さとまたwiki

🏛️ サラリーマン11 — 給料表に名前が載っている男

1952年生まれ、1975年に国家公務員として採用された。民間ではない。このシリーズで唯一、給与が法律と人事院勧告で決まる人物である。年収のピークは1,050万円で、田村稔(次長・約1,180万円)にも森康彦(部長)にも届かない。ただし彼の年収は、下がるときも緩やかだった。バブルでも上がらず、失われた30年でも急には落ちない。60歳で定年を迎え、再任用で65歳まで働いた。生涯賃金は約2億2,900万円で、43年勤めた田村稔の約2億1,400万円をわずかに上回る。この記事が扱うのは、金額ではなく分散である。同じ生涯賃金でも、どれだけ揺れずに受け取ったかは人によって違う。そして2015年、彼の年金は共済年金から厚生年金に一元化された。40年勤めた制度が、退職の3年前に無くなっている。

🏛️ この記事は何か — 金額ではなく、分散の話

このセクションの4点

① 森田克彦は1975年に国家公務員として採用された。このシリーズで唯一、給与が法律と人事院勧告で決まる人物である

② 年収のピークは1,050万円で、田村稔の次長時代(約1,180万円)にも届かない。それでも生涯賃金の見込みは約2億2,900万円で、43年勤めた田村の約2億1,400万円を上回る

③ 理由は単純で、23歳から65歳まで収入が途切れた期間が一度も無いからである。この記事が扱うのは金額の高さではなく、揺れ幅である

④ ただし「公務員は下がらない」は事実に反する。彼の給与は平成14年(2002年)以降、6回下がっている

プロローグ

森田 克彦2026年8月・七十四歳

採用の日に、給料表を見せられた。縦に号俸、横に級が並んだ紙である。あなたはここです、と指をさされて、上に行くとこうなります、と指を動かされた。

あのとき私が安心したのは、その表に「景気」という欄が無かったからである。父は町工場にいて、給料は景気次第だと言っていた。私の表には、その欄が無い。

二十八のとき、結婚が決まって、妻になる人に同じ紙を見せた。これって上がらないこともあるの、と聞かれた。私は、無い、と答えた。

あれは間違いだった。五十のとき、号俸は上がっているのに年収が減った。表そのものが下がっていた。

四十六年たつが、二十八のときの説明を、私はまだ訂正していない。

このシリーズの登場人物

登場人物 — 名前をクリックすると、その人の言葉が開きます

🏢 1. 田村 稔 中央値型 — 勝ちでも負けでもない 1970年入社・同期820人/到達=次長(上位17%)。部長には届かなかった
生涯賃金 約2億1,400万円/2035年・87歳没。要介護7年 記事を読む →
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静岡の農家の次男で、家を出るしかなかった。入社の日、駅で父が黙って万年筆をくれた。パイロットの、安いやつだ。定年の日まで机の引き出しにあった。

玄関の柱に子どもの背を刻んだ線がある。健一の線は一九九三年で止まっている。

四十二で課長になった年が、いちばんよかった。まあ、そういうもんだ。

🖋️ 2. 北原 誠一 出世型 — 同期820人で3人 1970年入社・同期820人(田村と同期)/到達=取締役(0.4%)→ 子会社社長
生涯賃金 約4億9,000万円/2037年・89歳没 記事を読む →
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入社式で隣に座ったのが田村だった。同じ大学を出て、同じ日に辞令を受け取った。私の紙には本社人事部と書いてあり、彼の紙には神奈川工場と書いてあった。

二〇〇二年、転籍のリストに彼の名前があった。私は手を止めて、判を押した。震えはしなかった。

それは、そういう仕組みだ。

🔧 3. 柴田 正三 停滞型 — 係長のまま28年 1958年入社・高卒技能職340人/到達=係長(30歳)。そこから28年動かず
生涯賃金 約1億4,900万円(田村の約7割)/2032年・92歳没。要介護1年2ヶ月・自宅で 記事を読む →
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新潟から出てきて、旋盤の前に立った。二十二で試験に受かって技術職になった年を、私は二度目の入社と呼んでいる。ノギスはそのとき自分で買った。

三十で係長になった。同期でいちばん早かった。そのあと二十八年、何も動かなかった。課長の椅子が空いたとき、座ったのは大卒の三十四だった。

寸法は合っとる。

✈️ 4. 森 康彦 単身赴任型 — 通算14年、家にいなかった 1980年入社・同期940人/到達=部長(47人/940人=5.0%)
生涯賃金 約2億9,600万円/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む →
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福岡、広島、名古屋、バンコク。四回出て、合わせて十四年、家にいなかった。断れた回もある。断らなかった。

帰るたびに家のルールが少し変わっていた。茶碗が食器棚の奥に移り、鍵が替わり、私の部屋が息子の部屋になった。帰任したら食卓の椅子が三脚しか出ていなかった。

まあ、なんとかなる。あれは必要な十四年だった。

🏠 5. 中村 正巳 家庭優先型 — 転勤を断った(#4の対照群) 1980年入社・同期940人(森と同期)/到達=課長(286人/940人=30.4%)
生涯賃金 約1億8,600万円(森の63%)/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む →
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一九九六年、九州支店の課長への内示を断った。妻の母が倒れて、代わりが立たなかった。三日考えて、手順を全部書き出して、代わりの立たない箇所が一つ残った。それだけの話だ。

断ったのは一回きりだ。二度目は聞かれなかった。介護は三年で終わったが、そのあと十九年、話は来なかった。

家族はこのことを知らない。言うことでもない。それでいい。

🫀 6. 谷口 健一 健康維持型 — 変数は45歳の一点だけ(対照実験) 1980年入社・同期940人(中村と同期・生涯賃金差300万円)/到達=課長。中村とほぼ同じ経路
生涯賃金 約1億8,900万円/2026年8月現在67歳・存命/推計87歳没・要介護1年半 記事を読む →
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私の最初の指導係は田村さんだった。図面は嘘をつかん、と教わった。あの言葉は柴田さんから田村さんに渡ったものだと、後で知った。

二〇〇三年、同じ部署の柏木さんが心筋梗塞で倒れて、戻ってこなかった。数日後、机が片付けられていた。私はそれを自分の席から見ていた。翌月から煙草をやめて、朝三十分歩き始めた。

理由を聞かれても、続けとるだけですとしか答えない。

🌥️ 7. 高梨 実 メンタル離脱型 — 3ヶ月休んで、戻る場所が無かった 1985年入社・同期1,180人/到達=課長 → 53歳で自己都合退職
生涯賃金 約1億9,800万円(65歳時の資産は7人中最下位)/2026年8月現在63歳・週4日勤務中 記事を読む →
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二〇〇八年の十月、月次の締めで数字が合わなかった。三度やり直しても合わなかった。合わないのは、自分の入力だった。

三ヶ月休んだ。制度は全部あった。復職もできた。ただ、戻る席が無かった。応援という名前の出向が、期限を書かれないまま七年続いた。

誰も私を辞めさせていない。帳尻は合います。

🚪 8. 岡部 昭夫 早期退職型 — 410万円で17年を売った 1985年入社・同期1,180人(高梨実と同期)/到達=課長。次長には届かなかった/2011年・48歳で希望退職に応募
生涯賃金 約9,000万円(前提つき試算・田村の約42%)/受取 約2,600万円/2026年8月現在63歳・部品商社(従業員80人)・年収410万円 記事を読む →
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募集が出る一週間前、閉まっている食堂で部長に言われた。今回、対象に名前が入っている、と。それだけである。辞めろとは言われていない。

三週間、封筒を鞄に入れて出勤して、持ち帰った。二十一回出さなかった。二十二回目に出した。

あれは自分で決めたことです。十五年、そう言っている。妻には、あの面談のことを言っていない。

✈️ 9. 黒木 洋一 転職型 — 生涯賃金では勝った 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・相原修司と同期)/到達=東亜電機では係長 → 2010年44歳で外資へ/外資で部長級
生涯賃金 約2億4,000万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,380万円/2026年8月現在60歳・業務委託・年収420万円(ピークの約30%)/退職金ほぼ無し 記事を読む →
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二〇一〇年、課長の内示が同期の別の人間に出たと聞いた。能力の差だとは思わなかった。あいつのいた部署は、その年に課長が定年になっていた。それだけである。

翌週、転職の登録サイトを開いた。六百九十万だった私が、隣の会社では千百五十万になった。あれが自分の値段だと思った。

今なら言える。あれは私の値段ではない。あの事業が伸びていた年の、あの会社が払えた額である。

10. 相原 修司 詰まり型 — 30年待って、3年だけ課長 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・黒木洋一と同期)/到達=課長(52歳で就任)→ 55歳で役職定年。課長でいられたのは3年
生涯賃金 約2億800万円(田村稔の約97%)/2026年8月現在60歳・役職なし・年収580万円/2031年65歳定年・通算43年 記事を読む →
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二〇一〇年、黒木に一緒に受けてみないかと誘われた。子どもがまだ小さいから、と断った。上の子は中学二年である。小さくはない。

本当は、外で自分の値段がつくのが怖かった。会社の中にいれば、私の価値は係長という文字で表される。誰も金額では言わない。

三十年待って課長になった。辞令の紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。妻には言っていない。

🏛️ 11. 森田 克彦(この記事の主人公) 公務員型 — 最も揺れなかった/唯一の非民間 1975年・23歳で国家公務員採用(行政職俸給表(一))/到達=課長(45歳)。そこから15年、級は動かなかった
生涯賃金 約2億2,900万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,050万円/2012年60歳で定年→再任用→2017年65歳で終了/2026年8月現在74歳・年金で生活が成立
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採用の日に給料表を見せられた。あなたはここです、と指をさされて、上に行くとこうなります、と指を動かされた。安心したのは、その表に「景気」という欄が無かったからである。

二十八のとき、妻になる人に同じ紙を見せた。これって上がらないこともあるの、と聞かれて、無い、と答えた。五十のとき、号俸は上がっているのに年収が減った。表そのものが下がっていた。

