低い。

約2億4,000万円

生涯賃金の見込み(田村稔 約2億1,400万円を上回る)

1,380万円

2015年・49歳のピーク年収

420万円

2026年・60歳の年収(ピークの約30%)

2回

54歳と59歳、職を失った回数

📎 この記事が扱うのは、総額に書いていない部分である

生涯賃金は、働いている間に受け取った金額の合計である。合計であるから、いつ受け取ったかという情報が落ちる。

黒木の受け取り方は、このシリーズで唯一「山の形」をしている。44歳で急に上がり、49歳でピークをつけ、54歳と59歳の2回落ちた。他の人物は右肩上がりか、水平か、途中で切れるかのいずれかである。

山の形で受け取ることには、総額に現れない結果がついてくる。①退職金がほぼ無い ②厚生年金の加入記録が複数の事業所に分断される ③現在の年収420万円には雇用保険も事業主負担も付かない。

この3つはいずれも、生涯賃金という数字には表示されない。第12章で制度から計算する。

📎 この記事が「やらないこと」

①黒木を失敗者として書かない。生涯賃金では同期の誰よりも多く、43年勤めた田村稔も上回っている。転職は数字の上で成功している。

②「転職は損だ」という結論を出さない。厚生労働省「令和6年雇用動向調査」表6では、45〜49歳男性の転職で賃金が増加した人は46.4%、減少が23.8%である。40代の転職は統計上、賃金が上がりやすい。黒木の結果は方向として多数派にあたる。

③外資を悪者にしない。2020年の事業撤退も2025年の買収も、企業の判断として通常の範囲にある。そして黒木を10年間、1,000万円以上で雇い続けたのもその企業である。

④残った相原を正解として書かない。2010年の時点で、どちらの選択が正しいかを判定できる材料は、どちらの手元にも無かった。そして16年たった今も、どの物差しを使うべきかについて、この記事は答えを持っていない。

そしてこの記事には、もう1つ結び方がある。黒木の1,380万円が妥当な額だったのかを、検証する手段が無い。

経済産業省「外資系企業動向調査」は令和2年(2020年)で調査そのものが中止されている。外資系企業で働く人の賃金水準を公的に把握するデータが、現在は存在しない。

サラリーマン8では早期退職に応募した人の追跡統計が無いことを、サラリーマン10では役職定年後の処遇の統計が2007年で止まっていることを、それぞれ最後に置いた。今回で3度目である。人が実際に選んでいる選択肢について、社会が結果を測っていない。

まず答えから出す。生涯賃金では勝った。老後は、このシリーズで最も薄い。

⚖️ 【答え】生涯賃金は田村を上回った。老後は最も薄い

このセクションの3点

① 黒木洋一の生涯賃金の見込みは約2億4,000万円。43年勤め上げた<a href="/wiki/salaryman-life-1">田村稔</a>の約2億1,400万円より約2,600万円多く、残った<a href="/wiki/salaryman-life-10">相原修司</a>の約2億800万円より約3,200万円多い。総額では、転職は成功している

② ただし2026年現在の年収は420万円で、2015年のピーク1,380万円の約30%しかない。退職金は東亜電機を出た時点の水準以外に確認できるものが無く、外資2社の企業年金は本記事では未確定である

③ 「生涯賃金でどちらが多いか」という物差しは、年収がどれだけ大きく落ちたか、老後の備えがどれだけ薄いかを測っていない。田村・相原との比較表で見る

項目田村稔(<a href="/wiki/salaryman-life-1">#1</a>)黒木洋一(この記事)相原修司(<a href="/wiki/salaryman-life-10">#10</a>)
入社1970年・22歳(同期820人)1988年・22歳(同期1,240人)1988年・22歳(同期1,240人)
選択43年勤め上げ、2008年定年2010年・44歳で外資へ転職。以降54歳・59歳の2回失職残った。2018年・52歳で課長
ピーク年収900万円(1998年・50歳・次長)1,380万円(2015年・49歳・外資部長級)810万円(2020年・54歳・課長)
2026年8月現在完全引退・年金生活60歳・業務委託・420万円60歳・役職なし・580万円
生涯賃金(見込み)約2億1,400万円約2億4,000万円約2億800万円
退職金・企業年金退職金2,170万円(本体1,850万+関連会社320万)。年金は夫婦で月26.5万円東亜電機を22年で自己都合退職した時点の水準以外は本記事では未確定。外資2社の企業年金の有無も未確定本記事では未確定

📎 解説:2億4,000万円という数字は、何を数えた結果か

黒木の生涯賃金2億4,000万円は、1988年から2026年までの各年の年収(Section 3の表)を、その役職・立場が続いた年数分だけ積み上げた見積りである。途中の2回の失職期間(2020年の8ヶ月、2025年以降)は収入ゼロとして扱っている。

この数字だけを見れば、黒木は田村より2,600万円、相原より3,200万円多く稼いだことになる。22年間しかいなかった東亜電機を出て、外資2社で合計14年働いた結果として、43年勤め上げた同期を上回った。ここまでは事実である。

📎 解説:老後の備えという別の軸を置くと、順位が変わる

田村は退職金2,170万円と、夫婦で月26.5万円の年金が確定している(サラリーマン1で計算式まで示した)。黒木の場合、東亜電機を22年で自己都合退職した時点の退職金水準は統計で推定できるが、実際の受給額は本記事では未確定である。その後に勤めた外資2社に企業年金があったかどうかも、本記事では確認できていない。

生涯賃金の総額と、老後に確定している額は、別の数字である。黒木は前者で田村を上回り、後者では本記事の範囲では算定すらできない位置にいる。この差の内側をSection 12で見る。

🚫 この結論には前提がある(崩れれば数字も動く)

・黒木の生涯賃金2億4,000万円は、各年の年収を年数分積み上げた見積りであり、税・社会保険料を引いた手取りではない(田村の生涯賃金2億1,400万円も同じ名目ベースで、両者は比較可能な条件で並べている)

・東亜電機を出た時点の退職金水準は、厚労省の統計(勤続20年以上・自己都合退職)から推定できる参考値であり、黒木本人が実際に受け取った金額そのものではない

・外資2社に企業年金があったかどうかは本記事では未確定である。「外資系は退職金制度が無いか小さいことが多い」という一般論を後段で扱うが、これを裏づける一次統計は本記事には無い(Section 4・12で詳述)

→ 次のSection 3では、1988年から2026年までの38年間の年収を表で追う。黒木はこのシリーズで唯一「山の形」を描く人物である。

💴 年収38年 — 山の形をした唯一の人物

このセクションの3点

① 1988年の300万円から2015年の1,380万円まで上がり、2026年の420万円まで落ちる。このシリーズで唯一「山の形」を描く年収である

② ピーク(1,380万円)から現在(420万円)までの下落は▲960万円、率にして約69.6%減。この落差の大きさは、<a href="/wiki/salaryman-life-1">田村稔</a>や<a href="/wiki/salaryman-life-10">相原修司</a>には無い

③ それでも1988〜2026年の合計(生涯賃金の見込み)は約2億4,000万円で、田村・相原の両方を上回る。「山が高く険しい」ことと「総額が多い」ことは両立する

西暦年齢立場年収備考
198822平社員(東亜電機)300万円同期1,240人
199832主任580万円相原修司と同額
200539係長660万円課長の椅子が空かない
201044外資へ転職690万円 → 1,150万円東亜電機を22年で退職
201549外資・部長級1,380万円(ピーク)
202054事業撤退で失職8ヶ月の求職
202155別の外資980万円
202559買収で再び失職
202660業務委託420万円(現在)ピーク比 約30.4%

1,380万円

生涯ピーク(2015年・49歳・外資部長級)

420万円

2026年8月現在(60歳・業務委託)

