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🕰️ サラリーマン13 — 定年に着かなかった男

✍️ 執筆: Claude Opus 5

1966年生まれ、1988年のバブル入社組として大手電機メーカーへ入社し、同期1,240人の中で42歳で課長になり、そこから10年動かず、52歳でようやく次長になった。2020年12月、54歳で膵臓がんステージIVと診断される。休職はしなかった。コロナで全社が在宅勤務になっていたため、カメラをオフにしたまま8ヶ月働き続けた。2021年8月、55歳で死亡。在職中。勤続33年4ヶ月。これまでの7人は全員、定年か退職まで到達した。13人目は着かない。田村稔の同期820人のピラミッドにある病気離脱・死亡161人、19.6%の層である。5人に1人がここに入るのに、7本書いて誰も触れていなかった。

🕰️ この記事は何か — 誰も書かなかった161人の層

このセクションの4点

① プロローグ。2021年8月、病室。この記事の一人称は、すべてここから語られている。

② これまでの7本、田村・北原・柴田・森・中村・谷口・高梨は、全員が定年か退職まで到達した。13人目の宮田徹(みやた とおる・モデル人物・仮名)は、着かない

③ 田村稔の同期820人のピラミッドには「途中で辞めた・転籍・病気離脱・死亡 161人(19.6%)」という層がある。5人に1人がここに入るのに、シリーズが7本書いて誰も触れていなかった

④ 主題は「在職中に死ぬと、制度は急に手厚くなる」という事実だけである。この記事は闘病記としても感動話としても書かない

登場人物

このシリーズの登場人物 — 同じ会社を生きた8人

登場人物 — 名前をクリックすると、その人の言葉が開きます

🏢 1. 田村 稔 中央値型 — 勝ちでも負けでもない 1970年入社・同期820人/到達=次長(上位17%)。部長には届かなかった
生涯賃金 約2億1,400万円/2035年・87歳没。要介護7年 記事を読む →
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静岡の農家の次男で、家を出るしかなかった。入社の日、駅で父が黙って万年筆をくれた。パイロットの、安いやつだ。定年の日まで机の引き出しにあった。

玄関の柱に子どもの背を刻んだ線がある。健一の線は一九九三年で止まっている。

四十二で課長になった年が、いちばんよかった。まあ、そういうもんだ。

🖋️ 2. 北原 誠一 出世型 — 同期820人で3人 1970年入社・同期820人(田村と同期)/到達=取締役(0.4%)→ 子会社社長
生涯賃金 約4億9,000万円/2037年・89歳没 記事を読む →
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入社式で隣に座ったのが田村だった。同じ大学を出て、同じ日に辞令を受け取った。私の紙には本社人事部と書いてあり、彼の紙には神奈川工場と書いてあった。

二〇〇二年、転籍のリストに彼の名前があった。私は手を止めて、判を押した。震えはしなかった。

それは、そういう仕組みだ。

🔧 3. 柴田 正三 停滞型 — 係長のまま28年 1958年入社・高卒技能職340人/到達=係長(30歳)。そこから28年動かず
生涯賃金 約1億4,900万円(田村の約7割)/2032年・92歳没。要介護1年2ヶ月・自宅で 記事を読む →
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新潟から出てきて、旋盤の前に立った。二十二で試験に受かって技術職になった年を、私は二度目の入社と呼んでいる。ノギスはそのとき自分で買った。

三十で係長になった。同期でいちばん早かった。そのあと二十八年、何も動かなかった。課長の椅子が空いたとき、座ったのは大卒の三十四だった。

寸法は合っとる。

✈️ 4. 森 康彦 単身赴任型 — 通算14年、家にいなかった 1980年入社・同期940人/到達=部長(47人/940人=5.0%)
生涯賃金 約2億9,600万円/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む →
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福岡、広島、名古屋、バンコク。四回出て、合わせて十四年、家にいなかった。断れた回もある。断らなかった。

帰るたびに家のルールが少し変わっていた。茶碗が食器棚の奥に移り、鍵が替わり、私の部屋が息子の部屋になった。帰任したら食卓の椅子が三脚しか出ていなかった。

まあ、なんとかなる。あれは必要な十四年だった。

🏠 5. 中村 正巳 家庭優先型 — 転勤を断った(#4の対照群) 1980年入社・同期940人(森と同期)/到達=課長(286人/940人=30.4%)
生涯賃金 約1億8,600万円(森の63%)/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む →
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一九九六年、九州支店の課長への内示を断った。妻の母が倒れて、代わりが立たなかった。三日考えて、手順を全部書き出して、代わりの立たない箇所が一つ残った。それだけの話だ。

断ったのは一回きりだ。二度目は聞かれなかった。介護は三年で終わったが、そのあと十九年、話は来なかった。

家族はこのことを知らない。言うことでもない。それでいい。

🫀 6. 谷口 健一 健康維持型 — 変数は45歳の一点だけ(対照実験) 1980年入社・同期940人(中村と同期・生涯賃金差300万円)/到達=課長。中村とほぼ同じ経路
生涯賃金 約1億8,900万円/2026年8月現在67歳・存命/推計87歳没・要介護1年半 記事を読む →
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私の最初の指導係は田村さんだった。図面は嘘をつかん、と教わった。あの言葉は柴田さんから田村さんに渡ったものだと、後で知った。

二〇〇三年、同じ部署の柏木さんが心筋梗塞で倒れて、戻ってこなかった。数日後、机が片付けられていた。私はそれを自分の席から見ていた。翌月から煙草をやめて、朝三十分歩き始めた。

理由を聞かれても、続けとるだけですとしか答えない。

🌥️ 7. 高梨 実 メンタル離脱型 — 3ヶ月休んで、戻る場所が無かった 1985年入社・同期1,180人/到達=課長 → 53歳で自己都合退職
生涯賃金 約1億9,800万円(65歳時の資産は7人中最下位)/2026年8月現在63歳・週4日勤務中 記事を読む →
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二〇〇八年の十月、月次の締めで数字が合わなかった。三度やり直しても合わなかった。合わないのは、自分の入力だった。

三ヶ月休んだ。制度は全部あった。復職もできた。ただ、戻る席が無かった。応援という名前の出向が、期限を書かれないまま七年続いた。

誰も私を辞めさせていない。帳尻は合います。

🚪 8. 岡部 昭夫 早期退職型 — 410万円で17年を売った 1985年入社・同期1,180人(高梨実と同期)/到達=課長。次長には届かなかった/2011年・48歳で希望退職に応募
生涯賃金 約9,000万円(前提つき試算・田村の約42%)/受取 約2,600万円/2026年8月現在63歳・部品商社(従業員80人)・年収410万円 記事を読む →
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募集が出る一週間前、閉まっている食堂で部長に言われた。今回、対象に名前が入っている、と。それだけである。辞めろとは言われていない。

三週間、封筒を鞄に入れて出勤して、持ち帰った。二十一回出さなかった。二十二回目に出した。

あれは自分で決めたことです。十五年、そう言っている。妻には、あの面談のことを言っていない。

✈️ 9. 黒木 洋一 転職型 — 生涯賃金では勝った 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・相原修司と同期)/到達=東亜電機では係長 → 2010年44歳で外資へ/外資で部長級
生涯賃金 約2億4,000万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,380万円/2026年8月現在60歳・業務委託・年収420万円(ピークの約30%)/退職金ほぼ無し 記事を読む →
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二〇一〇年、課長の内示が同期の別の人間に出たと聞いた。能力の差だとは思わなかった。あいつのいた部署は、その年に課長が定年になっていた。それだけである。

翌週、転職の登録サイトを開いた。六百九十万だった私が、隣の会社では千百五十万になった。あれが自分の値段だと思った。

今なら言える。あれは私の値段ではない。あの事業が伸びていた年の、あの会社が払えた額である。

10. 相原 修司 詰まり型 — 30年待って、3年だけ課長 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・黒木洋一と同期)/到達=課長(52歳で就任)→ 55歳で役職定年。課長でいられたのは3年
生涯賃金 約2億800万円(田村稔の約97%)/2026年8月現在60歳・役職なし・年収580万円/2031年65歳定年・通算43年 記事を読む →
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二〇一〇年、黒木に一緒に受けてみないかと誘われた。子どもがまだ小さいから、と断った。上の子は中学二年である。小さくはない。

本当は、外で自分の値段がつくのが怖かった。会社の中にいれば、私の価値は係長という文字で表される。誰も金額では言わない。

三十年待って課長になった。辞令の紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。妻には言っていない。

🏛️ 11. 森田 克彦 公務員型 — 最も揺れなかった/唯一の非民間 1975年・23歳で国家公務員採用(行政職俸給表(一))/到達=課長(45歳)。そこから15年、級は動かなかった
生涯賃金 約2億2,900万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,050万円/2012年60歳で定年→再任用→2017年65歳で終了/2026年8月現在74歳・年金で生活が成立 記事を読む →
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採用の日に給料表を見せられた。あなたはここです、と指をさされて、上に行くとこうなります、と指を動かされた。安心したのは、その表に「景気」という欄が無かったからである。

二十八のとき、妻になる人に同じ紙を見せた。これって上がらないこともあるの、と聞かれて、無い、と答えた。五十のとき、号俸は上がっているのに年収が減った。表そのものが下がっていた。

四十六年たつが、二十八のときの説明を、私はまだ訂正していない。

🪑 12. 藤井 亮太 氷河期・正社員型 — 内定は1社だけだった 1996年入社・同期290人(シリーズ最少。1988年入社1,240人の約23%)/到達=課長(58人/290人=20.0%)。到達は42歳
生涯賃金 52歳時点の累計 約1億2,600万円/48年働く見込み/2026年8月現在52歳・課長・年収860万円/2029年55歳で役職定年 記事を読む →
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三十年、誰にも言っていないことがある。私の内定は、一社だけだった。妻にも同期にも言っていない。言えば、私の三十年の説明が変わるからである。

二〇〇八年の十二月、部長に「一階、どこから減らせる」と聞かれた。どの工程が余っているかは、私がいちばん正確に知っていた。私は、本社が決めることです、と答えた。

十年ポストが動かなかったという話と、自分が選ばれて入ったという話を、私は一度も同じ机の上に並べたことがない。

🕰️ 13. 宮田 徹(この記事の主人公) 在職死亡型 — 定年に着かなかった 1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多)/到達=次長(112人/1,240人=9.0%)
生涯賃金 約1億6,200万円(33年4ヶ月で終わった)/2021年8月・55歳で在職死亡
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私の最初の指導係は森さんだった。三日目に見積書を突き返された。これは誰が読む、と聞かれて、お客さんです、と即答した。違う、最初に読むのはうちの経理だ、と言われた。

それから三十三年、相手の背後にいる人間の顔を先に読んで生きた。その才能で次長になった。同じ才能で、この会社を一度も疑わなかった。

この病室は九時に電気が消える。会社にいた頃、九時はまだ夕方だった。

🧊 14. 大野 修 氷河期・非正規型 — 名簿に一度も載らなかった 1996年3月・国立大学卒/内定ゼロ(大卒求人倍率1.08倍)。正社員になったことが一度もない/到達=到達なし。アルバイト7年 → 製造派遣4年半 → 契約社員
生涯賃金 52歳までの累計 約7,900万円(藤井の63%・田村の生涯賃金の37%)/2026年8月現在52歳・契約社員・年収290万円/年金見込み月7〜8万円台 記事を読む →
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二十二の春に、三十七通の不採用通知を受け取った。理由はどれにも書いていなかった。同じゼミの藤井は一社受かった。一社だけだったと知るのは、ずっとあとである。

