🧊 サラリーマン14 — 名簿に載らなかった男
✍️ 執筆: Claude Opus 5
1974年生まれ、1996年3月に国立大学を卒業。大卒求人倍率1.08倍の年で、内定はゼロだった。以後30年、正社員になったことが一度もない。アルバイト、製造業への派遣、そして契約社員。2004年から2008年までの4年間、彼は神奈川の東亜電機の工場で働いていた。柴田正三が旋盤を教え、田村稔が図面を引き、谷口健一が朝30分歩いた、あの工場である。同じ建物に、サラリーマン12の藤井亮太もいた。二人は同じ年に同じ大学を出ている。一度も口をきいていない。2008年12月、大野修は契約を切られた。藤井は残った。2026年8月現在52歳、契約社員、年収290万円。このシリーズで唯一、老後の設計が成立しない人物である。
🧾 この記事は何か — 8人の物差しが測っていなかったもの
このセクションの4点
① これまでの8本、田村・北原・柴田・森・中村・谷口・高梨・宮田は、入社年も到達も生涯賃金も違うが、全員が正社員として会社に属していた。生涯賃金・退職金・65歳時点の金融資産という物差しは、すべて「正社員である」ことを前提に組まれている
② 大野修(おおの おさむ・モデル人物・仮名)は1974年生まれ、1996年3月に国立大学を卒業した。同じ年、同じ大学、同じ学部から出た藤井亮太(サラリーマン12・執筆準備中)との違いは、内定が1社あったかゼロだったかの一点だけである
③ 大野は2004年から2008年まで、藤井が働く神奈川の東亜電機の工場に、派遣として入っていた。柴田正三が旋盤を教え、田村稔が図面を引き、谷口健一が朝30分歩いた、あの建物である。大野だけが、その建物の名簿に一度も載らない
④ この記事は「氷河期世代は可哀想だ」とは書かない。大野を憐れまず、藤井を勝者として描かない。この記事が置くのは数値だけである
プロローグ
大野 修2026年8月・五十二歳
この歳になって困るのは、話すことが無いことだ。
職場の休憩室で、若い人が前の会社の話をしている。前の会社、という言い方ができる。私にはその言い方ができない。三十年ぶんの職歴を順番に言うと、聞いているほうが困る顔をするので、言わない。言わないでいるうちに、言うことが無い人間になった。
ひとつだけ、たまに思い出すことがある。二十二の春に、三十七通の不採用通知を受け取った。理由はどれにも書いていなかった。私はその紙を、ずいぶん長いこと読んでいた。何が足りなかったのかが書いてあると思って読んでいた。
五十二になっても、まだ書いていない。
このシリーズの登場人物 — 同じ会社を生きた8人、そして同じ建物にいた1人
登場人物 — 名前をクリックすると、その人の言葉が開きます
🏢 1. 田村 稔 中央値型 — 勝ちでも負けでもない 1970年入社・同期820人/到達=次長(上位17%)。部長には届かなかった
生涯賃金 約2億1,400万円/2035年・87歳没。要介護7年 記事を読む → 開く ▾
静岡の農家の次男で、家を出るしかなかった。入社の日、駅で父が黙って万年筆をくれた。パイロットの、安いやつだ。定年の日まで机の引き出しにあった。
玄関の柱に子どもの背を刻んだ線がある。健一の線は一九九三年で止まっている。
四十二で課長になった年が、いちばんよかった。まあ、そういうもんだ。
🖋️ 2. 北原 誠一 出世型 — 同期820人で3人 1970年入社・同期820人(田村と同期)/到達=取締役(0.4%)→ 子会社社長
生涯賃金 約4億9,000万円/2037年・89歳没 記事を読む → 開く ▾
入社式で隣に座ったのが田村だった。同じ大学を出て、同じ日に辞令を受け取った。私の紙には本社人事部と書いてあり、彼の紙には神奈川工場と書いてあった。
二〇〇二年、転籍のリストに彼の名前があった。私は手を止めて、判を押した。震えはしなかった。
それは、そういう仕組みだ。
🔧 3. 柴田 正三 停滞型 — 係長のまま28年 1958年入社・高卒技能職340人/到達=係長(30歳)。そこから28年動かず
生涯賃金 約1億4,900万円(田村の約7割)/2032年・92歳没。要介護1年2ヶ月・自宅で 記事を読む → 開く ▾
新潟から出てきて、旋盤の前に立った。二十二で試験に受かって技術職になった年を、私は二度目の入社と呼んでいる。ノギスはそのとき自分で買った。
三十で係長になった。同期でいちばん早かった。そのあと二十八年、何も動かなかった。課長の椅子が空いたとき、座ったのは大卒の三十四だった。
寸法は合っとる。
✈️ 4. 森 康彦 単身赴任型 — 通算14年、家にいなかった 1980年入社・同期940人/到達=部長(47人/940人=5.0%)
生涯賃金 約2億9,600万円/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む → 開く ▾
福岡、広島、名古屋、バンコク。四回出て、合わせて十四年、家にいなかった。断れた回もある。断らなかった。
帰るたびに家のルールが少し変わっていた。茶碗が食器棚の奥に移り、鍵が替わり、私の部屋が息子の部屋になった。帰任したら食卓の椅子が三脚しか出ていなかった。
まあ、なんとかなる。あれは必要な十四年だった。
🏠 5. 中村 正巳 家庭優先型 — 転勤を断った(#4の対照群) 1980年入社・同期940人(森と同期)/到達=課長(286人/940人=30.4%)
生涯賃金 約1億8,600万円(森の63%)/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む → 開く ▾
一九九六年、九州支店の課長への内示を断った。妻の母が倒れて、代わりが立たなかった。三日考えて、手順を全部書き出して、代わりの立たない箇所が一つ残った。それだけの話だ。
断ったのは一回きりだ。二度目は聞かれなかった。介護は三年で終わったが、そのあと十九年、話は来なかった。
家族はこのことを知らない。言うことでもない。それでいい。
🫀 6. 谷口 健一 健康維持型 — 変数は45歳の一点だけ(対照実験) 1980年入社・同期940人(中村と同期・生涯賃金差300万円)/到達=課長。中村とほぼ同じ経路
生涯賃金 約1億8,900万円/2026年8月現在67歳・存命/推計87歳没・要介護1年半 記事を読む → 開く ▾
私の最初の指導係は田村さんだった。図面は嘘をつかん、と教わった。あの言葉は柴田さんから田村さんに渡ったものだと、後で知った。
二〇〇三年、同じ部署の柏木さんが心筋梗塞で倒れて、戻ってこなかった。数日後、机が片付けられていた。私はそれを自分の席から見ていた。翌月から煙草をやめて、朝三十分歩き始めた。
理由を聞かれても、続けとるだけですとしか答えない。
🌥️ 7. 高梨 実 メンタル離脱型 — 3ヶ月休んで、戻る場所が無かった 1985年入社・同期1,180人/到達=課長 → 53歳で自己都合退職
生涯賃金 約1億9,800万円(65歳時の資産は7人中最下位)/2026年8月現在63歳・週4日勤務中 記事を読む → 開く ▾
二〇〇八年の十月、月次の締めで数字が合わなかった。三度やり直しても合わなかった。合わないのは、自分の入力だった。
三ヶ月休んだ。制度は全部あった。復職もできた。ただ、戻る席が無かった。応援という名前の出向が、期限を書かれないまま七年続いた。
誰も私を辞めさせていない。帳尻は合います。
🚪 8. 岡部 昭夫 早期退職型 — 410万円で17年を売った 1985年入社・同期1,180人(高梨実と同期)/到達=課長。次長には届かなかった/2011年・48歳で希望退職に応募
生涯賃金 約9,000万円(前提つき試算・田村の約42%)/受取 約2,600万円/2026年8月現在63歳・部品商社(従業員80人)・年収410万円 記事を読む → 開く ▾
募集が出る一週間前、閉まっている食堂で部長に言われた。今回、対象に名前が入っている、と。それだけである。辞めろとは言われていない。
三週間、封筒を鞄に入れて出勤して、持ち帰った。二十一回出さなかった。二十二回目に出した。
あれは自分で決めたことです。十五年、そう言っている。妻には、あの面談のことを言っていない。
✈️ 9. 黒木 洋一 転職型 — 生涯賃金では勝った 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・相原修司と同期)/到達=東亜電機では係長 → 2010年44歳で外資へ/外資で部長級
生涯賃金 約2億4,000万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,380万円/2026年8月現在60歳・業務委託・年収420万円(ピークの約30%)/退職金ほぼ無し 記事を読む → 開く ▾
二〇一〇年、課長の内示が同期の別の人間に出たと聞いた。能力の差だとは思わなかった。あいつのいた部署は、その年に課長が定年になっていた。それだけである。
翌週、転職の登録サイトを開いた。六百九十万だった私が、隣の会社では千百五十万になった。あれが自分の値段だと思った。
今なら言える。あれは私の値段ではない。あの事業が伸びていた年の、あの会社が払えた額である。
⏳ 10. 相原 修司 詰まり型 — 30年待って、3年だけ課長 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・黒木洋一と同期)/到達=課長(52歳で就任)→ 55歳で役職定年。課長でいられたのは3年
生涯賃金 約2億800万円(田村稔の約97%)/2026年8月現在60歳・役職なし・年収580万円/2031年65歳定年・通算43年 記事を読む → 開く ▾
二〇一〇年、黒木に一緒に受けてみないかと誘われた。子どもがまだ小さいから、と断った。上の子は中学二年である。小さくはない。