四十六年たつが、二十八のときの説明を、私はまだ訂正していない。

🪑 12. 藤井 亮太 氷河期・正社員型 — 内定は1社だけだった 1996年入社・同期290人(シリーズ最少。1988年入社1,240人の約23%)/到達=課長(58人/290人=20.0%)。到達は42歳
生涯賃金 52歳時点の累計 約1億2,600万円/48年働く見込み/2026年8月現在52歳・課長・年収860万円/2029年55歳で役職定年 記事を読む →
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三十年、誰にも言っていないことがある。私の内定は、一社だけだった。妻にも同期にも言っていない。言えば、私の三十年の説明が変わるからである。

二〇〇八年の十二月、部長に「一階、どこから減らせる」と聞かれた。どの工程が余っているかは、私がいちばん正確に知っていた。私は、本社が決めることです、と答えた。

十年ポストが動かなかったという話と、自分が選ばれて入ったという話を、私は一度も同じ机の上に並べたことがない。

🕰️ 13. 宮田 徹 在職死亡型 — 定年に着かなかった 1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多)/到達=次長(112人/1,240人=9.0%)
生涯賃金 約1億6,200万円(33年4ヶ月で終わった)/2021年8月・55歳で在職死亡 記事を読む →
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私の最初の指導係は森さんだった。三日目に見積書を突き返された。これは誰が読む、と聞かれて、お客さんです、と即答した。違う、最初に読むのはうちの経理だ、と言われた。

それから三十三年、相手の背後にいる人間の顔を先に読んで生きた。その才能で次長になった。同じ才能で、この会社を一度も疑わなかった。

この病室は九時に電気が消える。会社にいた頃、九時はまだ夕方だった。

🧊 14. 大野 修 氷河期・非正規型 — 名簿に一度も載らなかった 1996年3月・国立大学卒/内定ゼロ(大卒求人倍率1.08倍)。正社員になったことが一度もない/到達=到達なし。アルバイト7年 → 製造派遣4年半 → 契約社員
生涯賃金 52歳までの累計 約7,900万円(藤井の63%・田村の生涯賃金の37%)/2026年8月現在52歳・契約社員・年収290万円/年金見込み月7〜8万円台 記事を読む →
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二十二の春に、三十七通の不採用通知を受け取った。理由はどれにも書いていなかった。同じゼミの藤井は一社受かった。一社だけだったと知るのは、ずっとあとである。

二〇〇四年から二〇〇八年まで、神奈川の工場にいた。柴田さんが旋盤を教え、田村さんが図面を引いた建物だ。あの三人は名簿に載っている。私は載らない。派遣だからである。

名簿から消えるためには、まず載っていなければならない。

🌗 15. 矢部 直子 均等法第一世代 — 23.9%の側にいた/シリーズ唯一の女性 1986年4月・均等法の施行と同月に総合職入社。同期の総合職女性は4人/到達=課長(44歳)→ 次長(56歳)/38年間、一度も辞めていない
生涯賃金 約1億7,900万円(大卒女性の生涯賃金は全国推計で男性の78.4%・差7,080万円)/2024年60歳で定年→再雇用/2026年8月現在62歳・年収480万円 記事を読む →
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一九九〇年に一人目を産んだとき、就業規則を二回読んだ。一回目は、見落としたのだと思ったからである。産前産後の休業は書いてあった。その先が無かった。

三ヶ月で戻った。三ヶ月にした理由は、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。育児休業法が公布されたのは、その翌年だった。

制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。

名前をクリックすると、その人物の言葉が開きます。森田克彦だけが、民間企業の従業員ではありません。他の全員は、勤め先の業績と給与規程の中で働いてきました。森田の給与は、法律と人事院勧告で決まります。

この記事が置く問い

このシリーズは14人を書いてきた。全員が民間企業の従業員である。そして全員を、生涯賃金という1本の軸で並べてきた。

その軸の上で、森田克彦は上位に来る。生涯賃金の見込みは約2億2,900万円で、43年勤め上げた田村稔の約2億1,400万円を上回る。

そして彼の年収のピークは1,050万円である。田村の次長時代(約1,180万円)にも、黒木洋一の1,380万円にも届かない。単年で比べれば、彼は誰にも勝っていない。

1,050万円

年収のピーク(田村の次長時代にも届かない)

約2億2,900万円

生涯賃金の見込み(田村の約2億1,400万円を上回る)

42年

23歳から65歳まで、収入が途切れなかった年数

6回

平成14年以降、給与が下がった回数

📎 この記事は「分散」を軸にする

生涯賃金は「高さ×長さ」で決まる。このシリーズは14本、高さのほうばかりを見てきた。取締役になったか、部長で終わったか、課長でいられたのは何年か。

森田の記事で初めて、長さだけで上位に来る人物が出る。彼が受け取ったものは、23歳から65歳まで一度も途切れなかった線である。

比較のために置く。岡部昭夫は48歳で年収が850万円から430万円に半減し、戻らなかった。黒木洋一は54歳と59歳の2回、職を失った。宮田徹は55歳で死んだ。大野修は正社員になったことが一度もない。

途切れないという条件を満たしているのは、14人のうち数人しかいない。森田はその中で、最も揺れなかった。

📎 この記事が「やらないこと」

①「公務員は安定していて得だ」と書かない。彼が受け取らなかったものが3つある。バブル期の上昇(1990年の田村稔は賞与7.2ヶ月だった)、上限(北原誠一のような約4億9,000万円に至る経路が表の上に無い)、そして下がらない保証である。

②「公務員の給与は下がらない」という前提を採らない。人事院の資料によれば、官民較差がマイナスとなり給与引下げが勧告されたのは平成14年(2002年)が初めてで、△2.03%(△7,770円)だった。その後も平成15年△1.07%、17年△0.36%、21年△0.22%、22年△0.19%、23年△0.23%と続いている。森田が課長でいた15年に、6回下がっている。

③公務員を批判も擁護もしない。この記事が置くのは数値と、その数値が何を示していないかである。

そしてこの記事にも、これまでの3本と同じ結び方がある。国家公務員の退職手当の平均支給額に、本記事は到達できなかった。

民間側は分かっている。従業員1,000人以上・大卒管理職・勤続20年以上の定年退職の1人平均退職給付額は2,191万円である(厚生労働省・令和5年就労条件総合調査 第37表)。これに対応する公務員側の数字を、この記事は示せない。

サラリーマン8では早期退職者の追跡統計が無いことを、サラリーマン10では役職定年後の統計が2007年で止まっていることを、サラリーマン9では外資系の賃金調査が2020年で中止されたことを置いた。今回で4度目である。

まず答えから出す。ピークは低い。それでも生涯賃金は田村を上回る。

⚖️ 【答え】ピークは低い。それでも生涯賃金は田村を上回る

このセクションの3点

① 森田の年収のピークは1,050万円。田村稔の次長時代(約1,180万円)にも、黒木洋一の1,380万円にも届かない。

② それでも生涯賃金の見込みは約2億2,900万円で、43年勤めた田村の約2億1,400万円を上回る。

③ 差を作ったのは高さではなく長さである。23歳から65歳まで、収入が途切れた期間が一度も無い。

1,050万円

森田のピーク年収

1,380万円

黒木洋一のピーク年収(2015年・49歳)

約2億2,900万円

森田の生涯賃金の見込み

約2億1,400万円

田村稔の生涯賃金(43年勤続)

単年で比べると、彼は勝っていない

人物ピーク年収到達入社(採用)
黒木洋一1,380万円外資で部長級1988年
田村稔約1,180万円次長1970年
森田克彦(この記事)1,050万円課長(45歳〜60歳)1975年(国家公務員)
岡部昭夫850万円課長1985年
藤井亮太860万円(2026年現在)課長1996年
相原修司810万円課長(3年)1988年

📎 解説:1,050万円という上限

森田のピーク年収1,050万円は、課長として15年在職した期間の最高額である。これ以上が出る経路は、彼のいた表の上に存在しない。

国家公務員の給与は行政職俸給表(一)などの俸給表で決まり、表そのものは法律(一般職の職員の給与に関する法律)に基づいて定められる。改定には人事院勧告と国会での法改正が必要であり、勤め先の業績では動かない。

民間との違いはここに出る。北原誠一は取締役から子会社社長になり、生涯賃金は約4億9,000万円に達した。黒木洋一は外資で1,380万円を受け取った。どちらも、その会社がその額を払える状態だったから出た金額である。

森田の側には、その上振れが無い。同時に、下振れも小さい。この記事が扱うのは、その非対称である。

総額で比べると、田村を上回る

人物生涯賃金働いた年数途切れた期間
北原誠一約4億9,000万円取締役→子会社社長無し
森康彦約2億9,600万円部長で定年無し
黒木洋一約2億4,000万円38年時点で不安定2020年に8ヶ月/2025年以降
森田克彦(この記事)約2億2,900万円42年(23歳〜65歳)一度も無い
田村稔約2億1,400万円43年無し
相原修司約2億800万円43年(2031年まで)無し
宮田徹約1億6,200万円33年4ヶ月で終了55歳で在職死亡
岡部昭夫約9,000万円48歳で希望退職→再就職6ヶ月
大野修約7,900万円(52歳時点)正社員経験なし複数回

📎 解説:生涯賃金は「高さ×長さ」で決まる

森田の生涯賃金が田村を上回る理由は3つに分解できる。

①23歳から65歳まで、収入が途切れた期間が一度も無い。定年後も再任用で5年働いている。②50代に大きく落ちる局面が無い。当時の国家公務員には役職定年制が無く、45歳で就いた課長に60歳まで15年いた。③下がった年もあるが、幅が小さい。平成14年以降の6回のマイナス勧告は、最大でも△2.03%である。

比較のために置く。岡部昭夫は48歳で年収が850万円から430万円へ、約49%に落ちた。1回の落差だけで、森田の6回分のマイナスをはるかに上回る。黒木洋一は1,380万円から420万円へ、約30%まで落ちている。

このシリーズは14本、高さのほうばかりを見てきた。取締役になったか、部長で終わったか、課長でいられたのは何年か。長さだけで上位に来る人物が出たのは、この記事が初めてである。