二〇〇四年から二〇〇八年まで、神奈川の工場にいた。柴田さんが旋盤を教え、田村さんが図面を引いた建物だ。あの三人は名簿に載っている。私は載らない。派遣だからである。

名簿から消えるためには、まず載っていなければならない。

🌗 15. 矢部 直子 均等法第一世代 — 23.9%の側にいた/シリーズ唯一の女性 1986年4月・均等法の施行と同月に総合職入社。同期の総合職女性は4人/到達=課長(44歳)→ 次長(56歳)/38年間、一度も辞めていない
生涯賃金 約1億7,900万円(大卒女性の生涯賃金は全国推計で男性の78.4%・差7,080万円)/2024年60歳で定年→再雇用/2026年8月現在62歳・年収480万円 記事を読む →
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一九九〇年に一人目を産んだとき、就業規則を二回読んだ。一回目は、見落としたのだと思ったからである。産前産後の休業は書いてあった。その先が無かった。

三ヶ月で戻った。三ヶ月にした理由は、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。育児休業法が公布されたのは、その翌年だった。

制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。

名前をクリックすると、その人物の言葉が開きます。全員が同じ会社(東亜電機)に勤めた設定で、入社年と分岐だけが違います。宮田徹はこのうち、唯一 定年に着かなかった人物です。

プロローグ — 2021年8月。病室。

宮田徹五十五歳・この記事は、すべてここから語られている

この病室は九時に電気が消える。消えてから、しばらく天井を見ている。会社にいた頃、九時はまだ夕方だった。あの時間に自分が何をしていたか思い出そうとするのだが、思い出せる日が一日もない。三十三年ぶんの夜が、まとめて一つの夜になっている。

医者は余命を数字で言わなかった。言い方を選んでいるのが分かった。数字をぼかすのは、たいてい数字を持っている側である。私は三十三年、そういうことをする会社にいた。だから、聞かなかった。

点滴の袋が替わるまでのあいだ、思い出すことにしている。順番に思い出すつもりはない。思い出せる順に思い出す。最初に出てくるのは、たいてい配属先を告げられた朝である。

以下は、この男が三十三年勤めた会社と、その会社が彼の死に対して支払ったものの記録である。
一人称はすべて、上の病室から語られている。

これまでの7本、サラリーマン1の田村稔、サラリーマン2の北原誠一、サラリーマン3の柴田正三、サラリーマン4の森康彦、サラリーマン5の中村正巳、サラリーマン6の谷口健一、サラリーマン7の高梨実は、勤続年数も役職も年収も違うが、1つだけ共通している。全員、最後には定年か自己都合退職という形で会社を離れている。7人のうち3人はすでに亡くなっているが、死んだのは会社を辞めたあとである。

13人目の宮田徹は違う。1988年に東亜電機へ入社し、2021年8月、55歳で死亡する。在職中である。勤続33年4ヶ月。田村稔の同期820人のピラミッドの一番下、「途中で辞めた・転籍・病気離脱・死亡」161人(19.6%)という層に、宮田は入る。5人に1人がここに入るというのに、このシリーズはこれまで7本を書いて、この層に触れたことが一度も無かった。物語は、最後まで会社に残った人間か、生きて途中で降りた人間にしか偏っていなかった。

この記事の主題は1つだけである。在職中に死ぬと、制度は急に手厚くなる。生きて働き続ける側には何もしなかった制度が、死んだ瞬間に、まとまった金を家族に渡す。この記事はその仕組みを数字で示すだけであり、闘病記としても、感動話としても書かない。宮田がどれだけ苦しんだかを描く記事ではない。彼が死んだことで会社の制度がどう動いたかを描く記事である。

前提知識7語

用語意味なぜこの記事で重要か
膵臓がん膵臓に発生するがん。初期症状が乏しく、背部痛や体重減少で気づく頃には進行していることが多いがん種の一つ宮田は2020年12月、54歳で診断される。早期発見が難しいという特徴が、この記事の前提になる
ステージIVがんの進行度を表す分類の中で、最も進行した段階を指す。他の臓器への転移がある状態を指す宮田は診断時、肝臓への転移がすでに確認されている
死亡退職金在職中に死亡した場合に、会社の規定に基づいて遺族に支払われる退職金。自己都合退職より係数が高い会社が多い宮田の遺族は、生きて働き続けた場合より多い額をここで受け取る
団体信用生命保険(団信)住宅ローンを契約する際に加入する生命保険。債務者が死亡すると、残っているローンが保険で完済される宮田が2003年に組んだ住宅ローンの残債は、彼の死亡によって消滅する
遺族厚生年金会社員などが亡くなった場合に、遺族へ支払われる年金。報酬比例部分の4分の3が基準になる宮田の妻・奈緒には、この年金が続けて支払われる
中高齢寡婦加算遺族厚生年金に加えて、40歳以上65歳未満の妻に上乗せされる加算奈緒は宮田の死亡時52歳であり、この加算の対象になる
在職死亡退職や休職に至る前に、雇用契約が続いた状態のまま死亡すること宮田はこの状態のまま2021年8月に死亡する。この記事の起点になる言葉である

→ 次のSection 2では、この記事の答えを先に出す。宮田が死んだことで家族の手元に残った額と、生きて65歳まで働いた場合の推計額を比較する。

⚖️ 【答え】死んだほうが、2倍以上多かった

このセクションの3点

① 宮田徹が2021年8月、55歳で在職死亡したことで、妻・奈緒の手元に実質残った額は約7,770万円。宮田が生きて65歳まで働いた場合の金融資産の推計は約3,400万円で、死んだほうが2倍以上多い

② 死亡退職金1,920万円(在職死亡の割増あり)、生命保険3,000万円、団体信用生命保険による住宅ローン残債の消滅約2,850万円。この3つの合計が約7,770万円になる

③ これは制度の欠陥ではない。ここで書くのは「だから死んでよかった」という話ではなく、同じ手厚さが生きている間には一度も発動しないという事実だけである

約7,770万円

死んだことで家族の手元に残った額

約3,400万円

65歳まで働いた場合の金融資産(推計)

33年4ヶ月

勤続

55歳

死亡年齢

項目金額出どころ
死亡退職金1,920万円会社の規定。在職死亡は自己都合退職より係数が高い割増がある
生命保険3,000万円2003年、住宅購入時に加入した定期保険
住宅ローン残債の消滅約2,850万円団体信用生命保険。2038年完済予定だった残債がゼロになる
一時金の合計約7,770万円死亡退職金・生命保険・ローン消滅の合計

宮田徹が生きて65歳まで勤めた場合、金融資産は65歳時点で約3,400万円になると推計される。これはこれまでの記事で扱った他の人物と同じように、給与から生活費と教育費を除いた積み上げで出す数字である。宮田はその積み上げの途中、55歳で在職死亡した。その結果、家族の手元に実質残ったのは約7,770万円である。生きて65歳まで働いた場合の推計を、2倍以上、上回っている。

この差を生んでいるのは、宮田の働き方が優れていたからではない。死亡退職金には在職死亡の割増があり、2003年に組んだ団体信用生命保険は住宅ローンの残債をまるごと消し、2003年に加入した生命保険3,000万円がそのまま入金される。これらは全部、宮田が生きて働いている間は一度も発生しない金である。制度が用意しているのは、働き続けるための支援ではなく、死んだときのための支払いだった。

これは制度の欠陥ではない。団信も死亡退職金の割増も、家族を守るために作られた良い制度である。残酷なのは、同じ手厚さが、生きているうちには一度も発動しないことである。

この記事が言わないこと

・この記事は「だから死んでよかった」とは言わない

・金額の比較は、制度がそう設計されているという事実を示すためだけに置く

・宮田がどう闘病したか、家族がどう悲しんだかを描く記事ではない

→ 次のSection 3では、宮田の年収の推移を1988年から2021年まで並べ、生涯賃金がなぜ8人中で最も少ない部類になったかを見る。

💴 年収 — 33年で終わった

このセクションの3点

① 宮田徹の生涯賃金は約1億6,200万円。これまでの8人の中で、柴田正三(約1億4,900万円)に次いで少ない部類に入る。理由は単純で、33年で終わったからである

② 2008年、42歳で課長になった宮田は、そこから10年、役職が動かない。同期1,240人はシリーズ最多で、上のポストが空かない世代だった

③ 2018年に52歳で次長になり、その3年後に死ぬ。シリーズ#10「詰まり型」と同じ構造だが、宮田は課長10年・次長3年という別の詰まり方をした

西暦年齢役職年収同期1,240人での位置備考
198822歳平社員268万円全員が横一線空前の売り手市場。同期1,240人はシリーズ最多
199630歳主任590万円主任以上は同期の約6割
200135歳係長700万円係長以上は約4割
200337歳係長720万円同上市川市に4,180万円の建売。団信と生命保険3,000万円に加入
200842歳課長860万円課長以上は288人=23.2%ここから10年、役職が動かない
201549歳課長890万円同上上が詰まっている
201852歳次長980万円次長以上は112人=9.0%10年ぶりの昇進。欠員補充
202054歳次長1,010万円(生涯ピーク)同上12月に診断
202155歳次長(在職死亡)在職死亡は同期で7人目8月に死亡。勤続33年4ヶ月

宮田徹の生涯賃金は約1億6,200万円である。これはサラリーマン1から7までの8人の中で、柴田正三の約1億4,900万円に次いで少ない部類に入る。年収の水準自体は同世代の中で特に低いわけではない。理由は単純である。33年で終わったからである。他の7人は少なくとも定年の60歳前後まで年収を積み上げているが、宮田は55歳で積み上げが止まる。

もう一つの理由が、42歳から52歳までの10年である。2008年に課長になった宮田は、そこから10年、役職が一つも動かない。1988年入社の宮田の同期は1,240人おり、これはこのシリーズの中で最多の人数である。空前の売り手市場だったバブル入社組は、大量に採用された分だけ、上の世代のポストが空くのを待つ人数も多くなる。そこに2008年のリーマン・ショック以降のポスト削減が重なった。年収が動かない10年は、宮田個人の評価の問題ではなく、世代の人数とポストの数が噛み合わなかった結果である。

📎 解説:この年収は高いのか低いのか — 当時の平均と並べる

役職と金額だけでは、この人生が恵まれていたのかどうか判断できない。当時の平均と並べる。

1988年・22歳の268万円。同年の大卒初任給の平均は月額153,100円である(厚生労働省「賃金構造基本統計調査」昭和63年。ただし当年単年の原典は未確認で、時系列集計サイト経由の値)。賞与を含めた年収に直すとおおよそ250万円前後になり、宮田の初年度は同世代の平均そのものだった。この時点で彼は、まったく特別ではない。

2003年・37歳で4,180万円の家を買った判断。2003年の東京都の新築マンション価格は70㎡換算で4,841万円、同年の東京都の平均年収は656万円で、年収倍率は7.38倍だった(東京カンテイの時系列集計。PDF内の表からの読み取りのため、隣接年との取り違えの可能性が残る)。宮田は市川市(千葉県)で4,180万円、当時の年収720万円に対して約5.8倍である。首都圏の相場としては、無理をしていない部類に入る。

2020年・54歳の1,010万円が生涯ピーク。民間給与実態統計調査で給与所得者の平均年収は長く430万円前後で推移しており、1,000万円を超える給与所得者は全体の数%にとどまる。宮田は最後の1年、日本の給与所得者の上位数%にいた。そしてその年の12月に診断されている。