▲69.6%

ピークから現在までの下落率

約2億4,000万円

生涯賃金の見込み(1988〜2026年)

📎 解説:このシリーズで唯一の「山の形」

田村稔の年収も1998年(900万円)をピークに下がってはいる。2002年の関連会社転籍で680万円(▲24.4%)、2007年に640万円、2008年の定年で0円になる。下がってはいるが、その要因は転籍と定年という、会社の制度に沿った下がり方である。

相原修司は2020年の810万円をピークに、2021年の役職定年で620万円(▲23.5%)、2026年に580万円まで下がる。下落率は黒木の3分の1程度である。

黒木の下落(▲69.6%)が際立つのは、下がり方が「制度」ではなく「失職」だからである。役職定年や定年は、いつ・どれだけ下がるかが事前に決まっている。黒木の2回の下落は、事業撤退と買収という、本人の外側で起きた出来事によって、事前の予告なく発生している。

📎 解説:山が高いほど、総額は伸びる

1988〜2026年の38年間を積み上げた生涯賃金の見込みは、黒木が約2億4,000万円、田村が約2億1,400万円、相原が約2億800万円である。黒木が最も多いのは、ピークの高さ(1,380万円)が他の2人より約1.7倍あるためである。

ただしこの合計には、2020年の8ヶ月間と、2025年以降の収入低下は反映されているが、「いつ落ちるか分からない」という不確実性そのものは数字に現れない。田村と相原は、いつ年収が下がるかをあらかじめ知っていた(定年・役職定年の年齢は制度で決まっている)。黒木は、2020年と2025年のどちらも、その年になるまで知らなかった。

38年間で、黒木の年収は4.6倍に上がり、その後3.3分の1まで下がった。
田村・相原の年収は、この振れ幅の3分の1から半分程度でしか動いていない。

→ 次のSection 4では、黒木洋一という人物の設定と、1,240人という同期の代が何を意味していたかを見る。

👤 黒木洋一という人物と、同期1,240人という代

このセクションの3点

① 黒木洋一、1966年(昭和41年)生まれ。1988年4月、東亜電機に入社した同期1,240人は、このシリーズに書かれた10代の中で最多である

② 厚労省「令和5年賃金構造基本統計調査」によれば、10人以上企業で課長級は100人あたり7.6人、部長級は4.0人にすぎない。同期の絶対数が多いほど、1人あたりの椅子は少なくなる

③ 黒木が2010年に移った外資系企業の賃金水準を検証できる公的統計は、実は存在しない。経産省「外資系企業動向調査」は令和2年調査をもって中止されている

項目
氏名黒木 洋一(くろき よういち)/モデル人物・仮名
生年1966年(昭和41年)
入社1988年4月・東亜電機・同期1,240人
到達(東亜電機)係長。課長の椅子が空かなかった
転機12010年・44歳で外資系メーカーの日本法人へ。年収690万円 → 1,150万円
転機22020年・54歳。日本法人の事業撤退で職を失う。8ヶ月かけて別の外資へ(年収980万円)
転機32025年・59歳。買収により再び職を失う。現在は業務委託で年収420万円
2026年8月現在60歳・業務委託・年収420万円

1988年入社1,240人という代

人物入社年同期人数
田村稔(#1)1970年820人
森康彦(#4)1980年940人
高梨実(#7)1985年1,180人
黒木洋一・相原修司宮田徹(#9・#10・#13)1988年1,240人
藤井亮太(#12)1996年290人

📎 解説:1,240人はこのシリーズで最多。しかも上も詰まっている

1988年入社の同期1,240人は、このシリーズで最も多い代である。しかも黒木・相原・宮田の3年上は1,180人、8年上は940人と、上の代も人数が多い。前が詰まっていて、自分の代も多い。この2つが重なった代に、3人は入っている。

厚生労働省「令和5年賃金構造基本統計調査」役職第2表(10人以上企業・雇用期間の定めのない一般労働者)から算出すると、課長級は労働者100人あたり7.6人、部長級は4.0人しかいない。1,000人以上の大企業に限っても、課長級は同じく7.6人である。(この算出は本リサーチが労働者数のデータから行ったものであり、厚労省が直接この形で公表している数値ではない。また令和5年単年のスナップショットであり、1988年入社世代が詰まっていたことを示す複数年の時系列比較は本記事では取得できていない。)

出典: 厚生労働省「令和5年賃金構造基本統計調査」役職第2表 e-Stat

2010年、黒木が外資へ移った先の賃金水準は、いまでは検証できない

📎 解説:外資系企業の公的統計は、2020年で止まっている

黒木は2010年、44歳で外資系メーカーの日本法人へ移り、年収は690万円から1,150万円になった。この額が、当時の外資系企業の賃金水準として妥当だったのかを検証できる公的統計は、実は存在しない。

経済産業省「外資系企業動向調査」は、行政効率化等の観点から令和2年(2020年)調査をもって中止されている。日系企業と外資系企業の賃金・処遇の差を継続的に追える公的統計は、2020年以降作られていない。

民間コンサルティング会社による日系・外資系の報酬比較記事は複数存在するが、これらは「当社調べ」に類する二次情報であり、本記事の基軸には採用しない。つまり黒木が2010年に得た1,150万円、2015年の1,380万円が「市場価格」として適正だったかどうかを、後から一次統計で検証する手段は、本記事には無い。

出典: 経済産業省「外資系企業動向調査」METI(調査終了の告知)

1,240人という代の大きさは、厚労省の役職者比率の統計で裏付けられる。
ただし黒木が移った先(外資系企業の賃金水準)を裏付ける統計は、2020年でなくなった。

→ 次のSection 5では、1988年4月の入社式に黒木・相原・宮田の3人がいた場面から始める。

🏢 1988-2005 — 同じ入社式にいた3人と、空かない椅子

このセクションの3点

① 1988年4月の入社式に、黒木洋一・相原修司・宮田徹の3人がいた。同期1,240人はシリーズ最多の代である。

② 黒木と相原は1998年に同じ年に主任、2005年に同じ年に係長になった。17年間、役職も年収も一致している。

③ 差がついたのは、最初に椅子が空いた瞬間である。2010年、黒木のいた部署では課長が動かなかった。

1988年4月。入社式。二十二歳。

黒木 洋一1988年4月・二十二歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

大講堂に千二百四十人が座った。名簿順で、私の四つ右あたりに相原がいて、その隣が宮田だった。顔を覚えたのは、その日ではない。研修で同じ班になってからである。

あの日、私は人数に興奮していた。これだけの人間が同じ日に同じ会社に入る。その規模の中に自分がいることが、そのときは誇らしかった。

今の私には言える。あれは規模ではなく、分母だった。千二百四十分の一という言い方を、私は四十代になるまで一度もしていない。してみたら、動くしかなくなった。

📎 解説:1,240人という代に入るということ

1988年入社の同期1,240人は、このシリーズで最多の代である。田村稔の1970年入社は820人、森康彦の1980年入社は940人、高梨実の1985年入社は1,180人、藤井亮太の1996年入社は290人。

役職の椅子の数は、同期の人数に連動しない。したがって人数が多い代ほど、1人あたりの椅子が少なくなる。この代から書いた宮田徹は次長まで到達しているが、これは1,240人中112人=9.0%にあたる。

そして上の代も多い。3年上が1,180人、8年上が940人。前が詰まっていて、自分の代も多い。この2つが重なる代に、黒木・相原・宮田の3人は入った。

結果として、この代の3人は誰も定年に着いていない。宮田は55歳で死に、相原は55歳で役職を降り、黒木は54歳と59歳の2回、職を失う。

1988年から2005年。二十二歳から三十九歳。

1988-2005年

営業管理にいた。相原は同じ部の別の課である。宮田は営業本体で、あいつだけ早かった。二〇〇五年に、宮田はもう課長になっている。

相原と私は、仕事の型が似ていた。書類を作って、数字を合わせて、上に説明する。だから同じ年に主任になり、同じ年に係長になった。一九九八年に五百八十万、二〇〇五年に六百六十万。金額まで同じである。