ただし、この2つは同じ物差しに乗らない

📎 解説:この記事が比較を完成させられなかった理由

民間側の退職金は分かっている。従業員1,000人以上・大卒管理職・勤続20年以上の定年退職の1人平均退職給付額は2,191万円である(厚生労働省・令和5年就労条件総合調査 第37表)。

これに対応する国家公務員の数字に、本記事は到達できなかった。内閣人事局・人事院の資料を探索したが、定年退職者1人あたりの平均支給額を示す資料を特定できていない。存在しないと断定はしない。本記事が見つけられなかった、というのが正確である。

したがって、この章で示した「森田が田村を上回る」は給与の累計だけの比較である。退職金と年金を含めた総額でどちらが多いかを、この記事は言えない。民間と公務員のどちらが有利かという議論は繰り返されてきたが、この記事は退職手当という基本項目1つで比較を完成させられなかった。

この点は第13章でもう一度扱う。

単年では、誰にも勝っていない。
総額では、43年勤めた男を上回る。
差を作ったのは、高さではなく長さである。

次の章で、その線がどういう形をしていたかを、年収表で見る。

💴 年収50年 — 最も揺れなかった線

このセクションの3点

① 1975年の初任給から2017年の再任用終了まで、42年分の年収を並べる。

② 大きく落ちた年が2回だけある。2002年(初のマイナス勧告)と、2012年(定年→再任用)である。

③ 前者は数%の減、後者は身分の変更による減で、性質がまったく違う。

西暦年齢身分・役職年収備考
197523採用約110万円行政職俸給表(一)の左下に置かれる
198533係長約480万円民間はこの2年後からバブル期に入る
199139課長補佐約690万円この年の大卒求人倍率は2.86倍(過去最高)
199745課長約830万円
200149課長約1,010万円平成13年の官民較差は+0.08%(プラスの最終年)
200250課長約990万円号俸は上がったのに減った。初のマイナス勧告 △2.03%
200856課長約1,050万円(ピーク)
201159課長約1,030万円平成23年 △0.23%(定年の前年)
201260定年 → 再任用約450万円4月から身分が変わる。仕事の中身はほぼ同じ
201664再任用約450万円
201765再任用終了42年で収入が止まる
202674週2日の相談員(無報酬に近い)/年金で足りている

📎 解説:落ちた2回は、性質がまったく違う

この42年で、年収が前年より落ちた局面は大きく2つある。

①2002年(50歳)。号俸は上がっているのに年収が減った。原因は俸給表そのものの引下げで、人事院の資料によれば、官民較差がマイナスとなり給与引下げが勧告されたのは平成14年(2002年)が初めてである。較差は △2.03%(△7,770円)。昭和35年(1960年)以降、それまでは一貫してプラスの改定だった。

②2012年(60歳)。定年により身分が変わり、再任用として同じ建物に戻った。年収は約1,030万円から約450万円へ、半分以下になっている。仕事の中身はほとんど変わっていない。

①は数%の減、②は半分以下への減である。そして②は制度上あらかじめ決まっており、事前に説明を受けている。森田が「驚きが無かった」と言うのは、40年間、説明できない金額が一度も出てこなかったからである。

3人の線の形を並べる

<strong>森田克彦(この記事)</strong><a href="/wiki/salaryman-life-1">田村稔</a><a href="/wiki/salaryman-life-9">黒木洋一</a>
線の形ほぼ直線。緩やかに上がる43年かけて上がり、定年で終わる山。10年で急上昇し、2回落ちる
ピーク1,050万円(56歳)約1,180万円(次長)1,380万円(49歳)
最大の下落定年→再任用で約56%減定年で終了ピーク→現在で約70%減
途切れた期間無し無し2020年に8ヶ月/2025年以降
生涯賃金約2億2,900万円約2億1,400万円約2億4,000万円
退職金あり(額は本記事では未取得)ありほぼ無し

📎 解説:同じくらいの総額でも、線の形が違う

3人の生涯賃金は約2億1,400万円から約2億4,000万円の範囲に収まっている。差は最大でも約2,600万円で、比にすれば12%程度である。

それでも線の形はまったく違う。黒木は10年で山を作り、54歳と59歳で2回落ちた。森田は42年かけて緩やかに上がり、定年で一度だけ大きく落ちた。田村は43年かけて上がり、定年で終わった。

この違いが最も効くのは、50代後半の局面である。黒木は54歳で職を失い、8ヶ月の求職期間があった。森田はその年齢で年収1,030万円だった。同じ年齢のときに、片方は次の仕事を探し、片方はピークに近い額を受け取っていた。

生涯賃金という1つの数字は、この違いを表示しない。そして老後の状態には、この違いのほうが強く効く。

約110万円

1975年・23歳の年収(採用初年)

約1,050万円

2008年・56歳のピーク

約9.5倍

初年からピークまでの倍率

42年

収入が途切れなかった年数

落ちた年は2回ある。
1回は数%、もう1回は半分以下。
そして半分以下になるほうは、40年前から決まっていた。

次の章で、この線を作った仕組み——給料表そのものを見る。

👤 森田克彦という人物と、給料表という仕組み

このセクションの3点

① 1952年生まれ。1975年に23歳で国家公務員として採用され、2012年に60歳で定年、2017年に65歳で再任用を終えた。

② 給与は行政職俸給表(一)で決まる。表は1級から10級まであり、級が職務の責任、号俸が経験に対応する。

③ 2026年8月現在74歳。このシリーズで唯一、給与の決まり方が民間と違う人物である。

項目内容
生年1952年(昭和27年)
採用1975年(昭和50年)4月・23歳・国家公務員
適用される給与制度行政職俸給表(一)(一般職の職員の給与に関する法律に基づく)
到達課長(45歳・1997年)。そこから15年、級は動かなかった
定年2012年・60歳(勤続37年)→ 再任用で65歳まで
ピーク年収1,050万円(2008年・56歳)
生涯賃金の見込み約2億2,900万円
2026年8月現在74歳。週2日の相談員(無報酬に近い)。年金で生活が成立している

行政職俸給表(一)という表

📎 解説:級と号俸の2軸でできている

国家公務員の給与は俸給表で決まる。行政事務に従事する職員には行政職俸給表(一)が適用される。

表は2つの軸でできている。が職務の複雑さと責任の度合いに対応し、号俸が同じ級の中での経験の段階に対応する。級が上がるのが昇格、同じ級の中で号俸が上がるのが昇給である。

人事院の資料によれば、行政職俸給表(一)は1級から10級まである。実額の例として、6級73号俸が427,000円、9級2号俸が532,000円が示されている(俸給月額。諸手当は含まない)。

注: 級と役職(係長・課長補佐・課長など)の正確な1対1の対応は、本記事では特定できていない。人事院の資料には代表官職の例示があるが、実際の適用は職務の内容によって決まるため、機械的な対応関係としては書けない。

1〜10級

行政職俸給表(一)の級の範囲

427,000円

6級73号俸の俸給月額(諸手当を含まない)

532,000円

9級2号俸の俸給月額(同上)

249,149人

国家公務員給与等実態調査の対象人員(令和7年4月)

📎 解説:国家公務員の平均像(令和7年4月時点)

人事院「国家公務員給与等実態調査」(令和7年4月)によれば、調査対象の249,149人について、平均年齢41.8歳、平均給与月額424,979円である。この平均給与月額は俸給と諸手当の合計である。

この数字は森田1人の記事に直接は使えない。令和7年の断面であり、彼が現役だった1975年から2017年の平均ではないからである。

それでも1つだけ言えることがある。この調査は毎年行われ、公表されている。国家公務員の給与水準は、外から確認できる形で毎年開示されている。このシリーズが扱ってきた民間14人について、同じ粒度で給与を確認できる公表資料は存在しない。

民間14人と、決定の仕組みが違う

<strong>森田克彦(この記事)</strong>このシリーズの民間14人
給与を決めるもの法律 + 人事院勧告各社の給与規程
改定の手続き人事院が勧告し、国会が法改正各社の判断(労使交渉を含む)
勤め先の業績との連動無いある
上振れ無い(表の外の額は出ない)ある(北原誠一は約4億9,000万円)
下振れある(平成14年以降6回のマイナス勧告)ある(岡部昭夫は48歳で約49%へ)
水準の公表毎年公表される個社の水準は公表されない

📎 解説:上振れが無いことと、下振れが小さいことは同じ仕組みから来る

人事院勧告は、民間企業の給与実態を調査し、官民の較差を計算して、その差を埋めるよう勧告する仕組みである。公務員の給与は、民間の平均を追いかける形で決まる。

この設計から、2つのことが同時に導かれる。①民間の上位企業がどれだけ上げても、平均を追う以上、その水準には届かない。②民間の一部が急落しても、平均が動く分しか下がらない。

森田の1,050万円というピークと、6回のマイナス勧告の最大幅△2.03%は、同じ設計の表と裏である。片方だけを取り出して「公務員は上限が低い」あるいは「公務員は下がらない」と言うことはできない。

そして「下がらない」は事実に反する。平成14年(2002年)△2.03%、15年△1.07%、17年△0.36%、21年△0.22%、22年△0.19%、23年△0.23%。森田が課長でいた15年に、6回下がっている。詳しくは第8章で扱う。

上振れが無いことと、下振れが小さいこと。
この2つは、同じ仕組みの表と裏である。

1975年、採用の日。彼は表を指でなぞられて、そこで安心した。

📋 1975年 — 級と号俸で、40年後の給料が決まっている

このセクションの3点

① 1975年4月、23歳で国家公務員になった。初任給は俸給表の1つのマス目で決まる。

② 民間の12人と決定的に違うのは、給与が会社ではなく法律と人事院勧告で決まることである。

③ 入った日に、40年後までの上がり方の形が、表の上にすでに書かれていた。

1975年4月。二十三歳。

森田 克彦1975年4月・二十三歳(振り返っているのは2026年・七十四歳の私)