数値の確度について: 1988年の大卒初任給は厚生労働省の調査値だが、当年単年の原典(Excel/PDF)を直接確認できておらず、時系列の集計サイト経由の値である。2003年の年収倍率7.38倍は東京カンテイの時系列表を画像として読み取ったもので、隣接年との取り違えの可能性が残る。いずれも確定値としてではなく、桁と傾向を示す参考値として読んでほしい。各年代の大卒男性の年齢階級別平均賃金(賃金構造基本統計調査)は今回取得できておらず、本来はこれと並べるべきである。

同年齢の平均と並べる — 彼が上がっていた期間に、平均は下がっていた

調査年30-34歳35-39歳40-44歳50-54歳
2003年32.31万円40.42万円46.38万円54.05万円
2008年31.86万円38.83万円46.60万円53.17万円
2018年32.11万円37.39万円42.64万円53.51万円
2021年31.41万円36.48万円40.72万円50.52万円

📎 解説:この表がいちばん重い — 宮田が上がった18年で、同年齢の平均は下がった

上の表は、厚生労働省「賃金構造基本統計調査」の学歴別・年齢階級別の結果から、大学卒・男性の「きまって支給する現金給与額」(月額・賞与を含まない)を並べたものである。原典の統計表をそのまま引いている。

40〜44歳の欄を縦に見てほしい。2003年46.38万円、2008年46.60万円、2018年42.64万円、2021年40.72万円。18年で約5.9万円、月額で1割以上下がっている。50〜54歳も54.05万円から50.52万円へ下がる。同じ年齢・同じ学歴・同じ性別で比べて、平均が下がり続けている。

宮田の年収は、この間に上がっている。2008年の課長で860万円、2018年の次長で980万円、2020年に1,010万円。彼が年功で上がっていたのと同じ18年間に、彼と同じ年齢の大卒男性の平均は下がっていた。

つまり宮田の980万円は、能力の証明であると同時に、同じ会社に33年いた人間に対して、年功という仕組みが払い続けた金額でもある。同じ年齢で外にいた人の平均は、その間ずっと下がっていた。この差は本人の努力では説明できない。

限界の明示: この数値は月額(きまって支給する現金給与額)であり、年間賞与を含まない。年収に直すには賞与を足す必要があるが、学歴・年齢別の賞与額は今回取得できていない。したがって「月額×12」は年収の下限の目安にしかならず、宮田の年収との直接比較には使えない。この表が示すのは金額そのものではなく、同年齢の平均が下がり続けたという方向である。また2021年は調査の学歴区分が変わり、大学院を除く「大学」の値を採っている(2008年・2018年は大学・大学院の合算)。1993年の値は厚労省サイトにHTML形式で残っておらず未取得。

📎 解説:生涯賃金1億6,200万円が「8人中で最少の部類」になる理由は、単価ではなく年数

宮田の生涯賃金 約1億6,200万円は、このシリーズの8人の中で柴田正三(約1億4,900万円)に次いで少ない。しかし彼の年収そのものは低くない。次長まで到達し、最後は1,010万円である。柴田は係長のまま28年で終わっている。

差を作っているのは働いた年数である。田村稔は1970年から2013年まで43年、北原誠一は1970年から2017年まで47年、柴田正三は1958年から2005年まで47年働いている。宮田は33年4ヶ月で終わった。65歳まで働いた場合と比べて、およそ10年ぶんの賃金が発生していない。

生涯賃金という指標は、長く生きて長く働いた人ほど大きくなる。能力や役職より先に、年数が効く。だからこの指標で人生を比べると、途中で死んだ人間は必ず下位に来る。この記事が最後の章(161人の層)で問題にするのは、この物差しそのものである。

同期1,240人は、どこへ行ったか

到達点人数割合到達年齢の目安
取締役以上4人0.3%54歳
部長48人3.9%49歳
次長112人9.0%51歳(宮田は52歳)
課長288人23.2%44歳(宮田は42歳)
課長になれず(係長・主任で終わる)461人37.2%
途中で辞めた・転籍・病気離脱・死亡327人26.4%

📎 解説:バブル入社組の競争率が、なぜこれほど厳しいか

田村稔の同期(1970年入社・820人)と比べると、宮田の世代は母数が1.5倍に増えているのに、上のポストは増えていない。結果、割合が全体に下がる。

取締役以上は田村の世代が0.4%(3人/820人)に対し、宮田の世代は0.3%(4人/1,240人)。課長になれた割合は30.0%から23.2%へ、次長以上は12.0%から9.0%へ落ちている。同じ会社の、同じ役職の話である。違うのは、その椅子を待っている人数だけである。

そして「途中で辞めた・転籍・病気離脱・死亡」が19.6%から26.4%へ増えている。宮田はこの327人の中の1人であり、在職死亡としては同期で7人目にあたる。

宮田は42歳で課長になっている。同期の課長到達年齢の目安が44歳なので、この時点では平均よりわずかに早い。問題はそこから10年動かなかったことのほうにある。

📎 解説:#10「詰まり型」との違い

このシリーズには既に、役職が詰まって動かなかった人物として#10「詰まり型」がいる。#10は52歳で課長になり、55歳の役職定年まで課長を3年務めた。宮田は42歳で課長になり、52歳まで10年課長のまま留まり、その後次長になって3年で死ぬ。2人とも「上が空かない」という同じ構造の中にいるが、宮田の詰まりはもっと早く始まり、もっと長く続いた。そして宮田の場合、詰まりが解けた3年後に、本人が在職死亡するという別の終わり方が来る。

→ 次のSection 4では、宮田徹という人物の設定と、1988年入社・同期1,240人という世代の背景、そして家族の構成を見る。

👤 宮田徹という人物

このセクションの3点

① 宮田徹は1966年生まれ、浜松市出身。1988年、空前の売り手市場の年に東亜電機へ入社した。大卒総合職の同期1,240人は、このシリーズの中で最多である

② 最初の配属は東京本社の国内営業部。最初の指導係が、当時30歳・主任だった森康彦(サラリーマン4の主人公)である

③ 1993年に奈緒と結婚し、1997年に長女・結衣、2000年に長男・陸が生まれる。2003年、37歳で市川市に建売を購入し、団体信用生命保険と生命保険3,000万円に入る

項目内容
生年月1966年(昭和41年)4月。バブル入社組
出身静岡県浜松市。父は自動車部品工場の工員。次男
学歴1984年 県立高校 → 1988年 私立大学 商学部
入社1988年(昭和63年)4月。東亜電機。大卒総合職の同期1,240人(シリーズ最多)
初配属東京本社 国内営業部
結婚1993年(27歳)。相手は取引先の受付・奈緒(1969年生)。1994年に奈緒は退職
長女 結衣(1997年生)、長男 陸(2000年生)
持ち家2003年(37歳)、千葉県市川市に建売4,180万円。35年ローン(2038年完済予定)
到達役職主任(30歳・1996)→係長(35歳・2001)→課長(42歳・2008)→次長(52歳・2018)
死亡2021年8月、55歳。在職死亡。勤続33年4ヶ月

宮田徹が入社した1988年は、大卒採用市場が空前の売り手市場だった年である。企業が学生を早期に確保するため、内定を出した学生を旅行に連れて行き、他社の説明会に行かせないようにする「拘束旅行」が横行した世代でもある。宮田の同期は1,240人。これはサラリーマン1の田村稔の同期820人、サラリーマン4の森康彦の同期940人、サラリーマン7の高梨実の同期1,180人と比べても、このシリーズで最も多い。人数の多さが、後の「詰まった10年」に直結する。

初配属は東京本社の国内営業部だった。この配属先で、宮田の最初の指導係になったのが、当時30歳・主任だった森康彦である。森はサラリーマン4の主人公として既に書かれている人物で、この時点では福岡への単身赴任がまだ4年先に控えている。宮田にとって、社会人としての最初の1年は、森の隣の席から始まっている。

家族

人物内容
奈緒(1969年生)1994年に退職して以来、専業主婦。2021年、52歳で夫を亡くす。2022年からパートを始める。2026年現在57歳。市川市の家に住み続けている(ローンは無い)
結衣(1997年生)2020年就職。2021年時点で24歳。2026年現在29歳
陸(2000年生)2021年時点で大学3年・21歳。2026年現在26歳

宮田徹は、当時の平均と比べてどうだったか

節目宮田徹当時の平均・水準出典
1988年 22歳・入社初年度 年収268万円大卒初任給 月額153,100円(賞与込みで年収250万円前後)ほぼ平均どおり厚労省 賃金構造基本統計調査(昭和63年)※集計サイト経由
1993年 27歳・結婚27歳で結婚男性の平均初婚年齢 約28.4〜28.7歳平均よりやや早い厚労省 人口動態統計(値は要検証)
1997年 31歳・長女子2人(1997年・2000年)合計特殊出生率は1.4前後で推移平均より多い厚労省 人口動態統計
2003年 37歳・住宅市川市に4,180万円/年収の約5.8倍東京都の年収倍率 7.38倍(新築マンション70㎡換算)無理をしていない側東京カンテイ時系列(PDF画像読み取り・要再確認)
2008年 42歳・課長年収860万円40-44歳 大卒男性の月額 46.60万円(賞与含まず)上回る厚労省 賃金構造基本統計調査(平成20年)
2018年 52歳・次長年収980万円50-54歳 大卒男性の月額 53.51万円(賞与含まず)上回る厚労省 賃金構造基本統計調査(平成30年)
2020年 54歳・生涯ピーク年収1,010万円給与所得者の平均は430万円前後。1,000万円超は全体の数%上位数%国税庁 民間給与実態統計調査
2021年 55歳・死亡55歳で死亡55歳男性の平均余命 28.01年(=83歳)28年短い厚労省 令和6年簡易生命表

📎 解説:この表の読み方 — 彼は「平均よりやや上」を、33年間続けた人である

節目ごとに並べると、宮田徹という人物の輪郭がはっきりする。入社時は完全に平均だった。そこから、結婚はやや早く、子は平均より多く、家は無理のない価格で買い、年収は常に同年齢の平均を少し上回った。どの項目も、突出していない。しかしどの項目も、下回っていない。

これが「同期1,240人のうち上位9.0%の次長」という位置と一致する。彼は天才ではないし、落伍者でもない。平均よりやや上を、33年間続けた人である。日本の会社員の中では、成功した部類に入る。

そして最後の行だけが、まったく別の性質を持つ。年収も役職も平均を上回り続けたが、生きた年数だけが28年短い。この1行が、それまでの7行を全部無効にする。生涯賃金という指標でこの人物が下位に来るのは、そのためである。

限界: 平均賃金は月額(賞与を含まない)であり、宮田の年収と直接は比較できない。方向として「上回る」と書いている。平均初婚年齢は抽出時に年号表記の不整合があり要検証。年収倍率はPDFの画像読み取りである。第1子出産時の父の平均年齢、住宅取得年齢の平均、課長昇進の平均年齢は今回未取得。

📎 解説:この家族構成は、当時の標準そのものである

宮田家の形——夫が会社員、妻が出産を機に退職して専業主婦、子2人、37歳で持ち家——は、1990年代の日本で最も多かった世帯の形にほぼ一致する。

宮田が結婚した1993年は、共働き世帯が専業主婦世帯を初めて上回った年である。厚生労働省の白書のバックデータによれば、1980年は専業主婦世帯1,114万世帯に対し共働き世帯614万世帯と2倍近い差があったが、1993年に915万世帯 対 929万世帯で逆転する。ただしこの年の差は14万世帯しかなく、1995年・1996年には再び専業主婦世帯が上回る。共働きが恒常的に多数派になるのは2001年以降で、2020年には571万世帯 対 1,240万世帯と2倍以上に開いている。

つまり奈緒が1994年に退職した判断は、多数派が入れ替わるちょうどその年に、少数派になりつつある側を選んだことになる。当時それは異常な選択ではない。むしろ前年まで多数派だった。そして2021年に夫を亡くしたとき、彼女には27年の就業ブランクがあった。

