✈️ サラリーマン4 — 14年、家にいなかった男
✍️ 執筆: Claude Opus 5
1958年生まれ、1980年に大手電機メーカーへ入社し、34歳から50歳までのあいだに福岡・広島・名古屋・バンコクへ4度の単身赴任をして、通算14年、家にいなかった男。森康彦というモデル人物の一生を22歳から現在まで書いた。2026年8月現在68歳で、シリーズで初めて主人公が生きている。だからこの記事だけは死で終わらない。そして彼は後悔していない。単身赴任は出世の代償ではなく出世の手段で、彼は同期940人のうち47人しかいない部長になった。どの1回の判断も、その時点では正しかった。にもかかわらず14年分が積み上がったとき、家の中に彼の場所は無くなっていた。長男が0歳から22歳までのあいだ、父が家にいたのは8%である。
✈️ この記事は何か — 彼は後悔していない。そして出世している
このセクションの3点
① これは12人シリーズの4人目。森康彦(もり やすひこ)は1980年入社、大卒総合職940人の同期を持ち、単身赴任と海外駐在で通算14年、家にいなかった
② これは後悔の物語ではない。森は最後まで後悔しないと言う。そして森は出世している。単身赴任は出世の代償ではなく、出世の手段として機能した
③ 4人目にして初めて、主人公は生きている。2026年8月現在、森は68歳。田村・北原・柴田は全員すでに死んでいる
このシリーズの登場人物 — 同じ会社を生きた8人
登場人物 — 名前をクリックすると、その人の言葉が開きます
🏢 1. 田村 稔 中央値型 — 勝ちでも負けでもない 1970年入社・同期820人/到達=次長(上位17%)。部長には届かなかった
生涯賃金 約2億1,400万円/2035年・87歳没。要介護7年 記事を読む → 開く ▾
静岡の農家の次男で、家を出るしかなかった。入社の日、駅で父が黙って万年筆をくれた。パイロットの、安いやつだ。定年の日まで机の引き出しにあった。
玄関の柱に子どもの背を刻んだ線がある。健一の線は一九九三年で止まっている。
四十二で課長になった年が、いちばんよかった。まあ、そういうもんだ。
🖋️ 2. 北原 誠一 出世型 — 同期820人で3人 1970年入社・同期820人(田村と同期)/到達=取締役(0.4%)→ 子会社社長
生涯賃金 約4億9,000万円/2037年・89歳没 記事を読む → 開く ▾
入社式で隣に座ったのが田村だった。同じ大学を出て、同じ日に辞令を受け取った。私の紙には本社人事部と書いてあり、彼の紙には神奈川工場と書いてあった。
二〇〇二年、転籍のリストに彼の名前があった。私は手を止めて、判を押した。震えはしなかった。
それは、そういう仕組みだ。
🔧 3. 柴田 正三 停滞型 — 係長のまま28年 1958年入社・高卒技能職340人/到達=係長(30歳)。そこから28年動かず
生涯賃金 約1億4,900万円(田村の約7割)/2032年・92歳没。要介護1年2ヶ月・自宅で 記事を読む → 開く ▾
新潟から出てきて、旋盤の前に立った。二十二で試験に受かって技術職になった年を、私は二度目の入社と呼んでいる。ノギスはそのとき自分で買った。
三十で係長になった。同期でいちばん早かった。そのあと二十八年、何も動かなかった。課長の椅子が空いたとき、座ったのは大卒の三十四だった。
寸法は合っとる。
✈️ 4. 森 康彦(この記事の主人公) 単身赴任型 — 通算14年、家にいなかった 1980年入社・同期940人/到達=部長(47人/940人=5.0%)
生涯賃金 約2億9,600万円/2026年8月現在68歳・存命 開く ▾
福岡、広島、名古屋、バンコク。四回出て、合わせて十四年、家にいなかった。断れた回もある。断らなかった。
帰るたびに家のルールが少し変わっていた。茶碗が食器棚の奥に移り、鍵が替わり、私の部屋が息子の部屋になった。帰任したら食卓の椅子が三脚しか出ていなかった。
まあ、なんとかなる。あれは必要な十四年だった。
🏠 5. 中村 正巳 家庭優先型 — 転勤を断った(#4の対照群) 1980年入社・同期940人(森と同期)/到達=課長(286人/940人=30.4%)
生涯賃金 約1億8,600万円(森の63%)/2026年8月現在68歳・存命 記事を読む → 開く ▾
一九九六年、九州支店の課長への内示を断った。妻の母が倒れて、代わりが立たなかった。三日考えて、手順を全部書き出して、代わりの立たない箇所が一つ残った。それだけの話だ。
断ったのは一回きりだ。二度目は聞かれなかった。介護は三年で終わったが、そのあと十九年、話は来なかった。
家族はこのことを知らない。言うことでもない。それでいい。
🫀 6. 谷口 健一 健康維持型 — 変数は45歳の一点だけ(対照実験) 1980年入社・同期940人(中村と同期・生涯賃金差300万円)/到達=課長。中村とほぼ同じ経路
生涯賃金 約1億8,900万円/2026年8月現在67歳・存命/推計87歳没・要介護1年半 記事を読む → 開く ▾
私の最初の指導係は田村さんだった。図面は嘘をつかん、と教わった。あの言葉は柴田さんから田村さんに渡ったものだと、後で知った。
二〇〇三年、同じ部署の柏木さんが心筋梗塞で倒れて、戻ってこなかった。数日後、机が片付けられていた。私はそれを自分の席から見ていた。翌月から煙草をやめて、朝三十分歩き始めた。
理由を聞かれても、続けとるだけですとしか答えない。
🌥️ 7. 高梨 実 メンタル離脱型 — 3ヶ月休んで、戻る場所が無かった 1985年入社・同期1,180人/到達=課長 → 53歳で自己都合退職
生涯賃金 約1億9,800万円(65歳時の資産は7人中最下位)/2026年8月現在63歳・週4日勤務中 記事を読む → 開く ▾
二〇〇八年の十月、月次の締めで数字が合わなかった。三度やり直しても合わなかった。合わないのは、自分の入力だった。
三ヶ月休んだ。制度は全部あった。復職もできた。ただ、戻る席が無かった。応援という名前の出向が、期限を書かれないまま七年続いた。
誰も私を辞めさせていない。帳尻は合います。
🚪 8. 岡部 昭夫 早期退職型 — 410万円で17年を売った 1985年入社・同期1,180人(高梨実と同期)/到達=課長。次長には届かなかった/2011年・48歳で希望退職に応募
生涯賃金 約9,000万円(前提つき試算・田村の約42%)/受取 約2,600万円/2026年8月現在63歳・部品商社(従業員80人)・年収410万円 記事を読む → 開く ▾
募集が出る一週間前、閉まっている食堂で部長に言われた。今回、対象に名前が入っている、と。それだけである。辞めろとは言われていない。
三週間、封筒を鞄に入れて出勤して、持ち帰った。二十一回出さなかった。二十二回目に出した。
あれは自分で決めたことです。十五年、そう言っている。妻には、あの面談のことを言っていない。
✈️ 9. 黒木 洋一 転職型 — 生涯賃金では勝った 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・相原修司と同期)/到達=東亜電機では係長 → 2010年44歳で外資へ/外資で部長級
生涯賃金 約2億4,000万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,380万円/2026年8月現在60歳・業務委託・年収420万円(ピークの約30%)/退職金ほぼ無し 記事を読む → 開く ▾
二〇一〇年、課長の内示が同期の別の人間に出たと聞いた。能力の差だとは思わなかった。あいつのいた部署は、その年に課長が定年になっていた。それだけである。
翌週、転職の登録サイトを開いた。六百九十万だった私が、隣の会社では千百五十万になった。あれが自分の値段だと思った。
今なら言える。あれは私の値段ではない。あの事業が伸びていた年の、あの会社が払えた額である。
⏳ 10. 相原 修司 詰まり型 — 30年待って、3年だけ課長 1988年入社・同期1,240人(宮田徹・黒木洋一と同期)/到達=課長(52歳で就任)→ 55歳で役職定年。課長でいられたのは3年
生涯賃金 約2億800万円(田村稔の約97%)/2026年8月現在60歳・役職なし・年収580万円/2031年65歳定年・通算43年 記事を読む → 開く ▾
二〇一〇年、黒木に一緒に受けてみないかと誘われた。子どもがまだ小さいから、と断った。上の子は中学二年である。小さくはない。
本当は、外で自分の値段がつくのが怖かった。会社の中にいれば、私の価値は係長という文字で表される。誰も金額では言わない。
三十年待って課長になった。辞令の紙には、三年後に返す日付が最初から入っていた。妻には言っていない。
🏛️ 11. 森田 克彦 公務員型 — 最も揺れなかった/唯一の非民間 1975年・23歳で国家公務員採用(行政職俸給表(一))/到達=課長(45歳)。そこから15年、級は動かなかった
生涯賃金 約2億2,900万円(田村稔 約2億1,400万円を上回る)/ピーク年収1,050万円/2012年60歳で定年→再任用→2017年65歳で終了/2026年8月現在74歳・年金で生活が成立 記事を読む → 開く ▾
採用の日に給料表を見せられた。あなたはここです、と指をさされて、上に行くとこうなります、と指を動かされた。安心したのは、その表に「景気」という欄が無かったからである。