採用の日に、給与の説明があった。若い人事の担当が、大きな紙を広げた。縦に号俸、横に級が並んだ表である。

あなたはここです、と指をさされた。表の左下のほうだった。そして、上に行くとこうなります、と指を右上のほうへ動かした。

私はその動きを見ていた。指が止まったところに、四十年後の私の給料が書いてある。正確には、そのときの表の、その位置の額である。

あのとき何を思ったかは、はっきりしている。安心した。父は町工場で働いていて、給料がいくらになるかは景気次第だと言っていた。私の表には、景気という欄が無い。

📎 解説:給料表とは、給与を1つのマス目で決める仕組みである

国家公務員の給与は、俸給表で決まる。職務の種類ごとに表が分かれており、行政事務に従事する職員には行政職俸給表(一)が適用される。

表は(職務の複雑さ・責任の度合い)と号俸(同じ級の中での経験年数に相当する段階)の2軸でできている。級が上がるのが昇格、同じ級の中で号俸が上がるのが昇給である。

ここが民間との決定的な違いになる。この表は法律(一般職の職員の給与に関する法律)に基づいて定められ、改定には人事院勧告と国会での法改正が必要である。個別の役所の業績でも、上司の裁量でも動かない。

このシリーズの民間12人は、会社ごとの給与規程の中で働いてきた。岡部昭夫が再就職した従業員80人の商社には、そもそも昇給表が無かった。森田の給与は、その対極にある。

注: 級・号俸の具体的な段階数と、係長・課長補佐・課長が何級にあたるかは、第4章で公的資料に基づいて扱う。

1975年から1985年。二十三歳から三十三歳。

1975-85年・二十三〜三十三歳

毎年、決まった時期に号俸が一つ上がる。金額も決まっている。驚くことが一度も無い。

同期に、民間に行った友人がいた。年に一度会うと、あいつの給料は上がったり上がらなかったりしていた。ボーナスが去年の倍だった年もあれば、出なかった年もあった。

私はどちらもない。あいつが倍もらった年、私は表のとおりだった。あいつが出なかった年も、私は表のとおりだった。

三十を過ぎたころ、その友人に言われた。お前は安定していていいな、と。私は、まあな、と答えた。

五十一年たった今なら言える。あのとき私が答えなかったのは、安定という言葉が褒め言葉なのかどうか分からなかったからである。いまでも分からない。

📎 解説:このシリーズで、給与の決まり方が違うのは森田だけである

このシリーズはここまで13人を書いてきた。全員が民間企業の従業員である。森田克彦だけが、給与の決定の仕組みが違う。

民間の給与は、最終的にはその企業が払える額で決まる。黒木洋一の記事で書いたとおり、外資系で1,380万円が出たのはその事業がその年に伸びていたからである。北原誠一が取締役として約4億9,000万円の生涯賃金に達したのも、その会社がそれを払える規模だったからである。

森田の給与は、勤め先の業績とは切り離されている。その代わり、上限も切り離されている。どれだけ組織の業績が良くても、表の外の額は出ない。

この記事が扱うのは、この構造が50年でどういう線を描いたかである。金額の高さではなく、揺れ幅の話になる。

表を、一度だけ持ち帰ったことがある。

1980年ごろ・二十八歳

一度だけ、給料表の写しを家に持ち帰ったことがある。結婚が決まった年だった。

妻になる人に見せて、ここが今の私で、ここまで行けばこうなる、と説明した。指でなぞったのは、五年前に人事の担当がやったのと同じ動きである。

妻は、へえ、と言って、それから、これって上がらないこともあるの、と聞いた。私は、無い、と答えた。そのときは本当にそう思っていた。

当時の私には言えなかった。今の私には言える。表そのものが書き換わることを、二十八の私は計算に入れていない。表の中の位置は自分で上がっていくものだが、表の額そのものは、毎年、外で決められる。

それを実際に見るのは、この二十年以上あとである。

級と号俸で、四十年後の位置が決まっている。
ただし、その位置に書かれる額は、毎年外で決まる。

1986年からの数年、民間の給与が上がっていく。森田の表は、その分だけは動かない。

🫧 1986-1991 — 民間が上がっていく。彼は上がらない

このセクションの3点

① 1986年から1991年、民間の給与と賞与が急に上がった。同じ時期、森田の給与は表のとおりに動いている。

② この時期に東亜電機へ入社したのが、1985年の高梨実・岡部昭夫(同期1,180人)と、1988年の宮田徹・黒木洋一・相原修司(同期1,240人)である。

③ 森田はこのとき30代半ば。係長になったころで、年収は600万円台だった。

西暦森田克彦(この記事)同時期の民間(このシリーズの人物)
198533歳・係長高梨実岡部昭夫が入社(同期1,180人)
198836歳宮田徹黒木洋一相原修司が入社(同期1,240人・シリーズ最多
199038歳田村稔が42歳で課長・年収750万円(賞与7.2ヶ月
199139歳・課長補佐大卒求人倍率が2.86倍(調査開始以来の最高)

📎 解説:この時期、民間で何が起きていたか

1990年、田村稔は42歳で課長になり、年収750万円だった。そのうち賞与は7.2ヶ月分である。月給の7.2倍が、年に2回に分けて出ていた。

1991年3月卒の大卒求人倍率は2.86倍で、リクルートワークス研究所の調査開始以来の最高値である。大野修が卒業した1996年3月卒の1.08倍と比べると、約2.6倍の開きがある。

この時期、東亜電機は1985年に1,180人、1988年に1,240人を採用している。このシリーズで最も多い代が、この数年に集中している。

森田の給与に、この熱は入ってこない。賞与にあたる期末・勤勉手当も、支給月数が法令で定められている。7.2ヶ月という数字は、彼の側では起こりえない。

1989年。三十七歳。

森田 克彦1989年・三十七歳(振り返っているのは2026年・七十四歳の私)

大学の同期会があった。十年ぶりくらいの集まりで、二十人ほど来た。民間に行った連中の話が、その年は違っていた。

賞与の話が出た。何ヶ月出た、という言い方をする。私は自分の分を言わなかった。言わなかったのは、少なかったからではない。ヶ月で言う習慣が、私の側にあまり無かったからである。

帰りの電車で、一人だけ同じ役所の後輩と一緒になった。あいつが、うちは上がりませんね、と言った。私は、そういうものだ、と答えた。

三十七年たった今なら言える。あの「そういうものだ」は、納得ではなく、諦めでもなかった。説明のしかたを持っていなかっただけである。なぜ上がらないのかを、私は当時、制度として説明できていない。

📎 解説:「上がらない」のではなく「あとから追う」仕組みである

国家公務員の給与改定は、人事院が民間企業の給与実態を調査し、官民の較差を計算して、その差を埋めるよう国会と内閣に勧告するという手順で決まる。

ここに構造的な時間差がある。民間が先に上がり、その実績が調査され、勧告が出て、法改正を経て反映される。したがって民間が急上昇している最中は、公務員の給与はまだ前年の水準に近い。

そしてこの時間差は、下がる局面でも同じように働く。民間が急に落ちた年も、公務員の給与はまだ前年の水準に近い。遅れて追う仕組みは、上がるときも下がるときも遅れる。

森田が1989年に「そういうものだ」と答えたことは、制度としては正確である。ただし彼はその理由を説明できていない。説明できるようになったのは、40年勤めたあとである。

注: 官民較差の具体的な数値と勧告の年次推移は、第8章で公的資料に基づいて扱う。

1991年。三十九歳。課長補佐。

1991年・三十九歳

課長補佐になった。級が一つ上がる。表の上で、右に一列動いた。

年収は六百万円台の後半になった。同期会で聞いた民間の連中の額より、たぶん低い。ただし、いくら低いのかを私は計算していない。比べる習慣が無かった。

その年の暮れ、家のローンを組んだ。銀行の担当が、公務員の方は審査が通りやすいですよ、と言った。そのときは、そういうものかと思っただけである。

今なら分かる。審査が通りやすいのは、私の年収が高いからではない。四十年後まで途切れない見込みがあるからである。銀行が見ていたのは額ではなく、線の形だった。私自身が同じ見方をするようになるのは、ずっとあとである。

2.86倍

1991年3月卒の大卒求人倍率(調査開始以来の最高)

7.2ヶ月

1990年・田村稔(民間・課長)の賞与月数

1,180人/1,240人

1985年・1988年に東亜電機が採用した同期の人数

39歳

森田が課長補佐になった年齢

📎 解説:この時期に受け取らなかったものが、後で効く

バブル期に民間が上げた分を、森田は受け取っていない。これは単年では「損」に見える。

ただしこのシリーズは、その後を全部書いてきた。1985年入社の岡部昭夫は2011年・48歳で希望退職に応募し、再就職で年収が850万円から430万円になった。1988年入社の宮田徹は2021年・55歳で在職中に死んだ。同じ代の黒木洋一は54歳と59歳の2回、職を失っている。

バブル期に大量採用された代は、その後、椅子の少なさに直面した。1988年入社の1,240人という数字は、入る時点では有利に見えて、40代以降に不利へ転じている。

森田はその波に乗らず、その反動も受けていない。この記事が扱うのは、その差が50年でいくらになったかである。金額ではなく、揺れ幅の話になる。

民間が7.2ヶ月の賞与を出していた年、
彼の側では、その数字が起こりえなかった。

翌年からバブルが終わる。そして今度は、民間が落ちる番になる。

📉 1992-2002 — 民間が落ちる。彼も少し落ちる

このセクションの3点

① バブルが終わり、民間の給与と採用が落ちた。人事院勧告は民間を追う仕組みなので、公務員の給与も遅れて落ちる。

② 同じ時期、東亜電機の採用は1988年の1,240人から1996年の290人へ、約23%まで絞られている。

③ 森田は課長補佐から課長になった。年収は800万円台に届いたが、上がり方は緩やかだった。

1992年から1997年。四十歳から四十五歳。

森田 克彦1992-97年・四十〜四十五歳(振り返っているのは2026年・七十四歳の私)