本当は、外で自分の値段がつくのが怖かった。会社の中にいれば、私の価値は係長という文字で表される。誰も金額では言わない。
三十年待って課長になった。辞令の紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。妻には言っていない。
🏛️ 11. 森田 克彦 公務員型 — 最も揺れなかった/唯一の非民間 1975年・23歳で国家公務員採用(行政職俸給表(一))/到達=課長(45歳)。そこから15年、級は動かなかった
生涯賃金 約2億2,900万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,050万円/2012年60歳で定年→再任用→2017年65歳で終了/2026年8月現在74歳・年金で生活が成立 記事を読む → 開く ▾
採用の日に給料表を見せられた。あなたはここです、と指をさされて、上に行くとこうなります、と指を動かされた。安心したのは、その表に「景気」という欄が無かったからである。
二十八のとき、妻になる人に同じ紙を見せた。これって上がらないこともあるの、と聞かれて、無い、と答えた。五十のとき、号俸は上がっているのに年収が減った。表そのものが下がっていた。
四十六年たつが、二十八のときの説明を、私はまだ訂正していない。
🪑 12. 藤井 亮太 氷河期・正社員型 — 内定は1社だけだった 1996年入社・同期290人(シリーズ最少。1988年入社1,240人の約23%)/到達=課長(58人/290人=20.0%)。到達は42歳
生涯賃金 52歳時点の累計 約1億2,600万円/48年働く見込み/2026年8月現在52歳・課長・年収860万円/2029年55歳で役職定年 記事を読む → 開く ▾
三十年、誰にも言っていないことがある。私の内定は、一社だけだった。妻にも同期にも言っていない。言えば、私の三十年の説明が変わるからである。
二〇〇八年の十二月、部長に「一階、どこから減らせる」と聞かれた。どの工程が余っているかは、私がいちばん正確に知っていた。私は、本社が決めることです、と答えた。
十年ポストが動かなかったという話と、自分が選ばれて入ったという話を、私は一度も同じ机の上に並べたことがない。
🕰️ 13. 宮田 徹 在職死亡型 — 定年に着かなかった 1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多)/到達=次長(112人/1,240人=9.0%)
生涯賃金 約1億6,200万円(33年4ヶ月で終わった)/2021年8月・55歳で在職死亡 記事を読む → 開く ▾
私の最初の指導係は森さんだった。三日目に見積書を突き返された。これは誰が読む、と聞かれて、お客さんです、と即答した。違う、最初に読むのはうちの経理だ、と言われた。
それから三十三年、相手の背後にいる人間の顔を先に読んで生きた。その才能で次長になった。同じ才能で、この会社を一度も疑わなかった。
この病室は九時に電気が消える。会社にいた頃、九時はまだ夕方だった。
🧊 14. 大野 修(この記事の主人公) 氷河期・非正規型 — 名簿に一度も載らなかった 1996年3月・国立大学卒/内定ゼロ(大卒求人倍率1.08倍)。正社員になったことが一度もない/到達=到達なし。アルバイト7年 → 製造派遣4年半 → 契約社員
生涯賃金 52歳までの累計 約7,900万円(藤井の63%・田村の生涯賃金の37%)/2026年8月現在52歳・契約社員・年収290万円/年金見込み月7〜8万円台 開く ▾
二十二の春に、三十七通の不採用通知を受け取った。理由はどれにも書いていなかった。同じゼミの藤井は一社受かった。一社だけだったと知るのは、ずっとあとである。
二〇〇四年から二〇〇八年まで、神奈川の工場にいた。柴田さんが旋盤を教え、田村さんが図面を引いた建物だ。あの三人は名簿に載っている。私は載らない。派遣だからである。
名簿から消えるためには、まず載っていなければならない。
🌗 15. 矢部 直子 均等法第一世代 — 23.9%の側にいた/シリーズ唯一の女性 1986年4月・均等法の施行と同月に総合職入社。同期の総合職女性は4人/到達=課長(44歳)→ 次長(56歳)/38年間、一度も辞めていない
生涯賃金 約1億7,900万円(大卒女性の生涯賃金は全国推計で男性の78.4%・差7,080万円)/2024年60歳で定年→再雇用/2026年8月現在62歳・年収480万円 記事を読む → 開く ▾
一九九〇年に一人目を産んだとき、就業規則を二回読んだ。一回目は、見落としたのだと思ったからである。産前産後の休業は書いてあった。その先が無かった。
三ヶ月で戻った。三ヶ月にした理由は、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。育児休業法が公布されたのは、その翌年だった。
制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。
名前をクリックすると、その人物の言葉が開きます。全員が同じ会社(東亜電機)に関わった設定です。大野修は、この中で唯一、東亜電機と正社員としての契約を一度も結んでいません。2004年から2008年までは、派遣という別の契約で、同じ建物の中にいました。
これまでの8本が測っていなかったもの
これまでの8本、サラリーマン1の田村稔、サラリーマン2の北原誠一、サラリーマン3の柴田正三、サラリーマン4の森康彦、サラリーマン5の中村正巳、サラリーマン6の谷口健一、サラリーマン7の高梨実、サラリーマン13の宮田徹は、勝ち負けも到達点も大きく違う。だが1つだけ、8人全員に共通している。全員、正社員として会社に属していた。宮田は在職中に死んだが、それも「正社員として在職中に」死んだという話である。
だからこのシリーズがこれまで出してきた「生涯賃金」「退職金」「65歳時点の金融資産」という物差しは、すべて正社員であることを前提に作られている。その前提の外に何人いたかは、これまで一度も書かれていない。厚生労働省・内閣府の推計では、就職氷河期世代の支援対象はおよそ100万人、そのうち不本意ながら非正規で働き続けている人はおよそ50万人とされる。この記事は、その50万人の側から、同じ物差しを当ててみる記事である。
藤井亮太との1点だけの違い
大野修と藤井亮太は、1974年生まれの同い年で、1996年3月に同じ国立大学の同じ学部を卒業している。出身校も、卒業した年も、社会に出た年の大卒求人倍率(1.08倍)も、まったく同じ条件である。違うのは、藤井が東亜電機から内定を1社得て、大野が内定をゼロで卒業したという、その一点だけである。
この記事は、その一点がその後30年をどれだけ引き離すかを見る記事でもある。能力の差として書かない。同じ大学の同じ学部を出た2人の、30年後の年収・厚生年金の加入期間・65歳時点の見込み資産を、後の章でそのまま並べる。
前提知識7語
| 用語 | 意味 | なぜこの記事で重要か |
|---|---|---|
| 就職氷河期世代 | 内閣府の定義では、1993年から2004年ごろに卒業期を迎えた世代を指す。支援対象はおよそ100万人、うち不本意ながら非正規雇用にとどまっている人がおよそ50万人とされる | 大野修と藤井亮太は、この世代のちょうど入口(1996年3月卒)にあたる |
| 大卒求人倍率 | 大学卒業者向けの求人数を、卒業予定者数で割った値。リクルートワークス研究所が毎年調査している。1倍を割ると、理論上、全員分の求人が無いことになる | 1991年3月卒の2.86倍から、大野と藤井が卒業した1996年3月卒には1.08倍まで落ちている |
| フリーター | 定職に就かず、パート・アルバイトなどの形で働く人を指す通称。フリーター数は2003年(平成15年)に217万人でピークを迎えた(厚生労働省) | 大野は1996年の卒業後、アルバイトを掛け持ちする生活が1997年から2003年まで7年続く |
| 労働者派遣法と製造業派遣解禁 | 労働者派遣法は1985年に制定された。製造業への派遣は長く禁止されていたが、2004年3月の法改正で解禁された | 大野が2004年に神奈川の東亜電機の工場に派遣として入ったのは、この解禁の年である |
| 雇止め | 契約社員・派遣社員などの有期雇用契約が、契約期間の満了時に更新されず終了すること | 大野は2008年末、この形で東亜電機の工場での契約を終えている |
| 老齢基礎年金 | 国民年金に加入していた人が65歳から受け取る年金。満額は年816,000円(令和8年度・日本年金機構)で、保険料の納付月数に応じて減額される | 大野の65歳からの年金見込みは、この満額から未納期間の分だけ減額して計算する |
| 国民年金の未納 | 国民年金の保険料を、納付期限までに納めていない状態。未納だった月は、老齢基礎年金の受給額の計算に反映されない | 大野には、この未納期間がある。詳しい経緯は後の章で扱う |
この記事が置くのは数値だけである。「氷河期世代は可哀想だ」とは書かない。大野を憐れむ書き方も、藤井を勝者として描く書き方もしない。
→ 次のSection 2では、この記事の答えを先に出す。8人のうち唯一、老後の設計が成立しない大野修と、同じ大学から同じ年に出た藤井亮太を並べる。
⚖️ 【答え】この記事だけ、老後が成立しない
このセクションの3点
① 大野修は1996年、内定ゼロで卒業した。以後30年、正社員になったことが一度もない。2026年現在52歳・契約社員・年収290万円。65歳からの年金見込みは月およそ7〜8万円
② これまでの13人は、金額の多寡はあっても全員、老後が成立していた。大野だけが成立しない。同じ年に同じ大学を出た藤井亮太(サラリーマン12)と並べると、その差は退職金の有無や持ち家の有無にまで及ぶ