この記事が扱う金額——死亡退職金・生命保険・団信によるローン消滅——は、まさにこの世帯モデルを前提に設計されている。一人の稼ぎ手が家計を支え、その人が死ぬと家計が消える。だから死亡時にまとまった金を渡す仕組みが要る。共働きが多数派になった現在、同じ制度が同じ意味を持つとは限らない。

📎 解説:「1988年入社・同期1,240人」がこの人物の運命の大部分を決めている

このシリーズの8人を入社年で並べると、宮田の世代の特殊性が見える。柴田正三は1958年入社(高卒技能職340人)、田村稔と北原誠一は1970年入社(820人)、森康彦・中村正巳・谷口健一は1980年入社(940人)、高梨実は1985年入社(1,180人)、そして宮田徹は1988年入社(1,240人)でシリーズ最多である。

採用数が増えたのは景気がよかったからで、本人の能力とは無関係である。しかし増えた1,240人が待つ椅子の数は、増えていない。結果として、宮田の世代は課長到達率23.2%、次長以上9.0%と、田村の世代(30.0%/12.0%)より明確に厳しくなる。

入社の年を選べる人間はいない。宮田は1966年に生まれ、1988年に大学を出た。それだけで、彼の昇進の確率はおおよそ決まっていた。この記事が「本人の努力では説明できない」と繰り返すのは、この構造を指している。

→ 次のSection 5では一人称に切り替える。1988年、森康彦の隣の席から始まった30年を、宮田自身の言葉で見る。

🎈 1988-2019 22歳から53歳 — 詰まった30年

このセクションの3点

① 1988年、森康彦は宮田の見積書を三日で突き返した。「これは誰が読む」という一言から、宮田は数字を先に見る人間になった。

② 1993年の結婚、2003年の判、2008年の課長。十四年ごとに三行で終わる年月の中に、後で意味を持つ一枚の書類がある。

③ 2018年、次長になったことを、宮田は本人の口からではなく、人事の同期の電話で先に知る。

1988年。二十二歳。

思い出しているのは五十五歳の私

配属先を告げられた朝、私は怯えていた。同じくらい、自信もあった。この二つは矛盾しているが、二十二のときには並んで立っていた。同期は千二百四十人だと聞いていた。その全員が競争相手だとは思わなかった。競争というのは、勝てそうな相手にだけ感じるものだ。自分がどのあたりにいるのかも知らないまま、私はかなり上まで行くつもりでいた。

国内営業部で私を受け持ったのは、森康彦という三十歳の主任だった。今の私から見れば、まだどうにでもなる年齢である。しかし二十二の私には、三十の男はもう出来上がって見えた。昼をいつも五分で済ませる人だった。立ったまま、蕎麦を。私はそれを、仕事のできる人間の食べ方だと思った。消耗という言葉を、若い人間は自分とは関係のない他人の不幸として覚える。

あの人はこの四年後に福岡へ出て、それから十四年、家を空けることになる。当時の私は知らない。知っていたとしても、たぶん同じ道を選んだ。

同じ年・三日目

三日目、私の書いた見積書が机の上に戻ってきた。森さんは二本の指で押し返した。

「これ、誰が読む」

「お客さんです」

即答した。即答できたことに、少し得意になっていた。

「違う。最初に読むのはうちの経理だ。そこを通らなきゃ、客のところまで行かない」

森さんは数字を直さなかった。読む人間の順番だけを直した。

叱られたとは思わなかった。そういう仕組みなのかと感心した。その日から私は、目の前の相手より先に、その相手の背後にいる人間を考えるようになった。得意先の担当者ではなく、その上司。上司ではなく、決裁の判を押す人。

一年目

私は物覚えがよかった。少なくとも、そう言われた。名刺を出す順番、応接室で座ってはいけない椅子、得意先が笑ったときにだけ笑うこと。人当たりもよかったらしい。相手の顔を見ると、その人が私に何を期待しているかが、だいたい分かった。分かると、そのとおりの人間を出した。上司には素直な新人を、得意先には頼りない若手を、飲み屋では飲める男を出した。

なぜそうしたのか。嫌われるのが怖かった、と書けば分かりやすいが、正確ではない。嫌われること自体より、嫌われたあとに自分が何をすればいいのか、その手順を知らなかったのが怖かった。手順の分かることだけをやっていれば、私は困らない。相手の望む人間を出すのは、私にとって唯一、手順の分かっている仕事だった。

それを気遣いと呼ぶか、迎合と呼ぶか、私は今でも決めていない。会社では、どちらでも同じ欄に丸がつく。

野球の速い球のように、誰の目にも見える才能ではない。人に嫌われない。名前を覚えてもらえる。断られた次の週に、また行ける。誰も褒めないし、本人も数えない。数えないまま三十年使って、使い切ったあとで、あれは持ち物だったと気づく。

その才能で、私は主任になり、課長になり、次長になった。そして同じ才能で、私はこの会社を一度も疑わなかった。

📎 解説:同期1,240人と、指導係・森康彦

宮田徹が入社した1988年は、大卒採用が空前の売り手市場だった年である。大卒総合職の同期は1,240人おり、これはこのシリーズに登場する人物の中で最多の人数になる。配属先の国内営業部で宮田の指導係になったのが、サラリーマン4の主人公である森康彦、当時30歳・主任である。

📎 解説:1988年に社会人になるとは、どういうことだったか

宮田が入社した1988年は、戦後の日本経済で最も景気がよかった時期にあたる。日経平均株価の1988年末の終値は30,159円。翌1989年末には38,915円をつけ、これが2024年まで破られない史上最高値になる。宮田が働き始めたのは、株価が上がり続けるのが当たり前だと全員が思っていた2年間である。

雇用も同じだった。有効求人倍率は1986年の0.62倍から上がり続け、1990年には1.46倍とバブル期の最高値をつける。大卒総合職1,240人という採用数は、この空気の中で決まっている。宮田の世代は「入るのが最も簡単で、上がるのが最も難しい世代」になった。入口が広かった分だけ、同じ数の椅子を待つ人数が増えたからである。

初任給の水準も押さえておく。1988年の大卒初任給は月額153,100円(厚生労働省「賃金構造基本統計調査」)。宮田の初年度年収268万円は、賞与を含めればほぼ平均どおりである。この時点の彼は、統計の真ん中にいる。

注: 有効求人倍率の単年値と大卒求人倍率(1988年3月卒)は原典を直接確認できておらず、傾向として扱っている。初任給も時系列の集計サイト経由の値である。

1989年から2002年。

1989年から2002年

森さんは1992年、福岡へ単身赴任した。見送りは駅のホームで五分だけだった。

1993年に奈緒と結婚し、1997年に結衣、2000年に陸が生まれた。

名刺入れの革は、この頃にはもう自分の手の形になじんでいた。

2003年。三十七歳。

2003年・三十七歳

市川の建売を見に行ったのは、営業先から回った帰りだった。四千百八十万円という数字を見て、少し黙ったが、三十五年のローンならという話に落ち着いた。

契約の場で、担当者が書類を何枚も差し出してきた。判を押す欄がいくつもある。団体信用生命保険、生命保険三千万円。説明は一通り受けたはずだが、右から左に流れていった。子どもの学校のことや、次の異動のことのほうが、ずっと気になっていた。

一枚だけ、判を押す手が止まった。理由は分からない。担当者が「こちらもお願いします」と次の欄を指した。手は、また動いた。

📎 解説:団体信用生命保険という仕組み

住宅ローンを組む際、多くの金融機関は団体信用生命保険への加入を条件にする。契約者が死亡すると、残っているローンの残債は保険によって完済され、遺族が住宅ローンを引き継ぐ必要はなくなる。同時に加入する生命保険とは別枠の契約である。

2004年から2017年。

2004年から2017年

2008年、四十二歳で課長になった。次はどこに行くのかという話をよく耳にしたが、そのうち誰も言わなくなった。

部下から「係長のままでいいんじゃないですか」と言われて、笑った。

名刺の肩書は、その十四年で一度しか変わらなかった。

📎 解説:詰まった10年の構造

宮田は2008年に42歳で課長になり、2018年に52歳で次長になるまで10年動かなかった。同期1,240人という人数の多さは、上のポストが空くのを待つ人数の多さでもある。2008年のリーマン・ショック以降、多くの企業でポスト自体が減っていることも重なった。このシリーズの#10「詰まり型」も同じ構造の中にいるが、#10は52歳で課長になり55歳の役職定年まで3年課長を務めた。宮田は課長10年・次長3年という、別の詰まり方をしている。

2008年。四十二歳。課長になった年。

思い出しているのは五十五歳の私

ひとつ、思い出す会話がある。二〇〇八年、課長になった年だ。結衣の学校の何かの日に、私は行かなかった。行けなかったのではない。行かないほうが仕事のうえで角が立たない、という判断をした。

「会社が決めたことだから」

私はそう言った。奈緒は皿を拭く手を止めなかった。

「会社って、誰」

「……部長だよ」

「部長が、行くなって言ったの」

言っていない。誰も言っていない。私は部長の顔を思い浮かべ、部長がどう思うかを想像し、その想像に合わせて予定を決めた。決めたのは私である。

📎 解説:2003年に4,180万円の家を買うということ

宮田が市川市の建売を買った2003年は、住宅ローンの環境が変わる年である。フラット35が2003年10月に始まり、開始時の金利は約3%前後だった(その後2004年末には2%台前半まで下がる)。35年ローンという長さは、この金利水準で成立している。

価格の妥当性も見ておく。2003年の東京都の新築マンション価格は70㎡換算で4,841万円、同年の東京都の平均年収は656万円で、年収倍率は7.38倍だった。宮田は千葉県市川市で4,180万円、当時の年収720万円に対して約5.8倍である。都心から一本入った場所を選び、無理をしない範囲で買っている。営業として数字を見る仕事をしてきた人間の買い方といえる。

そしてこの契約に、団体信用生命保険が付いた。契約者が死亡すればローンの残債が消える保険である。宮田はこの日、説明を聞き流している。18年後、この一枚が家族の手元に残る金額の中で最も大きな部分になる。

注: 年収倍率7.38倍は東京カンテイの時系列表を画像として読み取った値で、隣接年との取り違えの可能性が残る。桁と傾向を示す参考値として扱う。

2018年。五十二歳。

2018年・五十二歳

正式な内示の前に、人事にいる同期から電話が来た。「先に言っとく」と前置きしてから、次長になる、と言った。

「上が二人抜けたからな」

悪気のない声だった。事実を言っただけだと分かっている。私は礼を言って、電話を切った。

翌日、名刺の発注をかけた。肩書のところだけ直して、紙の質はいつもと同じものを選んだ。刷り上がった名刺を、鞄に入っていた革の名刺入れに入れた。新しい入れ物は買わなかった。三十年使っている入れ物に、次長の名刺を入れた。

当時の私は、名刺の肩書が変われば、自分の立ち位置も変わると思っていた。革の方は、三十年経っても擦り切れていくだけで、新しくはならなかった。

2021年8月。病室。

五十五歳

会社とは誰だったのか。社長ではない。森さんでもない。書類の向こうにいる誰かを恐れて、その誰かの顔を互いに想像し合っていた、私たちのことだったのだろう。誰も自分では決めていない。決めた人がどこかにいると、全員が思っていた。

点滴を留めた右手を見る。三十三年前、あの見積書を押し返された手だ。数字を通すことに、私はずいぶん熟達した。自分が何を通して何を通さなかったかについては、一度も見積書を書かなかった。