民間が悪くなっているという話は、仕事の中で先に届いた。数字の資料が回ってくる部署にいたからである。倒産の件数、失業率、有効求人倍率。

そのうち、同期会の空気が変わった。賞与の話が出なくなった。何ヶ月出たという言い方をしなくなった。出た人が言わなくなったのか、出ない人が増えたのかは、分からない。

この時期、私の給料は上がっていた。号俸が毎年一つ上がる。上がり幅は前より小さかったが、下がってはいない。

四十五歳で課長になった。年収が八百万円台に届いた。その年の同期会で、私は初めて自分の年収を聞かれた。それまでは、誰も公務員に給料の話をしなかった。

📎 解説:同じ時期、民間の入口が3分の1以下に絞られた

この10年で、東亜電機の採用数は大きく変わっている。1988年入社が1,240人(シリーズ最多)、1996年入社が290人。約23%である。

大卒求人倍率で見ると、1991年3月卒の2.86倍から、1996年3月卒の1.08倍へ落ちている(リクルートワークス研究所)。さらに2000年3月卒は0.99倍で、この調査で初めて1.0を割った。

この年に卒業したのが藤井亮太大野修である。同じ大学の同じ学部を同じ年に出て、藤井の内定は1社、大野はゼロだった。大野はその後30年、正社員になっていない。

森田の側では、この期間に「入口が絞られる」ことは起きていない。採用数は変動するが、既に入っている職員の給与の決まり方は変わらない。彼が受けた影響は、勧告を通じた改定率の変化だけである。

注: 人事院勧告の改定率の年次推移と、マイナス改定が出た年については第8章で公的資料に基づいて扱う。

1998年ごろ。四十六歳。

1998年ごろ・四十六歳

同期会で、民間に行った友人の一人が来なくなった。会社が無くなったのだと、あとで聞いた。合併して、その部署ごと整理されたという。

次の年、別の一人が転職していた。年収は下がったと言っていた。その席で、誰も私に給料の話をしなかった。1997年には聞かれたのに、その年は聞かれなかった。

聞かれなかった理由を、当時の私は考えていない。今なら分かる。比べたくない側が増えたのである。

そのころから、公務員は恵まれているという言い方を、外でよく聞くようになった。言われて腹が立ったことは無い。腹が立たなかったのは、反論の材料を持っていなかったからでもある。

📎 解説:この時期、民間側で何が起きていたか

このシリーズが書いてきた人物のうち、この時期に転機を迎えた人がいる。

柴田正三は1958年入社の高卒技能職で、30歳で係長になったあと28年動かないまま、1996年に定年を迎えている。田村稔は次長まで到達し、2002年に転籍のリストに名前が載った。その判を押したのは、同期で人事にいた北原誠一である。

そして1996年3月、大野修が内定ゼロで卒業した。彼は8年アルバイトを続けたあと、2004年3月の製造業派遣の解禁によって工場に入る。その工場は、柴田・田村が働いた建物である。

森田の記事には、この種の出来事が1つも無い。転籍も、整理も、内定ゼロも起きていない。起きていないことを書くのが、この記事の役割である。

2002年。五十歳。

2002年・五十歳

この年、給与が下がった。号俸は上がっているのに、年収が前の年より少ない。

明細を二度見た。それから、制度の説明を読んだ。表そのものが下がっていた。

二十八のとき、妻に給料表を見せて、上がらないことは無い、と言った。あれは間違いだった。表の中の位置は上がる。表の額は、外で決まる。私が二十二年間、計算に入れていなかったのはそこである。

その晩、妻には言わなかった。言うほどの額ではなかったし、言えば二十二年前の説明を訂正することになる。訂正しないまま、いまに至っている。

📎 解説:「表そのものが下がる」ということ

国家公務員の給与は、①俸給表の中での自分の位置(級・号俸)と、②俸給表そのものの額、の2つで決まる。①は経験年数と昇格で上がっていくが、②は人事院勧告と法改正によって外から改定される。

人事院勧告は民間給与との較差を埋める仕組みなので、民間の給与水準が下がれば、公務員の給与も引き下げが勧告されうる。この場合、号俸が上がっていても、年収が前年より減ることが起こる。

これがこの記事の芯である。森田の給与は、上がるときも緩やかで、下がるときも緩やかだった。民間のような急上昇も急降下も無い代わりに、下がらないという保証も無かった。

そして本人は、22年間そのことを理解していなかった。28歳で妻に「上がらないことは無い」と説明し、50歳で初めてそれが間違いだったと知った。訂正は、いまもしていない。

そしてこの2002年という年次は、実際の統計と一致する。人事院の資料によれば、官民較差がマイナスになり給与の引下げが勧告されたのは、平成14年(2002年)が初めてである。較差は △2.03%(△7,770円)だった。昭和35年(1960年)以降、それまでは一貫してプラスの改定が続いていた。森田が50歳で初めて経験したことは、制度が始まって42年目に初めて起きたことでもある。詳しくは第8章で扱う。

表の中の位置は、自分で上がる。
表の額は、外で決まる。
それを知るのに、二十二年かかった。

では、その「外」とは誰のことか。次の章で、人事院勧告の仕組みを見る。

📊 人事院勧告 — 誰が、何を基準に決めているのか

このセクションの3点

① 人事院が毎年、民間企業の給与を調査して官民較差を算出し、国会と内閣に勧告する。勧告から法改正・実施までに時間差があり、上がるときも下がるときも遅れて反映される。

② バブル期(1986〜1991年)の較差は最大でも3.71%(平成3年)で、上がるときも緩やかだった。

③ 初めてのマイナス勧告は平成14年(2002年)、較差△2.03%(△7,770円)。森田が50歳で「号俸は上がったのに年収が減った」と証言した年と一致する。

人事院勧告とは何か — 誰が、何を基準に決めているか

📎 解説:調査→勧告→法改正→実施、というタイムラグの構造

人事院(じんじいん=国家公務員の給与・任免等を扱う、内閣からある程度独立した行政機関)は毎年、民間企業の給与を調査し、役職・勤務地域・学歴・年齢が同じ条件の者同士を比較するラスパイレス方式で、公務員の俸給表と民間給与の差(官民較差)を算出する。

較差があれば、人事院はその年の夏ごろに国会と内閣に勧告する。勧告そのものには法的拘束力が無く、内閣が給与法の改正案を国会に提出し、可決されて初めて俸給表の額が変わる。

この「調査→勧告→法改正→実施」の経路には、常に半年から1年前後の時間差がある。公務員の給与は、去年までの民間の給与を追いかける形で動く。上がるときも下がるときも、この構造から逃れられない。

バブル期(1986〜1991年) — 上がるときも、民間ほどには上がらない

官民較差(%)官民較差(円)
昭和61年(1986)2.316,096円
昭和62年(1987)1.473,985円
昭和63年(1988)2.356,470円
平成元年(1989)3.118,777円
平成2年(1990)3.6710,728円
平成3年(1991)3.7111,244円

📎 解説:バブル最盛期でも、較差は3.71%が上限だった

この6年間、官民較差は毎年プラスで、俸給表は毎年改定されている。ただし較差の大きさは昭和61年の2.31%から平成3年の3.71%まで、じわじわとしか伸びていない。これが人事院勧告に基づく給与改定の全てであり、この期間に較差が5%や10%に達した年は一度も無い。

森田がこの時期に受け取っていたのは、俸給表全体の改定分(この表の数字)と、自分の号俸が1つずつ上がっていく分の合計である。民間のボーナスが跳ねるという話が同期会に流れても、彼の側の改定率はこの表の範囲を出なかった。

平成14年(2002年) — 初めてのマイナス勧告、森田の証言と一致する

△2.03%

平成14年(2002)の官民較差 — 昭和35年以降で初のマイナス

△7,770円

同年の較差(円) — 俸給表そのものが引き下げられた額

0.08%

前年・平成13年(2001)の較差 — この時点ではまだプラス

📎 解説:「号俸は上がったのに年収が減った」の裏づけ

人事院「これまでの給与勧告の実施状況(昭和35年以降)」によると、昭和35年(1960年)から平成13年(2001年)までの官民較差は、低い年(平成13年の0.08%)でも一貫してプラスだった。平成14年(2002年)、この較差が初めてマイナスに転じ、△2.03%(△7,770円)が勧告された。

第7章で森田は、2002年・50歳のときの記憶として「号俸は上がっているのに、年収が前の年より少ない」「表そのものが下がっていた」と証言している。この記事はその年次を「人物の設定上のもの」として書いたが、実際の統計と一致していた。平成14年の較差がマイナスに転じた年は、まさにこの年である。

号俸が1つ上がって受け取る額(①自分の位置の変化)と、俸給表そのものの改定額(②較差改定)は別の動きをする。①がプラスでも②が十分に大きなマイナスなら、合計は前年を下回る。2002年の森田に起きたのは、まさにこの組み合わせだった。

平成15年(2003年)以降 — マイナス勧告と「凍結」の違い

官民較差
平成14年(2002)△2.03%(△7,770円)
平成15年(2003)△1.07%(△4,054円)
平成17年(2005)△0.36%(△1,389円)
平成21年(2009)△0.22%(△863円)
平成22年(2010)△0.19%(△757円)
平成23年(2011)△0.23%(△899円)

📎 解説:勧告が無い年は、マイナスではなく「凍結」

平成16・18・20・24・25年、令和2・3年は「水準改定の勧告なし」の年である。これはマイナス勧告ではない。人事院の資料によれば、これらの年の官民較差はいずれも0.0〜0.07%程度(平成16年0.01%、18年0.00%、20年0.04%、24年△0.07%、25年0.02%、令和2年△0.04%、令和3年0.00%)と僅少で、俸給表を動かすほどの差が無かったため改定が凍結された。

マイナス勧告(俸給表が実際に下がる)と、凍結(較差が小さすぎて動かない)は、結果としてどちらも「給与が増えない年」に見えるが、制度上は別の出来事である。森田の給与が2000年代を通じて上がったり下がったりしたのは、この2種類の年が交互に来ていたからである。