二十八のとき、妻になる人に同じ紙を見せた。これって上がらないこともあるの、と聞かれて、無い、と答えた。五十のとき、号俸は上がっているのに年収が減った。表そのものが下がっていた。
四十六年たつが、二十八のときの説明を、私はまだ訂正していない。
🪑 12. 藤井 亮太 氷河期・正社員型 — 内定は1社だけだった 1996年入社・同期290人(シリーズ最少。1988年入社1,240人の約23%)/到達=課長(58人/290人=20.0%)。到達は42歳
生涯賃金 52歳時点の累計 約1億2,600万円/48年働く見込み/2026年8月現在52歳・課長・年収860万円/2029年55歳で役職定年 記事を読む → 開く ▾
三十年、誰にも言っていないことがある。私の内定は、一社だけだった。妻にも同期にも言っていない。言えば、私の三十年の説明が変わるからである。
二〇〇八年の十二月、部長に「一階、どこから減らせる」と聞かれた。どの工程が余っているかは、私がいちばん正確に知っていた。私は、本社が決めることです、と答えた。
十年ポストが動かなかったという話と、自分が選ばれて入ったという話を、私は一度も同じ机の上に並べたことがない。
🕰️ 13. 宮田 徹 在職死亡型 — 定年に着かなかった 1988年入社・同期1,240人(シリーズ最多)/到達=次長(112人/1,240人=9.0%)
生涯賃金 約1億6,200万円(33年4ヶ月で終わった)/2021年8月・55歳で在職死亡 記事を読む → 開く ▾
私の最初の指導係は森さんだった。三日目に見積書を突き返された。これは誰が読む、と聞かれて、お客さんです、と即答した。違う、最初に読むのはうちの経理だ、と言われた。
それから三十三年、相手の背後にいる人間の顔を先に読んで生きた。その才能で次長になった。同じ才能で、この会社を一度も疑わなかった。
この病室は九時に電気が消える。会社にいた頃、九時はまだ夕方だった。
🧊 14. 大野 修 氷河期・非正規型 — 名簿に一度も載らなかった 1996年3月・国立大学卒/内定ゼロ(大卒求人倍率1.08倍)。正社員になったことが一度もない/到達=到達なし。アルバイト7年 → 製造派遣4年半 → 契約社員
生涯賃金 52歳までの累計 約7,900万円(藤井の63%・田村の生涯賃金の37%)/2026年8月現在52歳・契約社員・年収290万円/年金見込み月7〜8万円台 記事を読む → 開く ▾
二十二の春に、三十七通の不採用通知を受け取った。理由はどれにも書いていなかった。同じゼミの藤井は一社受かった。一社だけだったと知るのは、ずっとあとである。
二〇〇四年から二〇〇八年まで、神奈川の工場にいた。柴田さんが旋盤を教え、田村さんが図面を引いた建物だ。あの三人は名簿に載っている。私は載らない。派遣だからである。
名簿から消えるためには、まず載っていなければならない。
🌗 15. 矢部 直子 均等法第一世代 — 23.9%の側にいた/シリーズ唯一の女性 1986年4月・均等法の施行と同月に総合職入社。同期の総合職女性は4人/到達=課長(44歳)→ 次長(56歳)/38年間、一度も辞めていない
生涯賃金 約1億7,900万円(大卒女性の生涯賃金は全国推計で男性の78.4%・差7,080万円)/2024年60歳で定年→再雇用/2026年8月現在62歳・年収480万円 記事を読む → 開く ▾
一九九〇年に一人目を産んだとき、就業規則を二回読んだ。一回目は、見落としたのだと思ったからである。産前産後の休業は書いてあった。その先が無かった。
三ヶ月で戻った。三ヶ月にした理由は、体調でも家庭の事情でもない。それ以上休む根拠が、どこにも書いていなかったからである。育児休業法が公布されたのは、その翌年だった。
制度が無いというのは、休めないという意味ではなかった。休んだあと、元に戻す手続きが無いという意味だった。
名前をクリックすると、その人物の言葉が開きます。全員が同じ会社(東亜電機)に勤めた設定で、入社年と分岐だけが違います。
森康彦(もり やすひこ、モデル人物・仮名)は、田村・北原・柴田と同じ東亜電機で働いた男である。ただし4人目は、前の3人と場所の動き方が違う。サラリーマン1の田村稔、サラリーマン2の北原誠一、サラリーマン3の柴田正三は、全員1つの工場か1つの本社にとどまり続けた。森は違う。34歳で福岡へ転勤し、以後、広島・名古屋・バンコクと拠点を移しながら、通算14年、家族の元を離れて暮らした。
先に言っておく。この記事は「家族を犠牲にした男の後悔」ではない。森は後悔していない。それがこの記事の核である。単身赴任は会社が悪意でやったことではなく、当時それは出世コースの正規ルートだった。家族を連れて行かなかったのも、妻の美佐と本人が合意して決めたことだった。子の転校を避けるためである。どの1回の判断も、その時点では正しかった。にもかかわらず、14年分が積み上がったとき、家の中に彼の場所は無くなっていた。60歳で定年を迎え家に戻ったとき、森は自分の家で客だった。
この記事の主題は「不在は、どこから取り返しがつかなくなるのか」である。そして森は出世している。3人の誰よりも高いポストに就く(北原を除く)。単身赴任は損失ではなく、部長という到達点を作った側面がある。だからこの記事は「損をした男」の話ではない。もう1つ、前3人と決定的に違う点がある。森は、2026年8月現在68歳で生きている。田村・北原・柴田の3人はすでに死んだ後から人生を振り返る記事だったが、この記事だけ、主人公が今も答えを確定させていない。
高校生のための前提知識6語
| 用語 | 意味 | なぜこの記事で重要か |
|---|---|---|
| 単身赴任手当 | 転勤先に家族を伴わず単身で赴任した社員に、生活費の増加分として会社が支給する手当 | 森はこれを14年分、通算約1,140万円受け取っている。年収を押し上げる一因になった |
| 海外駐在手当 | 海外の拠点に赴任した社員に、生活水準の差や治安リスクを補うために支給される追加の手当 | 森は2008〜2012年のバンコク駐在でこれを受け取り、この期間に生涯ピークの年収に達した |
| 借り上げ社宅 | 会社が物件を借り上げ、社員に貸与する形の住宅。家賃の大半を会社が負担する | 森が4都市で暮らした部屋はすべて借り上げ社宅で、カーテンまで同じ既製品だった |
| 役職定年 | 一定の年齢に達すると、それまでの管理職の役職から外れる社内の制度 | 森の会社では55歳が本来の役職定年だが、部長職には58歳までの猶予があった |
| 専任部長 | 部長の肩書と一定の待遇を残したまま、以後の昇進や役職権限の対象から外れる社内の身分区分 | 森は58歳でこれに転換し、年収が約25%下がった |
| 帰省旅費 | 単身赴任者が家族のもとへ帰るための交通費を会社が負担する制度 | 会社は旅費を出したが、帰省にかかる休暇の「時間」は本人の有給休暇から出ていた |
→ 次のSection 2では、この記事の答えとなる数字——14年、約1,000日、20%、そして8%を先に出す。
⚖️ 【答え】14年の実数 — 家にいたのは20%、長男の22年では8%
このセクションの3点
① 森は1992〜2012年の間、断続的に4回・通算14年の単身赴任・海外駐在を経験した。14年間の帰宅日数の合計は約1,000日で、家にいた割合は約20%
② 長男の翔(1990年生)が0歳から22歳になるまでの間、森が家にいたのは約660日、割合にすると約8%
③ どの1回の判断も、その時点では正しかった。にもかかわらず14年分が積み上がった。これは判断の失敗ではなく、判断が積分された結果である
14年
単身赴任・海外駐在の通算期間(1992-96/1998-2001/2003-06/2008-12)
約1,000日
14年間の帰宅日数の合計
20%
14年=5,110日のうち、家にいた割合
8%
長男・翔が0歳から22歳になるまでの間、森が家にいた割合
| 期間 | 赴任地 | 年数 | 帰宅頻度 | 年間の帰宅日数 | その間の子の年齢 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1992-96 | 福岡 | 4年 | 月1回・2泊 | 約24日 | 彩5→9歳、翔2→6歳 |
| 1998-2001 | 広島 | 3年 | 月2回・2泊 | 約48日 | 彩11→14歳、翔8→11歳 |
| 2003-06 | 名古屋 | 3年 | 隔週・2泊 | 約52日 | 彩16→19歳、翔13→16歳 |
| 2008-12 | バンコク | 4年 | 年3回・各5日 | 約15日 | 彩21→25歳、翔18→22歳 |
「どの1回の判断も、その時点では正しかった。」1992年、彩の小学校入学の年に家族を連れて行かなかったのは、転校を避けるための合意だった。1998年、彩の中学受験の年に再び家族を置いたのも同じ理由である。2003年の名古屋行きを断れば、部長という到達点は無かった。2008年のバンコク行きは、リーマン後に国内営業が縮小するなかでの会社の生存戦略だった。1つずつ見れば、どれも筋の通った選択である。
📎 解説:8%という数字がこの記事で最も強い
14年で家にいた割合の20%は、単身赴任という働き方を知っていれば驚く数字ではない。しかし8%は別種の数字である。これは会社の制度の話ではなく、1人の子どもが父親と暮らした時間の話になる。翔が生まれてから22歳になるまでの8,030日のうち、森が家にいたのは約660日だった。これは森が悪意で作った数字ではなく、4回の判断がそれぞれ正しかった結果として積み上がった数字である。この記事はこの後、なぜ「正しい判断の合計」が8%を作ったのかを、順番に見ていく。