そこから、私の社会人生活が始まった。

名刺入れは、鞄の底に入ったまま、次にノートパソコンの横に置かれることになる。

🖥️ 2020年 — 在宅勤務と、背中の痛み

このセクションの3点

① 2020年9月、ゴルフの帰り、車のシートに背中が当たった。ゴルフバッグは、その月のうちに納戸へ入る。

② 11月、体重計の数字を見て、奈緒は黙り、同じ言葉を二度言った。

③ 診断の翌朝、宮田は歯を磨き、鏡を見て、いつもと同じ手順に安心し、それからノートパソコンを開く。

2020年9月。五十四歳。

宮田徹2020年9月・五十四歳

ラウンドの帰り、車に乗り込んでシートに背中を預けた瞬間、左の肩甲骨の下に何かが引っかかるような痛みが走った。

ゴルフのしすぎだと思った。在宅勤務になって、平日の午後が空くようになった分、ラウンドの回数を増やしていた。整体に二回行った。楽になったような気もした。

月の終わり、次のラウンドをキャンセルした。ゴルフバッグは玄関の隅に数日置いたままだったが、そのうち納戸にしまった。それから一度も出していない。

📎 解説:背中の痛みという初期症状

膵臓は胃の後ろにある臓器で、初期のがんは自覚できる症状がほとんどない。腫瘍が周囲の神経を圧迫し始めると、背部や上腹部の痛みとして出ることがある。運動による疲労と区別がつきにくい痛みだったというのは、この病気ではよくあることである。

2020年11月。

2020年11月

体重計に乗ったのは、何ヶ月ぶりか覚えていない。数字を見て、奈緒が黙った。

その夜、奈緒は何も言わなかった。翌朝、予定だけを告げてきた。

「木曜の十時」

「まだそこまでじゃない」

「木曜の十時」

同じことをもう一度言われて、私はカレンダーにその時間を書いた。

📎 解説:体重減少という信号

短期間での急な体重減少は、膵臓がんの代表的な初期症状のひとつである。ただし他の生活習慣の変化と見分けがつきにくく、本人よりも家族が先に気づくことが多い。膵臓がんは初期症状が乏しく、背部痛や体重減少で気づく頃には進行していることが多い。これは本人の落ち度ではない。

2020年12月。

2020年12月

木曜の十時、検査を受けた。結果を聞く日、奈緒が一緒に行くと言ったが、私だけで行った。膵臓がん、ステージIV。肝臓への転移。医師の説明は長く、ほとんど覚えていない。聞いて、礼を言って、帰った。

医師の説明を、奈緒にも子にも、宮田は詳しくは伝えなかった。年末の予定を聞かれると、いつもどおり答えた。

📎 解説:ステージIVという言葉

ステージIVは、がんが最初にできた臓器から離れた別の臓器へ転移している状態を指す、進行度分類の中で最も進んだ区分である。膵臓がんは発見時点でこの段階に達していることが少なくない。早期発見が難しい病気であり、「もっと早く検査していれば」という話ではない。

診断の翌朝。

2020年12月・診断の翌朝

翌朝、いつもと同じ時間に起きた。歯を磨く。鏡を見る。奥歯の右側から順に、いつもの手順でブラシを動かした。

特に何も変わっていなかった。歯ブラシの角度も、水を含む量も、鏡に映る顔の位置も、前日までと同じだった。同じであることに、少し安心していた。

顔を洗って部屋に戻り、ノートパソコンを開いた。未読のメールが十二件あった。上から順に、返信の要る二件に返信した。

当時の私は、いつもと同じ手順をこなせることが、何も変わっていない証拠だと思っていた。同じ手順は、その後も長く続いたが、それが証拠になったことは一度もなかった。

診断された時点で、統計上どうだったか

1.6%

膵臓がん ステージIV の5年相対生存率(国立がん研究センター 院内がん登録生存率集計)

28.01年

55歳男性の平均余命(厚生労働省 令和6年簡易生命表)

83歳

宮田が平均どおり生きた場合に到達していた年齢

8ヶ月

診断から死亡までの実際の期間(2020年12月〜2021年8月)

📎 解説:ステージIVという言葉が意味していた確率

膵臓がんのステージ別5年相対生存率は、国立がん研究センターの院内がん登録生存率集計で I期56.2%/II期23.1%/III期6.1%/IV期1.6% と公表されている。宮田が告げられたのはIV期である。5年後に生きている人は、100人のうち1.6人になる。

膵臓がんが早期に見つかりにくいのは、初期に自覚症状がほとんど無いためである。背部痛や体重減少で気づく頃には進行していることが多い。宮田が2020年9月の背中の痛みをゴルフのせいだと考えたことは、この病気の典型的な経過そのものであって、本人の判断の誤りではない。

一方、厚生労働省の令和6年簡易生命表では、55歳男性の平均余命は28.01年である。平均どおりであれば、宮田は83歳まで生きていた計算になる。彼が失ったのは、統計の上では28年である。ただし彼自身は、この数字を医師から聞いていない。医師は余命を数字で言わなかった。

注: 平均余命は令和6年(2024年)の値であり、宮田が死亡した2021年(令和3年)単年の値は今回未取得。近年28年台で安定しているため大きくは動かないと見られるが、2021年の確定値ではない。

会議の画面には、次の月から、彼の顔が映らなくなる。

💻 2021年1-6月 — カメラをオフにした8ヶ月

このセクションの3点

① 2021年1月、彼は書類の箱から一枚の証券を出す。数えていたのは、いったい何だったのか。

② 3月、枕についていたものに、彼女はいつから気づいていたのか。

③ 5月、三度の言葉が交わされたあと、電話を切った彼が最初にしたことは何か。

2021年1月。五十四歳。

宮田徹2021年1月・五十四歳

点滴の日以外は、家にいる。会議はカメラをオフにした。効率のためだと去年から誰もが言っていたので、それ以上の説明はいらない。声だけ出して、資料に目を通して、いつもどおり相槌を打つ。誰も何も聞いてこない。

ある夜、書斎の棚から書類の箱を出した。奥にある茶色い封筒だけ、封の糊が古くなっている。市川の家を買った年に入った証券だった。数字のところだけ、目で追った。経理をやったことはないが、営業を三十年以上やっていれば、桁の意味くらいは分かる。

ローンは、あと何年残っているか。陸が学校を出るまで、あと何年か。家の名義は、たしかまだ自分になっている。数えているうち、自分がしているのが計算だということに気づいた。封筒を箱に戻し、箱を棚の一番奥に入れ直した。

そのまま書斎を出て、パソコンを開いた。翌週の定例会議の招集を打ち、資料を添付した。奈緒には何も言わなかった。

2021年2月から4月。

2月、次長としての承認と決裁は、いつもどおり続いた。部下は誰も知らない。
4月、体力が落ちて、動けるのは午前中だけになった。それでも案件は止まらなかった。

2021年3月。

2021年3月・五十四歳

枕カバーに、髪がまとまって付いているのを見つけた。自分で洗った。洗濯機の使い方はよく分からないので、風呂場で手で洗って、物干しの隅にかけた。

数日後、枕カバーが新しいものに変わっていた。奈緒は何も言わなかった。私も何も言わなかった。

翌日の会議も、カメラはオフのままだった。オフにしているのは、私だけではなかった。

📎 解説:在宅勤務が与えた八ヶ月

もしコロナ禍がなければ、宮田は2021年1月の時点で通勤ができず、休職していた可能性が高い。在宅勤務という当時の措置が、結果として彼に八ヶ月間、次長としての決裁を続けさせた。それが良かったことなのかどうかは、この記事では判断しない。

2021年5月。

2021年5月・五十四歳

電話がかかってきたのは、月曜の朝だった。上司の声は、いつもと変わらなかった。

「引き継ぎだけ作ってくれ」

「休めということですか」

「そうは言っていない」

そのあと、しばらく誰も何も言わなかった。次の言葉は、どちらからも出てこなかった。

「もう少しやります」とだけ言って、電話を切った。

切ったあと、社内の名前検索を開いた。自分の課の中で、今の仕事を任せられそうな人間の名前をひとつ打った。画面に出てきた顔写真を、しばらく見た。それから閉じて、次の会議の資料を開いた。

五十四歳

働けている自分と、いなくなったあとの自分は、同じ人間だろうか。

残ったもの

次長として、最後まで承認と決裁を続けたこと。同期の中で、まだ席に着いていると思われていたこと。

失ったもの

家にいる時間が増えても、家族といる時間にはならなかったこと。保険証券のことは、最後まで奈緒に言わなかった。

まだ判断できないもの

働き続けたのは家族のためだったのか、働かなくなった自分を見たくなかっただけなのか。

当時の私は、働けているうちは何も失っていないと思っていた。失うものの順番は、私が決めているつもりだった。

五月に検索した名前は、その年の八月、引き継ぎのメールの宛先になる。

🕐 2021年6-8月 — 週1回15分

このセクションの3点

① 面会は週に一度、十五分、一人まで。二人とも、話し始める前に時計を見る。

② 三十三年、彼は働くことで家族の側にいるつもりだった。妻はそれを一度も認めていない。

③ その十五分のうちの、残り五分で言われる。

2021年6月。五十四歳。

宮田徹2021年6月・五十四歳

入院の手続きは奈緒がやった。私は椅子に座って、渡された紙に名前を書いた。書く欄が四つあって、四つとも同じことを書いた。

面会は週に一度、十五分、一人まで。看護師がそう言った。奈緒が「一人までですか」と聞き返した。看護師は申し訳なさそうな顔をして、もう一度同じことを言った。悪いのはこの人ではない。私はそう思って、奈緒の袖を引いた。

部屋に入って、鞄から名刺入れを出して枕元に置いた。革が擦り切れていて、角が白くなっている。三十三年使っている。看護師が「ご家族の写真ですか」と聞いたので、名刺です、と答えた。看護師は笑った。私も笑った。

📎 解説:2021年の面会制限

2021年前半、多くの医療機関が感染対策として面会を制限していた。回数・時間・人数のいずれも制限されるのが一般的で、面会そのものを全面的に停止した施設も少なくない。これは個々の病院の裁量というより、当時の医療現場に共通して課された条件だった。

結果として、この時期に入院した患者の家族の多くが、最後の数ヶ月に会えた総時間を分単位で数えられる状態に置かれている。

七月。最初の十分。

2021年7月・五十五歳

十五分は短い。というより、十五分だと分かっていると短い。奈緒は入ってくるとまず時計を見る。私も見る。二人で同じ時計を見てから話し始めるので、最初の三十秒はいつも無駄になる。

その日、私は会社の話をした。四月から止まっている案件が二つあって、片方は動き出したらしいこと。後任に誰が入ったか。来週、期の切り替えで会議があること。奈緒は頷いて聞いていた。

「会社の話はもういい」

そう言われて、私は次に言うつもりだった言葉を飲んだ。喉のあたりで止まって、そのままどこにも行かなかった。

同じ日・残りの五分

「あなた、うちにいたことある?」

奈緒は泣いていなかった。怒ってもいなかった。聞き方が、事務の人が書類の不備を指摘するときのそれに似ていた。事実を確認しているだけの声だった。

私は、いたよ、と言おうとした。去年の四月からずっと家にいた。会議も家でやった。飯も家で食った。言えることはいくらでもあった。

言わなかった。奈緒が「うち」と言ったとき、それが建物のことではないと分かってしまったからだ。私が去年の四月から座っていたのは、家の中に作った会社の席だった。

時計が十五分を指した。看護師が来た。奈緒は立ち上がって、来週も来る、と言って出ていった。

📎 解説:在宅勤務が家の中に作った席

2020年から2021年にかけて、多くの企業が在宅勤務に移行した。通勤時間が消え、家にいる時間は増えている。ただし「家にいる時間」と「家族といる時間」は同じではない。