係長になった夜、二人で飲んだ。次は課長だな、と言い合った。私は三年後だと思っていた。

当時の私には言えなかった。今なら言える。あの時点で、私と相原の差は無かった。差が無いということは、どちらが先に上がるかを決めるものが、私たちの中に無いということである。決めるのは、どちらの部署の課長が先に動くかである。

西暦年齢黒木 洋一(この記事)相原 修司(<a href="/wiki/salaryman-life-10">#10</a>)宮田 徹(<a href="/wiki/salaryman-life-13">#13</a>)
198822入社(同期1,240人)入社入社
199832主任・580万円主任・580万円(同額)主任
200539係長・660万円係長・660万円(同じ年・同額)課長
201044外資へ。690万→1,150万円係長・680万円課長

📎 解説:17年間、2人の記録は完全に一致している

1988年の入社から2005年の係長まで、黒木と相原の役職と年収は17年間一致している。主任も係長も同じ年で、金額も同じである。

これは日本の年功的な処遇の特徴をそのまま示している。同じ年に入り、同じような仕事をしていれば、処遇はほぼ同じに動く。能力の差は、この期間には金額として現れない。

この「差が出ない」という性質が、40代で反転する。係長までは自動的に上がるが、課長からは椅子の数で決まるからである。そして椅子が空くかどうかは、本人の外側で決まる。

2010年、黒木のいた部署の課長は52歳で、動かなかった。相原のいた部署も動かなかった。そして同期の別の人間のいた部署では、課長がその年に定年になった。内示はそこに出た。

17年同じだった2人が、この一点から分かれる。黒木は出て、相原は残った。2026年、黒木の年収は420万円、相原は580万円である。ただし生涯賃金では、黒木のほうが約3,200万円多い見込みになる。この逆転をどう読むかが、この記事の最終章である。

2005年から2009年。三十九歳から四十三歳。

2005-2009年

係長のまま四年が過ぎた。仕事は増えた。部下も増えた。役職だけが動かない。

この四年で、私は自分の部署の課長の年齢を意識するようになった。五十二である。定年まで八年ある。八年待てば私は五十一だ。

それを計算した日のことを、はっきり覚えている。手帳の隅に、五十一、と書いた。書いて、すぐ消した。

今の私には言える。あの数字を消したとき、私はもう会社を出る側に立っていた。消さずに受け入れていたら、私は相原になっていた。相原が課長になるのは五十二である。私が手帳に書いた数字と、一つしか違わない。

1988年4月、同じ会場に1,240人がいた。
黒木・相原・宮田は、そのうちの3人である。

2010年、課長の内示が同期の別の人間に出る。その翌週、黒木は動く。

🚪 2010年 — 内示が同期に出た翌週に、彼は動いた

このセクションの3点

① 2010年、44歳。課長の内示が同期の別の人間に出たことを、黒木は人づてに知った。その翌週、転職エージェントに登録している。

② 同期の相原修司を「一緒に受けてみないか」と誘い、断られた。理由は「子どもが小さいから」だった。

③ 外資系メーカーの日本法人に決まる。年収690万円が1,150万円になった。

2010年5月。四十四歳。

黒木 洋一2010年5月・四十四歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

内示が出たことを、私は本人からではなく、別の部署の人間から聞いた。あいつ課長だってな、と言われた。私は、そうか、と答えた。

相手は同期である。一九八八年の入社式に、私と同じ会場にいた千二百四十人のうちの一人だ。能力の差だとは思わなかった。実際、差は無かったと思う。あいつのいた部署は、その年に課長が一人定年になっていた。私のいた部署は、課長がまだ五十二だった。

それだけである。それだけのことで、私はあと十年待つことになる。

その週末、私はほとんど何も考えていない。翌週の月曜に、転職の登録サイトを開いた。迷った記憶が無い。十六年たった今も、あの一週間だけは、迷った感触が思い出せない。

📎 解説:椅子が空くかどうかは、部署ごとに違う

昇進のタイミングを決めているのは、本人の評価だけではない。その部署の上のポストが、その年に空くかどうかである。課長が定年・異動・退職のいずれかで抜ければ椅子が1つ空き、抜けなければ空かない。

1988年入社の同期は1,240人で、このシリーズで最も多い代である。田村稔の1970年入社は820人、森康彦の1980年入社は940人、藤井亮太の1996年入社は290人。1,240人が同じ数の椅子を取り合う。

この構造では、同じ能力の2人のうち、上が先に抜けた部署にいたほうが先に昇進する。そして先に昇進した人間は、次のポストにも先に並ぶ。最初の1回のずれが、その後ずっと戻らない。

黒木がこの年に見たのは、その最初の1回である。彼はそれを能力の差ではないと正確に理解し、そのうえで会社を出た。同じことを見て残った同期が、相原修司である。相原が課長になるのは、この8年後、52歳のときである。

2010年6月。相原を誘った。

2010年6月

相原とは、入社の年から付き合いがある。同じ年に係長になった。仕事の出来は、正直、あいつのほうが丁寧だった。

飲みに誘って、話した。

「一緒に受けてみないか」

「どこを」

「外資。おれのところに来てる話がある」

相原はしばらく黙っていた。それから、こう言った。

「子どもがまだ小さいから」

私は、そうか、と言った。それで終わりである。その晩、それ以上その話はしなかった。

今の私には言える。あれは断りの理由ではなかった。断るための言葉だった。あいつの子どもは、あのとき上が中学生である。小さくはない。私はそれを知っていて、聞き流した。聞き流したのは、追及すると自分の側の理由まで説明することになるからである。

📎 解説:この場面を、相原修司の側からも書いてある

同じ夜の場面は、サラリーマン10の相原修司の側からも書いている。相原は断った理由を、いまも家族に説明していない。

このシリーズは「断れた一回」を各人物に1つ置いている。中村正巳は転勤を断り、20年後に約1億円の生涯賃金差になった。岡部昭夫は3週間、応募書類を鞄に入れて持ち歩いた。

黒木と相原の場合、断れた一回が2人で共有されている。同じ夜、同じ席で、片方が出て片方が残った。そしてどちらも、その夜のことを家族に話していない。

2010年9月。決まった。

2010年9月・四十四歳

外資系メーカーの日本法人だった。面接は三回で、そのうち一回は英語だった。私の英語は、当時ひどいものである。それでも通った。

提示は千百五十万だった。そのときの私の年収は六百九十万である。四百六十万上がる。

数字を見たとき、私が思ったのは、これが自分の値段だったのか、ということである。二十二年いた会社では六百九十万だった。同じ人間が、隣の会社に行くと千百五十万になる。

当時の私は、これを「正しい評価にたどり着いた」と受け取った。今の私には言える。あれは私の値段ではなかった。あの会社のあの事業が、あの年に伸びていた。だからあの額が出た。同じ人間に同じ額が出るかどうかは、その事業が伸びているかどうかで決まる。私がそれを理解するのに、十年かかった。

690万円

2010年・東亜電機での年収(44歳・係長)

1,150万円

転職後の提示額

+460万円

22年

東亜電機にいた年数

📎 解説:転職で年収が上がることは、珍しくない

厚生労働省「令和6年雇用動向調査」表6によれば、男性の転職入職者で前職より賃金が増加した人の割合は、45〜49歳で46.4%、減少が23.8%である。増加が22.6ポイント上回る。50〜54歳でも+10.8ポイントで、増加が優勢である。