③ この記事は、その差を「本人の努力不足」にも「会社が悪い」にも「可哀想」にも回収しない。ここに置くのは、老後が成立するかどうかを分けた条件の一覧である
0社
1996年の内定数
30年
正社員になったことのない年数
290万円
2026年現在の年収
月7〜8万円
65歳からの年金見込み
| 項目 | 大野修 | 藤井亮太 |
|---|---|---|
| 厚生年金の加入期間 | 断続的。合計およそ14年 | 48年(見込み) |
| 65歳からの年金(見込み) | 月およそ7〜8万円 | 月およそ20万円台 |
| 65歳時点の金融資産(見込み) | 200万円台 | 2,000万円台 |
| 退職金 | 無い | ある |
| 持ち家 | 無い(賃貸・家賃6.2万円) | ある |
| 配偶者 | 未婚 | 妻・子2人 |
大野修と藤井亮太は、1974年生まれの同い年で、1996年3月に同じ国立大学の同じ学部を卒業している。差の出発点は、内定が1社あったかゼロだったかの一点だけである。それが30年後、上の表の6項目すべてに開いている。厚生年金の加入期間は大野がおよそ14年、藤井は48年見込みで3倍以上。65歳からの年金見込みは大野が月7〜8万円、藤井は月20万円台。退職金は大野には無く、藤井にはある。
これまでの13人、田村稔・北原誠一・柴田正三・森康彦・中村正巳・谷口健一・高梨実・宮田徹、そして書き上がれば藤井亮太を含めても、金額の多寡はあっても、全員が老後の設計として成立していた。年金と退職金と金融資産のどれかが足りなくても、どれかが補っていた。大野修だけ、その3つがどれも薄い。
これまでの13人は、金額の多寡はあっても全員、老後が成立していた。大野修だけが成立しない。
この記事が言わないこと
・この記事は、大野修本人の努力不足だとは言わない
・この記事は、会社が悪いとも言わない
・この記事は、大野を可哀想だとも書かない
→ 次のSection 3では、大野修の年収の推移を1996年から2026年まで並べ、藤井亮太との差がいつ、どこで開いたかを見る。
💴 年収30年 — 同じ年に卒業した男との差
このセクションの3点
① 大野修の52歳時点(2026年)までの累計収入は約7,900万円。同じ年に同じ大学を出た藤井亮太の同時点の累計(約1億2,600万円)の63%、田村稔の生涯賃金(約2億1,400万円)の約37%にとどまる
② 大卒求人倍率は1991年3月卒の2.86倍から、大野と藤井が卒業した1996年3月卒には1.08倍まで落ち、2000年3月卒に0.99倍で初めて1.0を割った。氷河期のピークは2000年であり、1996年はその手前である
③ 2011年の大卒就職内定率91.0%は、氷河期のピークだった2000年3月卒の91.1%をわずかに下回り、統計が残る全期間で最も低い。「氷河期=最悪の年」という単純化はできない
| 西暦 | 年齢 | 立場 | 年収 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1996 | 22歳 | 無職→アルバイト | 約110万円 | 内定ゼロ。大卒求人倍率は1.08倍 |
| 2000 | 26歳 | アルバイト(複数掛け持ち) | 約180万円 | |
| 2004 | 30歳 | 製造派遣(東亜電機の工場) | 約260万円 | 製造業派遣が解禁された年 |
| 2008 | 34歳 | 製造派遣 | 約280万円 | 年末に契約を切られる |
| 2009 | 35歳 | 無職→短期のアルバイト | 約90万円 | |
| 2012 | 38歳 | 契約社員(別の会社) | 約250万円 | |
| 2019 | 45歳 | 契約社員 | 約280万円 | 就職氷河期世代支援プログラムが始まる年 |
| 2026 | 52歳 | 契約社員 | 290万円(現在) |
大野の年収は、1996年の約110万円から2026年の290万円まで、30年かけておよそ2.6倍になっている。ただし途中に2回、大きく落ちている。2008年末に製造派遣の契約を切られた翌年、2009年の年収は約90万円まで落ちた。その後も契約社員として複数の会社を渡り、290万円まで戻すのに17年かかっている。
藤井亮太と並べると、差はもっとはっきりする。大野の52歳時点までの累計収入は約7,900万円。同じ大学の同じ学部を同じ年に出た藤井は、52歳時点で約1億2,600万円の累計に達している。大野はその63%にとどまる。43年間勤め上げた田村稔の生涯賃金(約2億1,400万円)と比べると、大野の52歳までの累計はその約37%である。
| 人物 | 52歳時点までの累計収入 | 大野比・備考 |
|---|---|---|
| 大野修 | 約7,900万円 | 基準 |
| 藤井亮太(同じ大学・同じ年・52歳時点) | 約1億2,600万円 | 大野はこの63% |
| 田村稔(参考・43年間の生涯賃金) | 約2億1,400万円 | 大野の52歳までの累計はこの約37% |
大卒求人倍率の推移 — 1996年はまだ、氷河期の途中だった
| 卒業年 | 大卒求人倍率 | 位置づけ |
|---|---|---|
| 1991年3月卒 | 2.86倍 | 調査開始以来の最高 |
| 1996年3月卒 | 1.08倍 | 大野と藤井が卒業した年。ピークの約2.6分の1 |
| 2000年3月卒 | 0.99倍 | 初めて1.0を割った年=実質的な最低 |
| 2003年3月卒 | 1.30倍 | 前年より上昇している |
📎 解説:大卒求人倍率とは何か、そして1996年はまだ、氷河期の途中だった
大卒求人倍率はリクルートワークス研究所が毎年調査している値で、大学卒業予定者向けの求人総数を、卒業予定者数で割ったものである。1.0を割ると、理論上は全員分の求人が無いことになる。
大野と藤井が卒業した1996年3月卒は1.08倍で、まだ1.0を割ってはいない。求人倍率だけで見れば、この4年後の2000年3月卒のほうが厳しい年だった。大野の内定ゼロは、氷河期のどん底ではなく、その手前で起きている。
📎 解説:内定率で見ると、氷河期の最悪はリーマン後の2011年だった
大卒就職内定率は、厚生労働省と文部科学省が共同で調査している値で、4月1日時点の内定状況を示す。1997年94.5% → 2000年91.1% → 2011年91.0%。
2011年の91.0%は、氷河期のピークだった2000年の91.1%をわずかに下回り、統計が残る全期間で最も低い。リーマン・ショック後の求人の落ち込みは、1990年代後半から2000年代前半の氷河期そのものより厳しい数値として記録されている。「氷河期=最悪の年」という単純化はできない。大野が内定ゼロで卒業した1996年も、大野が製造派遣の契約を切られた2008年末も、それぞれ別の底として記録に残っている。
→ 次のSection 4では、大野修という人物の設定と、藤井亮太との「二人の設定」対比表を見る。
👤 大野修という人物と、1996年3月という卒業年
このセクションの3点
① 大野修は1974年生まれ、1996年3月に国立大学経済学部を卒業した。藤井亮太(サラリーマン12)と同い年・同じ大学・同じ学部。就活では、内定が1社も無いまま卒業を迎えた
② 未婚。賃貸住まいで家賃6.2万円。2026年現在52歳、契約社員、年収290万円。正社員になったことが一度もない
③ 内閣府の定義で就職氷河期世代は1993年から2004年ごろに卒業期を迎えた世代を指し、支援対象はおよそ100万人、うち不本意ながら非正規で働き続けている人がおよそ50万人とされる。生涯未婚率(50歳時未婚割合・男性)は2020年で28.3%(国立社会保障・人口問題研究所)。大野はこの28.3%の中にいる
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月 | 1974年(昭和49年) |
| 学歴 | 1996年3月・国立大学 経済学部卒(藤井亮太と同じ大学・同じ学部) |
| 就活 | 内定ゼロ。大卒求人倍率1.08倍の年に卒業 |
| 婚姻 | 未婚 |
| 住居 | 賃貸・家賃6.2万円 |
| 到達 | 正社員になったことが一度もない |
| 2026年現在 | 52歳・契約社員・年収290万円 |
大野修と藤井亮太は、同じ年に同じ大学の同じ学部を卒業している。それだけを同じにして、あとは全部違う。藤井は東亜電機から内定を1社得て、1996年4月に同期290人の1人として入社した。大野は同じ春、内定を1社も得られないまま卒業した。以後30年、正社員として働いたことが一度もない。
二人の設定 — 同じ年に同じ大学を出た2人
| 藤井亮太(正社員) | 大野修(非正規) | |
|---|---|---|
| 生年 | 1974年(昭和49年) | 1974年(同い年) |
| 大学 | 1996年3月卒・国立大学 経済学部 | 1996年3月卒・同じ大学・同じ学部 |
| 就活 | 内定1社。東亜電機 | 内定ゼロ |
| 入社 | 1996年4月・東亜電機・同期290人(採用が3分の1に絞られた年) | — |
| 配属 | 神奈川の工場・生産管理部 | — |
| 到達 | 42歳(2016年)で初めて課長/2029年55歳で役職定年/2039年65歳定年/70歳まで働く見込み | 正社員になったことが一度もない |
| 2026年現在 | 52歳・課長・年収860万円 | 52歳・契約社員・年収290万円 |
📎 解説:就職氷河期世代という定義と、大野が入っている28.3%
内閣府の定義では、就職氷河期世代はおおむね1993年から2004年ごろに卒業期を迎えた世代を指す。この世代のうち、内閣府・厚生労働省の推計で支援対象とされるのはおよそ100万人、そのうち不本意ながら非正規雇用にとどまっている人はおよそ50万人とされる。大野は、この世代のちょうど入口(1996年3月卒)にあたる。