この時期、家庭内に業務用の席が物理的に作られた家は多い。寝室の一角、食卓の端、納戸を片付けた場所。その席に座っている人間は、家の中にいながら会社にいる。家族の側から見れば、通勤していた頃より姿は見えるが、話しかけられる時間が増えているとは限らない。

七月下旬。

2021年7月下旬

翌週も奈緒は来た。私は会議の話をした。期の切り替えの会議がどうなったか、まだ聞いていないという話だった。奈緒は頷いて聞いていた。前の週のことは、二人とも言わなかった。

ただ、その日から、私は会議の話を最後までしなくなった。途中で切って、天気の話をした。奈緒が育てているベランダの何かが枯れかけているらしく、その話を三分した。三分は長かった。

面会が終わって、ベッドを起こしてもらって、名刺入れを開けた。中に入っているのは自分の名刺だけで、肩書は次長になっている。二〇一八年に刷ったものだ。あのとき、人事の同期が、上が二人抜けたからだと言った。それを聞いてからも、私はこの名刺を三年使った。

会議は、私がいなくても終わったのだろうと思った。終わったのだろう、と思ってから、そのほうがいい、と思った。そう思ったのは、三十三年で初めてだった。

誰にも言わなかった。看護師にも、奈緒にも、次の週に来た陸にも言わなかった。
言う機会は、まだあると思っていた。

八月。

2021年8月

ノートPCは持ち込みが許可されていた。返却の期限は決まっていない。総務からは何も言ってこない。

後任に渡すものが、まだ二つ残っていた。片方は書けば済む。もう片方は、書いても伝わらない種類のもので、三十三年かけて覚えたことだった。それでも書こうと思って、画面を開いた。

宛先を選んで、件名を打った。「引き継ぎの件(3)」。前に二通送っている。

本文の一行目に、去年の四月から止まっている案件の名前を書いた。二行目に、その案件で最初に会うべき相手の名前を書いた。三行目を書き始めて、

📎 解説:ここから先の記録

2021年8月、宮田徹は死亡した。55歳。在職中である。勤続33年4ヶ月。

会社への届出上の区分は「在職死亡」となる。退職ではないため、退職の手続きは行われていない。ノートPCは後日、総務に返却された。下書きは、そのまま残っていた。

55歳

死亡時の年齢。在職中・勤続33年4ヶ月

約2時間

2021年6月から8月までに面会できた総時間

3行

最後の下書きの長さ。3行目は途中で切れている

0人

「そのほうがいい」と思ったことを伝えた相手の人数

宮田の口座に次に振り込まれたのは、給与ではなかった。

📋 死んだあとに動いた制度

このセクションの3点

① 宮田が2021年8月に死亡した後、5つの制度が動いた。死亡退職金・団体信用生命保険・生命保険・遺族厚生年金・中高齢寡婦加算で、一時金の合計は約7,770万円になる

② これは宮田が生きて65歳まで働いた場合の推計(65歳時点の金融資産 約3,400万円)を上回る。死んだほうが、2倍以上多い

③ これらは全部、家族を守るために作られた良い制度である。制度の欠陥ではない。残酷なのは、同じ手厚さが、生きているうちには一度も発動しないことである

死んだあとに動いた金 — もう一度、表で置く

項目金額出どころ
死亡退職金1,920万円会社。在職死亡は割増がある
生命保険3,000万円2003年の住宅購入時に加入した定期保険
住宅ローン残債の消滅約2,850万円団体信用生命保険。2038年完済予定だった残債がゼロになった
遺族厚生年金(奈緒へ)月 約9.8万円報酬比例部分の4分の3
中高齢寡婦加算月 約5.1万円(年 約61万円)40歳以上65歳未満の妻への加算
一時金の合計約7,770万円死亡退職金+生命保険+ローン消滅

約7,770万円

死んだことで家族の手元に残った一時金

約3,400万円

65歳まで働いた場合の金融資産(推計)

33年4ヶ月

勤続

55歳

死亡年齢

📎 解説:死亡退職金

死亡退職金とは、在職中に社員が死亡した場合に、遺族へ支払われる退職金である。自己都合退職より係数が高い会社が多い。宮田の勤めていた会社も同様で、自己都合で退職した場合の見込み額より、在職死亡による死亡退職金のほうが高い係数で計算される規定になっていた。宮田の場合、この死亡退職金は1,920万円だった。

係数が高いこと自体は、遺族の生活を早く支えるための設計であり、珍しい仕組みではない。ただし、この係数が発動する条件は「在職中に死亡すること」であり、生きて勤め続ける限り、この割増は一度も本人の手元には来ない。

📎 解説:団体信用生命保険(団信)

団体信用生命保険(団信)とは、住宅ローンを契約する際にあわせて加入する生命保険であり、債務者が死亡すると、残っているローンの残債が保険金で完済される。宮田は2003年、37歳のときに市川市で建売住宅を購入し、35年ローンを組んだ際にこの団信に加入している。完済予定は2038年だった。

2021年8月の死亡により、この時点で残っていた約2,850万円の残債がゼロになった。団信は住宅ローンとほぼセットで加入することが一般的な、広く普及した制度であり、宮田だけが特別な契約をしていたわけではない。

📎 解説:生命保険

団信とは別に、宮田は2003年の住宅購入時に、死亡保険金3,000万円の定期保険にも加入していた。定期保険とは、一定期間内に死亡した場合にのみ保険金が支払われる保険であり、期間内に死亡しなければ保険金は支払われない。住宅ローンを組むタイミングで、団信に加えてこの種の保険に加入することは、家計を維持している側の死亡に備える一般的な組み方である。

📎 解説:遺族厚生年金と中高齢寡婦加算

遺族厚生年金とは、厚生年金に加入していた人が死亡した場合に、その遺族へ支給される年金である。金額は本人の報酬比例部分(勤めていた期間と収入に応じて算出される部分)の4分の3が基準になる。宮田の場合、奈緒への支給額は月 約9.8万円だった。

これに加えて、中高齢寡婦加算という上乗せがある。これは、夫を亡くした妻が40歳以上65歳未満である間に加算される制度で、宮田が死亡した2021年、奈緒は52歳だったため対象になった。加算額は年 約61万円(月 約5.1万円)である。これらは毎月続く給付であり、前述の一時金とは別枠になる。

これらは全部、家族を守るために作られた良い制度である。死亡退職金の割増も、団信も、遺族厚生年金も、制度としての欠陥ではない。残酷なのは、同じ手厚さが、生きているうちには一度も発動しないことである。

この7,770万円に、税金はかかるのか

項目金額非課税枠課税対象になる額根拠
死亡退職金1,920万円500万円 × 法定相続人3人=1,500万円420万円国税庁 No.4117
死亡保険金3,000万円500万円 × 3人=1,500万円(退職金とは別枠)1,500万円国税庁 No.4114
住宅ローン残債の消滅約2,850万円債務控除の対象にならない国税庁「誤りやすい事例⑬」
遺族厚生年金・中高齢寡婦加算月 約14.9万円全額非課税0円実務上確立した取扱い(条文の一次URLは未取得)
相続税の基礎控除3,000万円 + 600万円 × 3人=4,800万円国税庁 No.4152

📎 解説:団体信用生命保険は、相続税では二重に不利に働く

ここに、制度を知らないと気づかない構造がある。団信でローンが消えたことは、相続税の計算では有利に働かない。むしろ二重に不利になる。

相続税では、被相続人が残した借金を財産から差し引ける(債務控除)。しかし団信で完済された住宅ローンは、相続人が支払う必要のない債務なので、債務控除の対象に一切ならない。国税庁が「誤りやすい事例」として、申告書の様式(第13表)付きで明示している論点である。

一方で、市川の家そのものは無借金の不動産として、評価額のまま相続財産に計上される。つまり——債務は引けないのに、資産は満額乗る。2,850万円の残債が生きていれば財産から引けたはずのものが、消えたことで引けなくなる。

誤解のないように書いておく。これは団信が悪い制度だという話ではない。遺族が住み続けられるようにする、という目的は完全に果たしている。ただ相続税の計算という別の物差しの上では、逆向きに働くというだけである。制度は、それぞれ別の目的で作られていて、互いの都合を見ていない。

宮田家の課税対象額は、死亡退職金420万円+死亡保険金1,500万円=1,920万円に、自宅の相続税評価額とその他の財産を加えた金額になる。基礎控除4,800万円を超えるかどうかは、自宅の評価額次第である。(2021年時点の市川市の路線価に基づく評価額は本記事では未取得のため、最終的な納税額は算定していない。)

📎 解説:★彼は傷病手当金を1円も受け取っていない

この記事で最も見落とされやすい事実を書く。宮田は、健康保険の傷病手当金を1円も受け取っていない。

傷病手当金は、業務外の病気やケガで働けないときに、健康保険から標準報酬日額の3分の2が支給される制度である。支給を受けるには「連続する3日間の休み(待期)」が成立し、4日目以降も労務不能であることが要件になる。

宮田は休職しなかった。2021年1月から抗がん剤治療を受けながら、通院日以外は在宅勤務で働き続けた。4月には午前中だけの勤務になったが、それでも働いている。連続3日の待期が、一度も成立していない。したがって支給要件を満たさず、この制度は彼に対して一度も発動していない。

この記事の主題は「在職中に死ぬと、制度は急に手厚くなる」である。その裏返しがここにある。生きて働いている間、制度は彼に何も渡していない。渡す仕組みは存在したが、彼が働き続けたので発動しなかった。

サラリーマン7の高梨実は、2008年に3ヶ月休職して傷病手当金を受給している。休んだ人には出て、休まなかった人には出ない。制度としては当然の設計だが、この2人を並べると、同じ制度が正反対の結果を出していることが見える。

注: 支給期間を「支給開始日から通算1年6ヶ月」とする改正は2022年1月施行で、宮田の死亡より後である。

📎 解説:会社から出る弔慰金と、健康保険から出る埋葬料

死亡退職金とは別に、会社から遺族へ弔慰金が支払われることが多い。弔慰金には相続税の非課税限度額が定められており、業務外の死亡なら、普通給与(賞与を除く)の半年分までが非課税になる(業務上の死亡なら3年分)。宮田の死因は膵臓がんで業務外であるため、半年分の枠が適用される。

健康保険からは埋葬料として一律5万円が支給される(協会けんぽ)。この金額は、葬儀の実費に対しては小さい。

治療費については高額療養費制度が効いている。70歳未満の場合、標準報酬月額に応じた5区分の自己負担限度額が定められており、抗がん剤治療を8ヶ月受けたとしても、自己負担の総額はおおよそ数十万円の範囲に収まる。(宮田の標準報酬月額が不明のため、正確な区分と金額は算定していない。)

年次有給休暇の未消化分については、買い取りの義務は法律上ない。退職と同様、死亡によって権利は消滅する。宮田が2021年に何日残していたかの記録は、この記事では扱わない。

8人の退職金を並べる

人物到達した状態受け取った額
田村稔定年まで勤務2,170万円(退職金)
北原誠一取締役まで昇進9,200万円(退職金)
柴田正三係長28年で定年1,240万円(退職金)
森康彦部長で在籍中2,980万円(退職金見込み)
中村正巳課長で在籍中2,060万円(退職金見込み)
谷口健一課長で在籍中2,090万円(退職金見込み)
高梨実53歳で自己都合退職1,660万円(退職金)
宮田徹55歳で在職死亡約7,770万円(死亡退職金+生命保険+団信)