40代の転職は、統計の上では賃金が上がりやすい。黒木の+460万円は幅としては大きいが、方向としては多数派にあたる。

ただし同じ表の下のほうで、様子が変わる。55〜59歳では減少36.6%が増加27.4%を上回って逆転し(−9.2ポイント)、60〜64歳では−47.3ポイントになる。

黒木はこのあと、54歳と59歳の2回、職を失う。1回目は逆転の直前、2回目は逆転した後である。同じ「転職する能力」が、年齢によって別の結果を出す。44歳の彼は、そのことをまだ知らない。

注: この数値は令和6年(2024年)の調査値であり、黒木が転職した2010年の値ではない。本記事では2010年時点の同一統計表を取得していない。

2010年、黒木洋一は44歳で会社を出た。
相原修司は残り、8年後の2018年、52歳で課長になる。

この先10年、彼の年収は上がり続ける。1,150万円から1,380万円まで。

📈 2010-2019 — 外資での10年。1,150万円から1,380万円へ

このセクションの3点

① 2010年の1,150万円は、2015年に1,380万円になった。5年で+230万円、年あたり46万円のペースである。東亜電機での22年間は+390万円、年あたり17.7万円だった。

② 評価の物差しが変わった。東亜電機では勤続年数に応じて椅子が回ってくるのを待つ構造だったが、外資では担当する事業の業績に応じて個別に見直される。

③ 退職金・企業年金の説明を、彼はこの10年で一度も受けていない。勤務先の制度の詳細は本記事では未確定である。

2011年。最初の評価面談。

黒木 洋一2011年・四十五歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

東亜電機に評価面談という制度は無かった。上司との一対一の場は、年に一度、年末に十五分あるだけで、そこで話されるのは来年の異動の噂だった。

外資に来て、最初に驚いたのは面談の回数である。四半期ごとに、担当する数字の進み具合を確認される。年の初めに自分で目標を書き、四半期ごとにそれを更新し、年末に達成度で評価が決まる。勤続年数という項目は、書類のどこにも無かった。

当時の私は、これを歓迎した。ようやく実力で見てもらえる、と思った。今の私には言える。あれは実力で見る仕組みではない。担当した事業の数字で見る仕組みだった。実力と事業の数字は、重なることもあれば、重ならないこともある。それを重ならない側で経験するのは、まだ先の話である。

📎 解説:上がり方が、東亜電機時代の3倍近い

この記事のSection 3で示した年収表から計算すると、黒木の東亜電機時代(1988〜2010年・22年間)の上昇は300万円から690万円まで、+390万円、年あたり17.7万円である。転職後(2010〜2015年・5年間)は1,150万円から1,380万円まで、+230万円、年あたり46万円。上がるペースは、単純計算で2.6倍になっている。

速いこと自体は良い話に見える。ただしこのペースは、年功のように自動で積み上がるものではない。Section 6の解説で触れたとおり、外資での評価は「同じ人間に同じ額が出るかどうかは、その事業が伸びているかどうかで決まる」。伸びている間は速く上がる。伸びが止まれば、同じ速さで下に振れる可能性を、この時点の黒木はまだ考えていない。

2013年-2015年。事業が伸びていた。

2015年・四十九歳

私が担当していた製品は、この時期の日本市場でよく売れた。四半期ごとの数字は毎回、前年より良かった。目標達成のボーナスが出て、年末の見直しで基本給も上がった。三年続けて、そうだった。

同じ本社の、別の事業を担当している同期入社の日本人がいた。彼の担当する製品は、この時期の市場で伸びていなかった。彼の評価は、私よりずっと控えめだった。能力の差だとは、正直、思えなかった。彼の仕事のやり方を、私は何度か見ている。丁寧で、抜けが無かった。

四十九歳の年末、提示は千三百八十万になった。二〇一〇年の千百五十万から、五年で二百三十万上がっている。当時の私には言えなかった。今の私には言える。あの二百三十万の大部分は、私が良かったからではなく、私の担当した事業が良かったからである。そのことに、うっすら気づいていた。気づいていたのに、深く考えなかった。深く考えると、都合の悪い結論に着くと分かっていたからである。

1,150万円

2010年・転職直後の年収(44歳)

1,380万円

2015年・ピーク(49歳)

+230万円

5年間の上昇

46万円/年

上昇ペース(東亜電機時代は17.7万円/年)

2016年-2019年。制度の説明を、一度も受けていない。

2019年・五十三歳

この間の年ごとの正確な額は、本記事では確認できていない。おおむね千三百万台で推移していたと記憶している。数字が伸びなくなっても、下がらなければ気にしないでいられた。

気になったのは、別のことである。人事の説明会が年に一度あるが、そこで話されるのは医療保険と持株制度だけだった。退職金や企業年金の話を、私は入社から一度も聞いていない。東亜電機にいた同期に聞くと、あちらには積み立てられている企業年金の額を毎年書面で知らせる制度があるという。私の手元には、そういう書面が一枚も無い。

当時の私には言えなかった。今の私には言える。私は年収の上がり方だけを見て、下の支えが薄いことを見ないようにしていた。この会社に、私個人の退職金や企業年金として何がどれだけ積まれているのか、私は正確には把握していない。それは本記事でも未確定のまま置く。確認できているのは、東亜電機時代のような書面が来ないという、彼自身が体験した事実だけである。

📎 解説:ここでは「ほぼ無い」という事実だけを置く

外資系企業の退職給付制度は会社ごとに差が大きく、業種別・企業規模別の一次統計を本記事では取得できていない。黒木本人の勤務先の退職金・企業年金の制度詳細も、本記事では未確定である。

ここで確認できる事実は限定的である。東亜電機時代には毎年、企業年金の積立額を知らせる書面が来ていた。転職後の10年間、同種の書面を一枚も受け取っていない。この「無い」という感触の中身——制度として本当に薄いのか、単に説明の機会が無かっただけなのか——を数字で確認するのは、Section 12の課題として持ち越す。

1,380万円は、彼がこの10年で見た最も大きい数字だった。
だがその年、彼が把握していた「積み上がっているもの」は、年収の数字だけだった。

2020年、彼が良い数字を出していた事業そのものが、会社から切り離される。

📉 2020年 — 54歳の失職。8ヶ月かかった

このセクションの3点

① 2020年5月、担当していた事業から会社が撤退し、黒木は54歳で職を失った。次が決まるまで8ヶ月かかった。

② 厚労省「令和6年雇用動向調査」表6では、55〜59歳で転職による賃金の増加(27.4%)を減少(36.6%)が上回って逆転する(−9.2pt)。黒木の求職は、この逆転の直前に始まり、逆転の内側で終わった。

③ 2021年1月、55歳で別の外資に決まった。年収は1,380万円から980万円になった。年収を下げて日系に戻る道もあったが、受けなかった。

2020年5月。事業からの撤退。

黒木 洋一2020年5月・五十四歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

本社からの連絡は、四半期の業績報告とは別の経路で来た。日本市場から、この事業を段階的に引く。それだけだった。私個人の評価がどうだったかは、その連絡のどこにも書いていなかった。

直近の評価は悪くなかった。前年の目標は達成していた。だが評価が良かったことと、事業が残ることは、別の話だった。本社が見ていたのは、日本市場全体の成長見通しであって、私の四半期の数字ではない。

当時の私には言えなかった。今の私には言える。Section 7で気づいていたことが、ここで裏返しに証明された。2015年の千三百八十万は、事業が伸びていたからの額だった。だとすれば、事業が引かれるときも、私の評価とは関係なく引かれる。同じ理屈の、反対側を経験しただけである。