もう1つ、この記事の芯に関わる数値がある。国立社会保障・人口問題研究所の集計では、生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚していない人の割合・男性)は2020年で28.3%である。大野修は未婚であり、この28.3%の中にいる。この数値は氷河期世代に限った値ではなく、日本の男性全体の値である。大野の未婚が氷河期であることの直接の結果だと単純化することはできない。
→ 次のSection 5では一人称に切り替える。1996年、内定ゼロで卒業した春を、大野自身の言葉で見る。
❄️ 1996年 — 内定ゼロの春
このセクションの3点
① 1996年3月卒の大卒求人倍率は1.08倍。1991年の2.86倍から、約2.6分の1に落ちている。
② 大野修は三十七社を受けて、内定はゼロだった。同じゼミの藤井亮太は一社受かった。
③ その一社が東亜電機である。二人の三十年は、この一点から分かれる。
| 卒業年 | 大卒求人倍率 | 位置づけ |
|---|---|---|
| 1991年3月卒 | 2.86倍 | 調査開始以来の最高。バブル期 |
| 1996年3月卒 | 1.08倍 | 大野と藤井が卒業した年。ピークの約2.6分の1 |
| 2000年3月卒 | 0.99倍 | 初めて1.0を割った年=実質的な最低 |
| 2003年3月卒 | 1.30倍 | 前年より上昇している |
📎 解説:1.08倍という数字が意味すること、しないこと
大卒求人倍率は、企業の求人総数を大学卒業予定者数で割ったものである(リクルートワークス研究所「大卒求人倍率調査」)。1996年3月卒は1.08倍。計算上は、卒業する100人に対して108人分の求人があったことになる。
この数字だけを見れば、全員が入れる計算になる。それでも内定が取れない人が出るのは、求人が業種と規模と地域に偏っているためである。倍率は「席の総数」しか示さず、どの席が誰の手の届く場所にあるかは示さない。
そして重要な点を先に置いておく。1996年は、氷河期の中で最も厳しい年ではない。最も低かったのは2000年3月卒の0.99倍で、初めて1.0を割った年である。2003年3月卒は1.30倍まで戻している。この記事は「氷河期=最悪の年」という単純化をしない。大野が卒業した1996年は、五年前の半分以下ではあるが、底ではなかった。
1995年の秋から、1996年の春まで。
大野 修1995-96年・二十一〜二十二歳(振り返っているのは2026年・五十二歳の私)
就職課の掲示板を、毎日見ていた。紙が貼られる曜日が決まっていて、その日は朝から人が集まる。前の年より紙の数が減っている、という話を、上の学年の人がしていた。減っているかどうか、私には比べようがない。私はその年しか見ていない。
三十七社受けた。数えていたわけではなく、後から履歴書の控えを数えたらそうだった。一次で落ちるところ、二次で落ちるところ、最終まで行って落ちるところがあった。最終まで行ったのは四社で、そのうち二社は同じ日に不採用の通知が来た。
理由は書いていない。慎重に検討した結果、とだけ書いてある。当時の私は、その紙をずいぶん長いこと見ていた。何が足りなかったのかが書いてあると思って読んでいた。書いてあるはずがない。
1996年3月
ゼミの追い出しコンパがあった。決まった者と決まらなかった者が同じ席に座る。誰も就職の話をしなかった。避けているのが分かるので、かえって全員が意識していた。
藤井は決まっていた。電機のメーカーだと聞いた。おめでとうと言った。本当にそう思っていた。あいつは真面目にやっていたし、私よりよく調べていた。
ただ、帰りの電車で一つだけ考えた。あいつは何社受かったんだろう、と。聞かなかった。聞く場面ではなかった。
📎 解説:藤井の内定も、一社だけだった
この記事の対になる藤井亮太(次に書くシリーズ12人目)の内定は、一社だけである。東亜電機。彼はそれを、同期にも妻にも言っていない。
三十年後、藤井は課長になり、年収860万円になる。大野は契約社員で、年収290万円になる。1996年3月の時点で二人を分けていたのは、内定が一社かゼロかという差だけだった。
この記事は、その差が能力の差だったかどうかを判定しない。判定できるだけの材料が無いからである。面接の結果は記録に残らず、なぜ落ちたのかは本人にも通知されない。三十七通の不採用通知に、理由は書かれていなかった。
1996年4月。二十二歳。
1996年4月
卒業した。四月になっても行くところが無い、というのは、思っていたのと違う感覚だった。焦るとか情けないとかではなく、朝起きたときに、その日やることを自分で決めなければならない。それがしばらく続くと、決められること自体が重くなってくる。
五月から、駅前の書店でアルバイトを始めた。週四日。時給七百五十円。働き始めたら、朝の重さは消えた。やることが外から決まるのは、楽である。
親には、就職活動を続けながらつなぐ、と言った。実際そのつもりだった。あと一回、どこかで運が向けばいい。そう思っていた。二十二の私は、その「あと一回」に期限があるとは考えていない。
📎 解説:この年の卒業生が、のちに「就職氷河期世代」と呼ばれる
内閣府は就職氷河期世代を「1993年から2004年に学校卒業期を迎えた世代」と定義している。1996年3月卒の大野と藤井は、この期間のちょうど真ん中にあたる。
支援の対象として想定された規模は約100万人で、そのうち不本意に非正規で働いている人が約50万人とされた。ただしこの定義と数字が示されたのは2019年である。大野が卒業してから23年後にあたる。
1996年の春に、自分が後年そう呼ばれる世代の一員だと知っていた人はいない。大野は自分を、たまたま運の悪かった個人だと思っていた。それが世代の名前で呼ばれる現象だったと分かるのは、彼が45歳になってからである。
このあと八年、彼は正社員の面接を受け続ける。次に定職に近いものに就くのは、法律が変わったあとである。
🌀 1997-2003 — アルバイトの7年と、フリーター217万人
このセクションの3点
① 書店、倉庫、コンビニ、引越し。七年で年収は110万円から180万円まで上がった。
② その間、正社員の面接を受け続けている。二十代の後半から、書類で落ちる回数が増えた。
③ 2003年、フリーターの数は217万人でピークに達する。彼はその中の1人だった。
| 西暦 | 年齢 | 主な仕事 | 年収 | 同時期の藤井亮太 |
|---|---|---|---|---|
| 1996 | 22歳 | 書店(週4日・時給750円) | 約110万円 | 東亜電機に入社。年収310万円 |
| 1998 | 24歳 | 書店+倉庫の掛け持ち | 約150万円 | |
| 2000 | 26歳 | 倉庫+コンビニ深夜 | 約180万円 | |
| 2003 | 29歳 | 引越し(繁忙期のみ)+コンビニ | 約170万円 | 主任。年収520万円 |
📎 解説:フリーターは2003年に217万人でピークを打つ
厚生労働省の集計によれば、フリーターの数は2003年(平成15年)の217万人がピークである。大野が29歳の年にあたる。
この数字が意味するのは、彼が例外的な存在ではなかったということである。同じ状態の人が200万人以上いた。二十代のうちは、周囲にも同じ立場の人間が多くいた。「まだ途中だ」という感覚が持続したのは、周りも途中だったからである。
ピークを打ったということは、その後は減っていくということでもある。減り方には二通りある。正社員になって抜けた人と、年齢が上がって別の区分(非正規雇用の中高年)に移った人である。統計の上でフリーターから消えることは、状況が改善したことを意味しない。
1997年から1999年。二十三歳から二十五歳。
大野 修1997-99年(振り返っているのは2026年・五十二歳の私)
書店は続けた。倉庫を足した。倉庫は朝が早いかわりに時給が高い。二つ合わせると、月に十二万から十四万になる。実家にいたので、それで足りた。
面接は受け続けていた。中途採用の枠が少しずつ出るようになっていて、そこに応募する。職務経歴書という書類があることを、このとき初めて知った。書くことが無い。アルバイトの内容を書いても、経歴として読んでもらえるのかどうか分からない。
二十五を過ぎたあたりから、面接まで進む回数が減った。書類で落ちる。面接まで行けば、私はそれなりに話せると思っていた。だから書類で落ちるのが、いちばん応えた。話す前に終わっている。
📎 解説:新卒一括採用の外側に出るということ
日本の採用は長く、新卒一括採用を主たる入口として設計されてきた。大学を卒業する年に正社員として採用される経路が最も広く、そこを外れると入口が急に細くなる。
中途採用は、多くの場合「経験者採用」である。前職での実務経験が問われる。正社員の経験が無い人にとっては、経験を要求する求人に応募するために必要な経験が、そもそも積めないという循環になる。
この構造は、能力の高低とは別の次元で作用する。大野が書類で落ち続けたのは、書類に書ける職歴の種類が、選考の基準に合わなかったためである。面接まで進めば話せる、という彼の見立てが正しかったかどうかは、確かめる機会が無かった。
2000年。二十六歳。
2000年・二十六歳
この年、私より四つ下の代の就職が、私たちの年より悪いという話を聞いた。求人が去年より減っている、と。
その話を聞いたとき、少しだけ、自分の年のことを考えた。私の年は、まだましだったのか。だとしたら、私が入れなかったのは何なのか。
考えても仕方がないので、コンビニの深夜に入った。深夜は時給が上がる。体は動く年齢だった。
📎 解説:大野の直感は、数字の上では正しい
大野が2000年に聞いた話は、統計と一致している。2000年3月卒の大卒求人倍率は0.99倍で、この調査で初めて1.0を割った年である。大野が卒業した1996年3月卒は1.08倍だった。