→ 次のSection 3では、森の年収推移と、田村・北原・柴田を含む4人の生涯の収支を比較する。
💴 年収と、4人の収支 — 8,200万円多いのに資産は640万円しか違わない
このセクションの3点
① 森の年収は単身赴任手当・海外駐在手当に支えられて伸び、2010年のバンコク駐在中に生涯ピーク1,430万円に達する。50歳で部長になり、同期940人のうち47人(5.0%)に入った
② 生涯賃金は田村より約8,200万円多い約2億9,600万円。しかし65歳時点の金融資産は田村より640万円しか多くない
③ 差が縮まる理由は3つ。14年分の二重生活、バブル最盛期に買った家の資産価値の下落、子2人の私立教育費
| 西暦 | 年齢 | 役職 | 年収 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1980 | 22 | 平社員 | 195万円 | 初任給 月11.4万円 |
| 1985 | 27 | 平社員 | 340万円 | 結婚 |
| 1989 | 31 | 主任 | 520万円 | バブル。船橋に4,850万円の家 |
| 1992 | 34 | 係長 | 640万円 | 福岡へ単身赴任。単身赴任手当 月6.8万円が加算 |
| 1996 | 38 | 係長 | 700万円 | 帰任 |
| 1999 | 41 | 課長 | 840万円 | 広島赴任中に昇進 |
| 2005 | 47 | 課長 | 880万円 | 名古屋赴任中 |
| 2008 | 50 | 部長 | 1,150万円 | 同期940人のうち部長は47人(5.0%) |
| 2010 | 52 | 部長(バンコク駐在) | 1,430万円 | 海外駐在手当込み。生涯ピーク |
| 2013 | 55 | 国内営業統括部長 | 1,180万円 | 帰任。役職定年はこの会社では55歳だが、部長は58歳まで猶予 |
| 2016 | 58 | 専任部長 | 890万円 | 役職を外れる。▲25% |
| 2018 | 60 | 定年 | — | 退職金 2,980万円 |
| 2019 | 61 | 嘱託(週3) | 320万円 | |
| 2023 | 65 | 完全引退 | 0円 |
📎 解説:単身赴任手当と海外駐在手当が生涯賃金を押し上げた
14年分の単身赴任手当の総額は約1,140万円になる。これは帰省旅費とは別の手当である。2008年からのバンコク駐在では海外駐在手当が加わり、2010年に生涯ピークの1,430万円に達した。森の年収が3人の中で突出して伸びたわけではないが、家を離れた期間そのものが、収入面では加算要因として働いていたことになる。
4人の生涯収支を並べる
| 項目 | 森康彦 | 田村稔 | 北原誠一 | 柴田正三 |
|---|---|---|---|---|
| 生涯賃金 | 約2億9,600万円 | 約2億1,400万円 | 約4億9,000万円 | 約1億4,900万円 |
| 退職金 | 2,980万円 | 2,170万円 | 9,200万円 | 1,240万円 |
| 65歳時点の金融資産 | 3,120万円 | 2,480万円 | 1億1,200万円 | 1,880万円 |
| 到達役職 | 部長 | 次長 | 取締役 | 係長 |
森は田村より生涯賃金が8,200万円多いのに、65歳時点の金融資産は640万円しか多くない。森3,120万円、田村2,480万円。もらった額の差は、資産の差としてほとんど残らなかった。
📎 解説:8,200万円が640万円に縮む3つの理由
1つ目は14年分の二重生活である。赴任先の住居費は借り上げ社宅として会社が負担したが、光熱費・食費・帰省の実費は家庭側にも二重に発生した。2つ目は住宅である。森は1989年、バブル最盛期に船橋の建売住宅を4,850万円で買ったが、2020年の売却時査定は2,180万円まで下がった。3つ目は教育費である。長女の彩は4年制私立文系、長男の翔は私立理系6年(修士まで)に進み、2人の教育費は合計で約2,900万円かかった。単身赴任手当で積み上げた収入は、この3つの出口から出ていった。
→ 次のSection 4では、森康彦という人物の設定と、家族のその後、同期940人のピラミッドを見る。
👤 森康彦という人物
このセクションの3点
① 森康彦は1958年生まれ、新人類世代。1980年に東亜電機へ大卒総合職として入社し、最初から本社勤務で、工場を知らない
② 同期940人のうち部長に到達したのは47人、5.0%。定年後は嘱託で65歳まで勤め、2026年8月現在68歳で存命
③ 妻・美佐は森の不在の14年でコーラスとパートの経理職を持ち、自分の生活を作った。長男・翔とは正月に1回、30分以上続けて話したことがない
| 項目 | 値 |
|---|---|
| 生年月 | 1958年(昭和33年)4月。新人類世代 |
| 出身 | 愛知県豊橋市。父は市役所職員。次男 |
| 学歴 | 1976年 県立高校 → 1980年 私立大学 商学部 |
| 入社 | 1980年(昭和55年)4月。東亜電機。大卒総合職の同期940人 |
| 初配属 | 東京本社 国内営業部。最初から本社。工場を知らない |
| 結婚 | 1985年(27歳)。相手は同じ大学の後輩・美佐(1961年生)。結婚時は都市銀行の一般職、1986年に退職 |
| 子 | 長女 彩(1987年生)、長男 翔(1990年生) |
| 持ち家 | 1989年(31歳)、千葉県船橋市に建売4,850万円。バブル最盛期に買う。35年ローン |
| 単身赴任・海外駐在 | 1992-96福岡/1998-2001広島/2003-06名古屋/2008-12バンコク。通算14年 |
| 到達役職 | 主任(30)→係長(35)→課長(41)→部長(50・2008年)→帰任後は国内営業統括部長 |
| 定年 | 2018年(60歳)。この年に家に完全に戻る |
| 再雇用〜完全引退 | 2018〜2023年(60〜65歳)嘱託・週3日勤務。2023年完全引退 |
| 現在 | 2026年8月現在、68歳。生きている |
同期940人
1980年入社
部長47人
5.0%
4都市9年
福岡・広島・名古屋・バンコク
家族のその後
| 人物 | 2026年現在 | 森との関係 |
|---|---|---|
| 美佐(1961年生) | 65歳、健在 | 森の不在中、地域のコーラスとパートの経理職で自分の生活を作った。2018年に森が定年で戻ったとき、彼女の生活は既に完成していた。離婚はしない |
| 彩(1987年生) | 39歳。2013年結婚、横浜在住、子2人 | 森と普通に話す。ただし相談事は美佐にしかしない |
| 翔(1990年生) | 36歳、独身、京都在住 | 年に1回、正月に帰る。森とは30分以上続けて話したことがない |
📎 解説:森は翔との関係を問題だと思っていない
森は翔との距離を「男の子はそんなもんだ」と言う。本人にとってこれは特に気になる話ではない。解説の側だけが、翔が0歳から22歳になるまでの間、父が家にいたのが約8%だったことを知っている。この数字は森の一人称には出てこない。彼はそれを数えていないし、数えたこともない。
→ 次のSection 5では、森の一人称で1980年入社から1991年までの本社時代を追う。
🏙️ 1980-91 22歳から33歳 — 本社の営業マン
このセクションの3点
① 1980年、22歳の森康彦は東亜電機に入社し、最初から東京本社の国内営業部に配属された。同期940人のうち、工場を一度も経験せず本社に直接入ったのが森である。田村・柴田がいずれも最初に工場を経験しているのと正反対の出発点だった。
② 1985年、同じ大学の後輩・美佐と結婚。美佐は都市銀行の一般職として働いていたが、1986年に退職した。1987年に長女・彩、1990年に長男・翔が生まれる。
③ 1989年、31歳。バブル最盛期に千葉県船橋市の建売住宅を4,850万円、35年ローンで購入した。1991年、営業所の空気が少しずつ変わり始める。
1980年。二十二歳。
入社式の朝、名簿を読み上げる声を聞きながら、自分の名前の後ろに続くのが「国内営業部」だと分かった。前の列で名前を呼ばれた男は「生産技術部」とだけ告げられ、白い作業着の説明を受けに、別の部屋へ連れて行かれた。私は背広のまま、本社の営業フロアに案内された。窓際から三列目に机が一つ、電話が一台。工場の匂いというものを、私はまだ知らない。先輩は机を見て「お前、悪くない場所をもらったな」と笑った。悪いことだとは、少しも思わなかった。
📎 解説:940人のうち、工場を知らない配属
1980年、東亜電機に入社した大卒総合職は940人だった。田村稔(1970年入社)と柴田正三(1958年入社)は、いずれも最初に工場の生産技術部を経験している。森康彦は、この940人の中で本社の国内営業部にそのまま配属された一人であり、工場をまったく経験しないまま社会人生活を始めている。当時の総合職配属は営業・企画・生産技術など複数のルートに分かれており、どのルートに乗るかは本人の希望よりも会社側の需要で決まることが多かった。この配属の違いが、森と前3人の経歴の形を分ける最初の分岐点になる。