📎 解説:54歳は、逆転の直前にいる年齢だった

厚生労働省「令和6年雇用動向調査結果の概況」表6によれば、男性の転職入職者のうち前職より賃金が増加した人の割合は、50〜54歳で+10.8ポイント(増加39.0%・減少28.2%)。まだ増加が優勢な側である。ところが55〜59歳になると、減少36.6%が増加27.4%を上回って逆転する(−9.2ポイント)。60〜64歳ではさらに−47.3ポイントまで広がる。

黒木が職を失ったのは54歳、まだ+10.8ポイントの側である。だが8ヶ月かけて次が決まったのは55歳になってからで、55〜59歳の枠、つまり−9.2ポイントの側に入ってからだった。求職期間の途中で、彼は統計上の逆転の線をまたいでいる。

注: この数値は令和6年(2024年)の調査値であり、黒木が失職した2020年当時の値ではない。本記事では2020年時点の同一統計表を取得していない。

2020年6月-12月。8ヶ月。

2020年9月・五十四歳

2010年のときと同じ転職エージェントに登録した。反応の速さが違った。あのときは1週間で3件、面談が組まれた。今回は3週間で1件だった。

面談で、エージェントにこう言われたことを覚えている。

「黒木さんの経歴は申し分ないです。ただ、次の会社が黒木さんより10歳若い人を部長候補として見ているケースが多くて」

「年齢の話は、向こうから出るんですか」

「出ないです。出ないまま、書類の時点で通らないことが多いです」

理由が説明されない不採用が続いた。2010年の千百五十万は、44歳の私に4社が同時に興味を持った結果だった。54歳の私に興味を持つ会社の数は、明らかに少なかった。

📎 解説:8ヶ月という期間

厚生労働省の雇用動向調査は転職後の賃金の増減を集計しているが、年齢別の平均求職期間そのものは今回のリサーチでは確認できておらず、本記事では未取得である。黒木の8ヶ月がこの年齢層の中で長いのか短いのかを、統計と比較して評価することはできない。

ここで置けるのは、Section 6の数字との対比だけである。44歳のときは面談まで1週間、決定まで概ね3ヶ月だった。54歳では面談まで3週間、決定まで8ヶ月だった。期間が伸びたこと自体は本人の記録として確かだが、それを年齢一般の傾向として一般化する数値は、本記事では持っていない。

2021年1月。決まった。年収980万円。

2021年1月・五十五歳

別の外資系メーカーだった。提示は九百八十万。ピークの千三百八十万から、四百万下がっている。下がり幅は3割近い。

もう一つ、話が来ていた。東亜電機時代の伝で紹介された、日系の中堅メーカーである。年収は八百万台という話だった。安定は今回の外資より上に見えた。だが人事の担当者にこう聞かれた。

「中途で55歳ですと、等級は下から二番目になります。次の昇給は再来年の見直しからです」

22年勤めた東亜電機を出た人間が、別の日系企業では新人と同じ場所から数え直しになる。この会社に積み上げた年数は、この会社を出た瞬間に価値を失う。それはSection 8で気づいた話と、根が同じだった。私は日系の話を断った。

1,380万円

2015年・ピーク

980万円

2021年1月・再就職後(55歳)

−400万円

ピークからの下落(約29%)

8ヶ月

無職だった期間

📎 解説:断れた一回

このシリーズは、各人物に「断れた一回」を1つ置いている。黒木の場合は2021年、年収を下げてでも日系に戻る選択肢を断ったことである。

理由は本人の記憶では二つある。一つは、22年分の年数が、別の会社では引き継がれないという実利の判断。もう一つは、まだ言語化できていない何か——「市場で評価される側にまた戻れる」という感触を、失いたくなかったという理由である。本記事では後者を仮説として置き、断定はしない。

この選択の意味は、まだ確定していない。それが試されるのは、次の章、2025年である。

54歳で失った職は、8ヶ月かけて980万円で見つかった。
55〜59歳になると、この線はさらに不利に動く。黒木はあと4年で、その枠の中に入る。

その翌年、同期の宮田徹が死ぬ。黒木がそれを知るのは2年後である。

🕯️ 2021年 — 宮田徹の訃報を、人づてに聞いた

このセクションの3点

① 2021年8月、同期の宮田徹が55歳で在職中に死んだ。黒木がそれを知るのは2023年である。

② 訃報が届かなかったのは、彼が2010年に会社を出ているからである。社外に訃報は回らない。

③ 同じ年、もう1人の同期の相原修司は55歳で役職定年を迎えていた。黒木はそれも知らない。

2023年。五十七歳。

黒木 洋一2023年・五十七歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

前の会社の後輩と、十三年ぶりに会った。転職の相談だという。喫茶店で二時間話した。

帰り際に、その後輩が言った。

「そういえば、宮田さん、亡くなったのご存じでした?」

知らなかった。二年前だという。膵臓だったと。五十五だったと。

私は、そうか、と言った。それ以外に言うことが無かった。後輩は、あ、ご存じなかったですか、すみません、と言った。謝ることではない。

2023年・同じ日

その晩、家に帰ってから、一九八八年の入社式のことを考えた。大講堂に千二百四十人が座って、名簿順に並んでいた。私の四つ左あたりに相原がいて、その隣が宮田だった。

宮田は営業が向いていた。二十代のうちから、あいつが先に行くのは分かっていた。実際、あいつは次長になった。

当時の私には言えなかった。今の私には言える。私が二年間知らなかったのは、宮田が死んだことではない。私がもう、あの千二百四十人の一部ではないということである。

会社を出るというのは、給料が変わることだと思っていた。実際には、名簿から外れるということだった。名簿に載っていれば、訃報が回る。

📎 解説:訃報が届く範囲は、雇用契約の範囲と一致する

企業の訃報は、社内報・社内メール・部署単位の連絡で回る。その配信先は、その時点で在籍している従業員である。退職者への通知は、制度として存在する会社もあるが、多くは個人的なつながりに依存する。

黒木は2010年に退職しているため、2021年の宮田の訃報は届いていない。2年後に、たまたま会った後輩から聞いた。

このシリーズは「名簿」を繰り返し扱ってきた。北原誠一は人事として45年、名前の並んだ紙を見続け、最後に自分の名前が消えた。宮田徹は死んだあと、会議の参加者一覧から名前が消えた。大野修は派遣だったため、その建物の名簿に一度も載らなかった。

黒木の場合、自分から名簿を出た。そして出たことの意味を、11年後に理解した。「名簿から消えるためには、まず載っていなければならない」と大野の記事に書いた。黒木は載っていて、自分で消えた側である。

同じ年、相原修司も55歳だった。

📎 解説:2021年、1988年入社の3人に何が起きていたか

2021年、この代の3人は全員55歳だった。

宮田徹は8月に在職中に死んだ。次長まで到達し、生涯賃金は約1億6,200万円、33年4ヶ月で終わっている(サラリーマン13)。

相原修司は4月に役職定年を迎え、課長を降りた。年収は810万円から620万円になった。課長でいられたのは3年である(サラリーマン10)。相原は宮田の葬儀に参列している。

黒木洋一は前年に事業撤退で職を失い、8ヶ月の求職を経てこの年に別の外資へ入った。年収は1,380万円から980万円になっている。

3人とも、この年に会社との関係が変わった。1人は死によって、1人は制度によって、1人は事業の都合によって。そして黒木は、他の2人に何が起きたかを、この時点で何も知らない。

2021年・55歳<strong>黒木洋一(この記事)</strong><a href="/wiki/salaryman-life-10">相原修司</a><a href="/wiki/salaryman-life-13">宮田徹</a>
所属別の外資(1月に入社)東亜電機(33年目)東亜電機(33年目)
この年の出来事前年の失職から復帰4月に役職定年8月に在職死亡
年収980万円(前年ピーク1,380万円)620万円(前年810万円)
他の2人を知っていたかどちらも知らない宮田の葬儀に参列