つまり彼の年より、四年下の代のほうが数字の上では厳しい。それでも大野は内定ゼロで、その代の多くは正社員になっている。
倍率は世代の条件を示すが、個人の結果を説明しない。同じ1.08倍の年に、藤井は一社受かり、大野は三十七社落ちた。世代の数字と個人の結果のあいだには、この記事が埋められない距離がある。
2001年から2003年。二十七歳から二十九歳。
2001-2003年
三年は速い。書店を辞めて、倉庫と引越しにした。引越しは繁忙期しか無いが、日当がいい。三月は毎日入った。
面接を受ける回数が減った。求人を見なくなったわけではない。見て、応募する前に、条件のところで手が止まるようになった。年齢の欄と、経験の欄がある。
二十九になった年、親が一度だけ、この先どうするのかと聞いた。私は、考えている、と答えた。それ以上は聞かれなかった。あと一回、運が向けば。まだそう思っていた。
📎 解説:この七年で、藤井は主任になっている
同じ七年間、藤井亮太は東亜電機の生産管理部にいた。2003年、29歳で主任になり、年収は520万円である。大野の同年の年収は約170万円で、差は約350万円、比にして約3倍になっている。
入社した1996年時点の差は、310万円と110万円で約200万円だった。七年で差は約1.75倍に広がっている。藤井が特別に評価されたわけではない。年功で上がる仕組みの中にいるかどうか、それだけの差である。
そしてこの差は、退職金・企業年金・厚生年金の加入期間としても積み上がっていく。年収の差は、老後の差の前払いでもある。この記事の最後の章で、その計算をする。
2003年、フリーターは217万人でピークを打った。
大野修は二十九歳だった。
翌年、法律が変わる。それまで彼が働けなかった場所の入口が、開く。
🏭 2004 — 工場に入る。同じ建物に、彼がいた
このセクションの3点
① 2004年3月、製造業への労働者派遣が解禁される。三十歳の大野は、その年から神奈川の工場に入る。
② その工場は、柴田正三が旋盤を教え、田村稔が図面を引き、谷口健一が朝三十分歩いた建物である。
③ 同じ建物に、同じ年に同じ大学を出た藤井亮太もいた。二人は一度も口をきいていない。
📎 解説:2004年3月に、法律が変わった
2004年3月、改正労働者派遣法が施行され、それまで禁止されていた製造業務への労働者派遣が解禁された。この一点で、日本の工場の中に立つ人間の構成が変わる。同じラインに、正社員と派遣社員が並んで立つようになる。
大野が工場に入れたのは、この改正があったからである。それ以前は、彼が工場で働く経路そのものが法律上存在しなかった。八年間アルバイトを続けた三十歳の男にとって、これは久しぶりに開いた入口だった。時給は上がり、雇用の期間は契約書に書かれ、寮もついた。
注: 改正法の条文そのものは本記事では未確認であり、施行が2004年3月であることと、製造業務への派遣が解禁されたという事実の範囲で記述している。
2004年。三十歳。
大野 修2004年・三十歳(振り返っているのは2026年・五十二歳の私)
面接は十五分で終わった。志望動機は聞かれなかった。聞かれたのは、体力があるか、夜勤ができるか、いつから来られるか、の三つだった。すべて問題なかったので、その場で決まった。
八年ぶりに、来月の予定が決まっている状態になった。これは思っていたより大きなことだった。アルバイトを掛け持ちしていた頃は、来月何日働けるかが月末まで分からない。働く日数が先に決まっているというだけで、私は少し安心した。
初日、正門で名前を言って、通用証を受け取った。首から下げるカードで、写真はなく、番号と、派遣会社の名前が入っていた。社員のカードは色が違う。それは初日に分かった。
同じ年・工場の中
古い建物だった。塗り直した跡が何層にもなっていて、いちばん下の色が何だったのかは分からない。天井が高くて、夏は上のほうに熱が溜まる。
朝の始業前、機械が温まる音がする。あれを最初に聞いたとき、なぜか知っている音だと思った。知っているはずがないのだが、そう思った。
私の持ち場は組立の後工程で、決まった手順を決まった順番でやる。手順書は誰かが作ったもので、そこに名前は書いていない。ずいぶん前に作られたものらしく、紙が黄色くなっていた。
📎 解説:この建物には、このシリーズの人物が三人いた
大野が2004年に入った神奈川の工場は、このシリーズにこれまで三度出てきている。
サラリーマン3の柴田正三が1958年から38年間、旋盤の前に立ち、若い工員に寸法の測り方を教えた工場である。サラリーマン1の田村稔が1970年に配属され、柴田に図面を突き返された工場である。サラリーマン6の谷口健一が1980年に配属され、2003年に同僚の机が片付けられるのを見て、翌月から朝三十分歩き始めた工場である。
大野が手にした黄色くなった手順書を、誰が最初に書いたのかは記録に残っていない。この建物では、五十年にわたって誰かが手順を書き、誰かがそれを引き継いできた。
ただし一点だけ、大野は前の三人と違う。柴田も田村も谷口も、この工場の社員名簿に名前が載っている。大野は載らない。彼を雇っているのは派遣会社であり、東亜電機ではない。
2005年。三十一歳。
2005年・三十一歳
同じ建物に、社員の人たちがいた。事務所は二階で、私たちは一階にいる。昼の食堂は一緒だが、時間が三十分ずれている。ずらしてあるのだと、後から気づいた。
生産管理の人が、たまに一階に降りてくる。数字を確認しに来るらしい。私と同じくらいの歳の人がいて、髪の分け方がきっちりしていた。何度か目が合って、会釈をしたことがある。
「おつかれさまです」
向こうもそう言った。それだけだった。名前は知らない。向こうも私の名前を知らない。私は通用証に番号で書かれていて、名札を付けていなかった。
📎 解説:この会釈をした相手が、次に書く人物である
大野が一階で会釈をした「同じくらいの歳の、髪の分け方がきっちりした人」は、藤井亮太である。このシリーズの12人目として次に書く人物で、2005年当時31歳、この工場の生産管理部にいた。
二人は同じ1974年に生まれ、同じ国立大学の経済学部を、同じ1996年3月に卒業している。大野の内定はゼロだった。藤井の内定は1社で、それが東亜電機だった。違いはその一点だけである。
2004年から2008年までの四年間、二人は同じ建物にいた。一度も口をきいていない。「おつかれさまです」を交わしたことはある。互いに名前を知らない。
この場面は、藤井の記事では藤井の側からも書く。藤井はこのことを覚えていない。大野は覚えている。記憶しているのは、いつも下にいた側である。
2006年から2008年の秋まで。
2006-2008年
三年、同じ持ち場にいた。手順は覚えた。新しく入ってきた人に教える側にもなった。教えるときは、黄色くなった手順書のとおりにではなく、実際にやりやすい順番で教えた。手順書のほうを直すことは、私にはできない。
契約は三ヶ月ごとの更新だった。更新のたびに紙にサインをする。断られたことは一度もなかったので、そのうち、更新は自動的にされるものだと思うようになった。
三十四になっていた。まだ途中だと思っていた。あと一回、どこかで運が向けば、正社員の口があるかもしれない。三十代のあいだ、私はずっとそう思っていた。
📎 解説:三ヶ月ごとの更新が、四年続くということ
有期の労働契約は、期間を定めて結ばれ、期間の満了で終了する。更新するかどうかは、そのつど決まる。更新が繰り返されても、それによって自動的に無期の契約に変わるわけではない。
大野の契約は三ヶ月ごとだった。2004年から2008年秋までの約四年半で、更新は十八回前後になる。十八回続けて更新されたという事実は、十九回目が更新されることを何も保証しない。そして本人の側から見ると、十八回断られなかった経験は「更新は自動的にされる」という感覚に変わる。
制度としては、この二つに関係はない。更新の実績と、次回の更新は、まったく別の話である。しかし四年半それが続けば、人はそれを前提にして生活を組む。
2008年9月15日、リーマン・ブラザーズが破綻する。
大野がそれを工場で聞いたのは、少しあとのことだった。
この年の十二月、厚生労働省が把握しただけで、85,012人が職を失っている。
📉 2008年12月 — 85,012人のうちの1人
このセクションの3点
① 2008年12月26日、厚生労働省は非正規労働者の雇止め・解雇を1,415件・約85,012人と発表する。うち派遣が67.4%。
② 大野修はその中の1人である。四年半、十八回続いた更新が、十九回目で止まった。
③ 同じ建物にいた藤井亮太は残った。そして藤井は、その年に誰が減ったかを知らない。
1,415件
2008年12月に厚労省が把握した非正規の雇止め・解雇の事業所件数
85,012人
同・対象となった人数(2008年12月19日時点)
67.4%
そのうち派遣労働者が占める割合
1人
この記事が扱う人数
📎 解説:85,012という数字の性質
2008年12月26日、厚生労働省は「非正規労働者の雇止め等の状況」を発表した。2008年12月19日時点で、把握できたものだけで1,415件の事業所、約85,012人。うち派遣労働者が67.4%を占める。
この数字の性質を正確に押さえておく。これは「厚労省が把握できた分」である。各地の労働局を通じて集めた報告の集計であり、報告に上がらなかったものは入っていない。そして12月19日時点の数字なので、年末年始から2009年にかけて増えた分は、この85,012人に含まれていない。
注: 2009年まで含めた最終的な集計値は本記事では未取得である。したがってここでは「2008年12月時点で」と限定して扱う。
2008年11月。三十四歳。
大野 修2008年11月・三十四歳(振り返っているのは2026年・五十二歳の私)