📎 解説:この表が示していること

生きて定年か退職まで到達した7人の受取額は、1,240万円から9,200万円までばらつきがあるが、いずれも在職中に積み上げた勤続年数と役職に応じた金額である。宮田の約7,770万円は、そのばらつきの中では低くない位置にある。ただし宮田の場合、この額を生んだのは勤続年数の長さではなく、在職中に死亡したという一点である。

この記事は、この表から「だから死んでよかった」という結論を導かない。導けるのは、生きて働き続ける側にはほとんど何もしない制度が、死んだ瞬間にだけ、まとまった金を動かすという設計上の事実だけである。

→ 次のSectionでは、2021年から2026年までの5年、奈緒と結衣・陸がどう過ごしたかを解説の声で置く。

🏠 2021-2026 — 残された5年

このセクションの3点

① 宮田が死亡した2021年8月、奈緒は52歳だった。2026年現在57歳。市川市の家に、団信で残債の消えたローンなしの状態で住み続けている

② 奈緒は2022年からパートを始めている。生活のためではなく、家に一人でいる時間を減らすためだが、本人はそう説明せず「暇だから」と言う

③ 結衣(1997年生)は2026年現在29歳、陸(2000年生)は26歳。2人は、父が在宅勤務のまま病を抱えて働き続けていたことを、当時知らなかった

2021年8月から2026年までの5年

奈緒(1969年生)結衣(1997年生)陸(2000年生)
2021年52歳。8月に夫を亡くす24歳。就職2年目21歳。大学3年
2022年53歳。パートを始める25歳22歳。大学卒業
2023年54歳26歳23歳
2024年55歳27歳24歳
2025年56歳28歳25歳
2026年57歳29歳26歳

📎 解説:ローンの無い家

奈緒は、宮田が2003年に購入した市川市の建売住宅に、2026年現在も住み続けている。この家にはローンが残っていない。2021年8月の死亡により、団体信用生命保険で当時の残債約2,850万円が完済されたためであり、奈緒がその後の生活の中でローンを払い続けたわけではない。

住居費という家計の中で最も大きな固定費が、2021年8月を境にゼロになったという事実は、奈緒の生活の土台を形として説明している。この事実に感情的な評価を加える必要はない。

📎 解説:2022年からのパート

奈緒は1994年に結婚を機に退職して以来、専業主婦だった。2022年、夫の死から約半年後にパートを始めている。一時金の合計が約7,770万円あることを踏まえると、これは生活費を得るための就労とは説明しにくい。

本人はこの理由を「家に一人でいる時間を減らすため」と説明していない。聞かれれば「暇だから」と言う。この記事は、その言葉の裏に何があるかを推測しない。就労を始めたという事実と、本人がそれをどう語っているかという事実を、そのまま並べて置く。

子2人が知らなかったこと

結衣は2021年当時24歳、陸は21歳だった。2020年4月以降、宮田は在宅勤務になっている。父親が同じ家の中の部屋にいることは、2人にとって珍しい光景ではなかった。コロナ以降、多くの会社員が在宅で働くようになっていたため、部屋にこもって画面を見ている父の姿は、それ自体としては特別ではなかった。

宮田が2020年12月に膵臓がんステージIVと診断され、2021年1月から抗がん剤治療を受けながら在宅勤務を続けていたことは、この記事の§3-5・s7-hachikagetsuで扱った通りである。会議中はカメラをオフにしていた。その部屋の中で何が起きているかを、家族の外側から見ることはできない。子2人にとっては、父が部屋にいるのが仕事なのか療養なのかを見分ける手がかりが、もともと無かった。

📎 解説:これを「すれ違い」とは書かない

結衣と陸が、父が働き続けていたことを知らなかったという事実は、家族の関係が薄かったことを示すものではない。在宅勤務という働き方そのものが、仕事と療養の境目を家の外からも家の中からも見えにくくしていた。これは宮田が意図的に隠したというより、在宅勤務の構造がそうなっていたということである。

この記事は、この事実を家族の失敗や関係の不足として描かない。2人がその後どう過ごしているかについても、憐れむべき状態としては扱わない。結衣は2026年現在29歳、陸は26歳で、それぞれの生活を続けている。

奈緒は57歳になり、パートを続けている。結衣は29歳、陸は26歳になった。この記事が置くのは、5年が経過したという事実と、その5年の内側にあった生活の輪郭だけである。「遺された家族」という括りで、彼らを可哀想な立場に固定しない。

会社の側から見た宮田徹

ここまでは、宮田自身の語りと、家族の側の記録である。最後に、会社の側から見た宮田徹を置く。2021年8月の社内報に載った追悼文と、当時の同僚が語る宮田は、ここまで読んできた人物とは別人のように見える。

当時の同僚(国内営業部)2021年・宮田の死の直後

宮田さんは、明るい人でしたよ。会議でも必ず一言、場を和ませることを言う人で。営業の人らしい人でした。

体を悪くされているとは、正直、まったく気づきませんでした。在宅でしたし、カメラも切ってましたけど、あの頃はみんなそうでしたから。声はいつもどおりでしたし、決裁も遅れたことがなかった。だから最後の月まで、普通に仕事されてたと思います。

ご家族思いの方だったんじゃないですかね。私はそういう話はあまり聞いたことがないんですけど、あれだけきちんとされてた方ですから。いい人でしたよ、本当に。

📎 解説:この証言に嘘は無い

この同僚の言葉に、事実の誤りは含まれていない。宮田は明るかった。決裁は遅れていない。カメラをオフにしていた理由を、誰も不審に思わなかったのも本当である。会社の側から見える宮田徹は、最後まで有能で感じのいい次長だった。

ここまで読んできた読者は、同じ33年を別の側から見ている。どちらかが正しく、どちらかが間違っているのではない。会社に提出されていたのは、宮田が相手の望みに合わせて出していたほうの宮田徹であり、それは33年間、一度も返品されなかった。

「ご家族思いの方だったんじゃないですかね」
この一文だけが、推測で言われている。

この記事には、悪い人間が一人も出てこない。

🔪 辛口批評 — 手厚さが発動する条件

このセクションの3点

① 在職中に死ぬと、制度は急に手厚くなる。死亡退職金の割増、団体信用生命保険、遺族年金が同時に動く。ただしこれは制度の欠陥ではなく、家族を守るために作られた良い制度である

② 残酷なのは、同じ手厚さが生きているうちには一度も発動しないことである。宮田はその計算を知っていた(2021年1月に保険証券を確認している)。それでも最後まで妻には言わなかった

③ この記事は「命が大事」とも「後悔のない生き方を」とも言わない。言うのは、同じ会社に33年いた人間の家族が、彼が死んだ日に初めてまとまった金を受け取ったという事実だけである

① 死ぬと、手厚くなる

宮田徹が在職中に死んだことで動いた金は、死亡退職金・生命保険・団体信用生命保険による住宅ローン残債の消滅を合わせて約7,770万円になる。死亡退職金には在職死亡に対する割増の係数があり、自己都合退職より受取額が上がる。団体信用生命保険は住宅ローンの契約時に加入する保険で、契約者が死亡すると残債を保険会社が代わりに完済する仕組みである。これらはどれも、社員やその家族が困らないように設計された制度である。会社が意図的に死亡者を優遇しているわけではなく、生存者への給付を削って死亡者に回しているわけでもない。それぞれ別の制度が、たまたま同時に発動しただけである。

② 発動条件がすべてを決める

📎 解説:同じ手厚さが、生きているうちには一度も発動しない

宮田は42歳から10年、課長のまま昇進が止まっている。その10年間、会社が彼に用意していた手厚い制度は無い。抗がん剤治療を受けながら在宅勤務を続けた2021年1月から6月の8ヶ月間も同じで、会社は特別な給付を出していない(在宅勤務という環境を用意した、という一点を除く)。制度が本気で動くのは、彼が死んだ日である。生きて働き続ける限り、この種の手厚さに触れることは一度もない。死亡という一点だけが、複数の制度を同時に起動させるスイッチになっている。

これは団信や死亡退職金の割増が「悪い制度」だからではない。むしろ、家族の生活を守るという目的においては、きちんと機能している。問題があるとすれば、生存中の33年間には、これに匹敵する規模の手厚さが一度も用意されていなかったという設計のほうである。

③ 知っていて、言わなかった

宮田は2020年12月に膵臓がんステージIVの診断を受け、2021年1月、通院日以外は在宅勤務を続けながら、2003年に加入した保険証券を確認している。つまり彼は、自分が死んだ場合に家族の手元にどれだけの金が残るかを、この時点で把握していた可能性が高い。それでも、この記事の一人称の記録の中に、その計算を妻の奈緒へ伝えた場面は無い。最後まで、言わなかった。

彼が何を考えてそうしたのかは、この記事には書かれていない。伝えなかった理由を推測することも、この記事の役割ではない。置くのは、保険証券を確認したという事実と、それを言わなかったという事実の2つだけである。

④ コロナが与えた8ヶ月

2020年4月に全社が在宅勤務へ切り替わり、宮田にノートPCが支給された。もしこの体制が無ければ、彼は診断直後の2021年1月の時点で、通勤に耐えられる体力を失っており、休職していた可能性が高い。在宅勤務という偶然の環境が、次長としての承認と決裁の8ヶ月を彼に与えた。会議のカメラをオフにすることで、髪が抜けていく様子や体力の低下を、部下は最後まで知らずに済んでいる。

この8ヶ月が宮田にとって良かったのか、そうでなかったのかを、この記事は判定しない。働けたことと、働かずに済んだことのどちらが本人にとって良い時間だったかは、外側から決められることではない。記録できるのは、コロナという別の出来事が、たまたま彼の最後の勤務形態を変えた、という構造だけである。

⑤ 8人を並べる — 生涯賃金と、死んだあとに残った額

人物生涯賃金到達役職勤続年数死亡または現況家族の手元に残った額
田村稔約2億1,400万円次長38年(60歳定年)2035年、87歳で死去(定年後)2,170万円(退職金)
北原誠一約4億9,000万円取締役38年(本体)+子会社社長として継続2037年、89歳で死去9,200万円(退職金)
柴田正三約1億4,900万円係長38年(60歳定年)2032年、92歳で死去1,240万円(退職金)
森康彦約2億9,600万円部長38年(60歳定年)2026年現在、68歳で生存2,980万円(退職金)
中村正巳約1億8,600万円課長38年(60歳定年)2026年現在、68歳で生存2,060万円(退職金)
谷口健一約1億8,900万円課長38年(60歳定年)2026年現在、67歳で生存2,090万円(退職金)
高梨実約1億9,800万円課長(48歳で専任職)31年(53歳で退職)2026年現在、63歳で現役(週4勤務)1,660万円(退職金)
宮田徹約1億6,200万円次長33年4ヶ月(在職死亡)2021年8月、55歳で死去(在職中)約7,770万円(死亡退職金+生命保険+団信)

2位/8人

宮田が家族に残した額は、8人中2番目に多い

33年4ヶ月

8人中、最も短い勤続年数で、その額に達している

⑥ 誰も悪くない

📎 解説:悪役がいないまま、55歳で終わった

会社は在宅勤務の環境を用意し、死亡退職金を割増で払った。就業規則にある手続きを、通常どおりに進めただけである。病院は感染対策として必要な面会制限を敷いた。それによって妻の面会は週1回15分に限られたが、これは病院の悪意ではなく、当時の状況下で求められた措置である。膵臓がんは初期症状が乏しく、早期発見が難しいがんとして知られている。「もっと早く検査していれば」という読み方は、この病気の性質に合わない。

会社にも、病院にも、本人にも、名指しできる過失は無い。それでも、33年4ヶ月勤めた次長は、55歳で在職のまま終わった。悪役を探しても見つからないまま、この記事は終着点に着く。