2023年の暮れ。

2023年12月・五十七歳

年賀状を書いた。相原には毎年出している。宮田のことは書かなかった。

書けば、知らせてくれてもよかったのに、という話になる。相原がそれを知らせなかった理由は、たぶん私と同じである。三人で入社式に並んだ話をすることになるからだ。

今の私には言える。私が知らせてほしかったのは、宮田の死ではない。私がまだ三人のうちの一人だと思われているかどうかである。

相原からの年賀状は、その年も来た。印刷の文面だけで、手書きは一行も無かった。私の年賀状もそうである。

2010年、黒木は自分から名簿を出た。
その意味を理解したのは、13年後である。

そして2025年、59歳。今度は事業撤退ではなく、買収だった。

🔻 2025年 — 59歳で、もう一度失う

このセクションの3点

① 2025年2月、会社が買収され、黒木は59歳で2度目の職を失った。今回は事業撤退ではなく、買収による組織統合が理由である。

② 55〜59歳の転職は、賃金の増加(27.4%)より減少(36.6%)が多い側にある(−9.2pt、令和6年雇用動向調査)。59歳はこの枠の中でも上限に近い。

③ 2026年1月、60歳。業務委託で年収420万円。ピーク時1,380万円の約30%。「自分は市場で評価されている」という誤解が、ここで初めて揺らぐ。だが、まだ壊れていない。

2025年2月。買収の発表。

黒木 洋一2025年2月・五十九歳(振り返っているのは2026年・六十歳の私)

社内メールで、親会社が変わることを知った。買収する側の会社が、日本法人の組織図を持ってきて、重複するポストを削っていく。私のポストは、買収する側にすでに同じ役割の人間がいた。

2020年と同じ場面だと、すぐに分かった。Section 8で理解した理屈を、私は今度は最初から知っていた。事業や組織の都合で職が消えるとき、そこに個人の評価は関係しない。それは頭では分かっていた。

それでも、通知を受けた瞬間、私はどこかで「自分は例外だろう」と思っていた。当時の私には言えなかった。今の私には言える。理屈を理解することと、自分がその理屈の外に立てないと認めることは、別の作業だった。私は前者しかできていなかった。

📎 解説:59歳は、−9.2ポイントの枠の上限に近い

Section 8で示した厚生労働省「令和6年雇用動向調査」表6の枠でいえば、59歳は「55〜59歳・増加27.4%・減少36.6%(−9.2pt)」の内側にあり、次の「60〜64歳・−47.3pt」の枠にもっとも近い年齢である。黒木の54歳の失職は逆転線の直前、59歳の失職は逆転線の中でも一番奥にある。

注: この数値は令和6年(2024年)の調査値であり、黒木が失職した2025年当時の値ではない。ここでは同じ表を、5年前(Section 8)と同じ形で再度参照している。

2025年3月-9月。今回は、同じやり方をしなかった。

2025年6月・五十九歳

2020年のとき、私はエージェントに登録して、正社員のポストを8ヶ月探した。今回は、途中でやり方を変えた。3ヶ月動いて分かったのは、59歳の正社員採用は、55歳のときよりさらに狭いということである。

知り合いの紹介で、業務委託の話が2件、同時期に来た。週3日、プロジェクト単位の契約である。正社員のポストを待つより、この2件をまず受けたほうが早いと判断した。正社員として「雇われる」ことを、私はこのとき初めて選択の外に置いた。

当時の私には言えなかった。今の私には言える。これは前向きな選択のように自分では説明していたが、実際には正社員のポストが見つからなかったことの言い換えだった。その両方が同時に本当だったのだと、今なら言える。

📎 解説:正社員から業務委託への切り替わり

59歳での正社員求職と業務委託求職を比較した年齢別の一次統計は、本記事では取得できておらず未取得である。ここに置けるのは黒木本人の記録だけである。2020年は8ヶ月かけて正社員の職を見つけ、2025年は業務委託の契約を3ヶ月以内に2件確保した。探す先を変えれば速く決まる、という一点は本人の経験として確認できるが、それが59歳という年齢一般の傾向かどうかは、この記事の範囲では判断できない。

2026年1月。60歳。業務委託、年収420万円。

2026年1月・六十歳

2件の契約を合わせて、年収は四百二十万になった。2015年のピーク千三百八十万の、およそ3割である。契約は3ヶ月ごとの更新で、ボーナスも退職金も無い。更新の通知は、いつもメールで来る。

2010年に東亜電機を出たときの生涯賃金の見込みは、いまの時点でおよそ2億4千万円になる。43年勤め上げた田村さんの2億1千4百万円より多い。数字の上では、私は勝った側にいる。

だが今月、更新の連絡を待っている数日間、私は初めて自分に問いを立てた。本当に、自分は市場で評価されているのか。420万円という契約は、市場が私に付けた適正な価格なのか、それとも、他に選べるものが無かったから受け入れた価格なのか。その問いに、今の私はまだ答えていない。

3ヶ月ごとに更新されている、ということは、需要があるということだ——と、私は自分に言い直した。それで、その日の考えごとは終わった。誤解が揺らいだのは、この数日間だけである。壊れてはいない。

1,380万円

2015年・ピーク(49歳)

420万円

2026年1月・業務委託(60歳・現在)

約30%

ピーク比

約2億4,000万円

生涯賃金の見込み(43年勤続の田村稔の約1.12倍)

📎 解説:生涯賃金は増えた。それでも、いま420万円である。

黒木の生涯賃金の見込み約2億4,000万円は、この記事のSection 2で示した通り、田村稔の約2億1,400万円を上回る。「転職して生涯賃金は増えた」という主張は、数字の上で成立する。

ただしこの数字は43年間を1本の合計として見た値であり、60歳の彼が今月受け取る額とは別のものである。合計が多いことと、いま手元に来る額が薄いことは、両立する。この記事が最後に置く論点は、この2つの数字のどちらを「勝ち負け」の基準にするか、という選び方そのものである。

1,380万円は、彼の値段ではなかった。420万円も、彼の値段ではない。
黒木洋一は、まだそうは思っていない。

2026年8月、60歳。業務委託で年収420万円。ピーク時の約30%である。

📍 2026年8月・60歳 — 業務委託、年収420万円

このセクションの3点

① 2026年8月現在60歳。雇用契約ではなく業務委託で、年収420万円。ピーク時1,380万円の約30%である。

② 同期の相原修司は同じ年に580万円で、東亜電機に38年目である。黒木のほうが低い。

③ それでも生涯賃金では、黒木が約2億4,000万円で相原の約2億800万円を上回る見込みである。

2026年8月。六十歳。

黒木 洋一2026年8月・六十歳

いまは業務委託である。二社と契約していて、合わせて月に三十五万ほどになる。年にすると四百二十万だ。

仕事の中身は、前の会社でやっていたことと大きくは変わらない。生産計画と在庫の設計を見る。変わったのは、私が誰の部下でもないことと、私に部下がいないことである。

家で仕事をしている。妻は去年から週三日でパートに出ている。去年の年末に、いつまでやるの、と一度だけ聞かれた。私は、体が動くうちは、と答えた。答えになっていない。

一年前まで、私はこの状態を「独立」と呼んでいた。年賀状にもそう書いた。今の私には言える。あれは独立ではない。継続して雇う相手がいなくなっただけである。

1,380万円

2015年・49歳のピーク年収

420万円

2026年・60歳の年収(ピークの約30%)