ラインが止まる日が増えた。最初は月に一日、そのうち週に一日になった。止まっている日は掃除をする。掃除をする日が増えると、給料が減る。時給だからである。
誰も何も言わなかった。社員の人たちも何も言わない。ただ、二階の人が一階に降りてくる回数が増えた。数字を見に来ているのだろうと思った。
十一月の終わり、派遣会社の担当者から電話があった。次の更新のことで話がある、と言われた。その言い方で、私は分かった。四年半で十八回更新して、そういう電話は一度も来ていない。
2008年12月
面談は事務所ではなく、駅前の喫茶店だった。担当者は先に来ていて、コーヒーを二つ頼んでいた。
「今期で終わりになります」
「理由は」
「先方の生産計画です」
それは理由だった。嘘ではない。私は頷いた。頷いてから、寮のことを聞いた。
「契約が終わると、退去になります」
そこで初めて、自分が住んでいる部屋が、仕事に付いてきていたものだと分かった。四年半住んでいた。住所として使っていた。郵便物もそこに届いていた。
📎 解説:仕事と住居が一つの契約に載っているということ
製造業への派遣では、遠方から来る人のために寮が用意されることが多い。家賃は給与から天引きされるか、会社が負担する。住居が雇用契約に付随している状態である。
この構造では、契約が終わると、収入と住所が同時に消える。次の仕事を探すにも、住所が無ければ応募できないことがある。銀行口座、住民票、健康保険、すべてが住所に紐づいている。
2008年末から2009年初めにかけて、東京で「年越し派遣村」が開設されたのは、この構造が同時に大量に発生したためである。失業と住居喪失が同じ日に起きるのは、正社員の解雇では通常起こらない。
大野は幸い、実家に戻れた。両親が健在で、部屋が残っていた。戻る場所があったかどうかは、本人の努力とは関係のない条件である。
2008年12月26日。
2008年12月・退去の日
荷物は段ボール四つで足りた。四年半住んで、増えたのは服と本と、電気ポットくらいだった。
通用証を返した。守衛室で、番号を照合してから受け取ってもらった。返すとき、名前は聞かれなかった。番号で照合するので、必要がない。
正門を出て、振り返った。天井の高い、塗り直しの跡が何層にもなった建物だった。朝の始業前に機械が温まる音を、私は四年半聞いた。あの音を聞いた人間の一覧のようなものが、もしどこかにあるとしたら、そこに私の名前は入っていない。
📎 解説:名簿に載るということ
大野を雇っていたのは派遣会社であり、東亜電機ではない。したがって東亜電機の社員名簿に、大野修という名前は一度も載っていない。勤怠は派遣元が管理し、給与は派遣元が払い、社会保険も派遣元の側にある。
このシリーズで、名簿は何度も出てきた。サラリーマン2の北原誠一は人事として四十五年、人の名前が並んだ紙を見続け、最後に自分の名前がその紙から消えた。サラリーマン13の宮田徹は、死んだあと会議の参加者一覧から名前が消えた。
名簿から消えるためには、まず載っていなければならない。大野は載っていない。だから消えることもない。2008年12月に彼が工場からいなくなったことは、東亜電機のどの記録にも「減った」として現れない。派遣の発注数が変わっただけである。
📎 解説:同じ建物にいた藤井亮太は、残った
2008年12月、同じ工場の二階にいた藤井亮太(当時34歳・生産管理部)は残った。正社員だからである。
藤井の記事では、この年をこう書く予定である。彼はこの年、現場から誰を外すかについて意見を求められ、「本社が決めることです」と答えた。実際に名簿を作ったのは本社であり、彼が誰かの名前を書いたわけではない。
そして藤井は、その年に一階から誰が減ったかを知らない。派遣社員の増減は、彼の見る帳票では人数の欄が変わるだけで、名前が出てこない。知らないことに落ち度は無い。名前が出ない仕組みになっていた、というだけである。
この記事は、藤井を加害者として書かない。二人の間には、加害も被害も発生していない。1996年3月に内定が1社あったか、ゼロだったか。その一点だけが、十二年後に一階と二階を分けていた。
大野は三十四歳だった。
それでもまだ、途中だと思っていた。
このあと十年、彼は契約社員を転々とする。正社員の口は、一度も来ない。
🚪 2009-2018 — 契約社員を転々とした10年
このセクションの3点
① 2009年、35歳で再び無職になった大野は、短期のアルバイトを転々とし、年収は約90万円まで落ちた。2012年、38歳で別の会社の契約社員になり、年収は約250万円に戻る
② 有期雇用契約は「更新」という言葉で続く。ただし更新するかしないかを決める権限は、常に会社の側にだけある
③ 2013年に施行された労働契約法18条は、同じ会社で通算5年働けば無期契約に転換できる制度だが、無期になっても正社員になるわけではない。契約社員という扱いは変わらない
2009年冬 — 求人票を見る仕事
大野修2009年・三十五歳(振り返っているのは2026年・五十二歳の私)
実家の部屋には、高校の教科書がまだ本棚に入っていた。母がそのままにしていた。三十五の男が、十七のときの棚の前で寝る。それがいちばん、体にこたえた。
ハローワークの端末で番号を押し、印刷して、電話をかける。倉庫の仕分けを二週間、コールセンターを一ヶ月、スーパーの品出しを十日。年収は九十万円ほどだった。当時は数えていない。数えても増えないからである。
面接で職歴を聞かれると、順番に言った。二週間、一ヶ月、十日。相手が手元の紙に書き込む速度が、途中から落ちる。書ききれないのではなく、書く価値のある欄が無いのだと、こちらにも分かる。
あの年について、五十二の私が今なら言えることがある。私はあの一年、自分がいくらの人間かを知らずに済んでいた。次の仕事があるかどうかのほうが大きな問題だったからである。値段を知らないでいられるのは、楽なことだった。
📎 解説:有期雇用契約の更新と「雇止め」
有期雇用契約とは、あらかじめ契約期間の終わりが定められている雇用契約である。契約期間が満了したときに会社が更新をしないことを、実務では「雇止め」と呼ぶ。大野が2008年12月に受けたのはこの雇止めであり、2009年に転々とした短期の仕事も、多くが同じ有期雇用契約の形を取っていた。
契約を更新するかどうかを決める権限は、制度上、会社の側にある。労働者の側から「更新してほしい」と申し出ることはできても、それを義務づける仕組みは、通常の有期契約それ自体には無い。大野が2009年に転々とした職場のどれも、最初から契約期間が区切られており、更新されるかどうかは毎回、会社の判断を待つしかなかった。
2012年 — 契約社員という肩書き
大野修2012年・三十八歳
三十八で、別の会社の契約社員になった。面接で「一年更新ですが、実績次第で長く続けられます」と言われた。私はその言葉を信じた。信じたというより、信じることにした。信じないと、月曜からまた端末の前に戻るだけである。
年収は二百五十万になった。三年前の九十万から見れば、大きく戻っている。それでも、人並みになった、とは思えなかった。
思えなかった理由が、当時の私には言えなかった。今の私には言える。あの二百五十万は、去年より上がった数字ではなく、去年より落ちなかった数字だった。正社員の給料は前の年より上がるという前提でできている。私の給料は、前の年と同じであることが最良の結果だった。上がる仕組みの中にいる人間と、下がらないことを目標にする人間を、同じ二百五十万で並べることはできない。
📎 解説:労働契約法18条 — 無期転換ルール
2013年に施行された労働契約法18条は、同一の会社で有期労働契約が通算5年を超えて反復更新された場合、労働者の申込みによって、期間の定めのない契約(無期労働契約)に転換できるとする制度である。(条文の細部は本記事では未確認のため、制度の骨格として範囲を限定して書く。)
ここで重要なのは、無期転換が変えるのは「契約期間の定めがあるかどうか」だけだという点である。賃金水準・賞与・退職金の有無・職務内容といった労働条件そのものを、無期転換の申込みだけで正社員と同じ扱いに変えるものではないとされている。大野が2012年に入った会社で、もしこの5年を超えて働き続けたとしても、「無期契約の契約社員」にはなり得ても、「正社員」にはならない。
2013-2018年 — 更新を重ねた6年
ここから2018年までの6年間を、大野はほとんど同じ言葉で振り返っている。「更新された」。それだけである。2013年、2014年、2015年——毎年、契約書に判を押す日があった。何月何日にどこで何をしたかを、本人ももう細かくは覚えていない。年収はおよそ250万円台のまま、大きくは動かなかった。
2016年、42歳の藤井亮太が、東亜電機で初めて課長になった年である。同じ年、大野は契約更新の書類に判を押していた。二人がその年に何をしていたかを並べると、片方は昇進の辞令を受け取り、片方は一年ごとの契約書を受け取っている。どちらも、その日は特別な出来事ではなく、いつもの手続きの一つだった。
大野修2018年・四十四歳
2018年の更新のときだけ、少し違うことがあった。担当者が「次で通算6年になりますね」と言った。それがどういう意味を持つ言葉なのか、私はそのとき初めて考えた。6年働いても、契約社員という呼び方は変わらないらしい、ということだけは分かった。それ以上のことは、まだ分かっていなかった。
→ 次のSection 10では、2019年、大野が45歳の年に始まった「就職氷河期世代支援プログラム」を見る。
📋 2019 — 支援プログラムが始まった年、彼は45歳だった
このセクションの3点
① 2019年、大野が45歳の年に「就職氷河期世代支援プログラム」が始まった。目標は2020〜22年度の3年間で正規雇用者を30万人増やすことだった