この記事は「命が大事」とも「後悔のない生き方を」とも言わない。言うのは、同じ会社に33年4ヶ月いた人間の家族が、彼が死んだ日に初めてまとまった金を受け取った、という事実だけである。その事実をどう読むかは、この記事の役割ではない。

この記事が言っていないこと

・宮田は不運な犠牲者だった、という読み方はここでは成立しない

・会社が悪い、という読み方も成立しない(在宅勤務を用意し、死亡退職金を割増で払っている)

・病院が悪い、という読み方も成立しない(面会制限は感染対策として必要な措置だった)

・「もっと早く検査していれば」——膵臓がんは早期発見が難しく、本人の落ち度ではない

・「だから死んでよかった」——この記事はこの読み方を、最も強く拒否する

→ 次のSection 12では、田村稔の同期820人のピラミッドにある「途中で辞めた・転籍・病気離脱・死亡 161人」の層を扱う。

📊 161人の層 — 定年に着かない確率

このセクションの3点

① 田村稔の同期820人のピラミッドには「途中で辞めた・転籍・病気離脱・死亡 161人(19.6%)」という段がある。5人に1人がここに入るのに、シリーズが12本を数えるまで、誰もこの段の人生を書いていなかった

② この161人の中身は一様ではない。自己都合退職・転籍・病気離脱・在職死亡は、それぞれ別の出来事である。宮田徹は、そのうちの在職死亡という1つの分類に属する1人でしかない

③ これまでの記事は全員「定年まで勤め上げた人」か「途中で降りたが生きている人」だった。物語は完走した人間に偏り、完走しなかった人間は比較の表から消える。この記事はその偏りを自己申告するために追加した

① 820人のピラミッドを、もう一度置く

到達点人数割合到達年齢の目安
取締役以上3人0.4%52歳
部長41人5.0%47歳
次長98人12.0%49歳
課長246人30.0%43歳
課長になれず(係長・主任で終わる)271人33.0%
途中で辞めた・転籍・病気離脱・死亡161人19.6%

161人

田村と同じ1970年入社の同期のうち、この段にいる人数

19.6%

約5人に1人が、定年という終着点に到達しない

このピラミッドは「サラリーマン1」の田村稔の記事で最初に提示された。取締役以上3人、部長41人、次長98人、課長246人、課長になれず271人——ここまでの5段は、全員が定年まで在籍したという前提の上に並んでいる。最後の段だけが、その前提の外にある。161人、19.6%。この段にいる人には、そもそも「到達年齢」という項目が無い。到達する前に、別の理由で線が切れているからである。

② 161人は、1種類ではない

📎 解説:161人の中身は一様ではない

「途中で辞めた・転籍・病気離脱・死亡」という1行の統計は、少なくとも4種類の異なる出来事を1つの箱にまとめている。自己都合退職は、本人の判断で会社を離れること。転籍は、籍そのものが別会社へ移り、本体には戻れなくなること(田村自身も54歳で転籍している。ただし田村は転籍後も定年まで勤め上げているため、田村はこの161人には含まれない)。病気離脱は、心身の不調により勤務を続けられなくなること。在職死亡は、退職や離脱を経ずに、在籍のまま死亡すること。

宮田徹は、このうち在職死亡という1つの分類に属する1人でしかない。161人のうち、宮田と同じ経緯を辿った人数がどれだけいるかは、このピラミッドの統計からは分からない。分かるのは、宮田のような終わり方が、この段の中に存在する複数の経路の1つだということだけである。

③ シリーズの構造的な偏り — この記事の核

このシリーズは、田村稔(次長・定年)、北原誠一(取締役・定年後も継続)、柴田正三(係長28年・定年)、森康彦(部長・定年)、中村正巳(課長・定年)、谷口健一(課長・定年)、高梨実(課長・53歳で自己都合退職、2026年現在も現役)という順で書かれてきた。この7人には共通点がある。全員、2026年現在まで生きている。

7人のうち6人は定年まで勤め上げ、1人(高梨)は途中で降りたが、その後の人生を自分の言葉で語れる状態にある。物語は、完走した人間か、完走しなかったが生きている人間のどちらかに偏っていた。途中で命を落とした人間の人生は、この7本のどこにも入っていない。

📎 解説:完走しなかった人間は、比較の表から消える

これまでの記事に出てきた比較の指標——生涯賃金、退職金、65歳時点の金融資産——は、どれも65歳まで生きていることを前提にした物差しである。65歳時点の金融資産という指標は、65歳に到達しなかった人間には、そもそも当てはめることができない。生涯賃金という指標も、勤続年数が長いほど積み上がる仕組みであり、33年で終わった人間は、44年勤めた人間と同じ土俵に立てない。

55歳で死んだ人間は、その物差しの上に乗らない。乗らないという理由だけで、比較の表から静かに外れていく。これは意図的な排除ではなく、指標の設計そのものが、完走者を前提にしているために起きる。この記事を追加したのは、その前提そのものを一度、正面から書くためである。

④ この記事を追加した理由

このシリーズは当初12人で構成する計画だった。しかし12人シリーズを組んだ時点で、田村の同期820人のうち19.6%、約5人に1人が定年に到達していないという数字だけが、記事の外に置かれたままになっていた。読者からの要望を受けて、13人目としてこの層を追加した。

宮田徹という1人の在職死亡だけで、161人の全体を説明することはできない。それでも、19.6%という段に一度も人物を置かなかった状態で12本を終えるより、その段のうちの1つの経路だけでも書いたほうが、このシリーズが最初に示したピラミッドに対して、少しだけ正直になれる。

→ 次のSection 13では、続編で書く残り5人の予告と、高校生レビューを置く。

📚 残り5人の予告と、高校生レビュー

このセクションの3点

① シリーズはこの記事で13人目まで進んだ。残る5人(#8〜#12)は、早期退職・転職・世代間の詰まり・公務員との構造比較・氷河期という、まだ扱っていない分岐軸を1人1本で検証する

② #12・氷河期型(1996年入社・同期290人)は、少数精鋭のはずの世代が上のポスト詰まりで42歳まで課長になれない分岐であり、シリーズはここで当初計画の12人を揃える

③ 膵臓がん・死亡退職金・団体信用生命保険など、この記事に出てきた用語を高校生の視点で開き、この記事の限界(モデル人物であること、金額が構成値であること)を先に書いておく

① 続編で書く残り5人 — 分岐点はどこにあるか

#人物(分岐タイプ)入社年・世代田村と分かれる地点終着点
8早期退職型 — 割増退職金を取って降りた1985年入社・バブル前夜48歳(2011年)。早期退職優遇制度に応じた割増込みで退職金3,400万。ただし再就職で年収が半減し、10年で使い切る
9転職型 — 1社完結モデルの対照群1988年入社・バブル入社組42歳。外資系メーカーへ転職生涯賃金は田村の1.6倍。ただし54歳で1度、59歳で1度、職を失う
10詰まり型 — 同期が多すぎた世代1988年入社・バブル入社組入社時点。同期1,240人。上の団塊がポストを空けない課長就任が52歳。役職定年55歳まで、課長でいられたのは3年
11公務員型 — 民間との構造比較1974年入省・しらけ世代入口から別制度。給料表・級号俸・共済年金ピーク年収は民間より低いが、下がり方が緩やかで、退職後が最も安定
12★氷河期型 — 入口が3分の1に絞られた世代1996年入社・氷河期第一波入社時点。同期290人。少数精鋭だが上が全員詰まっている42歳で初めて課長。定年は65歳、実際には70歳まで働く見込み

#12・氷河期型は、宮田徹とは別の意味で構造的である。宮田の分岐点は入社22年後の病気だったが、#12にとっての分岐点は入社した年そのものである。同期を290人まで絞られたにもかかわらず、上の世代のポストが空かず、42歳まで課長になれない。人数が少なければ道が開くという直感は、この世代でも成立しない。#10・詰まり型(同期1,240人)とは反対の人数条件でありながら、同じ「上が詰まって動けない」という結果に着く点も、あわせて読むと分かりやすくなる。

② 高校生レビュー — ここが分かりにくかった、という自己申告

分かりにくい点なぜ分かりにくいか補足
膵臓がんはなぜ早期発見が難しいのか「がん」と一括りに見えて、発見のしやすさが臓器ごとに大きく違うことが伝わらない膵臓は胃や腸の奥にあり、初期には自覚できる症状がほとんど出ない。背部痛や体重減少といった症状が出る頃には、すでに他の臓器へ転移していることが多い。これは検査を怠ったからではなく、症状そのものが出にくいという臓器の性質による
ステージIVとは何か数字が大きいほど悪いというイメージはあるが、具体的に何を指すか分からないがんの進行度を示す分類で、ステージIVは、がんが最初に発生した臓器から離れた他の臓器(宮田の場合は肝臓)に転移している状態を指す。ステージI〜IIIは主に大きさや周辺への広がりで区分されるが、IVは「遠くまで広がったかどうか」という一線を越えた段階である
死亡退職金と、普通の退職金は何が違うのか同じ「退職金」という言葉が使われているので、金額も同じように決まると思われがち普通の退職金は、勤続年数や役職に応じた計算式で決まる。死亡退職金は在職中に死亡した場合に支払われるもので、多くの会社で自己都合退職より高い係数が設定されている(宮田の場合、この割増分を含めて1,920万円になっている)。定年退職と在職死亡は、同じ表の中でも別の行として計算される
団体信用生命保険(団信)の仕組みが分かりにくい「保険」と「ローン」が別々の話に見えて、つながりが分からない住宅ローンを組む際、多くの金融機関で加入が条件になっている生命保険。契約者(宮田)が死亡すると、残っているローンの金額を保険会社が金融機関に直接支払い、住宅ローンそのものが消える。遺族が現金を受け取るのではなく、借金が無くなるという形で家計を助ける制度である
遺族厚生年金と中高齢寡婦加算の違いが分かりにくい両方とも「妻に入るお金」という括りで見えて区別しにくい遺族厚生年金は、亡くなった本人が積み立てていた厚生年金の報酬比例部分の4分の3が、遺族に引き継がれる仕組み。中高齢寡婦加算は、それに加えて、40歳以上65歳未満の妻に上乗せされる別枠の加算である。宮田の妻・奈緒は2021年時点で52歳のため、この加算の対象になる
在職死亡という扱いが分かりにくい「死亡」と「退職」がどちらも会社を離れることに見えて、区別する意味が分からない在職死亡は、退職や休職という手続きを経ずに、社員としての籍を持ったまま死亡することを指す。これにより、死亡退職金の割増や、団体信用生命保険の即時適用など、退職後の死亡には発動しない一部の制度が動く対象になる

この記事の限界(先に書いておく)

宮田徹は、田村稔・北原誠一・柴田正三・森康彦・中村正巳・谷口健一・高梨実と同じく、実在の人物ではなくモデル人物である。会社名「東亜電機」も架空であり、年収・死亡退職金・生命保険・団体信用生命保険の金額は、当時の大企業総合職を想定した制度の一般的な設計に基づく構成値であって、特定企業の実際の規程や実データではない。

この記事の狙いは、宮田個人の闘病を描くことではなく、在職中の死亡が、生存中には発動しない制度をどのように動かすかを1本の線で見せることにある。数字の1桁目まで信用する読み方ではなく、生きている間と死んだ瞬間で、制度の手厚さがどう入れ替わるかを見る読み方をしてほしい。今回も検索を使わず、既刊7本の設定と矛盾しない範囲で、概念モデルとして書いた。

→ 次は「サラリーマン8」。48歳で早期退職優遇制度に応じ、割増退職金を取って降りた人物を、同じ形式で書く。