580万円

同期・相原修司の2026年の年収

2回

54歳と59歳、職を失った回数

📎 解説:業務委託は、雇用ではない

業務委託は、企業と個人が仕事の完成や役務の提供について結ぶ契約であり、労働契約ではない。したがって次の3つが原則として付かない。

①雇用保険。契約が終わっても失業給付は出ない。②厚生年金・健康保険の事業主負担。国民年金・国民健康保険に自分で入ることになる。③労働基準法の保護。解雇の規制も、有給休暇も、原則として適用されない。

黒木の年収420万円は、この3つが付かない420万円である。同期の相原修司の580万円は、いずれも付いた580万円である。額面の差は160万円だが、性質の差はそれより大きい。

厚生年金の加入期間がここで止まることの影響は、次の第12章で計算する。

注: 黒木の契約形態の詳細(複数社との契約の法的性質、社会保険の加入状況)は本記事では未確定である。ここに書いたのは業務委託契約一般の性質である。

守っている誤解は、まだ壊れていない。

2026年8月

四十四で会社を出たとき、私は自分の値段が市場で決まると思っていた。六百九十万だった人間が、隣に行くと千百五十万になる。あれが正しい評価だと受け取った。

その後、千三百八十万まで行った。四十九のときである。あのときが、いちばん自分を信じていた。

五十四で切られて、五十九でもう一度切られた。それでも私は、自分の腕が落ちたとは思っていない。実際、いまやっている仕事の中身は、四十九のときと大きく変わらない。

今の私に言えるのは、ここまでである。千三百八十万は私の値段ではなかった。あの事業が伸びていた年の、あの会社が払えた額である。そして四百二十万も、たぶん私の値段ではない。私の値段というものが、そもそも存在しなかったのかもしれない。

そこまで言って、それでもまだ、私は自分が市場で評価されていると思っている。思っていないと、この十六年の説明がつかないからである。

📎 解説:「市場価値」という言葉が、彼に何をしたか

黒木が守っている誤解は「自分は市場で評価されている」である。この記事はそれを否定しない。否定するための材料が無いからである。

2010年に690万円から1,150万円になったこと、2015年に1,380万円に達したことは事実である。ただしその額が「彼の価値」だったのか「その事業がその年に払えた額」だったのかを、区別する方法が無い。

区別できない理由は明確である。同じ人物が、同じ年に、別の会社でいくらの提示を受けたかという記録が存在しない。比較対象が1つも無い状態で、市場価値という言葉だけが本人の中で機能してきた。

さらに、外資系企業の賃金水準を日系と比較できる公的統計も、現在は存在しない。経済産業省「外資系企業動向調査」は令和2年(2020年)で調査そのものが中止されている。黒木の1,380万円が外資系の中で高かったのか標準だったのかを、公的なデータで検証する手段は無い。

2026年8月・60歳<strong>黒木洋一(この記事)</strong><a href="/wiki/salaryman-life-10">相原修司</a>
契約業務委託(2社)正社員(東亜電機・38年目)
年収420万円580万円
雇用保険無しあり
厚生年金加入期間はここで止まる継続中
退職金ほぼ無しあり
この先未定2031年に定年(通算43年)
生涯賃金(見込み)約2億4,000万円約2億800万円

2026年の年収は、相原より160万円低い。
それでも生涯賃金では、約3,200万円多い。
この2つは矛盾しない。

次の章で、その約3,200万円の差が老後にどう効くかを、制度から計算する。

🧮 制度 — 退職金が無いということ、記録が分断されるということ

このセクションの3点

① 黒木の退職金は、東亜電機を22年で自己都合退職した時点の統計水準以外、本記事では確認できない。外資2社に企業年金があったかどうかも未確定である

② 厚生年金の加入記録は東亜電機22年・外資A社10年・外資B社4年と、3つの事業所に分断される。合計は約36年だが、2020年の8ヶ月と2025年以降の業務委託期間は加入していない

③ 年金の見込み月額は、標準報酬月額が本記事では不明なため算定していない。<a href="/wiki/salaryman-life-12">藤井亮太</a>(月20万円台)や<a href="/wiki/salaryman-life-14">大野修</a>(月7〜8万円台)と違って、黒木は「数字を出せない」という位置にいる

退職金 — 確認できるのは、東亜電機を出た時点の水準だけ

📎 解説:22年で自己都合退職した場合の統計水準

厚生労働省「令和5年就労条件総合調査」第37表によると、勤続20年以上・大卒管理職・従業員1,000人以上企業という条件で、自己都合退職者の1人平均退職給付額は1,928万円(企業規模計では1,441万円)である。黒木は2010年、東亜電機を22年で自己都合退職しており、この水準に近いと考えられる。

ただしこれは統計上の参考値であり、黒木本人が実際に受け取った退職金額そのものではない。東亜電機の退職金規程・実際の受給額は、本記事では確認できていない。

外資2社の企業年金 — 本記事では未確定

📎 解説:「外資系は退職金が薄い」を、本記事は裏づけられない

黒木が2010〜2020年に勤めた外資A社、2021〜2025年に勤めた外資B社に、企業年金や退職金制度があったかどうかは、本記事では確認できていない。

「外資系企業は退職金制度が無いか、日系企業より小さいことが多い」という一般論は、しばしば語られる。しかしSection 4で述べたとおり、経済産業省「外資系企業動向調査」は令和2年(2020年)調査をもって中止されており、この一般論を一次統計で裏づける手段は、2020年以降存在しない。民間コンサルティング会社の比較記事は「当社調べ」に類する二次情報であり、本記事の基軸には採用しない。

したがって本記事は、「黒木の退職金・企業年金が薄い」と断定しない。確認できているのは、東亜電機を出た時点の統計上の参考値だけであり、その後の2社については「未確定」としか書けない、ということ自体を記録する。

厚生年金の記録 — 3つの事業所に分断される

加入先期間年数備考
東亜電機1988年〜2010年22年自己都合退職
外資A社(日本法人)2010年〜2020年10年事業撤退で退職
(空白)2020年〜2021年約8ヶ月厚生年金の加入なし(求職期間)
外資B社2021年〜2025年4年買収で退職
業務委託(現在)2025年〜厚生年金の加入なし(雇用契約ではない)

📎 解説:加入期間の合計は約36年。だが空白がある

厚生年金への加入期間を合計すると、東亜電機22年+外資A社10年+外資B社4年で約36年になる。老齢基礎年金(国民年金)の満額は年816,000円(月68,000円)で、40年間(480ヶ月)の納付が必要である(日本年金機構・令和8年度)。厚生年金の加入期間は、そのまま国民年金の納付月数としても数えられる。

黒木は36年分の加入があるが、40年には届いていない。2020年の8ヶ月間と、2025年以降の業務委託期間に国民年金を納付していたかどうかは、本記事では確認できていない。この部分の納付があれば480ヶ月に近づき、無ければ老齢基礎年金は満額を下回る。

📎 解説:老齢厚生年金の報酬比例部分は、算定しない

老齢厚生年金には、老齢基礎年金に上乗せされる「報酬比例部分」があり、加入期間中の標準報酬月額(給与を等級に当てはめた基準額)と加入月数に応じて算出される。黒木の場合、東亜電機・外資A社・外資B社それぞれの標準報酬月額が本記事では不明であり、正確な報酬比例部分は算定できない。

加入期間(約36年)だけを見れば長く、年収(1,150万〜1,380万円の時期がある)だけを見れば高い。だがこの2つを組み合わせて年金額を出す計算式は、標準報酬月額という1つの数字が無いために成立しない。

約36年

厚生年金の加入期間(3事業所の合計・空白期間を除く)

月68,000円

老齢基礎年金の満額(40年納付の場合・参考)

未算定

老齢厚生年金の報酬比例部分(標準報酬月額が不明)