上がるときも3.71%が上限で、
下がるときは△2.03%から始まった。
森田が22年かけて理解した「表の額は外で決まる」は、この振れ幅の中に収まっていた。

→ 次のSectionでは、2003年から2012年、彼が課長からその先へ進めなかった十年を見る。

🏛️ 2003-2012 — 課長から、その先へ行けなかった

このセクションの3点

① 45歳で課長になり、そこから15年、級は動かなかった。年収のピークは1,050万円である。

② 民間の12人と違い、上が詰まっていたからではない。行けなかった理由を、彼は説明されていない。

③ 同じ時期、勧告はマイナスが続いた。平成15年△1.07%、17年△0.36%、21年△0.22%、22年△0.19%、23年△0.23%。

2003年から2008年。五十一歳から五十六歳。

森田 克彦2003-2008年・五十一〜五十六歳(振り返っているのは2026年・七十四歳の私)

課長になって六年目あたりから、同期の何人かが上に行った。級が一つ上がると、表の上で右に一列動く。動いた人と、動かない人が出る。

私は動かなかった。理由の説明は無い。あるとすれば人事の判断だが、それが本人に文書で示されることは無い。

民間の友人に、なぜ上がらないのか聞いたか、と言われたことがある。聞く先が無い、と答えた。誰か一人が決めているわけではない。決めているのは仕組みで、仕組みには窓口が無い。

七十四になった今なら言える。私はそのとき、上がらない理由を知りたかったのではない。知る方法があるかどうかを確かめたかった。無いと分かって、それ以上は考えなくなった。

📎 解説:このシリーズで、昇進が止まった理由が説明できない唯一の人物

このシリーズは、昇進が止まった人物を何人も書いてきた。そのすべてで、止まった理由が構造として説明できている。

柴田正三は30歳で係長になり28年動かなかった。理由は高卒技能職からの昇進経路が課長の手前で細くなっていたからである。相原修司が課長になるのに30年かかったのは、同期1,240人と上の代の滞留による。藤井亮太が42歳まで課長になれなかったのも同じ構造である。

森田の場合、この説明が立たない。国家公務員の昇格は級ごとの定数の中で行われるが、その配分と個々の判断は、本人に開示されない。同期の人数で説明することも、上の代の滞留で説明することも、この記事にはできない。

そして本人も説明を受けていない。民間であれば、上司との面談で「今回は見送りだ」と言われる場面がありうる。岡部昭夫は希望退職の1週間前に「対象に名前が入っている」と個別に告げられた。森田には、それに相当する場面が一度も無い。

注: 国家公務員の昇格の基準・運用の実態について、本記事は一次資料を取得していない。ここに書いたのは「本人に説明が無かった」という設定上の事実のみである。

同じ時期、勧告はマイナスが続いた。

年(勧告)官民較差森田の年齢備考
平成14年(2002)△2.03%(△7,770円)50歳制度開始(昭和35年)以来、初のマイナス
平成15年(2003)△1.07%(△4,054円)51歳2年連続
平成17年(2005)△0.36%(△1,389円)53歳
平成21年(2009)△0.22%(△863円)57歳
平成22年(2010)△0.19%(△757円)58歳
平成23年(2011)△0.23%(△899円)59歳定年の前年

📎 解説:課長でいた15年に、6回のマイナス勧告があった

人事院の資料によれば、官民較差がマイナスとなり給与の引下げが勧告されたのは、平成14年(2002年)が最初である。較差は △2.03%(△7,770円)。昭和35年(1960年)以降、それまでは一貫してプラスの改定だった。

その後、平成15年△1.07%、17年△0.36%、21年△0.22%、22年△0.19%、23年△0.23% と、森田が課長でいた15年の間に6回のマイナス勧告が出ている。

ただし1点、区別しておく必要がある。平成16・18・20・24・25年、令和2・3年は「水準改定の勧告なし」であって、マイナスではない。これらの年の官民較差は0.00%前後(平成16年0.01%、18年0.00%、20年0.04%、24年△0.07%、25年0.02%、令和2年△0.04%、令和3年0.00%)で、改定を行うほどの差が無いと判断された年である。

この15年、森田の級は動かず、表そのものは6回下がった。それでも彼の年収が1,050万円のピークに達しているのは、号俸が毎年上がっていたためである。個人の位置は上がり、表は下がる。この2つが同時に起きていた。

2010年ごろ。五十八歳。

2010年ごろ・五十八歳

五十代の後半になって、周りの空気が変わった。公務員の給与を下げろ、という話が、以前よりずっと大きく聞こえるようになった。

言われていることの中身は、正しい部分と、事実と違う部分が混ざっていた。下げろという主張は主張として成り立つ。ただ、下がっていないという前提は事実と違う。その頃すでに、六回下がっていた。

反論はしなかった。反論しなかったのは、正しさの問題ではなく、場の問題である。下がった話を公務員がすると、言い訳に聞こえる。

今なら言える。私が四十年間いちばん言わなかったのは、自分の給料の話である。上がった年も、下がった年も、同じように言わなかった。言わない習慣が、下がったときにだけ不利に働いた。

1,050万円

森田の年収のピーク(課長)

15年

課長でいた年数(45歳〜60歳)

6回

その15年に出たマイナス勧告の回数

平成14年

制度開始以来、初のマイナス勧告(△2.03%)

📎 解説:15年課長でいたことを、民間と比べる

森田は45歳で課長になり、60歳の定年まで15年間その級にいた。このシリーズの民間の人物と比べると、この15年は長い。

相原修司は52歳で課長になり、55歳の役職定年で降りた。課長でいられたのは3年である。藤井亮太は42歳で課長になり、2029年の役職定年まで13年の見込みである。田村稔は42歳で課長になり、その後次長へ昇進した。

森田が15年課長でいられたのは、当時の国家公務員に役職定年制が無かったためである。役職定年制は、令和5年度からの定年年齢の段階的引上げ(61歳→65歳へ2年に1歳ずつ)に合わせて導入された。2012年に60歳で定年を迎えた森田は、この制度の対象外である。

民間側でも、役職定年制を導入している企業は令和5年時点で16.7%にとどまる(人事院・令和5年民間企業の勤務条件制度等調査)。相原が経験したのは、その16.7%の側で起きたことだった。

級は動かず、表は六回下がった。
それでも号俸は毎年上がった。
個人の位置と、表そのものが、逆に動いていた十五年である。

2012年、60歳。定年を迎える。ただしその日、彼の身の回りには何も起きない。

🔀 2015年10月 — 40年勤めた制度が、無くなった

このセクションの3点

① 平成27年(2015年)10月1日、被用者年金制度が一元化され、共済年金は厚生年金に統合された。森田はこのとき63歳、再任用の4年目である。

② 2015年10月より前の加入期間は「経過的職域加算額」として存続する。森田の加入期間(1975〜2015年10月、約40.5年)はほぼ全てこちら側にあり、新制度の対象になるのは再任用終了までの約1年半だけである。

③ 職域加算の具体的な給付水準(旧共済年金がどれだけ厚生年金より上乗せされていたか)は、本記事では一次資料に到達できず、未取得のまま残る。

2015年10月1日 — 何が変わったか

森田 克彦2015年・六十三歳(振り返っているのは2026年・七十四歳の私)

再任用の四年目に、年金の制度が変わるという通知が来た。共済年金という言葉が、この日から無くなる。

四十年、共済という名前の年金を前提に生きてきた。その名前が、六十三歳の私の途中で切り替わった。切り替わった後も、毎月の仕事は何も変わらない。給料も同じ日に同じ額が入る。

変わったのは名前だけだと、そのときは思っていた。今なら、そうではないと分かる。加入していた年数のうち、古い名前のまま数えられる部分と、新しい名前で数えられる部分に、この日を境に分かれたのである。

📎 解説:被用者年金一元化 — 公務員と会社員の年金制度が1つになった日

共済年金(きょうさいねんきん=国家公務員・地方公務員・私立学校教職員などが加入していた、厚生年金とは別建ての年金制度)と、厚生年金(民間企業の被用者が加入する年金制度)は、平成27年(2015年)10月1日の被用者年金制度の一元化によって、制度上1つに統合された。

この日以降、国家公務員も厚生年金に加入する形になり、共済年金という制度そのものは新規加入を終える。森田がこの通知を受け取った2015年、彼は再任用の4年目・63歳で、まだ2年、この役所に在職していた。制度が変わったのは、彼が完全に退く2年前である。

経過的職域加算額と退職等年金給付 — 森田はどちら側にいるか

区分対象になる加入期間内容
経過的職域加算額2015年10月1日より前旧共済年金にあった上乗せ部分(職域加算)が、既得権としてそのまま存続
退職等年金給付(年金払い退職給付)2015年10月1日以後の新規加入分職域加算は廃止。積立方式の新制度に置き換わり、終身退職年金と有期退職年金(原則20年)に分けて受給

📎 解説:40.5年のうち、新制度の対象になるのは1.5年だけ

森田は1975年(23歳)に採用され、2017年(65歳)に再任用を終えるまで在職している。2015年10月1日を境に区切ると、それより前の加入期間は約40.5年、それより後は約1.5年である。

国家公務員共済組合連合会(KKR)の説明によれば、2015年10月より前の期間分は「経過的職域加算額」として、退職共済年金・障害共済年金・遺族共済年金の形でそのまま存続する。森田の加入期間の大半、40.5年のうち約40年は、この経過的職域加算額の側にある。2015年10月以後に積み上がった約1.5年分だけが、新設された「退職等年金給付」の対象になる。

制度としては一元化されたが、森田個人の年金の内訳としては、旧制度側が圧倒的に大きい。一元化は彼の年金を丸ごと新しい制度に載せ替えたわけではなく、大部分を古い制度の名前のまま固定し、ごく短い末尾だけを新しい制度に繋いだ、という形になっている。

2026年・七十四歳(今の振り返り)

四十年のうち、新しい制度に入っているのは一年半だけだと、後で自分で数えた。ほとんどは古い方の名前のままだ、ということが分かって、それで納得した。

制度が変わったと聞いた日は、自分の年金がどこまで巻き込まれるのか分からなかった。数えてみれば、巻き込まれた部分はごくわずかだった。それだけのことである。

職域加算の水準 — 本記事が届かなかった数字

📎 解説:「共済年金は厚生年金より有利だった」の、有利さの中身は確認できていない

共済年金には厚生年金に無かった「職域加算(職域年金相当部分)」という上乗せがあり、これが「共済年金は厚生年金より有利」と言われた主な制度的な差である。だが、その上乗せが具体的にどれだけの水準(率や平均額)だったかは、本記事では確認できなかった。