営業というのは、結局のところ、人を覚える仕事だった。取引先の担当者の顔と名前はもちろん、奥さんの誕生日や、子どもが今どこの学校に通っているかまで、手帳の端に書いておく。次に会ったときにその一言を挟むと、相手の肩の力がすっと抜けるのが分かった。先輩からは「商品の前に人を売れ」と教わった。性に合っていたのだと思う。得意先を回る道すがら、まあ、なんとかなる、と独り言のように呟く癖がついたのも、この頃だった。
📎 解説:法人営業という「関係資本」の仕事
1980年代の法人営業では、価格や性能の説明よりも先に、担当者個人との関係を作ることが重視される場面が多かった。接待の頻度や、相手の私生活まで踏み込んだ会話は、当時の営業文化の中でごく一般的な手法である。森が身につけた「人を覚える」スタイルは、単なる人当たりの良さではない。後年の転勤先での交渉や社内調整でも機能する、彼の実質的な仕事の技術になる。
| 西暦 | 年齢 | 役職 | 年収 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1980 | 22歳 | 平社員 | 195万円 | 初任給 月11.4万円 |
| 1985 | 27歳 | 平社員 | 340万円 | 結婚 |
| 1989 | 31歳 | 主任 | 520万円 | バブル。船橋に4,850万円の家 |
1985年。二十七歳。
結婚を決めたのは、同じ大学のサークルの後輩だった美佐との、何度目かのデートの帰り道だった。彼女は都市銀行の窓口に立ち、いつも背筋が伸びていた。両親への挨拶は、拍子抜けするほど早く済んだ。式を終えてからも彼女はしばらく窓口に立っていたが、ある晩、夕食の途中で「そろそろ辞めようと思う」とだけ言った。反対する理由は見つからなかった。彼女の中では、もう決まっている話だった。
📎 解説:美佐が退職した1986年という年
美佐が退職したのは1986年、男女雇用機会均等法が施行された年である。この法律は総合職女性のキャリア継続を後押しする目的で作られたが、当時の一般職女性の大多数は、結婚や出産を機に退職する慣行の中にいた。美佐の退職も、この慣行の中で本人が選んだ生活設計であり、誰かに強いられた結果ではない。この時点で森も美佐も知らないが、この6年後、森は福岡へ単身で赴任することになる。美佐がこの時期に築いた「自分の生活を自分で組み立てる力」は、後の14年間を支える土台の一つになる。
1987年。二十九歳。
彩が生まれた日、産院の待合室で、隣の椅子に座っていた同僚に土産の菓子を渡された。何をどう言えばいいのか分からず、とりあえず礼を言った。抱いてみると、想像していたより軽かった。名付けは美佐と何日も話し合って決めた。仕事のほうは、ちょうど大きな商談が動いていて、休みを取ったのは短い期間だけだった。それで足りると、当時は思っていた。
1989年。三十一歳。
船橋に建売の話を持ってきたのは、営業先で知り合った不動産屋だった。土地も広く、駅からも遠くない。値段を聞いて一度は黙ったが、銀行の担当者は涼しい顔で「今はどこも同じです」と言った。契約の日、判を押す手元を美佐がじっと見ていた。返済表は、随分先まで続く数字が並んでいた。判を押しながら、特に多くは言わなかった。
📎 解説:バブル最盛期の4,850万円
森が船橋の建売を買った1989年は、地価・株価がともに最高潮にあった年である。当時の年収(520万円)に対して、住宅価格は9倍を超えていた。銀行が「今はどこも同じです」と言ったのは、当時の相場としては事実である。後年、地価が大きく下がったときに、この日の契約書が重い意味を持つことになるが、その話は先に譲る。
4,850万円
1989年・船橋の建売価格
35年
ローンの返済期間
31歳
契約時の年齢
9.3倍
当時の年収に対する住宅価格の倍率
引っ越しの荷物の中に、四人掛けの食卓が一つあった。彩はまだ一人で座れる歳ではなかったが、美佐が「そのうち埋まるから」と言って、椅子を四つ揃えた。しばらくは、空いた椅子に彩のぬいぐるみが座っていた。
1990年。三十二歳。
翔が生まれて、四人掛けの食卓の椅子が、ようやく全部埋まった。彩はまだ言葉より先に手が出る歳で、翔の泣き声に驚いて自分も泣くという日が続いた。忙しさは増えたが、営業の成績は悪くなかった。得意先回りの合間に病院へ寄って、また会社に戻るという日を何度か繰り返した。家に帰れば、四つの椅子がちゃんと埋まっている。それだけで、十分だという気がしていた。
📎 解説:男性が「休む」という選択肢がまだ無かった時代
1990年当時、男性が育児のために仕事を休むという選択肢は、制度としてもほとんど存在しなかった。育児休業法が成立するのは1991年、施行は1992年である。森の休みが短い期間で済んだのは、彼の判断というより、当時の社会全体にその選択肢自体が用意されていなかったことによる。四人掛けの食卓の椅子が揃った光景は、この記事の中でこの先、姿を変えて何度も出てくる。
1991年。三十三歳。
年明けから、営業所の空気が少し変わった。値上げの相談をしていた取引先が、急に慎重になった。今までなら二つ返事だった案件に、上が「少し待て」と言うことが増えた。特に慌てることはなかった。景気というのは、上がったり下がったりするものだと思っていた。
景気は、上がったり下がったりするものだと思っていた。
→ 次のSection 6では「1992-96 福岡」を見る。34歳の森は、家族を置いて九州へ向かう。
🍜 1992-96 福岡 — 最初の4年、年24日
このセクションの3点
① 1992年、34歳の森康彦は福岡支店へ転勤する。彩が小学校に上がる年で、家族を連れて行かない判断を美佐と合意のうえで即決した。以後4年間、単身赴任が続く。
② 帰宅は月1回・2泊が基本で、年間の帰宅日数は約24日。彩は5歳から9歳、翔は2歳から6歳になるまでの期間である。
③ 1993年に3歳の翔が母の後ろから出てこられなくなり、1995年には森の茶碗が食器棚の奥に移動している。森はいずれも「そりゃそうだ」と明るく流した。
1992年。三十四歳。
支店長から福岡行きの内示を受けたのは、春の異動が発表される少し前だった。断る理由は特に思いつかなかった。その晩、美佐に伝えると、真っ先に出たのは彩の入学の話だった。転校はさせたくない、と彼女は言った。私も同じことを考えていた。話し合いは、それほど長くはならなかった。彩の学校のことは動かせない。それで決まりだった。まあ、なんとかなる、とだけ言って、荷物の準備を始めた。
📎 解説:「動かせない」の中身
1992年は彩の小学校入学の年である。転校を避けることを理由に単身赴任を選ぶ判断は、当時も現在も一般的に合理的とされる。単身赴任そのものも、会社が悪意でやったのではない。当時それは出世コースの正規ルートだった。森と美佐の話し合いが短く済んだのは、判断が軽かったからではなく、条件がそれしか無かったからである。この時点で、明確な過失は一つも無い。
引っ越した先の社宅は、会社が借り上げている部屋だった。玄関を開けると、どの部屋も同じ既製品らしいベージュのカーテンが掛かっていた。前に住んでいた誰かのものかと聞くと、いや全部同じものを会社が入れているんです、と管理の男が笑って答えた。出発の前夜、荷物をまとめながら、食卓の椅子を一つ運び出そうとした美佐に、そのままにしておいてくれ、と言った。四人分のままでいい。
📎 解説:借り上げ社宅と単身赴任手当
単身赴任者向けの住居は、会社が契約して社員に貸す「借り上げ社宅」が標準的な形だった。住居費は会社が負担するが、光熱費や食費、帰省の実費は本人の生活費から二重に出ていく。森の場合、単身赴任手当は月6.8万円が年収に加算された。会社が負担するのは住まいと手当までで、帰る頻度そのものは別の制約で決まる。
月1回・2泊
福岡から船橋への帰宅頻度
約24日
1年間の帰宅日数
彩 5→9歳
福岡赴任中の長女の年齢
翔 2→6歳
福岡赴任中の長男の年齢
1993年。三十五歳。
月に一度の帰宅は、いつも金曜の夜だった。玄関を開けると、彩が真っ先に飛んできて、翔は美佐の後ろに隠れて出てこなかった。しばらくすると陰から半分だけ顔を出し、また引っ込んだ。そりゃそうだ、と言って、鞄から包みを取り出した。福岡で買った明太子だった。翔はそれには反応した。
📎 解説:三歳児が「出てこない」ことの意味
長期間顔を合わせない相手に対して幼児が示す人見知りは、発達心理学的にごく自然な反応であり、単身赴任家庭の子どもに広く見られる現象である。森はこれを問題として受け止めず、「そりゃそうだ」と言って次の話に移った。この記事は、この反応を悲劇として描かない。ただ、月に一度しか会わない父親を、三歳の子が父親だと即座には認識できなかった、という事実だけを置く。
1995年。三十七歳。
ある月の帰宅で、いつもの位置にあったはずの自分の茶碗が見当たらなかった。食器棚を探すと、奥のほうに重ねてあった。そりゃそうだ、月に一度しか使わないんだから、とだけ言って、それを取り出して使った。福岡の生活は外食ばかりで、店の名前もだいたい覚えてしまった。ベルトの穴が一つ変わったのに気づいたのも、この頃だった。
📎 解説:茶碗の位置が示すもの、そして体の変化