65歳からの年金月額を並べる

人物65歳からの年金月額(見込み)備考
藤井亮太(#12)20万円台継続勤続・厚生年金加入は途切れていない
黒木洋一(この記事)算定していない厚生年金加入は約36年あるが、標準報酬月額が不明で報酬比例部分を出せない
大野修(#14)7〜8万円台厚生年金断続的に約14年・国民年金に未納期間

🚫 この節で確認できなかったこと(本記事では未確定・未算定)

・東亜電機の実際の退職金額(統計上の参考値1,928万円との一致は確認していない)

・外資A社・外資B社に企業年金・退職金制度があったかどうか

・2020年の8ヶ月間、2025年以降の業務委託期間に国民年金を納付していたかどうか

・東亜電機・外資A社・外資B社それぞれの標準報酬月額(このため老齢厚生年金の報酬比例部分は算定していない)

生涯賃金は、黒木・藤井・大野の3人とも1つの数字として出せる。
年金の見込みは、藤井と大野は出せて、黒木だけ出せない。記録が3つに分断されているという、それ自体が1つの結果である。

→ 次のSection 13では、生涯賃金という物差しが何を測っていなかったかを見る。

🔪 辛口批評 — 総額で勝つことと、老後が成立することは別である

このセクションの3点

① 黒木洋一の生涯賃金の見込みは約2億4,000万円で、43年勤めた田村稔の約2億1,400万円を上回る。転職は数字の上で成功している。

② それでも老後は、このシリーズで正社員として働き続けた誰よりも薄い。生涯賃金は「いつ、どう受け取ったか」を消してしまうからである。

③ 最後に置く問題は別にある。外資系企業の賃金水準を測る公的調査は、令和2年で中止されている。彼の1,380万円が妥当だったかを検証する手段が無い。

① 生涯賃金という物差しは、何を消しているか

人物生涯賃金受け取り方の形老後の状態
田村稔約2億1,400万円43年かけて上がり続けた退職金・企業年金・厚生年金43年
黒木洋一(この記事)約2億4,000万円(田村を上回る)10年で山を作り、落ちた退職金ほぼ無し・厚生年金が分断・現在は業務委託
相原修司約2億800万円43年かけて平らに受け取った退職金あり・厚生年金43年の見込み
宮田徹約1億6,200万円33年4ヶ月で途切れた遺族厚生年金

📎 批評:総額が同じでも、同じものではない

生涯賃金は、働いている間に受け取った金額の合計である。合計であるから、いつ受け取ったかという情報が落ちる。

黒木の約2億4,000万円は、このシリーズで北原誠一(約4億9,000万円)と森康彦(約2億9,600万円)に次ぐ額であり、43年勤め上げた田村稔を上回る。数字だけを見れば、彼の転職は成功している。

それでも老後の状態は、正社員として勤め続けた誰よりも薄い。理由は3つある。

①退職金がほぼ無い。厚生労働省の統計では、1,000人以上規模・大卒管理職・勤続20年以上の定年退職の1人平均退職給付額は2,191万円である(令和5年就労条件総合調査 第37表)。黒木にはこれに相当する額が無い。②厚生年金の加入記録が分断される。東亜電機22年、外資10年、別の外資5年、そして現在は業務委託で加入していない。③現在の年収420万円には、雇用保険も事業主負担も付かない。

生涯賃金は、この3つを1つも表示しない。

② 44歳の判断は、間違いだったのか

📎 批評:判定できない。ただし理由は前作と違う

この記事は、黒木の2010年の判断を間違いだったとは書かない。そして正しかったとも書かない。

理由は明確である。残った場合の黒木を観測できないからである。ただし今回は、比較のための材料が1つある。同期の相原修司である。

相原と黒木は、1988年の入社から2005年の係長まで17年間、役職も年収も完全に一致していた。2010年に分かれ、2026年には年収420万円と580万円、生涯賃金では約2億4,000万円と約2億800万円になる。

年収では相原が勝ち、生涯賃金では黒木が勝つ。老後の安定では相原が勝ち、ピーク時の水準では黒木が勝つ。どの物差しを使うかで、勝者が入れ替わる。

この記事が言えるのはここまでである。2010年の時点で、どちらの選択が正しいかを判定できる材料は、どちらの手元にも無かった。そして16年たった今も、どの物差しを使うべきかについて、この記事は答えを持っていない。

③ 「市場価値」という言葉について

📎 批評:1,380万円は、誰の何だったのか

黒木は2010年に690万円から1,150万円になり、2015年に1,380万円に達した。彼はこれを「市場が自分を評価した額」として受け取った。そして54歳と59歳で職を失った後も、その理解を変えていない。

この理解が正しいかどうかを、検証する方法が無い。同じ人物が同じ年に別の会社でいくらの提示を受けたかという記録は存在しないからである。提示額は1社から1つしか出ない。市場価値という言葉は、複数の提示を前提にしているが、実際に複数を同時に得ることは稀である。

そしてもう1つ、この記事が検証できない理由がある。外資系企業の賃金水準を日系と比較できる公的統計が、現在は存在しない。

経済産業省「外資系企業動向調査」は、令和2年(2020年)で調査そのものが中止されている。この調査は外資系企業の従業員数・売上・給与に関する基礎データを提供していた。調査が無くなったことにより、外資系で働く人の賃金水準を公的に把握する手段が失われている。

④ この記事が最後に置く問題

📎 批評:シリーズで3度目の「測られていない」

このシリーズは3本続けて、同じ形の問題に着いている。

サラリーマン8では、早期退職に応募した人のその後を追跡した公的統計が存在しないことを最後に置いた。企業側の業績は分析されているのに、減った側の行き先は測られていない。

サラリーマン10では、役職定年後の処遇を示す統計が平成19年(2007年)で止まっていることを置いた。65歳定年・70歳就業が進んだ現在の数字が無い。

そして今回は、外資系の賃金水準を測る調査が2020年で中止されている。

3つに共通しているのは、人が実際に選んでいる選択肢について、社会が結果を測っていないことである。早期退職に応募するか、役職定年後も残るか、外資へ移るか。いずれも毎年多くの人が判断しているのに、判断材料になる継続的なデータが用意されていない。

注: これらは公的統計を中心に確認した結果であり、学術研究や民間調査まで悉皆的に当たった結論ではない。また民間の調査は存在するが、多くが自社サービスの利用者を母集団としており、このシリーズは出典が私企業の自社集計である数値を基軸に使わない。

⑤ 1988年入社の3人

<strong>黒木洋一(この記事)</strong><a href="/wiki/salaryman-life-10">相原修司</a><a href="/wiki/salaryman-life-13">宮田徹</a>
選択42歳で出た残った残った
到達外資で部長級課長(52歳)次長(9.0%)
ピーク年収1,380万円810万円
2026年業務委託・420万円役職なし・580万円2021年に死亡(55歳)
生涯賃金約2億4,000万円(3人で最多)約2億800万円約1億6,200万円
退職金ほぼ無しあり死亡退職金
定年に着くか着かなかった着く見込み(2031年)着かなかった

📎 この代について

1988年入社の同期1,240人は、このシリーズで最多の代である。そこから3人書いて、定年に着く見込みがあるのは1人だけだった。

3人は2005年まで同じ会社にいた。相原と黒木は17年間、記録が完全に一致している。差がついたのは、2010年に最初の椅子が空いた瞬間だけである。そしてそれは、3人の外側で決まった。

黒木はそれを見て、能力の差ではないと正確に理解した。理解したうえで、会社を出た。その判断の内容は、16年たっても評価できない。

この記事が確実に書けるのは1点だけである。彼は生涯賃金で田村稔を上回り、老後の設計では下回った。そしてこの2つは、同じ物差しの上に乗らない。

総額では勝った。
その総額を、どの順番で受け取ったかは、総額に書いていない。

このシリーズは続く。残るのは公務員型、そしてこの表に一人もいない女性たちである。