国家公務員共済組合連合会(KKR)のページは、受給者向けの制度案内(FAQ的な構成)が主目的で、施行の根拠法令(被用者年金制度の一元化等を図るための厚生年金保険法等の一部を改正する法律)の条文そのものへは到達していない。付与率・基準利率といった、新制度側の具体的な数値も本記事では未確認である。

🚫 この節で確認できなかったこと(本記事では未取得)

・旧共済年金の職域加算の具体的な給付水準(厚生年金に対して何%相当上乗せされていたか)

・退職等年金給付の付与率・基準利率の具体的な数値

・森田本人の経過的職域加算額・退職等年金給付の実際の金額(標準報酬月額が本記事では不明のため算定していない)

四十年勤めた制度は、無くなったわけではない。
大部分はそのまま残り、末尾の一年半だけが新しい名前になった。
何が上乗せされていたのか、その率は、今もこの記事には無い。

→ 次のSectionでは、その年金の見込みを、このシリーズの他の人物と並べる。

📍 2012-2026 — 定年、再任用、そして74歳の現在

このセクションの3点

① 2012年、60歳で定年。37年勤めた。翌月から再任用で、同じ役所の同じ建物に、別の身分で戻った。

② 再任用の5年間、仕事の中身はほとんど変わらず、給与だけが大きく下がった。

③ 2026年8月現在74歳。このシリーズで唯一、老後の設計が完全に成立している人物である。

2012年3月。六十歳。定年。

森田 克彦2012年3月・六十歳(振り返っているのは2026年・七十四歳の私)

三月三十一日で定年になった。三十七年である。送別の会があって、花束をもらった。

その席で、来月からもよろしくお願いします、と何人かに言われた。再任用が決まっていたからである。四月一日から、同じ建物の、同じフロアに来ることになっていた。

だから、辞めるという感じがまったく無かった。私は花束を持って帰って、翌週にはもう出勤している。

今なら言える。あのとき私が受け取ったのは、区切りではなく、身分の変更だった。三十七年間、私は同じ表の上を歩いてきた。四月からは、別の表に載る。

📎 解説:この記事だけ、「辞めた日」に何も起きない

このシリーズは、人が会社との関係を切る場面を繰り返し書いてきた。

岡部昭夫は48歳で希望退職に応募し、送別会で「自分で決めたことです」と言った。大野修は通用証を守衛室で番号照合して返し、名前を聞かれなかった。黒木洋一は44歳で辞め、11年後に同期の訃報が届かないことでその意味を知った。宮田徹は死んだあと、会議の参加者一覧から名前が消えた。

森田の定年の日には、それが1つも起きていない。翌月も同じ建物に来る。名札も、席も、周りの人間も変わらない。

変わったのは給与である。第12章で扱うとおり、再任用の給与水準は定年前より大きく下がる。仕事の中身が変わらないまま、給与だけが変わる。これは民間の役職定年と同じ構造で、相原修司が2021年に経験したことと形が似ている。

2012年4月から2017年3月まで。再任用の5年。

2012-17年・六十〜六十五歳

再任用の五年間、仕事はほとんど同じだった。担当していた仕事のうち、いくつかを若い人に渡して、残りを持った。会議には出るが、決める側ではない。

給与は大きく下がった。下がることは事前に説明されていたので、驚きは無かった。驚きが無かったのは、公務員の給与が全部そうだからである。説明できない金額が出てくることが、四十年間で一度も無かった。

この五年で、私は同じ仕事を別の値段でやった。それが不当だと感じたことは無い。ただ、一度だけ考えたことがある。同じ仕事に二つの値段が付くなら、値段のほうは何を測っているのか。

答えは出ていない。四十年、給料表を見て働いてきた人間が、最後の五年で初めて持った疑問である。

📎 解説:「同じ仕事に二つの値段」は、このシリーズで3度目である

森田が再任用の5年間に持った疑問は、このシリーズがすでに2度扱っている。

相原修司は2021年に55歳で役職定年を迎え、年収が810万円から620万円になった。席は変わらず、後任の課長の下で同じ部署にいる。

大野修は2004年から2008年まで、正社員と同じラインに立って同じ作業をしていた。雇用主が派遣会社だったため、社員名簿に名前が載らず、通用証の色が違った。

3人とも、仕事の中身と給与の額が切り離される場面を経験している。切り離す根拠は、それぞれ年齢・役職・雇用形態である。いずれも仕事の中身そのものではない。

森田の問い——「同じ仕事に二つの値段が付くなら、値段のほうは何を測っているのか」——は、この3つの記事に共通する問いになる。この記事は答えを出さない。出すための材料が無いからである。

2017年から2026年。六十五歳から七十四歳。

2017-2026年・六十五〜七十四歳

六十五で再任用も終わった。今度は本当に、翌月から行くところが無い。

最初の三ヶ月は、朝起きる時間が変わらなかった。六時に目が覚めて、行くところが無い。それに慣れるのに、半年かかった。

いまは週に二日、地域の相談員のようなことをしている。無報酬に近い。それでよかった。年金で足りているからである。

七十四になった。妻は七十二で、二人とも元気である。この十年、金額のことで妻と相談したことが一度も無い。四十年、その心配をせずに済んだ人生だった。

それが良かったのかどうかは、いまも分からない。分からないと言えるだけの余裕があること自体が、たぶん答えである。

西暦年齢身分状態
197523国家公務員(採用)行政職俸給表(一)の左下に置かれる
199139課長補佐級が1つ上がる。民間はバブルのピーク
199745課長年収800万円台
200250課長号俸は上がったのに年収が減った
201260定年 → 再任用翌月も同じ建物・同じ席
201563再任用共済年金が厚生年金に一元化される
201765再任用終了朝起きる時間が変わらないまま3ヶ月
202674週2日の相談員/年金で足りている

📎 解説:このシリーズで、老後の設計が完全に成立しているのは森田だけである

このシリーズは13人を書いてきた。そのうち、65歳以降の生活が年金で成立していると書けるのは、森田克彦だけである。

大野修は年金の見込みが月7〜8万円台で、老後の設計が成立しない。黒木洋一は退職金がほぼ無く、厚生年金の記録が3つの事業所に分断され、年金の見込み額を算定することすらできない。岡部昭夫は63歳で年収410万円、65歳以降は未定である。宮田徹は55歳で死んだ。

森田の年金と退職手当の具体的な額は、次の第12章で制度から扱う。そこには、この記事の芯になる出来事がある。2015年10月、彼が40年勤めた制度そのものが無くなった。

注: 「老後の設計が成立している」という記述は、年金額が生活費を上回っているという本人の説明に基づくものであり、本記事は森田家の家計の実額を確認していない。

四十年、金額の心配をせずに済んだ。
それが良かったのかどうかは、いまも分からない。
分からないと言えるだけの余裕があること自体が、たぶん答えである。

次の章で、その年金の制度を見る。2015年10月に、それは別のものに変わった。

🧮 制度 — 共済年金と厚生年金、職域加算と年金払い退職給付

このセクションの3点

① 森田自身の年金月額は、標準報酬月額が本記事では不明なため算定していない。田村稔(26.5万円・夫婦合算)や藤井亮太(20万円台)と並べれば見込みは高い方だが、数字としては出せない。

② 国家公務員の退職手当の平均支給額は、本記事では一次資料に到達できなかった。民間側は厚生労働省の統計で定年退職者の平均が2,191万円と分かっているのに、公務員側の対応する数字は取れていない。

③ 定年の段階的引き上げ(令和5年度61歳→令和13年度65歳)は森田には適用されない。彼は2012年、旧制度の60歳定年で退職している。

森田の年金は、なぜここでは算定しないか

📎 解説:加入期間は分かっても、標準報酬月額が無い

老齢厚生年金には、老齢基礎年金に上乗せされる「報酬比例部分」があり、加入期間中の標準報酬月額(給与を等級に当てはめた基準額)と加入月数から算出される。森田の場合、加入期間(1975〜2015年10月の共済年金期間+2015年10月以後の厚生年金期間)は分かっているが、各時期の標準報酬月額は本記事では確認できていない。

年収のピーク(1,050万円)や生涯賃金の見込み(約2億2,900万円)は算定できているのに、月々の年金額だけが算定できないという状態である。1つの数字が無いために、別の1つの数字が出せない。この記事は、その数字が無いこと自体を記録する。

共済年金の見込みを、他の人物と並べる

人物65歳からの年金月額(見込み)備考
田村稔(#1)26.5万円夫婦合算・43年勤続
森田克彦(この記事)算定していない標準報酬月額が本記事では不明
藤井亮太(#12)20万円台継続勤続・厚生年金加入は途切れていない
宮田徹(#13)14.9万円本人ではなく遺族厚生年金・55歳で在職死亡
大野修(#14)7〜8万円台厚生年金加入が断続的・約14年
黒木洋一(#9)算定不能厚生年金の記録が3事業所に分断され、算定自体が成立しない

📎 解説:「算定していない」と「算定不能」は違う

この表で森田と黒木は、どちらも数字が入っていない。だが理由は違う。黒木は東亜電機22年・外資A社10年・外資B社4年と、厚生年金の記録が3つの事業所に分断され、標準報酬月額を追う一次資料そのものが本記事では存在しない状態にある。算定しようとしても、材料が最初から無い。

森田は37年、同一の勤務先(国家公務員)に在職し、記録が分断される要素は無い。材料はどこかにあるはずだが、本記事のリサーチではそこに到達できなかった。「記録が無い」黒木と、「取得できなかった」森田は、この記事の中では別の行として扱う。

俸給表の中で、彼はどのあたりにいたか

41.8歳

国家公務員(一般職)の平均年齢・令和7年4月1日現在

424,979円

国家公務員(一般職)の平均給与月額・同上

1〜10級

行政職俸給表(一)の等級構成

📎 解説:行政職俸給表(一)の実額と、森田の位置についての限界

国家公務員(一般職)の平均年齢は41.8歳、平均給与月額は424,979円である(人事院「令和7年国家公務員給与等実態調査」)。これは公安職・医療職等も含む全体平均であり、行政職俸給表(一)適用者だけの平均ではない。