使う頻度が低い茶碗が食器棚の奥に移されるのは、家事の合理化としてはごく自然な動きである。ただ、その茶碗の持ち主が父親であるという点だけが、この記事にとって意味を持つ。同じ4年間、森は外食が週7回に近い生活を続け、体重は8kg増えた。単身赴任先での食生活の乱れは、この記事の後半、有給休暇と再検査の関係を扱う章に接続していく。
まあ、地方の飯はうまい。それでいい。
→ 次のSection 7では「1998-2001 広島 / 2003-06 名古屋 — 断れた1回」を見る。
🏯 1998-2006 広島と名古屋 — 断れた1回
このセクションの3点
① 1998年、彩の中学受験を理由に、森は広島赴任でも家族を置いていく。翌1999年、広島赴任中に41歳で課長になる。
② 2000年、翔の授業参観の日程を、美佐は森に言わなくなる。2003年、名古屋への辞令は断ることもできたが、森は迷わず受けた。当時、支店長経験は部長昇進の実質要件だった。
③ 2005年、帰宅すると玄関の鍵が替わっていた。同じ2003年、健診で脂質異常症を指摘されたが、再検査には行かなかった。有給休暇を帰省に使っていたためである。
1998年。四十歳。
広島支店への辞令は、夏の終わりに出た。今度も家族は連れて行かない。彩が受験の年だった。中学受験である。動かせるはずがない。美佐と話したのは一晩だけだった。結論はすぐに出た。荷物をまとめて広島に着くと、社宅の窓にはベージュのカーテンが掛かっていた。福岡の時と同じ既製品だった。ここでも同じ生地の色を見るのかと思うと、少し笑えた。荷物より先に、駅で何を買って帰るか考えていた。もみじ饅頭は箱で買えば軽い。身軽なのは、案外いいものである。
📎 解説:彩の中学受験と、動かせない年
1998年、彩は中学受験を控える年齢だった。この時期に転居や家庭環境の変化を避けるのは、当時も今も一般的な判断である。美佐との合意もこの一晩で成立している。家族を連れて行かないという選択は、逃げでも切り捨てでもない。目の前の子の学習環境を優先した、その時点で最も合理的な選択である。1992年の福岡赴任時と同じ構造が、ここでも繰り返されている。判断そのものに欠陥はない。
1999年。四十一歳。
広島に来て一年で、課長の辞令が出た。単身赴任先での昇進というのは、聞けば少し珍しがられた。私は特に驚かなかった。営業の数字は現地でも積み上げられるし、支店長への報告も苦にならない。むしろ広島に来てから、話す相手の顔と名前が増えた。取引先の子どもの進学先まで覚えるようになった。この年、初めて携帯電話を持った。呼び出しに追われなくなった分、帰ってから話すことは前より減った気がしたが、それも慣れの話だと思っていた。
📎 解説:広島赴任中の昇進
森は1999年、広島赴任中に41歳で課長になった。単身赴任中の昇進は珍しくない。むしろ当時、営業部門では支店勤務での成果が課長への実質的な評価材料になっていた。単身赴任は本人にとって負担であると同時に、会社の評価軸の中では前進の材料としても機能していた。同期940人のうち、この時点で課長に届いていたのは3割に満たない。森はその中に入っている。
2000年。四十二歳。
帰った日、翔の授業参観がいつか、美佐は言わなかった。前は必ず教えてくれた。今回は言わない。聞けば分かる話だが、聞く間もなく次の話に移った。来月の帰省の日程の話だった。そりゃ言っても仕方ない。土曜の行事に、隔週で帰る父親が合わせられるわけもない。食卓の椅子は四つのままで、座るのはいつも三人だった。駅で買ったもみじ饅頭の箱を渡した。中身は毎回同じだが、美佐は「またこれ」と笑った。それでいいと思っている。
📎 解説:言わなくなること
2000年、翔の授業参観の日程を、美佐は森に伝えなくなった。理由は単純である。伝えても森が来られないからである。連絡が途切れたのではない。連絡する意味が薄れたのである。森はこれを「そりゃ言っても仕方ない」と受け止め、次の話題に移った。この切り替えの速さそのものが、ここで見るべき変化である。何かを失ったと森は言わない。言わないまま、家庭内の情報の流れから一つ外れていく。
| 期間 | 赴任地 | 年数 | 帰宅頻度 | 年間の帰宅日数 |
|---|---|---|---|---|
| 1992-96 | 福岡 | 4年 | 月1回・2泊 | 約24日 |
| 1998-2001 | 広島 | 3年 | 月2回・2泊 | 約48日 |
| 2003-06 | 名古屋 | 3年 | 隔週・2泊 | 約52日 |
2003年。四十五歳。
名古屋への辞令が出たのは、広島から帰って二年後だった。今度は、本音を言えば断ることもできた話だった。支店長そのものではないが、名古屋は次のポストの候補地として名前が挙がっていると聞いていた。少し考える人もいるだろう。私は次の日には返事をしていた。彩はもう大学生、翔も高校生になっている。家のことは前より心配がない。まあ、なんとかなる。そう言って、荷物をまとめた。社宅に着くと、窓のカーテンはまたベージュだった。広島と同じ生地に見えた。
📎 解説:名古屋は断れた一回
2003年の名古屋赴任は、それまでの3回と違う。福岡も広島も、支店の欠員という会社側の事情が先にあった。名古屋は違う。当時、この会社では支店長経験が部長昇進の実質的な要件になっていた。名古屋を受けなければ、支店長のポストに就く機会自体が失われ、部長への道はほぼ閉じていたと考えられる。森はこの構造を理解した上で、迷わず受けている。単身赴任は、ここでは出世の代償ではなく、出世の手段として機能していた。どの1回の判断にも、明確な過失は無い。1992年も1998年も2003年も、その時点ではすべて正しい選択である。にもかかわらず、不在は積み重なっていく。1回ずつ正しい選択が、合計されたときに、家の中の位置を静かに動かしていく。
その冬の健診で、脂質の数値に印がついた。再検査に来るように言われたが、行かなかった。忙しいからではない。有給休暇は、月に一度の帰省のために毎回使っていて、それ以外に空きがなかった。再検査の日を作るなら、次の帰省を削ることになる。それは考えなかった。紙は名古屋の社宅に置いたまま、次の帰省の準備をした。
📎 解説:有給が奪い合っていたもの
森が2003年の再検査に行かなかった理由は、多忙ではない。有給休暇を、毎月の帰省にすべて使っていたからである。会社は帰省の旅費を負担していたが、帰省に必要な「時間」は本人の有給から出ていた。家族に会うことと、自分の体を確かめることが、同じ財布を奪い合っていた。森はこの選択を迷わなかった。有給は帰省に使うものであり、それ以外の使い道は最初から検討の外にあった。
2005年。四十七歳。
帰宅した夜、鍵が回らなかった。何度か試して、玄関の鍵が替わっていることに気づいた。前の週、防犯のために替えると連絡は受けていた。合鍵は郵送で名古屋に届いていて、荷物の下から出てきた。それを使って入った。中に入ると、いつもと変わらない台所の灯りがついていた。土産のういろうを渡すと、美佐は箱を開けて一つつまんだ。鍵の話はそれで終わった。翌朝、駅の売店で同じ箱を買って帰る予定を、もう考えていた。
📎 解説:鍵が替わった日
2005年、玄関の鍵が交換された件について、事前の連絡も合鍵の郵送も行われている。誰の対応が欠けていたわけでもない。それでも、家の防犯上の判断が森の知らないところで完結し、彼はあとから合鍵を受け取る立場になった。この出来事に森が触れた記録は短い。鍵の話はそこで終わり、次の話題に移っている。彼が何も言わなかったことと、何もなかったことは、同じではない。
帰る日は増えている。椅子の並びは、変わらない。
→ 次のSection 8では「2008-12 バンコク — 部長になって、いちばん遠くへ」を見る。50歳で部長になった森は、同時に海外へ出る。
🌏 2008-12 バンコク — 部長になって、いちばん遠くへ
このセクションの3点
① 2008年、部長の辞令とバンコク駐在の辞令が同じ紙に並んでいた。国内営業の縮小と海外シフトが背景にある
② 一時帰国は年3回・各5日。4度の赴任で最も帰宅日数が少ない。通信手段はスカイプまで進化したが、話す内容はむしろ減っていく
③ 駐在員の健康診断は会社負担で義務。ここで初めて自分の体を継続的に把握する。年収はこの間に生涯ピークへ達する
2008年。五十歳。
人事から呼ばれた。部長という肩書と、バンコクという地名が、同じ紙に並んで書かれていた。同期の誰かが「大変だな」と言ったが、私は「向こうは飯がうまいらしいぞ」と返した。実際そうだった。美佐に電話で伝えると、少しの間があって、「わかった」とだけ返ってきた。荷物は背広を数着とゴルフクラブだけにした。社宅の部屋に着くと、カーテンが福岡や広島とまったく同じベージュだった。それだけで、少し安心した。
📎 解説:海外駐在手当の構造
海外駐在の給与は、基本給に海外駐在手当・住宅補助・生活調整費が加算される構造になっている。多くの企業ではこれに子女教育補助(現地校やインターナショナルスクールの学費を補助する制度)も含まれるが、森の場合、彩も翔も既に日本の学校を卒業・在学しており、この補助は発生しない。制度の名目は家族帯同を想定して作られているが、森は単身のまま、その枠組みの中で最も高い部分だけを受け取ることになった。
バンコクからの一時帰国は、行きも帰りも一日仕事になる。有給の残りを計算しながら、日程を組んだ。免税店で必ずチョコレートを買う。中身はいつも同じだが、渡す時の「お、また同じやつか」という一言が、帰った実感になった。空港からの道は混んでいて、家に着く頃には夜になっていることが多かった。