② 実績は、2019年923万人→2024年934万人で+11万人。目標の30万人には届かなかった。しかも無業者はむしろ+3万人増えている(内閣官房 2025年4月資料)
③ 大野はこのプログラムをハローワークの張り紙で知っていた。プログラムが始まっても、彼の契約社員という立場は2019年から2026年まで変わっていない
ハローワークの張り紙
大野修2019年・四十五歳
更新の手続きでハローワークに寄ったとき、壁に新しい張り紙があった。「就職氷河期世代」という言葉が、役所の紙に印刷されているのを見たのは、あれが初めてだったと思う。自分が世代として名指しされて、支援の対象として数えられているらしい、ということは分かった。ただ、それを見て何かが変わる予感はしなかった。張り紙を読んで、いつもどおり更新の書類にサインをして帰った。
📎 解説:就職氷河期世代支援プログラムとは
内閣府は「就職氷河期世代」を、1993年から2004年に卒業期を迎えた世代と定義している。支援の対象規模は約100万人で、そのうち不本意ながら非正規雇用にある者が約50万人とされる。大野修(1996年3月卒)は、この定義にそのまま当てはまる。
2019年に始まった就職氷河期世代支援プログラムは、2020〜22年度の3年間で、正規雇用者を30万人増やすことを目標に掲げていた。ハローワークでの専門窓口の設置や、企業への奨励金、資格取得の支援などが柱になっている。
目標と実績
| 項目 | 2019年 | 2024年 | 増減 | 目標との差 |
|---|---|---|---|---|
| 正規雇用者数(氷河期世代) | 923万人 | 934万人 | +11万人 | 目標30万人に対し未達 |
| 無業者数(氷河期世代) | 基準年 | — | +3万人 | むしろ悪化 |
+11万人
正規雇用者の増加(実績・2019→2024)
30万人
目標(2020〜22年度の3年間)
+3万人
無業者の増加(悪化)
📎 解説:目標未達の中身
内閣官房が2025年4月にまとめた資料によれば、就職氷河期世代の正規雇用者数は2019年の923万人から2024年の934万人へ、+11万人の増加にとどまった。3年間で30万人を増やすという当初の目標には届いていない。
さらに、無業者数はむしろ+3万人増えている。正規雇用を増やす取り組みが行われている間に、働くこと自体から離れる人の数が減るのではなく増えていた、ということになる。(内閣官房 2025年4月資料。プログラム全体の効果を評価する条件やその他の要因については、本記事では検証していない。)
何も変わらなかった、と言えば言い過ぎかもしれない
大野の契約は、2019年もそれ以降も、同じ形で更新され続けた。プログラムの対象者向けの求人や研修の案内を、ハローワークで見かけたことはある。応募したことはない。応募しなかった理由は、本人にもうまく説明できない。忙しかったわけではない。応募すればよかったと、今も思っているわけでもない。
大野修2026年8月・五十二歳
何も変わらなかった、と言うと言い過ぎかもしれない。契約は毎年更新された。それだけは変わらなかった。プログラムが始まる前も後も、私は同じ仕事を続けていた。変わったのは、自分がその「世代」に含まれていると、役所の張り紙で知ったことだけだったと思う。
→ 次のSection 11では、2026年8月現在、52歳の大野の生活を見る。
📍 2026年8月・52歳 — 現在
このセクションの3点
① 2026年8月現在、大野修は52歳。契約社員、年収290万円、賃貸住まい(家賃6.2万円)、未婚。彼は不幸そうにしていない。淡々と生活している
② 50歳時点で結婚したことがない男性の割合(生涯未婚率)は2020年で28.3%。大野は特殊な例ではなく、同世代の3〜4人に1人が同じ状態にある
③ 「まだ途中だ」と思っていた期間は、いつかどこかで終わっている。ただし本人は、それが終わったこと自体を、まだ認めていない
平日の朝
大野修2026年8月・五十二歳
六時半に起きる。月極駐車場を突っ切って、二十分歩く。契約はまた更新された。いまは総務で、他人が作った書類を年度ごとに綴じている。綴じる書類には、作った人間の名前が必ず入っている。私の名前が入る書類は無い。綴じた人間の名前は、どこにも書かないからである。
不満は無い。満足も無い。年収は二百九十万で、去年と同じである。アパートは1DK、家賃六万二千円。
結婚はしていない。しなかった、という言い方をすると、選んだように聞こえる。選んでいない。二十代は自分の食い扶持で手一杯で、三十代は次の更新があるかどうかを毎回考えていて、四十代になったら、そういう話をする相手がもう周りにいなかった。
寂しいかと聞かれたことがある。寂しい、と答えると、この三十年が失敗だったと認めることになる気がして、答えなかった。五十二の私が今言うなら、こうである。寂しくはない。ただ、私が死んだときに、私の三十年を説明できる人間が一人もいない。
📎 解説:生涯未婚率は28.3%(50歳時未婚割合・男性)
国立社会保障・人口問題研究所が集計する「生涯未婚率」(50歳時点で一度も結婚したことがない人の割合)は、2020年時点で男性28.3%である。大野修が2026年の時点で52歳・未婚であることは、統計の上では珍しい状態ではない。同世代の男性のおよそ3〜4人に1人が、同じ状態にある。
これは大野の状況を「よくあること」として軽く扱うための数字ではない。ただ、大野を特殊な例として読む必要はない、という事実を示すだけの数字である。
不幸そうには、していない
大野の平日は、朝食を抜き、昼は社員食堂の定食、夜は自炊か近所の弁当屋で済ませる。休みの日は洗濯と掃除をして、あとはテレビか動画を見て過ごすことが多い。これといって語るべき事件のない生活である。本人もそう思っている。「大変ですね」と言われることがあるが、大変だと思って毎日を過ごしているわけではない。
大野修2026年8月・五十二歳
大変だとは思っていない。契約が切れる不安は、若い頃より今のほうが薄い。何度も更新されてきたからである。
三十代の頃は、あと一回運が向けば正社員に戻れると思っていた。いつからそう思わなくなったのか、私は今でも言えない。やめた日は無い。諦めた瞬間も無い。
去年、職場の若い人が転職して辞めていった。送別会で、次の会社の話をしていた。私はその席で、自分が三十年ぶん何も語れないことに気づいた。あの晩、家に帰って、初めてこう思った。私は途中ではなかったのかもしれない。
思っただけである。次の朝には、また月極駐車場を突っ切って会社に行った。三十年やめずに続いたことは、それだけである。
終わっていることを、まだ認めていない
この記事の一人称の中で、大野は一度も「もう正社員にはなれない」と言っていない。最も近いのが、上の「私は途中ではなかったのかもしれない」という一文である。「かもしれない」であり、口に出してもいない。家に帰って一人で思っただけで、次の朝には出勤している。
ここには、このシリーズが繰り返し扱ってきた形がある。サラリーマン5の中村正巳は、転勤を断った一回が20年後の年収差1億円になったことを家族に一度も言っていない。サラリーマン7の高梨実は、7年続いた出向を「帳尻は合います」と言い続けた。言わないことによって、それが確定していない状態に留め置ける。
ただし大野の場合、留め置いているものの性質が違う。中村と高梨が言わずにいるのはすでに起きた出来事である。大野が言わずにいるのはこれから起きないことである。起きなかったことは、いつ確定したのかを誰も特定できない。解雇通知のような紙が出ないからである。だから彼は、終わったと認める日を持たないまま、52歳になった。
→ 次のSection 12では、大野の老齢基礎年金を実際の計算式で出す。
🧮 制度 — 年金を計算する。未納期間が何を意味するか
このセクションの3点
① 老齢基礎年金の満額は816,000円/年(月68,000円)。計算式は「816,000円×納付月数÷480月」。大野には未納期間があり、満額を受け取れない
② 厚生年金は断続的に合計およそ14年。報酬比例部分が加わるが、大野の標準報酬月額が不明なため正確な額は算定できない
③ 基礎年金と厚生年金を合わせた見込みは月7〜8万円台。この記事の他の12人と並べると、大野だけが際立って低い位置にある
老齢基礎年金の計算式
📎 解説:老齢基礎年金の満額と計算式
老齢基礎年金(国民年金)の満額は、年816,000円(月68,000円)である(日本年金機構・令和8年度)。40年間(480ヶ月)すべて保険料を納めた場合に、この満額を受け取れる。国民年金保険料は月17,920円(令和8年度)である。
納付月数が480ヶ月に満たない場合、受給額は次の計算式で減額される。
老齢基礎年金の年額 = 816,000円 × 納付月数 ÷ 480月
| 納付月数 | 年額 | 月額 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 480ヶ月(満額・40年) | 816,000円 | 68,000円 | 未納・免除が一切ない場合 |
| 360ヶ月(30年) | 612,000円 | 51,000円 | 大野のケース(未納期間を含む) |
📎 解説:大野の未納期間を、この式に当てはめる
大野は1996年の卒業から2026年まで、無職の期間・短期のアルバイトの期間・国民年金の保険料を納めていなかった期間がある。仮に納付月数を360ヶ月(30年分)とすると、816,000円 × 360 ÷ 480 = 612,000円/年(月51,000円)になる。(大野本人の正確な納付記録は本記事では確認できていない。ここでは計算式を示すための仮定値として360ヶ月を置いている。)
厚生年金 — 計算できない部分
📎 解説:厚生年金は断続的に合計およそ14年