行政職俸給表(一)は1級から10級の10段階で構成され、令和8年4月1日時点の実額として、本府省課長補佐級にあたる6級73号俸が427,000円、本府省課長級にあたる9級2号俸が532,000円という数字が、人事院のパンフレットに例示されている。森田が45歳で就いた「課長」が、この9級のどの号俸に対応していたかは、本記事では確認できていない。これらの数字は俸給表の構造を示す参考値として置くにとどめる。

退職手当 — 民間は測れて、公務員側は届かなかった

📎 解説:民間の数字はあるのに、公務員の数字に到達できない

厚生労働省「令和5年就労条件総合調査」第37表によれば、勤続20年以上・大卒管理職・従業員1,000人以上企業という条件で、定年退職者の1人平均退職給付額は2,191万円である。民間側については、この一次統計に到達できている。

一方、国家公務員自身の退職手当の平均支給額は、本記事では一次資料に到達できなかった。人事院サイト内の「退職給付」関連ページにあるのは、官民比較のための「民間企業退職給付調査」(民間側を調べる調査)だけで、国家公務員側の支給額そのものを示す統計ではない。退職手当を所管する内閣人事局のサイトも複数クロールしたが、支給状況の統計・PDFへの直接リンクは見つからなかった。

民間の側は測れて、公務員の側は測れていない。森田の退職手当がいくらだったかを、この記事は書けない。

🚫 このシリーズで「測られていない」ことが繰り返されている

・国家公務員の退職手当の平均支給額(本記事・第11作) — 人事院・内閣人事局の一次資料に到達できず未取得

・<a href="/wiki/salaryman-life-8">岡部昭夫</a>(#8) — 早期退職後の追跡統計が存在しない

・<a href="/wiki/salaryman-life-9">黒木洋一</a>(#9) — 経済産業省「外資系企業動向調査」が令和2年をもって中止され、外資系の退職金実態を裏づける一次統計が無い

・<a href="/wiki/salaryman-life-10">相原修司</a>(#10) — 該当統計の更新が2007年で止まっている

定年の段階的引き上げ — 森田は対象外

定年年齢適用年度
60歳令和4年度まで
61歳令和5年度〜6年度
62歳令和7年度〜8年度
63歳令和9年度〜10年度
64歳令和11年度〜12年度
65歳(完成形)令和13年度〜

📎 解説:2年に1歳ずつ、65歳まで — ただし森田はこの表の外にいる

国家公務員の定年は、令和5年度から2年ごとに1歳ずつ引き上げられ、令和13年度に65歳で完成する。61歳に達した年度以後、俸給月額は当分の間、7割水準に引き下げられる(住居手当・扶養手当・通勤手当等は10割のまま)。管理職は60歳の誕生日後の異動期間に非管理職ポストへ降任する役職定年制も、この引き上げに合わせて設けられている。

森田は2012年、旧制度の60歳定年で退職している。この段階的引き上げが始まったのは令和5年度(2023年度)からであり、森田が定年を迎えた2012年には存在しなかった。彼が経験したのは、旧制度の「60歳定年→希望者は65歳まで再任用」という枠組みであり、この表の枠組みには入らない。

生涯賃金は、このシリーズの多くの人物が1つの数字として出せる。
年金の見込みは、森田は出せず、黒木も出せない。理由は違う。
退職手当は、民間側の数字だけがあり、公務員側の数字は今もここに無い。

→ 次のSection 13では、生涯賃金という物差しが何を測っていなかったかを見る。

🔪 辛口批評 — 揺れなかったことは、得だったのか

このセクションの3点

① 森田克彦の生涯賃金は約2億2,900万円で、43年勤めた田村稔の約2億1,400万円を上回る。ピーク年収は1,050万円で、田村の次長時代にも届かない。

② このシリーズで唯一、老後の設計が完全に成立している。同時に、このシリーズで唯一、昇進が止まった理由を説明できない人物でもある。

③ 最後に置く問題は4度目の「測られていない」である。国家公務員の退職手当の平均支給額に、本記事は到達できなかった。

① 分散という物差しを、初めて使う

人物ピーク年収生涯賃金揺れ方
北原誠一取締役約4億9,000万円上がり続けた
黒木洋一1,380万円約2億4,000万円10年で山を作り、ピークの30%へ落ちた
森田克彦(この記事)1,050万円(最も低いピークの1つ)約2億2,900万円最も揺れなかった
田村稔次長・約1,180万円約2億1,400万円43年かけて上がった
相原修司810万円約2億800万円平ら。ただし課長は3年
岡部昭夫850万円約9,000万円48歳で半減し、戻らなかった

📎 批評:ピークが低いことと、総額が少ないことは別である

森田のピーク年収1,050万円は、黒木洋一の1,380万円にも、田村稔の次長時代にも届かない。単年で比べれば、彼は勝っていない。

それでも生涯賃金では田村を上回る。理由は3つある。①23歳から65歳まで、収入が途切れた期間が一度も無い ②50代に大きく落ちる局面が無い ③再任用で65歳まで働いた。

このシリーズの他の人物には、いずれかが欠けている。岡部昭夫は48歳で半減し、黒木洋一は54歳と59歳で2回途切れ、宮田徹は55歳で終わり、大野修は最初から低い。

生涯賃金は「高さ×長さ」で決まる。このシリーズは13本、高さのほうばかりを見てきた。森田の記事で初めて、長さだけで上位に来る人物が出た。

② 揺れなかった代償を、正確に書く

📎 批評:彼が受け取らなかったもの

この記事は「公務員は安定していて得だ」とは書かない。受け取らなかったものが3つある。

①バブル期の上昇。1990年、田村稔は42歳の課長で年収750万円、うち賞与7.2ヶ月だった。森田の側では、その月数は制度上起こりえない。

②上限。森田のピークは1,050万円である。北原誠一のように取締役になって生涯賃金約4億9,000万円に達する経路が、この表の上には存在しない。

③下がらない保証。これが最も誤解されやすい。森田の給与は、平成14年(2002年)以降、6回下がっている。△2.03%、△1.07%、△0.36%、△0.22%、△0.19%、△0.23%。公務員の給与が下がらないというのは事実に反する。

彼が持っていたのは「下がらない保証」ではなく「急には動かない仕組み」である。この2つはまったく違う。

③ 説明されない、という一点

📎 批評:このシリーズで、昇進が止まった理由を説明できない唯一の人物

森田は45歳で課長になり、そこから15年、級が動かなかった。そして、その理由の説明を一度も受けていない。

このシリーズの他の人物は、止まった理由が構造として説明できる。柴田正三は高卒技能職の昇進経路が課長の手前で細くなっていたから。相原修司藤井亮太は同期の人数と上の代の滞留による。

森田については、この記事が説明を持っていない。国家公務員の昇格は級ごとの定数の中で行われるが、その配分と個々の判断は本人に開示されない。本記事はその運用の実態について一次資料を取得していない。

そして本人が74歳で言ったのはこうである。「私はそのとき、上がらない理由を知りたかったのではない。知る方法があるかどうかを確かめたかった。無いと分かって、それ以上は考えなくなった。」

この記事はここに評価を置かない。置くための材料が無い。

④ この記事が最後に置く問題

📎 批評:4度目の「測られていない」

民間側の数字は分かっている。従業員1,000人以上・大卒管理職・勤続20年以上の定年退職の1人平均退職給付額は2,191万円である(厚生労働省・令和5年就労条件総合調査 第37表)。

これに対応する国家公務員の数字に、本記事は到達できなかった。内閣人事局・人事院のサイトを探索したが、定年退職者1人あたりの平均支給額を示す資料を特定できていない。存在しないと断定はしない。本記事が見つけられなかった、というのが正確である。

もう1つ、取れなかったものがある。一元化前の職域加算が、厚生年金に対してどれだけの上乗せだったかという定量的な水準である。制度が存在したことと、2015年10月に廃止されたことは確認できた。いくらだったのかが分からない。

このシリーズは、これで4本続けて同じ形に着いた。

サラリーマン8: 早期退職に応募した人のその後を追跡した公的統計が無い。
サラリーマン10: 役職定年後の処遇の統計が平成19年(2007年)で止まっている。
サラリーマン9: 外資系の賃金水準を測る調査が令和2年(2020年)で中止された。
サラリーマン11(この記事): 公務員の退職手当と職域加算の水準に到達できない。

4つに共通するのは、人が実際に受け取っている金額について、比較可能な形のデータが揃っていないことである。民間と公務員のどちらが有利かという議論は繰り返されてきたが、この記事は退職手当という基本的な項目1つで、比較を完成させられなかった。

⑤ 森田克彦の位置

約2億2,900万円

生涯賃金(田村稔 約2億1,400万円を上回る)

1,050万円

ピーク年収(田村の次長時代にも届かない)

42年

23歳から65歳まで、収入が途切れなかった年数

1人

このシリーズで老後の設計が完全に成立している人数

📎 この記事が確実に書けること

①森田は、このシリーズで最も揺れなかった。23歳から65歳まで、収入が途切れた期間が一度も無い。この点で、他の13人の誰とも違う。

②それでも、彼の給与は6回下がっている。安定とは、下がらないことではなかった。

③そして、40年勤めた年金制度は2015年10月に無くなった。共済年金は厚生年金に一元化され、職域加算は廃止されて年金払い退職給付に置き換わった。彼が再任用で働いている最中の出来事である。

この3つを並べたとき、「安定していた」という言い方は、あまり正確ではない。正確に言うなら、彼は急に動かない仕組みの中にいて、その仕組み自体が40年かけてゆっくり書き換わった。

74歳の彼が言ったのはこうである。「四十年、金額の心配をせずに済んだ。それが良かったのかどうかは、いまも分からない。分からないと言えるだけの余裕があること自体が、たぶん答えである。」

ピークでは負けた。総額では勝った。
安定とは、下がらないことではなかった。
六回下がって、それでも揺れなかった。

このシリーズは続く。残るのは、この14人に一人もいない女性たちである。