📎 解説:リーマン後の海外シフト
2008年秋のリーマン・ショック以降、日本の電機メーカー各社は国内の家電・産業機器の営業体制を縮小し、成長が見込める東南アジア市場へ営業人員を再配置する動きを強めた。森の部長就任とバンコク駐在が同じ辞令に載ったのは偶然ではない。会社にとって、彼を海外に出すことは人事上の評価であると同時に、生き残りのための資源配分でもあった。
年3回
バンコク駐在時の一時帰国回数
4度中最少
この赴任での年間帰宅日数
5.0%
同期のうち部長になった人の割合
生涯ピーク
この間に到達した年収の水準
2009年。五十一歳。
バンコクの社宅には、日本より先にインターネットの回線が通っていた。スカイプをつなぐと、美佐と翔の顔が画面に映る。声も映像も、福岡にいた頃より格段によくなった。ただ、話すことは前より短くなっている気がした。「元気か」「元気」で、画面の向こうの部屋が静かに見えるだけの時間が増えた。切れる前に、必ず「まあ、なんとかなる」と言うようにしていた。
📎 解説:通信手段の逆説
福岡赴任では固定電話しかなく、広島の頃には携帯電話、バンコクでは映像付きの通話が使えるようになっている。通信環境は一貫して改善しているが、これは会話の質や量を保証するものではない。通話が「いつでもできる」ようになるほど、一回ごとの通話に込める必要性は下がる。手段の進化と、実際に話される内容の量は、この記録の中ではむしろ反比例している。
一時帰国の折、自分の部屋の様子が違っていた。棚の位置が変わり、机には見慣れない参考書が積まれている。荷物がどこにあるか聞くと、美佐が納戸の箱を指した。「あいつも受験だしな」と私は言って、鞄を置く場所を変えた。免税店のチョコを渡すと、翔は「またこれか」と笑った。それで十分だった。
📎 解説:出世の代償ではなく、出世の手段
福岡・広島・名古屋への赴任は、いずれも支店経験や地方拠点でのマネジメント実績を積む意味を持っていたが、バンコク駐在は部長昇進の辞令と明確に同時に発令されている。単身赴任は、この4度目において、出世の代償ではなく、出世そのものを成立させる手段として機能した。部長になった年に、彼はこれまでで最も遠い場所へ行っている。
駐在員は年に一度、会社の指定する病院で検診を受ける決まりになっていた。バンコクに来て、初めてそれを毎年欠かさず受けるようになった。検査の紙を医師に見せられても、「まあ、なんとかなる」とは言わなかった。言われた通りに薬をもらって帰った。その年の給与の額は、これまでで一番大きかった。美佐に伝えると、電話の向こうで少し笑った声が聞こえた。
📎 解説:駐在員の健診義務
海外駐在員に対する年次健康診断は、多くの企業で就業規則や海外派遣者向けの規程により義務化されている。国内の単身赴任では「再検査に行く時間」が本人の有給に依存していたが、駐在員の健診は会社側の管理項目として組み込まれ、受診の有無が本人の意思から切り離された。森が初めて自分の体を継続的に把握したのは、家族から最も遠い場所でのことである。
部長になった年、同期の中でも少数しかいない椅子に座った。そして、その年がいちばん、家から遠かった。
→ 次のSection 9では「2012-18 帰任と定年」を見る。食卓の椅子が3脚しかない場面から始まる。
🪑 2012-18 帰任と定年 — 椅子が3脚しかない
このセクションの3点
① 2012年、帰任。食卓の椅子は3脚しかなかった。4脚目は物置にあった
② 2016年、役職定年の猶予が切れ、専任部長に。給与は下がったが退勤は早くなった
③ 2018年、定年。完全に家へ戻る。朝、美佐が何時に起きているのか、彼は知らない
2012年。五十四歳。
帰任の辞令が出て、船橋に荷物を送った。夕方、食卓には椅子が3つしかなかった。物置を覗くと、4脚目があった。それを出して座った。夕飯はいつもの味だった。
📎 解説:役職定年と専任部長の制度
役職定年とは、一定の年齢に達した管理職を役職ポストから外し、給与・待遇を再設定する企業内制度である。森の会社では役職定年は五十五歳だが、部長職には三年ほどの猶予が設けられていた。この猶予が切れると、肩書は「専任部長」という、部長相当の待遇を持ちながら実際の部下や決裁権を持たない職位に切り替わる。
国内営業統括部長になった。バンコクで見てきたやり方を、今度は国内の営業所に広める仕事だった。会議は増えたが、夜は毎日家に帰った。免税店のチョコを買う機会もなくなった。
2016年。五十八歳。
専任部長という肩書になった。部下だった何人かに、そのまま報告先が変わった。「まあ、こういう順番だからな」と、送別の席で自分から言った。給与の額は下がったが、退勤の時刻は早くなった。
📎 解説:25%という下落率の位置づけ
役職定年による年収の低下は、田村・北原・柴田のケースでは退職前後の一時的な変化として現れたが、森の場合は専任部長になってから定年までの数年間、給与が下がった状態のまま勤務を続けている。四分の一ほどの下落率は、部長としての決裁権と管理職手当が同時に失われることに対応している。
2018年。六十歳。
定年になった。再雇用の話もあったが、それは翌年からで、この日はまず家に帰った。翌朝、いつもの時間に起きたが、美佐はもう起きていて、朝食の匂いがしていた。何時に起きているのか、聞いたことがなかった。
📎 解説:14年の合計
四度の単身赴任を合わせると、赴任地にいた期間は通算十四年に及ぶ。その間の帰宅日数を足し合わせると約千日。十四年のうち、森が家にいた時間はおよそ二割である。2018年に彼が完全に家へ戻ったとき、残りの八割の時間の中で、家の中の生活はすでに一つの形として動いていた。
14年
通算の単身赴任期間
約1,000日
14年間の帰宅日数の合計
20%
14年のうち家にいた時間の割合
それからしばらくして、ふと気づいた。美佐が何時に起きているのか、私は知らない。聞いてみようと思ったが、その日はやめた。「聞けばいいだけの話だ」と、自分に言って終わりにした。
📎 解説:椅子が3脚で足りていた
森が帰ってくるたびに、家の運用は少しずつ更新されていた。茶碗の位置、鍵、部屋の使い方、そして食卓の椅子の数。どれも、彼を排除するために変えられたものではない。日々の生活が、その場にいる人数に合わせて最適化されていっただけである。ただ、帰ってきた時、家の側にはすでに彼のいない形の生活が完成していた。誰も彼を追い出していない。ただ、椅子が3脚で足りていた。
聞けばいいだけの話を、私はまだ聞いていない。
→ 次のSection 10では、美佐の14年と、翔の22年を見る。
👨👩👧👦 家族 — 美佐の14年と、翔の22年
このセクションの3点
① 美佐は森の不在14年のあいだに、地域のコーラスとパートの経理職を通じて自分の生活を作った。2018年に森が定年で戻った時点で、その生活は既に完成していた
② 長男・翔が0歳から22歳になるまでの8,030日のうち、森が家にいたのは約660日、割合にすると約8%だった
③ 森は翔との関係を「問題」だと思っていない。「男の子はそんなもんだ」と言う。8%という数字を知っているのは、この記事の解説だけである
美佐の14年 — 不在の間に完成した生活
帰任した年、火曜の夜に美佐がいなかった。コーラスの練習だと聞いて、いい趣味を持ったな、と言った。水曜と木曜は近所の会計事務所でパートに出ている。台所の壁に貼ってある予定表には、私の名前の枠は無かった。
📎 解説:美佐が作った14年
森が福岡・広島・名古屋・バンコクへ断続的に出ていた14年のあいだ、美佐(1961年生)は地域のコーラスと、パートの経理職を続けた。2018年に森が定年で完全に戻った時点で、彼女の生活はすでに完成していた。森の帰宅は、空いていた場所への復帰ではなく、既にできあがった生活への合流だった。離婚はしていない。2026年現在65歳、健在である。
翔の22年 — 8%という数字
660日
翔(1990年生)が0歳から22歳になるまでに、森が家にいた日数
8%
22年・8,030日のうち、森が家にいた割合
22年
翔が就職するまでの、父の在宅を数える期間
翔と何を話したか、あとで聞かれてもうまく答えられない。彩には同じことを聞かれない。男の子はそんなもんだ、と言うと、たいてい誰もその先を聞いてこない。
📎 解説:8%を知っているのは解説だけである
森は翔との関係を「問題」だとは思っていない。しかし0歳から22歳までの8,030日のうち、森が家にいたのは約660日、8%である。この数字は森の視点のどこにも存在しない。「男の子はそんなもんだ」という森の言葉と、8%という数字は、同じ22年間を指しながら別々の場所にある。
| 対象 | 森との関係(2026年現在) | 相談事の相手 |
|---|---|---|
| 彩(1987年生) | 普通に話す。正月以外にも連絡がある | 美佐にする |
| 翔(1990年生) | 正月に1回帰る。30分以上続けて話したことはない | — |
📎 解説:どちらも欠損として描かない
美佐は不在の14年を、被害として過ごしたのではなく、自分の生活を作ることに使った。翔は父が不在の関係の中で育ち、22年を経て父を必要としない関係を選んでいる。どちらも欠けたままの人間として描くべきではない。それぞれが、それぞれの形の生活に到達している。
美佐は14年で生活を完成させ、翔は22年のうち8%で足りる関係を作った。森が帰ってきたときそこにあったのは、空いていた場所ではなく、すでに埋まった家だった。