大野が厚生年金に加入していた期間は、2004年から2008年までの製造業派遣の期間、2012年以降の契約社員としての期間などを合わせて、断続的に合計およそ14年になる。厚生年金には、老齢基礎年金に上乗せされる「報酬比例部分」があり、加入期間中の収入水準と加入月数に応じて算出される。
ただし、大野の標準報酬月額(給与を等級に当てはめた基準額)は本記事では判明していない。そのため、報酬比例部分の正確な金額は算定していない。(他の記事で使っている「4分の3」等の遺族厚生年金の係数は、老齢厚生年金の算定には適用されない別の計算であり、ここでは使っていない。)
合計の見込みと、生活保護との距離
月51,000円
老齢基礎年金(納付360ヶ月と仮定した場合)
月7〜8万円台
基礎年金+厚生年金の合計見込み(報酬比例部分は概算)
約14年
厚生年金の加入期間(断続的合計)
📎 解説:合計はおよそ月7〜8万円という「見込み」
老齢基礎年金の月51,000円に、厚生年金の報酬比例部分(正確な額は未算定)を加えると、大野が65歳から受け取る年金はおおむね月7万円台から8万円台になると見込まれる。これは正確な算定値ではなく、この記事が示せる範囲での見込みである。
生活保護は、資産の状況・稼働能力・扶養義務者の有無などの要件を満たした上で、国が定める最低生活費との差額が支給される制度である。大野の年金見込み額が、居住する地域の最低生活費の基準を下回るかどうかは、家賃や資産状況によって変わるため、本記事では判定しない。ここで書けるのは、老後の生活を年金だけで組み立てた場合、その水準がこの記事の登場人物の中で最も低い位置にある、という事実だけである。
65歳からの年金月額を並べる
| 人物 | 65歳からの年金月額(見込み) | 備考 |
|---|---|---|
| 田村稔 | 26.5万円(夫婦合算) | 厚生年金38年 |
| 北原誠一 | 31.2万円 | 取締役まで昇進 |
| 柴田正三 | 21.4万円(夫婦合算) | 係長で定年 |
| 宮田徹 | 14.9万円 | 遺族厚生年金(在職死亡) |
| 大野修 | 7〜8万円台 | 厚生年金断続的に約14年・国民年金に未納期間 |
このシリーズはここまで13人分書いてきたが、年金月額をこの水準まで具体的に計算式で示せたのは、この5人である。それでも並べれば、大野の位置は他の4人とは明らかに離れている。差を作っているのは本人の性格でも努力でもなく、厚生年金への加入期間と、国民年金の納付月数という、ただの数字である。
→ 次のSection 13では、この13人分の比較表が、何を測っていなかったかを見る。
🔪 辛口批評 — 13人分の比較表は、何を測っていなかったか
このセクションの3点
① このシリーズは13人書いて、全員が正社員だった。生涯賃金・退職金・65歳時点の金融資産という物差しは、すべて正社員であることを前提にしている
② 二人は1996年3月、同じ大学の同じ学部を卒業した。違いは、内定が1社あったか、ゼロだったかだけである
③ 2004年から2008年、二人は同じ建物にいた。一度も口をきいていない。藤井は覚えていない。大野は覚えている
① 13人、全員が正社員だった
このシリーズはここまで13人分を書いてきた。田村稔、北原誠一、柴田正三、森康彦、中村正巳、谷口健一、高梨実、宮田徹、藤井亮太——名前は違っても、全員が新卒、または新卒に近い形で正社員として入社し、定年か在職まで同じ雇用形態の中にいた。比較のために使ってきた物差しも、生涯賃金・退職金・65歳時点の金融資産の3つに絞られている。
この3つの物差しは、正社員であることを前提にしないと成立しない。退職金は、就業規則に退職金制度を持つ会社の正社員にしか発生しない。生涯賃金は、同じ会社に長くいた人ほど、勤続年数と役職に応じて積み上がる仕組みの上に成り立つ数字である。この物差しは、正社員として働き続けた人生を測るために作られている。
② 大野をその表に載せると、何が起きるか
📎 解説:物差しが人生を測っていたのではなく、正社員という条件を測っていた
大野修をこれまでの表に載せると、退職金の欄は「無い」になり、生涯賃金の欄は13人の中で最も低い位置に来て、65歳からの年金月額も最も低くなる。並べれば、大野は全部の欄で下位に来る。
ただし、これは大野の人生そのものの評価ではない。退職金・生涯賃金・65歳時点の資産という3つの物差しが、正社員として働き続けることを前提に作られているために、正社員ではなかった人生を測ると、必ず下位に来るように設計されている、というだけである。物差しの目盛りが、最初から特定の働き方に有利にできている。
③ 違いは、内定が1社あったか、ゼロだったかだけ
藤井亮太と大野修は、1996年3月、同じ国立大学の同じ学部を卒業している。その年の大卒求人倍率は1.08倍だった。就職氷河期のピークである2000年3月卒の0.99倍ほど低くはないが、1991年3月卒の2.86倍からは大きく落ちていた年である。
藤井には内定が1社あった。大野には内定が1社もなかった。二人の学歴も、卒業年も、卒業した大学も同じである。違いは、この一点だけである。1.08倍という狭い入口を、たまたま通った側と、通らなかった側に分かれた。
④ 同じ建物にいた、4年間
2004年3月、製造業への労働者派遣が解禁された。大野はその年から2008年まで、神奈川にある東亜電機の工場で、製造派遣として働いている。この工場には藤井もいた。柴田正三が旋盤を教え、田村稔が図面を引き、谷口健一が朝30分歩いていた、あの工場である。
藤井は当時30歳、係長になる手前だった。同じ建物の中に、大野がいた。二人は一度も口をきいていない。顔は見たことがある。名前までは知らない。サラリーマン12で藤井の視点から書いたとおり、藤井はこの4年間を、大野の存在に気づかないまま過ごしている。大野の側だけが、この4年間を覚えている。
⑤ 2008年12月、85,012人のうちの1人
📎 解説:藤井は、その年に誰が減ったかを知らない
厚生労働省は2008年12月26日(12月19日時点の集計)、非正規労働者の雇止め・解雇が1,415件・約85,012人に達したと発表している。このうち派遣労働者が67.4%を占める。大野が2008年末に東亜電機の工場を契約満了で離れたのは、この数の中の1人としてである。
藤井は残った。削減の名簿は本社が作成したものであり、現場の係長・課長候補であった藤井が、誰が減らされたかを個別に把握する立場にはなかった。藤井は、その年に自分と同じ建物にいた人間が1人減ったことを、今も知らない。
⑥ 13人+大野を並べる
| 人物 | 1996年3月卒か | 生涯賃金(見込み含む) | 退職金 | 65歳からの年金月額(見込み) |
|---|---|---|---|---|
| 田村稔 | —(別年入社) | 約2億1,400万円 | 2,170万円 | 26.5万円(夫婦合算) |
| 北原誠一 | —(別年入社) | 約4億9,000万円 | 9,200万円 | 31.2万円 |
| 柴田正三 | —(別年入社) | 約1億4,900万円 | 1,240万円 | 21.4万円(夫婦合算) |
| 森康彦 | —(別年入社) | 約2億9,600万円 | 2,980万円(見込み) | 未算定 |
| 中村正巳 | —(別年入社) | 約1億8,600万円 | 2,060万円(見込み) | 未算定 |
| 谷口健一 | —(別年入社) | 約1億8,900万円 | 2,090万円(見込み) | 未算定 |
| 高梨実 | —(別年入社) | 約1億9,800万円 | 1,660万円 | 未算定 |
| 宮田徹 | —(別年入社) | 約1億6,200万円 | 約7,770万円(死亡退職金等) | 14.9万円(遺族厚生年金) |
| 藤井亮太 | 1996年3月卒 | 約1億2,600万円(52歳時点) | あり(見込み・未確定) | 20万円台(見込み) |
| 大野修 | 1996年3月卒 | 約7,900万円(52歳時点) | 無い | 7〜8万円台(見込み) |
13人
これまでこのシリーズが書いてきた人数。全員が正社員
1社 vs 0社
1996年3月、藤井と大野の内定の差
4年間
同じ工場にいた期間。会話はゼロ
📎 解説:52歳時点の差、約4,700万円
藤井の52歳時点(2026年)までの生涯賃金の見込みは約1億2,600万円、大野の同時点は約7,900万円である。その差は約4,700万円になる。ここに、藤井にはあり大野には無い退職金(見込み2,000万円台)、65歳時点の金融資産の差(見込みで2,000万円近辺)を重ねると、生涯を通じた受け取りの総額としては、およそ7,000万円近い開きになる。これは行政統計の数字ではなく、この記事がここまでに置いた数字を積み上げた、この記事自身の計算である。
この記事は「本人の努力不足」とも「会社が悪い」とも言わない。言うのは、同じ年に同じ大学を出た二人が、1996年3月の内定の有無という一点から、30年でおよそ7,000万円近く離れた、という事実だけである。その差をどう読むかは、この記事の役割ではない。
この記事が言っていないこと
・大野は努力が足りなかった、という読み方はここでは成立しない(内定ゼロは1.08倍という入口の狭さの結果である)
・藤井は運がよかっただけで実力が無い、という読み方も成立しない(42歳での課長昇進は別の記事で検証している)
・会社が悪い、という読み方も成立しない(2004年の派遣解禁も2008年の雇止めも、当時の法制度の中で行われている)
・「大野も正社員になる努力をすればよかった」——この記事はこの読み方を採らない。内定ゼロは1996年3月の1点で起きている
・「だから氷河期世代は救われるべきだ」という主張——この記事はこの主張もしない。数字を置くところまでが、この記事の役割である
→ 次のサラリーマン12では、藤井亮太——正社員として同じ建物に残った側——の人生を、大野とは反対の視点から見る。