→ 次のSection 11では「健康 — 有給が奪い合っていたもの」を見る。
🩺 健康 — 有給が奪い合っていたもの
このセクションの3点
① 単身赴任中に脂質異常症を指摘されても、森は再検査に行かなかった。理由は忙しさではなく、有給休暇を帰省に使っていたためである
② 会社は帰省旅費を出したが、帰省の「時間」は本人の有給から出ていた。家族に会うことと、自分の体を見ることが、同じ財布を奪い合っていた
③ 田村・北原・柴田・森の4人を並べると、健康は自己管理の結果ではなく、それぞれが会社とどういう関係にあったかの形として現れている
1992-2026 — 有給の使いみち
| 年齢 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 34-38 | 1992-96 | 福岡。外食が週7。体重が8kg増える |
| 45 | 2003 | 名古屋。健診で脂質異常症。単身赴任中は再検査に行かない(有給を帰省に使うため) |
| 50 | 2008 | バンコク。駐在員は年1回の健康診断が会社負担で義務。ここで初めて継続的に受ける |
| 54 | 2012 | 帰任時の健診で高血圧・脂質異常症・肝機能異常。投薬開始 |
| 60 | 2018 | 定年。この年から美佐の食事に戻る。1年で6kg減る |
| 68 | 2026 | 現在。投薬は続くが、大きな疾患なし。週3回ジムに通う |
📎 解説:有給が奪い合っていたもの
単身赴任中、森は再検査に行かなかった。理由は忙しさではない。有給休暇を帰省に使っていたからである。会社は帰省旅費を出したが、帰省の「時間」は本人の有給から出ていた。家族に会うことと、自分の体を見ることは、同じ財布から出ていた。どちらかを使えば、もう一方には残らなかった。
名古屋の健診で、脂質異常症の紙をもらった。再検査は次の休みで、と看護師に言われたが、次の休みは帰省の日にあてていた。窓口で、また今度にします、と笑って言った。「今度」はしばらく来なかった。
4人を並べる — 健康は会社との関係の形で決まる
| 項目 | 田村稔 | 北原誠一 | 柴田正三 | 森康彦 |
|---|---|---|---|---|
| 健康を決めた要因 | 会社が費用を出さなかった | 会社が費用を出した(役員候補の人間ドック) | 昇進から外れ、残業が消えた | 有給が足りなかった |
| 2026年現在 | 死亡(87歳・要介護7年) | 死亡(89歳・要介護3年4ヶ月) | 死亡(92歳・自宅) | 68歳。生存。週3回ジム |
📎 解説:4人とも、健康は自己管理ではなく会社との関係の形で決まっている
北原は会社が費用を出す人間ドックを毎年受けさせられた。田村は自分で管理することを求められたが、管理しなかった。柴田は残業を求められなくなったことで、体力を消耗する場面自体が減った。森は帰省と再検査が同じ有給を奪い合い、有給は毎回帰省に流れた。4人とも、健康は自己管理の結果ではなく、それぞれが会社とどういう関係にあったかの形として現れている。
6kg
2018年の定年後、美佐の食事に戻って1年で減った体重
週3回
2026年現在のジムの頻度
68歳
2026年8月現在の年齢
有給休暇は、帰省にも再検査にも使える同じ1枚の紙だった。森はその紙を、いつも帰省のほうに使った。
→ 次のSection 12では「2026年8月・68歳 — 現在」を見る。
📍 2026年8月・68歳 — 現在
このセクションの3点
① 2026年8月、森は68歳。週3回ジムに通い、美佐とは普通に暮らしている
② 彩の子ども2人が定期的に来る。翔は正月に1回帰るが、30分以上続けて話したことはない
③ 「あれは必要な14年だった」と言う。森は最後まで明るく、そのまま話題を変える
2026年8月。六十八歳。
火曜と木曜と土曜、朝7時からジムに行く。マシンの使い方は、月謝と一緒に若いトレーナーに教わった。美佐は7時にはもう起きていて、洗濯物を干している。何時に起きているのかは、聞いたことがない。
📎 解説:明るさの機能
森は事実を並べるとき、常に前向きな言葉を選ぶ。分からないことは軽い一言で置き換え、都合の悪い話題が出るとすぐ次の話に移る。これは14年の単身赴任を支えた処世術がそのまま続いている状態であり、68歳の今も変わっていない。
彩の子どもが2人、正月と盆に来る。上の子はもう小学生で、じいちゃんジムでしょ、と聞いてくる。行っとる、と答えると、それだけで満足する年齢らしい。
📎 解説:彩と翔の対比は、今も同じ配分で続いている
彩の家族は正月と盆に定期的に来る。翔は正月に1回、時間を決めて帰るように来る。会話は30分に届かない。この配分は、翔が0歳から22歳までに森と過ごした時間の配分——8%——と、形として大きく変わっていない。
週3回
ジムに通う頻度(2026年現在)
正月に1回
翔が帰る頻度。30分以上続けて話したことはない
2人
彩の子(孫)。正月と盆に来る
正月、翔が帰った日の夜、美佐にビールを渡されて、あの14年は必要やったな、と言った。まあ、なんとかなるもんや、と続けて、テレビのニュースに話を移した。美佐は何も言わなかった。
📎 解説:読者だけが気づく話題の変わり方
森は「あれは必要な14年だった」と言った直後、必ず別の話題に移る。この動きは14年間変わらず続いた処世術であり、本音か強がりかを判定する材料はここには無い。示せるのは、話題が変わったという事実だけである。
森は今日も明るい。その明るさが崩れる場面は、この記事のどこにも無い。
→ 次のSection 13では、森のこの先——まだ確定していない見込み——を見る。
🔮 ここから先は見込み — 彼はまだ死んでいない
このセクションの3点
① 田村・北原・柴田はすでに死んでいるため、死亡年齢・介護期間・死亡場所を確定した数値として書けた。森は2026年8月現在68歳で生きている
② 平均余命ベースでは85〜88歳という見込みだけが置ける。確定した死は書かない
③ 2020年に船橋の家の査定は2,180万円だった(4,850万円で購入)。美佐との老後や翔との関係の行方は、まだ決まっていないので書かない
確定できるのは、ここまでである
田村・北原・柴田はすでに死んでいる。だから死亡年齢・要介護期間・死亡場所を、確定した数値として書けた。森はまだ死んでいない。2026年8月現在68歳であり、この記事が書ける範囲は、ここまでである。
| 項目 | 値 | 確定 / 見込み |
|---|---|---|
| 現在の年齢(2026年8月) | 68歳 | 確定 |
| 平均余命ベースの見込み | 85〜88歳 | 見込み(確定ではない) |
| 船橋の家の査定(2020年) | 2,180万円(購入時4,850万円) | 確定 |
| 美佐との老後の形 | — | まだ決まっていない |
| 翔との関係の行方 | — | まだ決まっていない |
📎 解説:見込みという書き方
平均的な余命の見積もりに基づけば、68歳の見込みは85〜88歳の範囲に収まる。ただし見込みは確定ではない。この記事は、森の死を確定した事実として書かない。
ここには方法上の理由もある。前3人の記事では、死亡年齢・要介護期間・死亡場所という3つの終点が決まっていたから、そこから逆算して人生の各時点を評価できた。田村の52歳の判断は、72歳の脳梗塞という終点があったから「請求書は20年後に届いた」と書けたのである。森にはその終点がない。だから彼の14年が最終的に何だったのかを、この記事は判定できない。
確定している損は、家のほうにある
森が1989年に船橋で買った建売は4,850万円だった。バブルの最盛期であり、35年ローンを組んでいる。2020年の査定は2,180万円だった。31年で2,670万円が消えている。ただしこの家は売っていない。彼はいまもそこに住んでいる。
この含み損は、前3人と比べると位置づけが違う。柴田は1971年に620万円で買い、1986年にローンを終えた。田村は1984年に3,180万円で買っている。買った年が違うだけで、同じ川崎・船橋圏の持ち家がまったく別の資産になった。森の判断が下手だったわけではない。1989年に家を買った人間は、全員この位置に立っている。
4,850万円
1989年の購入価格(バブル最盛期・35年ローン)
2,180万円
2020年の査定額
▲2,670万円
31年間の含み損。ただし売っていない
68歳
2026年8月現在の年齢。まだ生きている
📎 解説:書かない理由
美佐との老後がどうなるか、翔との関係が今後変わるかは、この記事の時点でまだ起きていない。田村・北原・柴田の記事は、死によって物語の終わりの形が決まっていた。森の記事はまだ閉じていない。この「書けなさ」自体が、前3人との構造的な違いである。
田村・北原・柴田の記事は、死によって終わりの形が決まっていた。森の記事は、まだ終わりの形が決まっていない。
→ 次のSection 14では、森の14年を辛口批評する。
🔪 辛口批評 — 積分された判断
このセクションの3点
① 森が単身赴任を選んだ5回の判断は、それぞれの時点でいずれも合理的だった
② 単身赴任は出世の代償ではなく、出世の手段として機能していた。2003年の名古屋行きを断れば、部長という到達点は無かった
③ 不在は積分される。1回ずつ正しい選択が、合計すると翔の22年のうち8%という配分を作った
① どの1回の判断も、その時点では正しかった
| 年 | 判断 | その時点での正しさ |
|---|---|---|
| 1992 | 福岡へ家族を連れて行かない | 彩が小学校に上がる年。転校を避けるのは当時も今も合理的。美佐も同意 |
| 1996 | 帰任。翌年また出るかもしれないので家を売らない | 正しい。実際1998年にまた出た |
| 1998 | 広島。今度も家族は置く | 彩が中学受験の年。動かせない |
| 2003 | 名古屋。ここで断ることもできた | 断れば部長は無かった。当時、支店長経験は部長昇進の実質要件だった |
| 2008 | バンコク。50歳・部長就任と同時 | リーマン後、国内営業は縮小。海外に出るのが会社の生存戦略だった |
📎 解説:明確な過失は無い
どの1回にも、明確な過失は無い。にもかかわらず14年分が積み上がった。これは判断の失敗ではなく、判断が積分された結果である。1回ずつなら正しい選択が、合計すると取り返しがつかなくなる——これがこの記事の構造そのものである。
② 単身赴任は出世の手段だった
森は単身赴任の代償として何かを失ったのではない。2003年の名古屋行きを断っていれば、支店長経験という当時の部長昇進の実質要件を満たせず、2008年の部長就任自体が無かった。単身赴任は出世の代償ではなく、出世の手段として機能していた。
③ 不在は積分される
8%
翔の22年のうち、森が家にいた割合
5回
その時点では合理的だった単身赴任・転勤の判断
14年
5回の判断を合計した通算の不在期間
📎 解説:会社が出したのは旅費で、時間は出なかった
会社は帰省旅費を出したが、帰省の「時間」は本人の有給から出ていた。有給は帰省と再検査を同じ財布から奪い合い、結果として健康診断の再検査は後回しになった。不在の総量も、健康の後回しも、同じ有給という1枚の紙の使いみちが生んでいる。
④ 4人を並べる
| 項目 | 田村稔 | 北原誠一 | 柴田正三 | 森康彦 |
|---|---|---|---|---|
| 生涯賃金 | 約2億1,400万円 | 約4億9,000万円 | 約1億4,900万円 | 約2億9,600万円 |
| 退職金 | 2,170万円 | 9,200万円 | 1,240万円 | 2,980万円 |
| 65歳時点の金融資産 | 2,480万円 | 1億1,200万円 | 1,880万円 | 3,120万円 |
| 到達役職 | 次長 | 取締役 | 係長 | 部長 |
| 2026年現在 | 死亡(87歳) | 死亡(89歳) | 死亡(92歳) | 68歳・生存 |
📎 解説:森は後悔していない。それを本心か強がりか、この記事は判定しない
森は後悔していないと言う。読者はそれが強がりか本心か、最後まで判定できない。書き手もここでは判定しない。「本当は後悔していた」と決めた瞬間に、この記事は安くなる。示すのは、翔の22年のうち父が家にいたのが8%だったという数字だけである。
この記事が言っていないこと
・森は家族を犠牲にした愚か者だった、という読み方はここでは成立しない
・美佐は被害者ではない。彼女は不在の14年で自分の生活を作った
・翔は欠損を抱えた被害者ではない。父を必要としない関係を自分で作った
・単身赴任という制度そのものが、森個人の判断より先に存在していた
・「後悔していない」という森の言葉が本心かどうかは、この記事の外にある
裁くとすれば、森ではなく、1回ずつ正しい判断を14年分積み上げさせた制度の側である。
→ 次のSection 15では、残り8人の予告と高校生レビューを置く。
📚 残り8人の予告と、高校生レビュー
このセクションの3点
① この記事は12人シリーズの4人目。残る8人(#5〜#12)は、家庭・健康・メンタル・転職・世代という別の分岐軸を、1人1本で検証する
② #12・氷河期型(1996年入社・同期290人)は、少数精鋭のはずの世代が上のポスト詰まりで42歳まで課長になれない、直感に反する分岐である
③ 高校生レビューでは、単身赴任手当・借り上げ社宅・海外駐在手当・役職定年と専任部長・帰省旅費と有給の関係を補足する
続編で書く残り8人 — 分岐点はどこにあるか
| # | 人物(分岐タイプ) | 入社年・世代 | 田村と分かれる地点 | 終着点 |
|---|---|---|---|---|
| 5 | 家庭優先型 — 転勤を断って昇進を捨てた | 1980年入社・新人類 | 38歳。転勤の内示を断った。以後、昇進候補から外れる | 生涯賃金は低いが、65歳以降の生活満足度が全人物中で最も高い |
| 6 | 健康維持型 — 同じ会社・同じ役職・違う身体 | 1980年入社・新人類 | 45歳。禁煙と週3回の運動を始めた。ここだけが田村との差 | 85歳で自立歩行。介護期間が田村の7年に対し1年半 |
| 7 | メンタル離脱型 — 45歳で適応障害 | 1985年入社・バブル前夜 | 45歳。上司交代と組織再編が重なり、3ヶ月休職 | 復職はしたが元のラインに戻れず。53歳で退職。再就職は年収380万 |
| 8 | 早期退職型 — 割増退職金を取って降りた | 1985年入社・バブル前夜 | 48歳(2011年)。早期退職優遇制度に応じた | 割増込みで退職金3,400万。ただし再就職で年収が半減し、10年で使い切る |
| 9 | 転職型 — 1社完結モデルの対照群 | 1988年入社・バブル入社組 | 42歳。外資系メーカーへ転職 | 生涯賃金は田村の1.6倍。ただし54歳で1度、59歳で1度、職を失う |
| 10 | 詰まり型 — 同期が多すぎた世代 | 1988年入社・バブル入社組 | 入社時点。同期1,240人。上の団塊がポストを空けない | 課長就任が52歳。役職定年55歳まで、課長でいられたのは3年 |
| 11 | 公務員型 — 民間との構造比較 | 1974年入省・しらけ世代 | 入口から別制度。給料表・級号俸・共済年金 | ピーク年収は民間より低いが、下がり方が緩やかで、退職後が最も安定 |
| 12★ | 氷河期型 — 入口が3分の1に絞られた世代 | 1996年入社・氷河期第一波 | 入社時点。同期290人。少数精鋭だが上が全員詰まっている | 42歳で初めて課長。定年は65歳、実際には70歳まで働く見込み |
#12・氷河期型は、森とは正反対の理由で足止めされる。森は同期940人のうち47人という椅子の少なさを、転勤と海外赴任という別ルートで乗り越えた。#12は同期が290人まで絞られたにもかかわらず、上の世代のポストが空かず、42歳まで課長になれない。同期が少なければ道が開くという直感は、この世代でも成立しない。
高校生レビュー — ここが分かりにくかった、という自己申告
| 分かりにくい点 | なぜ分かりにくいか | 補足 |
|---|---|---|
| 単身赴任手当がどういうお金か分かりにくい | 給料が上がったのか、経費が出ているだけなのか区別しにくい | 単身赴任手当は、家族と離れて暮らす社員に毎月支給される手当で、給料本体に加算される。森の場合、1992年の福岡赴任時点で月6.8万円が加算されていた。これは帰省旅費とは別枠で、生涯賃金の押し上げ要因になっている |
| 借り上げ社宅とはどういう制度か分かりにくい | 「社宅」と聞くと会社が建てた建物だと思われがちである | 借り上げ社宅は、会社が民間の賃貸物件を契約者として借り、社員に貸し出す仕組み。会社所有の社宅と違い、街の普通の賃貸マンションが使われることが多い。森が赴任した4都市の社宅は、いずれも同じ既製品のベージュのカーテンが付いていた |
| 海外駐在手当が年収をどう変えるか分かりにくい | 海外に行くと給料が減りそうに見えるが、実際は逆であることが多い | 海外駐在手当は、生活水準の違いや治安・生活コストを補うために基本給に上乗せされる手当。森は2010年、バンコク駐在中に年収1,430万円で生涯ピークを記録している。これは部長という役職に加えて、駐在手当が上乗せされた結果である |
| 役職定年と専任部長の違いが分かりにくい | 「部長」という肩書きが変わらないまま、内容だけ変わることが想像しにくい | 役職定年は、一定の年齢で管理職としての役職から外れる制度。この会社では55歳が原則だが、部長職には58歳までの猶予があった。森は2016年、58歳で専任部長に転換し、部下を持つ立場から外れ、年収が約25%下がった |
| 帰省旅費と有給休暇がどう関係するか分かりにくい | 会社がお金を出しているのだから、時間の問題は無いように見える | 会社が出したのは帰省の「旅費」だけで、帰省に使う「時間」は本人の有給休暇から出ていた。森は単身赴任中、健診の再検査より帰省を優先して有給を使い切っていた。同じ有給という1枚の紙が、家族に会う時間と自分の体を見る時間を奪い合っていた |
この記事の限界(先に書いておく)
森康彦も田村稔・北原誠一・柴田正三と同じく、実在の人物ではなくモデル人物である。年収・退職金・単身赴任手当の金額は、当時の総合職・単身赴任者として構成した概念モデルであり、特定企業の実データではない。この記事の狙いは、1回ずつ正しい判断が、14年分積み上がったときに何を残すかを1本の線で見せることにある。森は後悔していないと言い、この記事もその言葉を否定しない。
→ 次は「サラリーマン5」。転勤の内示を断り、昇進を捨てた家庭優先型を、同じ形式で書く。